第一部エピローグ 手伝ってもらっていい?
ユウジはアホだった。
本当にアホだった。
ただ、以前より少しだけ、助けてもらうのが上手になっていた。
上手といっても、世間の基準では、まだ補助輪付きである。それでも、八年と二つの人生をかけてゼロだったものが、一になった。ゼロと一の差は、一と一万の差より、ずっと大きい。
若葉園の暮らしは、工事の前の形に、おおむね戻っていた。
おおむね、である。まったく同じではない。
チナツは、学校へ通っている。母親との面会は、あれからも、あったり、なかったりする。約束の日に母が来て、ドーナツを二つ食べて帰る日もあれば、前日に電話で流れる日もある。流れた日のチナツは、よそいきのワンピースをハンガーへ戻しながら、盛大に文句を言う。言えるようになったぶんだけ、前とは違うのだと、田村さんは記録に書いた。
園長先生は、仕事のいくつかを、他の職員へ任せるようになった。月に二日、きちんと休みを取る。薬は、湯呑みの陰ではなく、みんなの前で飲む。書類の山が夜中に勝手に片づく現象は、先生が「手伝ってほしい書類は、この箱に入れます」という箱を作ったことで、公式の制度になった。永久機関は、こうして静かに解体された。
そしてユウジは、相変わらずだった。
壊れた物と、困っている人を見つける速さだけは、今日も世界一である。見つけること自体は、やめられない。目に入ってしまうのだから、しかたがない。
変わったのは、一つだけ。
見つけたあと、動き出す前に、一度だけ、止まるようになった。
止まって、考える。これは、俺が今すぐ一人でやることか。誰かに言うことか。頼むことか。考えた結果はまだ、三回に二回は間違えるのだが、止まるという工程が式に追加されたことを、チナツは「大型アップデート」と呼んでいる。
▽△▽
その日、事件は居間で起きた。
こぶしの家の本棚が、傾いていたのである。
棚板を支える金具が、片側だけ緩んでいた。放っておけば、そのうち図鑑が雪崩を起こす。危険度は低い。緊急性も低い。ただ、困っている棚であることは、間違いない。
ユウジは、発見から〇・三秒で修理手順を計算し終え、体が工具箱の方向へ歩き出した。
三歩目で、止まった。
――待て。これは、俺が今すぐ一人でやることか。
止まったところへ、ソファで宿題をしていたチナツの声が飛んできた。見てもいないのに、タイミングだけは完璧である。
「誰かに言った?」
「……俺が直せるよ」
「聞いたのは、直せるかどうかじゃない」
「五分で終わる」
「約束は?」
ユウジは、廊下の途中で、直立した。
約束。病室で先生と交わした、新しい約束。
「……助ける前に、助けてと言う」
「言えてから、動く」
チナツは、宿題に目を戻した。それ以上は言わない。言わないが、消しゴムを使う手つきが、明らかにこちらの動向を監視している。
ユウジは、廊下に立ったまま、考えた。
長い時間、考えた。
世界最高の頭脳である。円周率なら何兆桁でも言える。橋の設計も、手術の手順も、衛星の軌道計算も、頼まれれば今すぐできる。
その頭脳をもってしても、「助けて」の一言は、喉の奥で、部品が足りない機械みたいに、動かなかった。
助けてもらうことは、迷惑をかけることではない。頭では、もう分かっている。病室で教わった。迷惑をかけたら、一緒に困ってくれる人たちがいることも、知った。理屈は、全部そろっている。
そろっているのに、出ない。
二つの人生ぶんの癖というものは、理屈がそろってから、ようやく本番なのである。
ユウジは、深呼吸を一つした。
それから、台所で夕飯の下ごしらえをしている田村さんのところへ、歩いていった。
「田村さん」
「んー?」
「棚が、壊れてるんだけど」
「うん」
田村さんは、じゃがいもの皮をむきながら、続きを待った。急かさなかった。この職員は、八年間、ユウジの「大丈夫」を信用してこなかった人である。今この瞬間が何の練習なのかも、たぶん、全部分かっている。
ユウジは、喉の奥の部品を、力ずくで動かした。
「……俺と一緒に、直してもらっていい?」
言えた。
言った本人が、いちばん驚いていた。
田村さんは、じゃがいもを置いて、エプロンで手を拭いて、笑った。
「もちろん」
▽△▽
修理は、十五分かかった。
ユウジが一人でやれば、五分の作業である。
