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パーフェクト人間ユウジ  作者: よんまるよん
第一部 帰ってきたユウジ

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17/19

第17話 パーフェクトではない人たち

 退院した園長先生が最初にしたのは、電話をかけることだった。


 八十六人の一覧を机に広げ、上から順に、一件ずつ。


「――お久しぶりです。若葉園の園長です。……ええ、ええ、おかげさまで。あのね、今日は、お願いがあってお電話しました」


 うちのことは、うちで何とかします、と言い続けてきた人の、初めての台詞だった。受話器を持つ手は、最初の三件までは緊張していて、四件目からは、少しずつ様になっていった。


 返事は、さまざまだった。


 二つ返事の人がいた。事情を聞いて、長く黙ってから「日曜だけなら」と言う人がいた。今は難しい、ごめんなさい、と断る人もいた。断りの電話のあと、先生は受話器を置いて、隣で聞き耳を立てていたユウジに言った。


「ね。断られても、世界は終わらないでしょう」


 ユウジは、真剣な顔でメモを取った。断られても世界は終わらない。二つの人生で初めて知る定理である。


 そして数週間後の日曜、若葉園の食堂に、大人たちが集まった。


 建築士になった卒園者。工務店で働く卒園者。保育士の資格を持つ、元入所者。地域の空き家を管理している人。学校の関係者。法人内の別の施設の主任。


 全員あわせて、十四人。八十六人のうちの、十四人だった。


 全員が、何でもできるわけではなかった。仕事があり、家庭があり、それぞれの暮らしがある。だから会議の最初の一時間は、できないことの確認に使われた。平日は無理。力仕事は無理。金は出せないが手は出せる。手は出せないが車は出せる。


 できない、が並ぶたび、ユウジは、はらはらした。


 でも、不思議なことに、場の空気は、暗くならなかった。できないことを先に全部並べた大人たちは、そこから、できることだけで、パズルを組み始めたのである。


▽△▽


 建築士になった卒園者は、アキラさんといった。


 園長先生がまだ若手だった頃の卒園生で、いまは隣町の設計事務所にいる。工事計画の相談役として、図面の束を抱えてやってきた。


 その机に、先生が、一冊の綴じた計画書を、そっと置いた。


「アキラさん。相談の前に、これを見てもらえますか」


「何です?」


「……ある人が作った、補強と引っ越しの計画案です」


 アキラさんは、ぱらぱらとめくり始め、三ページ目で、めくる速さが変わった。


 十ページ目で、老眼鏡をかけ直した。


 最後まで読んで、長い息を吐いた。


「先生。これ、誰が」


「園の、関係者です」


「関係者」


 アキラさんは、それ以上聞かなかった。代わりに、床を指さした。


「この計画の基礎補強の考え方、床下にあった例の『存在しない補強』と、同じ手ですね」


 食堂の隅で、麦茶を配っていたユウジの手が、一瞬止まった。


「……まあ、それも聞かないでおきます。うちの業界、原因不明の善行は、初めてなので」


 アキラさんは、その日、計画書を持ち帰った。


「一目で分かるのは、とんでもない代物だってことだけです。事務所で、ちゃんと検算させてください」


 そして翌週の日曜、アキラさんは、付箋だらけになった計画書を抱えて、再びやってきた。


 食堂の机に、計画書を置く。


「結論から言います。構造計算は、完璧です。三日かけて検算して、間違いを一つも見つけられなかった。工期は最短、費用は最低、通学への影響はゼロ。理論上は、これ以上の計画は存在しません」


 その日も麦茶配り係だったユウジは、少しだけ胸を張った。


「じゃあ、使える?」


 声が出てしまった。子どもが口を挟む場面ではない。分かってはいたが、出てしまったのである。


 アキラさんは、子ども相手に、態度を変えなかった。まっすぐユウジを見て、はっきり答えた。


「人間には、使えない」


「……どうして?」


「休むから。間違えるから。家族の都合もあるから」


 アキラさんは、計画書の工程表を開いて、指でなぞった。


「見てごらん。この工程、職人が十四日間、一度も休まない前提になってる。雨の日がない前提になってる。材料が一度も遅れず、誰も風邪をひかず、誰の子どもも熱を出さない前提になってる。……坊主、そんな十四日間、生きてて見たことあるか?」


 ユウジは、記憶を検索した。


 自分の十四日間なら、ある。休まず、間違えず、雨でも精度の落ちない十四日間なら、いくらでもある。


 でも、それは、自分の十四日間だけだった。


「計画っていうのはな」


 アキラさんは、計画書の余白を、とんとんと叩いた。


「人間が休んでも、間違えても、それでも終わるように作るんだ。遅れる分を先に入れておく。間違い直しの時間を先に入れておく。完璧な計画ってのは、完璧じゃない人間のための計画のことを言うんだよ」


