第16話 うん、ただいま
あなたが死んだことが、私の人生で、一番困ったことです。
その言葉のあと、病室には、長い静けさがあった。
窓の外は、もう夕方の底の色になっている。チナツは、壁際に立ったまま、動かない。缶ジュースは、三本とも、開けられないままだった。
先生が、涙を拭いた。
拭いて、それから、両手を、ユウジのほうへ伸ばした。
「ユウジ」
呼ばれた名前は、八年間で何千回も呼ばれた名前と、同じ音のはずだった。同じ音のはずなのに、まったく違う名前に聞こえた。
「帰って、きたのね」
ユウジの頭脳が、最後の全力で回転を始めた。
答えるべきことは、たくさんある。転生の仕組みについて、もう少し正確な説明。本人であることの、追加の証明。時計の裏の文字のこと、ネジのこと、バッグの錠の番号のこと。神様の存在について、信じてもらうための理屈。八年間黙っていたことの、順序立てた弁明。謝罪の言葉。適切な語彙。適切な順番。
何億通りもの返答が、一斉に生成されて、一斉に並んだ。
その全部を眺めて、ユウジは、気がついた。
先生の伸ばした両手は、説明を待っている手ではなかった。
証明も、理屈も、弁明も、要らないのだ。八年前からずっと、要らなかったのだ。あの手紙に、書いてあったとおりに。
――帰ってくるのに、理由はいらないのよ。
ユウジは、何億通りの返答を、全部捨てた。
残ったのは、たった一つ。八年前、この世に生まれ直した朝、玄関で言おうとして言えなかった言葉。乳児の喉が「あーうー」にしか変換できなかった、獲得すべき語彙の、第二位。
「うん」
ユウジは、言った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
先生の両腕が、ユウジを抱きしめた。
八年前の玄関では、「こんにちは」だった。今度は、ちゃんと、おかえりなさいだった。
ユウジは、先生の腕の中で、目を閉じた。前世の最後の記憶と、同じ体温だった。あのときは、この体温から離れていく側だった。今は、戻ってきた側にいる。
チナツは、壁際で、そっぽを向いた。
そっぽを向いたまま、手の甲で、目のあたりを乱暴にこすった。
▽△▽
抱擁は、永遠には続かなかった。
先生は、ユウジの両肩をつかんで、体を離した。
そして、まっすぐにユウジの目を見た。その目が、涙の膜の下で、はっきりと怒っていることに、ユウジは気づいた。
「その上で、言います」
先生の声は、もう震えていなかった。
「あなたは、前も、私を守って死にました。今度は、生まれ変わってきてまで、黙って、私たちを守ろうとしていました。書類も、建物も、全部一人で。……そうね?」
「……うん」
「どうして、そういうことをするの」
「先生が助かったから、よかった」
「よくありません」
「でも、みんな無事だった」
「あなたが、無事ではありませんでした」
先生の指が、ユウジの肩に、食い込んだ。
「あなたは、死んだのよ。ユウジ。みんなの中に、あなたが入っていないの。どうして分からないの」
「俺は大丈夫――」
「その言葉を」
先生は、ユウジの言葉を、正面から断ち切った。
「もう、私に使わないでください」
病室が、静まり返った。
ユウジは、口を開けたまま、固まっていた。
拒否された、と頭脳が判定した。生まれて初めて、園長先生から、明確に拒否された。八歳の体の芯が、すっと冷たくなる。
でも、と頭脳の別の場所が、震えながら訂正を入れた。
違う。よく見ろ。先生は、俺を拒否していない。肩をつかむ手は、離れていない。目は、そらされていない。拒否されたのは、俺じゃない。
「俺は大丈夫」という、あの言葉。
自分だけを勘定から外す、あの考え方。
先生が両手で押し返しているのは、八年間――いや、二つの人生をかけて組み上げてきた、俺の計算式そのものだった。
▽△▽
先生は、肩から手を離し、居住まいを正した。
伝えるべきことを、順番に伝える顔になっていた。二十年、子どもたちにそうしてきた顔である。
「ユウジ。私は、あなたのお母さんではありません」
