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パーフェクト人間ユウジ  作者: よんまるよん
第一部 帰ってきたユウジ

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19/19

第一部エピローグ 手伝ってもらっていい?

 ユウジはアホだった。


 本当にアホだった。


 ただ、以前より少しだけ、助けてもらうのが上手になっていた。


 上手といっても、世間の基準では、まだ補助輪付きである。それでも、八年と二つの人生をかけてゼロだったものが、一になった。ゼロと一の差は、一と一万の差より、ずっと大きい。


 若葉園の暮らしは、工事の前の形に、おおむね戻っていた。


 おおむね、である。まったく同じではない。


 チナツは、学校へ通っている。母親との面会は、あれからも、あったり、なかったりする。約束の日に母が来て、ドーナツを二つ食べて帰る日もあれば、前日に電話で流れる日もある。流れた日のチナツは、よそいきのワンピースをハンガーへ戻しながら、盛大に文句を言う。言えるようになったぶんだけ、前とは違うのだと、田村さんは記録に書いた。


 園長先生は、仕事のいくつかを、他の職員へ任せるようになった。月に二日、きちんと休みを取る。薬は、湯呑みの陰ではなく、みんなの前で飲む。書類の山が夜中に勝手に片づく現象は、先生が「手伝ってほしい書類は、この箱に入れます」という箱を作ったことで、公式の制度になった。永久機関は、こうして静かに解体された。


 そしてユウジは、相変わらずだった。


 壊れた物と、困っている人を見つける速さだけは、今日も世界一である。見つけること自体は、やめられない。目に入ってしまうのだから、しかたがない。


 変わったのは、一つだけ。


 見つけたあと、動き出す前に、一度だけ、止まるようになった。


 止まって、考える。これは、俺が今すぐ一人でやることか。誰かに言うことか。頼むことか。考えた結果はまだ、三回に二回は間違えるのだが、止まるという工程が式に追加されたことを、チナツは「大型アップデート」と呼んでいる。


▽△▽


 その日、事件は居間で起きた。


 こぶしの家の本棚が、傾いていたのである。


 棚板を支える金具が、片側だけ緩んでいた。放っておけば、そのうち図鑑が雪崩を起こす。危険度は低い。緊急性も低い。ただ、困っている棚であることは、間違いない。


 ユウジは、発見から〇・三秒で修理手順を計算し終え、体が工具箱の方向へ歩き出した。


 三歩目で、止まった。


 ――待て。これは、俺が今すぐ一人でやることか。


 止まったところへ、ソファで宿題をしていたチナツの声が飛んできた。見てもいないのに、タイミングだけは完璧である。


「誰かに言った?」


「……俺が直せるよ」


「聞いたのは、直せるかどうかじゃない」


「五分で終わる」


「約束は?」


 ユウジは、廊下の途中で、直立した。


 約束。病室で先生と交わした、新しい約束。


「……助ける前に、助けてと言う」


「言えてから、動く」


 チナツは、宿題に目を戻した。それ以上は言わない。言わないが、消しゴムを使う手つきが、明らかにこちらの動向を監視している。


 ユウジは、廊下に立ったまま、考えた。


 長い時間、考えた。


 世界最高の頭脳である。円周率なら何兆桁でも言える。橋の設計も、手術の手順も、衛星の軌道計算も、頼まれれば今すぐできる。


 その頭脳をもってしても、「助けて」の一言は、喉の奥で、部品が足りない機械みたいに、動かなかった。


 助けてもらうことは、迷惑をかけることではない。頭では、もう分かっている。病室で教わった。迷惑をかけたら、一緒に困ってくれる人たちがいることも、知った。理屈は、全部そろっている。


 そろっているのに、出ない。


 二つの人生ぶんの癖というものは、理屈がそろってから、ようやく本番なのである。


 ユウジは、深呼吸を一つした。


 それから、台所で夕飯の下ごしらえをしている田村さんのところへ、歩いていった。


「田村さん」


「んー?」


「棚が、壊れてるんだけど」


「うん」


 田村さんは、じゃがいもの皮をむきながら、続きを待った。急かさなかった。この職員は、八年間、ユウジの「大丈夫」を信用してこなかった人である。今この瞬間が何の練習なのかも、たぶん、全部分かっている。


 ユウジは、喉の奥の部品を、力ずくで動かした。


「……俺と一緒に、直してもらっていい?」


 言えた。


 言った本人が、いちばん驚いていた。


 田村さんは、じゃがいもを置いて、エプロンで手を拭いて、笑った。


「もちろん」


▽△▽


 修理は、十五分かかった。


 ユウジが一人でやれば、五分の作業である。


 まず、田村さんが工具箱から取り出したドライバーが、サイズ違いだった。ユウジが言い出す前に「はい」と渡されたので、ユウジは受け取ってから、そっと正しいのと交換した。