 その日、ユウジの計画書は、否定されなかった。


 土台として採用され、大人たちの手で、余白だらけの、休みだらけの、間違い直しの時間だらけの計画に、直されていった。


 工期は、ユウジの計算の二・三倍になった。


 ユウジは、二・三倍の工程表を眺めながら、その数字を、なぜか嫌いになれなかった。


▽△▽


 工事の準備が始まると、週末の若葉園は、にぎやかになった。


 工務店の卒園者が資材を運び込み、空き家の掃除には元職員が集まり、保育士資格を持つ元入所者は、小さい子たちを引き受けて、大人たちの手を空けた。


 ユウジは、その全部に、手を出したくてたまらなかった。


 資材運びなら、全員分を一人で三分で終えられる。掃除なら十分。書類なら一分。目の前で、大人たちがゆっくりと、ときどき腰を叩きながら進めている仕事の全部に、最短ルートが見えている。


 その日も、若い職人が、重い資材を一人で運んでいた。


 台車の車輪が段差に引っかかり、資材が傾く。職人が顔をしかめて、持ち直す。傾く。持ち直す。


 ――困ってる。


 ユウジの足が、出た。


 その襟首を、チナツがつかんだ。


「頼まれてから」


「大変そうだよ」


「あの人は、自分の仕事をしてるの」


「困ってるのに?」


「困ることまで取ったら、その人の仕事じゃなくなるの」


 ユウジが見ている前で、職人は段差の手前で台車を止め、辺りを見回し、先輩の職人に声をかけた。二人は息を合わせて、資材を段差の上へ運び上げた。若いほうが頭を下げ、先輩が何か言って、二人が笑った。


 ユウジは、その一部始終を、じっと見ていた。


 困った人が、自分で「助けて」を言った。言われた人が、手を貸した。二人の間に、さっきまでなかった何かが、一つ増えたように見えた。


 もし俺が三分で全部運んでいたら、あの何かは、増えなかった。


「……難しい」


「でしょうね」


 チナツは、襟首から手を離した。


「あんたは黙ってると全部やっちゃうんだから、当分、見学」


▽△▽


 計画は、アキラさんの予言どおりに、つまずきながら進んだ。


 材料の到着が、一週間遅れた。船便の都合という、誰のせいでもない遅れだった。


 行政への申請書に、修正が入った。書式が今年から変わっていたのである。


 仮住まいの候補の一つが、持ち主の親族の事情で、急に使えなくなった。


 どれも、ユウジなら一瞬で「直せる」問題だった。到着の遅れは代替材の調達先を三十秒で計算できたし、申請書は正しい書式で今夜中に書き直せたし、仮住まいは候補リストの次点を即座に繰り上げられた。


 ユウジは、そのたびに、口を開きかけて、閉じた。


 代わりに、大人たちが集まって、頭を抱えた。カレンダーとにらめっこして、電話をかけて、「じゃあ先に内装のほうを進めるか」と工程を入れ替えた。申請書は担当の職員が書き直し、提出前にアキラさんが確認する段取りが、新しくできた。仮住まいは、空き家を管理している人が「それなら、あそこの家主に聞いてみる」と、リストにない候補を一つ、連れてきた。


 時間は、かかった。ユウジの計算の、何十倍もかかった。


 それでも、計画は前へ進んだ。しかも進むたびに、確認の段取りが増えたり、新しい候補が生えてきたりして、計画は少しずつ、転びにくい形に育っていった。


 ユウジは、気がついた。


 俺の完璧な計画は、一度も転ばない前提だから、転んだら終わりだった。


 この人たちの計画は、転ぶ前提だから、転んでも終わらない。


▽△▽


 夕方、片づけの終わった中庭のベンチで、ユウジはチナツと並んで、帰っていく大人たちを見送っていた。


 工務店の卒園者が、車の窓から手を振っていく。


 ユウジは、ずっと考えていたことを、口に出した。


「どうして、みんな、助けてくれるの?」


「頼んだから」


 チナツの答えは五文字きっかりで、迷いの入る隙間がなかった。


「……迷惑じゃないの?」


「迷惑なら、断るでしょ」


「断られたら?」


「別の人に頼む」


 ユウジは、黙り込んだ。


 頼む。迷惑なら、断られる。断られたら、別の人に頼む。


 式にすれば、三行だった。変数は二つ。分岐は一つ。世界最高の頭脳が処理してきた、どの構造計算よりも、どの未来予測よりも、単純な仕組みだった。


 その三行が、二つの人生をかけても、まだうまく実行できない。


「……チナツは、いつからそれ、できるの?」


 聞いてから、まずい質問だったかと思った。


 チナツは、少し黙って、夕焼けの門のほうを見た。


「できないよ、私も」


「え」


「頼んだら断られるって思って、九年間、誰にも頼まなかったもん。……会議で三つ言ったのが、たぶん、初めて」


 チナツは、ベンチから立ち上がって、伸びをした。


「だから、偉そうに言ってるだけ。自分ができないことはさ、人に言うと、ちょっとできるようになった気がするんだよね」


「それ、ずるくない?」


「ずるいよ。行こ、夕飯」


 二人は、食堂へ歩き出した。


 できない者同士が、できない仕組みの練習を、隣で見張り合っている。


 パーフェクトではない人たちの計画は、今日も、その程度の速さで、前へ進んでいる。

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