「うん」
「でも、あなたの生活と命を預かった、大人の一人でした。前のあなたのときも。今のあなたのときも」
「うん」
「だから、これだけは、二つの人生ぶん、まとめて言います」
先生は、一度、息を吸った。
「あなたが役に立つから、大事だったのではありません」
ユウジは、瞬きをした。
言葉の意味が、すぐには処理できなかった。
「……何も、できなくても?」
「当たり前です」
「迷惑を、かけても?」
「迷惑をかけたら、一緒に困ります」
――一緒に、困る。
ユウジの頭脳が、その四文字の前で、完全に停止した。
迷惑をかけたら、嫌われる。負担になったら、見放される。だから、かけない。ならない。役に立つ。それが、施設で生きる子どもの、生存の計算式だと思っていた。誰に教わったわけでもない。ただ、物心つく前から、式はそこにあった。
その式に、先生は、まったく別の答えを書き込んだ。
迷惑をかけたら、見放されるのではない。
一緒に、困ってくれる。
困りごとの、こちら側とあちら側に分かれるのではなくて、同じ側に、並んで座ってくれる。
二つの人生で、何億回と計算してきたはずの式の、いちばん最初の前提が、間違っていた。
ユウジの目から、涙が落ちた。
パーフェクトな肉体は、痛みでは泣かない。玉ねぎでも泣かない。その体が、生まれて初めて、ぼろぼろと泣いていた。理由を計算するより先に、涙のほうが出た。
先生は、泣いているユウジの頭に、手を置いた。
何も言わずに、ただ、置いていた。
▽△▽
ユウジが泣きやむのを待ってから、先生は言った。
「それでね、ユウジ。新しい約束をしましょう」
「……約束」
「助ける前に、『助けて』と言ってください」
ユウジは、赤い目のまま、きょとんとした。
「……俺が、助けてもらうの?」
「当たり前でしょう」
先生は、少しだけ笑った。
「あなたも、若葉園で暮らす、子どもの一人です」
壁際から、チナツの声が飛んできた。
「ようやく人数に入れてもらったね」
「前から入ってたよ」
「あんたの計算には、入ってなかったでしょ」
ユウジは、言い返そうとして、やめた。
入っていなかった。八十六人のリストにも、みんなの引っ越しの計算にも、先生の仕事の計算にも、俺の欄は、一行もなかった。
「……善処します」
「役所の返事、禁止って言ったよね」
▽△▽
面会時間の終わりが近づいた頃、先生は、決めたことを二人に話した。
「退院したら、卒園した人たちや、昔の職員さんたちに、協力をお願いしようと思います」
うちのことは、うちで何とかする。そう言い続けてきた先生の、方針転換だった。
三日間、病室の天井を見ながら、先生も考えたのである。書類の山を陰で片づけていた小さな手のことを。無理を隠し合っていた、この八年のことを。「助けて」と言えない子に、「助けて」と言わせたいなら、まず大人が、言ってみせるしかない。
「ただ、連絡先を調べるところからね。何しろ二十年ぶんだから――」
「あるよ」
ユウジが、鞄から紙の束を取り出した。
厚さ、約一センチ。
「助けてくれそうな人。八十六人。連絡先と、頼めそうなことも書いてある」
先生は、束を受け取って、目を丸くした。
一枚めくって、もっと丸くした。卒園者、元職員、地域の建築士、空き家の持ち主。整った資料が、どこまでも続いている。
「……こんなに調べて、どうして今まで、誰にも頼まなかったの?」
「みんな、大変だから」
次の瞬間。
「「私たちも大変なの」」
先生とチナツの声が、完璧に重なった。
二人は顔を見合わせ、それから、同時に吹き出した。
病室に、この一週間で初めての、まともな笑い声が響いた。
ユウジだけが、笑いの理由が分からず、真面目な顔で紙の束の×印を、一つずつ消しゴムで消し始めていた。
消される×を眺めながら、チナツは思った。
――八十六個。全部消したら、この男子は、少しはまともになるんだろうか。
たぶん、ならない。
でも、消し方を覚えただけ、今日のところは、上出来である。