 次に、田村さんがネジを一つ、落とした。ネジは絨毯の上を転がり、ソファの下へ消えた。二人でソファを持ち上げ、埃の中からネジを救出した。ついでに、行方不明だった消しゴムと、いつのものか分からない飴玉が発掘され、飴玉の年代について、しばらく議論になった。


「これ、去年の夏祭りのだと思う」


「もっと前よ。この包み紙、二年前のデザインだもの」


「詳しいね」


「大人はね、飴で年代が分かるの」


 絶対に嘘である。しかしユウジは、その嘘を、訂正しなかった。訂正しないという判断が、〇・一秒で出た。世界最高の頭脳の、正しい使い方であった。


 棚板の高さを合わせるときは、二人で水平を確認した。ユウジの目には、水準器より正確に傾きが見えている。見えているが、田村さんが「うん、まっすぐ!」と言った〇・三度の誤差を、ユウジは採用した。


 そして最後のネジは、田村さんが締めた。


「よし。直った!」


 完璧では、なかった。


 左の金具は〇・三度傾いているし、ネジの締め付けの力は一本ごとにばらばらだし、作業時間は三倍かかったし、途中で飴玉の考古学に脱線した。


 それでも、棚は直った。


 図鑑を戻すと、棚は、もうどこにも困っていない顔で、壁際に立っていた。


▽△▽


 チナツは、ソファから、一部始終を見ていた。


 宿題は、とっくに終わっていた。終わっていたが、席を立たなかった。


 ――「手伝う」って言葉、ほんとにあるんだ。


 前のチナツなら、信用しなかった言葉である。大人の「手伝ってあげる」は、恩を売る前置きか、口だけの相槌か、どちらかだと辞書に書いてあった。


 今は、書き足しがある。


 少なくとも、あの十五分間は、本物だった。ネジを一緒に探して、飴の年代で言い合って、最後のネジを子どもに譲らず自分で締めた、あの十五分間は。


 九年間、ほとんど改訂の要らなかった辞書は、この園に来てから、書き足しが増える一方である。


 片づけを終えたユウジが、隣に座った。


「一人の方が、早かった」


「知ってる」


「でも、二人でも直った」


「そうだね」


 ユウジは、直った棚を見ながら、しばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと言った。


「次も、頼んでいいのかな」


「嫌なら断られるだけでしょ」


「……断られても、帰ってきていい?」


 チナツは、ユウジの顔を見た。


「それとこれ、関係ある?」


「俺にはある」


 正直な答えだった。


 頼みを断られることと、ここにいられなくなることは、別の話である。頭では分かっている。役に立たなくても、いていい。先生に言われた。泣くほど、嬉しかった。それでも、二つの人生を支配してきた計算式は、消えたわけではない。今も心の深いところで、小さく動いている。断られたら。役に立てなかったら。その先の不安と、毎回、手をつないで戻ってくる。


 チナツは、何かを言いかけて、やめた。


 大丈夫だよ、とは言わなかった。この男子に「大丈夫」を軽く使うと、ろくなことにならないのは、よく知っている。


 代わりに、事実だけを言った。


「あんたが赤ん坊で戻ってきた日、誰も、役に立つかどうかなんて聞かなかったでしょ」


「…………」


「答え、もう出てるじゃん」


▽△▽


 その夜、消灯前。


 チナツは、廊下で足を止めて、天井を見上げた。


 視線の先には、何もなかった。


 正確には、あったはずのものが、なかった。雨漏りのあとに残っていた、うっすらとした染み。工事のときも「実害がないので、そのままで」と言われていた、あの跡が、いつの間にか、跡形もなく消えている。


 チナツは、天井を見上げたまま、呼んだ。


「ユウジ」


「何?」


「あれは、誰が直したの?」


「……鳥」


「靴を履いた?」


「たぶん」


「手伝ってもらう練習、最初からやり直し」


「棚は頼んだのに!?」


「棚と天井は別!」


 消灯前の廊下に、言い合う声と、職員の「二人とも、歯磨きー」という声が重なった。


 ユウジはパーフェクト人間だった。


 何でも知っていた。何でもできた。


 ただ、自分も助けられていいということだけは、八年かけて、ようやく覚え始めたところだった。


 覚え終わるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。


 なにしろユウジは、優しいアホなのである。

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