まず、田村さんが工具箱から取り出したドライバーが、サイズ違いだった。ユウジが言い出す前に「はい」と渡されたので、ユウジは受け取ってから、そっと正しいのと交換した。
次に、田村さんがネジを一つ、落とした。ネジは絨毯の上を転がり、ソファの下へ消えた。二人でソファを持ち上げ、埃の中からネジを救出した。ついでに、行方不明だった消しゴムと、いつのものか分からない飴玉が発掘され、飴玉の年代について、しばらく議論になった。
「これ、去年の夏祭りのだと思う」
「もっと前よ。この包み紙、二年前のデザインだもの」
「詳しいね」
「大人はね、飴で年代が分かるの」
絶対に嘘である。しかしユウジは、その嘘を、訂正しなかった。訂正しないという判断が、〇・一秒で出た。世界最高の頭脳の、正しい使い方であった。
棚板の高さを合わせるときは、二人で水平を確認した。ユウジの目には、水準器より正確に傾きが見えている。見えているが、田村さんが「うん、まっすぐ!」と言った〇・三度の誤差を、ユウジは採用した。
そして最後のネジは、田村さんが締めた。
「よし。直った!」
完璧では、なかった。
左の金具は〇・三度傾いているし、ネジの締め付けの力は一本ごとにばらばらだし、作業時間は三倍かかったし、途中で飴玉の考古学に脱線した。
それでも、棚は直った。
図鑑を戻すと、棚は、もうどこにも困っていない顔で、壁際に立っていた。
▽△▽
チナツは、ソファから、一部始終を見ていた。
宿題は、とっくに終わっていた。終わっていたが、席を立たなかった。
――「手伝う」って言葉、ほんとにあるんだ。
前のチナツなら、信用しなかった言葉である。大人の「手伝ってあげる」は、恩を売る前置きか、口だけの相槌か、どちらかだと辞書に書いてあった。
今は、書き足しがある。
少なくとも、あの十五分間は、本物だった。ネジを一緒に探して、飴の年代で言い合って、最後のネジを子どもに譲らず自分で締めた、あの十五分間は。
九年間、ほとんど改訂の要らなかった辞書は、この園に来てから、書き足しが増える一方である。
片づけを終えたユウジが、隣に座った。
「一人の方が、早かった」
「知ってる」
「でも、二人でも直った」
「そうだね」
ユウジは、直った棚を見ながら、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「次も、頼んでいいのかな」
「嫌なら断られるだけでしょ」
「……断られても、帰ってきていい?」
チナツは、ユウジの顔を見た。
「それとこれ、関係ある?」
「俺にはある」
正直な答えだった。
頼みを断られることと、ここにいられなくなることは、別の話である。頭では分かっている。役に立たなくても、いていい。先生に言われた。泣くほど、嬉しかった。それでも、二つの人生を支配してきた計算式は、消えたわけではない。今も心の深いところで、小さく動いている。断られたら。役に立てなかったら。その先の不安と、毎回、手をつないで戻ってくる。
チナツは、何かを言いかけて、やめた。
大丈夫だよ、とは言わなかった。この男子に「大丈夫」を軽く使うと、ろくなことにならないのは、よく知っている。
代わりに、事実だけを言った。
「あんたが赤ん坊で戻ってきた日、誰も、役に立つかどうかなんて聞かなかったでしょ」
「…………」
「答え、もう出てるじゃん」
▽△▽
その夜、消灯前。
チナツは、廊下で足を止めて、天井を見上げた。
視線の先には、何もなかった。
正確には、あったはずのものが、なかった。雨漏りのあとに残っていた、うっすらとした染み。工事のときも「実害がないので、そのままで」と言われていた、あの跡が、いつの間にか、跡形もなく消えている。
チナツは、天井を見上げたまま、呼んだ。
「ユウジ」
「何?」
「あれは、誰が直したの?」
「……鳥」
「靴を履いた?」
「たぶん」
「手伝ってもらう練習、最初からやり直し」
「棚は頼んだのに!?」
「棚と天井は別!」
消灯前の廊下に、言い合う声と、職員の「二人とも、歯磨きー」という声が重なった。
ユウジはパーフェクト人間だった。
何でも知っていた。何でもできた。
ただ、自分も助けられていいということだけは、八年かけて、ようやく覚え始めたところだった。
覚え終わるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
なにしろユウジは、優しいアホなのである。




