第17話 パーフェクトではない人たち
退院した園長先生が最初にしたのは、電話をかけることだった。
八十六人の一覧を机に広げ、上から順に、一件ずつ。
「――お久しぶりです。若葉園の園長です。……ええ、ええ、おかげさまで。あのね、今日は、お願いがあってお電話しました」
うちのことは、うちで何とかします、と言い続けてきた人の、初めての台詞だった。受話器を持つ手は、最初の三件までは緊張していて、四件目からは、少しずつ様になっていった。
返事は、さまざまだった。
二つ返事の人がいた。事情を聞いて、長く黙ってから「日曜だけなら」と言う人がいた。今は難しい、ごめんなさい、と断る人もいた。断りの電話のあと、先生は受話器を置いて、隣で聞き耳を立てていたユウジに言った。
「ね。断られても、世界は終わらないでしょう」
ユウジは、真剣な顔でメモを取った。断られても世界は終わらない。二つの人生で初めて知る定理である。
そして数週間後の日曜、若葉園の食堂に、大人たちが集まった。
建築士になった卒園者。工務店で働く卒園者。保育士の資格を持つ、元入所者。地域の空き家を管理している人。学校の関係者。法人内の別の施設の主任。
全員あわせて、十四人。八十六人のうちの、十四人だった。
全員が、何でもできるわけではなかった。仕事があり、家庭があり、それぞれの暮らしがある。だから会議の最初の一時間は、できないことの確認に使われた。平日は無理。力仕事は無理。金は出せないが手は出せる。手は出せないが車は出せる。
できない、が並ぶたび、ユウジは、はらはらした。
でも、不思議なことに、場の空気は、暗くならなかった。できないことを先に全部並べた大人たちは、そこから、できることだけで、パズルを組み始めたのである。
▽△▽
建築士になった卒園者は、アキラさんといった。
園長先生がまだ若手だった頃の卒園生で、いまは隣町の設計事務所にいる。工事計画の相談役として、図面の束を抱えてやってきた。
その机に、先生が、一冊の綴じた計画書を、そっと置いた。
「アキラさん。相談の前に、これを見てもらえますか」
「何です?」
「……ある人が作った、補強と引っ越しの計画案です」
アキラさんは、ぱらぱらとめくり始め、三ページ目で、めくる速さが変わった。
十ページ目で、老眼鏡をかけ直した。
最後まで読んで、長い息を吐いた。
「先生。これ、誰が」
「園の、関係者です」
「関係者」
アキラさんは、それ以上聞かなかった。代わりに、床を指さした。
「この計画の基礎補強の考え方、床下にあった例の『存在しない補強』と、同じ手ですね」
食堂の隅で、麦茶を配っていたユウジの手が、一瞬止まった。
「……まあ、それも聞かないでおきます。うちの業界、原因不明の善行は、初めてなので」
アキラさんは、その日、計画書を持ち帰った。
「一目で分かるのは、とんでもない代物だってことだけです。事務所で、ちゃんと検算させてください」
そして翌週の日曜、アキラさんは、付箋だらけになった計画書を抱えて、再びやってきた。
食堂の机に、計画書を置く。
「結論から言います。構造計算は、完璧です。三日かけて検算して、間違いを一つも見つけられなかった。工期は最短、費用は最低、通学への影響はゼロ。理論上は、これ以上の計画は存在しません」
その日も麦茶配り係だったユウジは、少しだけ胸を張った。
「じゃあ、使える?」
声が出てしまった。子どもが口を挟む場面ではない。分かってはいたが、出てしまったのである。
アキラさんは、子ども相手に、態度を変えなかった。まっすぐユウジを見て、はっきり答えた。
「人間には、使えない」
「……どうして?」
「休むから。間違えるから。家族の都合もあるから」
アキラさんは、計画書の工程表を開いて、指でなぞった。
「見てごらん。この工程、職人が十四日間、一度も休まない前提になってる。雨の日がない前提になってる。材料が一度も遅れず、誰も風邪をひかず、誰の子どもも熱を出さない前提になってる。……坊主、そんな十四日間、生きてて見たことあるか?」
ユウジは、記憶を検索した。
自分の十四日間なら、ある。休まず、間違えず、雨でも精度の落ちない十四日間なら、いくらでもある。
でも、それは、自分の十四日間だけだった。
「計画っていうのはな」
アキラさんは、計画書の余白を、とんとんと叩いた。
「人間が休んでも、間違えても、それでも終わるように作るんだ。遅れる分を先に入れておく。間違い直しの時間を先に入れておく。完璧な計画ってのは、完璧じゃない人間のための計画のことを言うんだよ」
その日、ユウジの計画書は、否定されなかった。
土台として採用され、大人たちの手で、余白だらけの、休みだらけの、間違い直しの時間だらけの計画に、直されていった。
工期は、ユウジの計算の二・三倍になった。
ユウジは、二・三倍の工程表を眺めながら、その数字を、なぜか嫌いになれなかった。
▽△▽
工事の準備が始まると、週末の若葉園は、にぎやかになった。
工務店の卒園者が資材を運び込み、空き家の掃除には元職員が集まり、保育士資格を持つ元入所者は、小さい子たちを引き受けて、大人たちの手を空けた。
ユウジは、その全部に、手を出したくてたまらなかった。
資材運びなら、全員分を一人で三分で終えられる。掃除なら十分。書類なら一分。目の前で、大人たちがゆっくりと、ときどき腰を叩きながら進めている仕事の全部に、最短ルートが見えている。
その日も、若い職人が、重い資材を一人で運んでいた。
台車の車輪が段差に引っかかり、資材が傾く。職人が顔をしかめて、持ち直す。傾く。持ち直す。
――困ってる。
ユウジの足が、出た。
その襟首を、チナツがつかんだ。
「頼まれてから」
「大変そうだよ」
「あの人は、自分の仕事をしてるの」
「困ってるのに?」
「困ることまで取ったら、その人の仕事じゃなくなるの」
ユウジが見ている前で、職人は段差の手前で台車を止め、辺りを見回し、先輩の職人に声をかけた。二人は息を合わせて、資材を段差の上へ運び上げた。若いほうが頭を下げ、先輩が何か言って、二人が笑った。
ユウジは、その一部始終を、じっと見ていた。
困った人が、自分で「助けて」を言った。言われた人が、手を貸した。二人の間に、さっきまでなかった何かが、一つ増えたように見えた。
もし俺が三分で全部運んでいたら、あの何かは、増えなかった。
「……難しい」
「でしょうね」
チナツは、襟首から手を離した。
「あんたは黙ってると全部やっちゃうんだから、当分、見学」
▽△▽
計画は、アキラさんの予言どおりに、つまずきながら進んだ。
材料の到着が、一週間遅れた。船便の都合という、誰のせいでもない遅れだった。
行政への申請書に、修正が入った。書式が今年から変わっていたのである。
仮住まいの候補の一つが、持ち主の親族の事情で、急に使えなくなった。
どれも、ユウジなら一瞬で「直せる」問題だった。到着の遅れは代替材の調達先を三十秒で計算できたし、申請書は正しい書式で今夜中に書き直せたし、仮住まいは候補リストの次点を即座に繰り上げられた。
ユウジは、そのたびに、口を開きかけて、閉じた。
代わりに、大人たちが集まって、頭を抱えた。カレンダーとにらめっこして、電話をかけて、「じゃあ先に内装のほうを進めるか」と工程を入れ替えた。申請書は担当の職員が書き直し、提出前にアキラさんが確認する段取りが、新しくできた。仮住まいは、空き家を管理している人が「それなら、あそこの家主に聞いてみる」と、リストにない候補を一つ、連れてきた。
時間は、かかった。ユウジの計算の、何十倍もかかった。
それでも、計画は前へ進んだ。しかも進むたびに、確認の段取りが増えたり、新しい候補が生えてきたりして、計画は少しずつ、転びにくい形に育っていった。
ユウジは、気がついた。
俺の完璧な計画は、一度も転ばない前提だから、転んだら終わりだった。
この人たちの計画は、転ぶ前提だから、転んでも終わらない。
▽△▽
夕方、片づけの終わった中庭のベンチで、ユウジはチナツと並んで、帰っていく大人たちを見送っていた。
工務店の卒園者が、車の窓から手を振っていく。
ユウジは、ずっと考えていたことを、口に出した。
「どうして、みんな、助けてくれるの?」
「頼んだから」
チナツの答えは五文字きっかりで、迷いの入る隙間がなかった。
「……迷惑じゃないの?」
「迷惑なら、断るでしょ」
「断られたら?」
「別の人に頼む」
ユウジは、黙り込んだ。
頼む。迷惑なら、断られる。断られたら、別の人に頼む。
式にすれば、三行だった。変数は二つ。分岐は一つ。世界最高の頭脳が処理してきた、どの構造計算よりも、どの未来予測よりも、単純な仕組みだった。
その三行が、二つの人生をかけても、まだうまく実行できない。
「……チナツは、いつからそれ、できるの?」
聞いてから、まずい質問だったかと思った。
チナツは、少し黙って、夕焼けの門のほうを見た。
「できないよ、私も」
「え」
「頼んだら断られるって思って、九年間、誰にも頼まなかったもん。……会議で三つ言ったのが、たぶん、初めて」
チナツは、ベンチから立ち上がって、伸びをした。
「だから、偉そうに言ってるだけ。自分ができないことはさ、人に言うと、ちょっとできるようになった気がするんだよね」
「それ、ずるくない?」
「ずるいよ。行こ、夕飯」
二人は、食堂へ歩き出した。
できない者同士が、できない仕組みの練習を、隣で見張り合っている。
パーフェクトではない人たちの計画は、今日も、その程度の速さで、前へ進んでいる。




