第15話 せんせい、だいじょうぶ?
会議は、金曜の夕方、園の会議室で開かれた。
長机を囲むのは、自治体の担当者、法人の本部、学校の教頭、建築士。それぞれの前に、園長先生が夜なべで作った資料が置かれている。
議題は、こぶしの家棟の工事と、そのあいだの子どもたちの暮らし。
先生の説明は、静かで、粘り強かった。
子どもたちの生活を、できるだけ分断しない案。通学圏内の仮住まい。生活グループを分けない部屋割り。面会と通院の場所を守るための送迎の組み方。会議で子どもたちから出た希望が、一つずつ、案のどこに反映されているかまで、先生は丁寧に示していく。
資料は、よくできていた。よくできすぎているくらいだった。
それでも、問題は残る。仮住まいの候補は、まだ確定しない。応援の職員は足りない。予算の枠は、どこを叩いても、簡単には広がらない。出席者は誰も意地悪ではなかったが、誰も即答はできなかった。持ち帰ります、調整します、次回までに。会議とは、そういうものである。
「――では、仮住まいの件は、来週もう一度」
議事が、終わりに近づく。
先生は、頭の芯が薄く痺れているのを感じていた。今週の睡眠は、合計しても一日分に届かない。それでも、あと少しだ。閉会の挨拶をして、皆さんを見送って、それから今日の宿題を書き出して。
周りの大人たちは、先生の疲れの、本当の深さを知らなかった。
知りようがなかったのである。書類の山は、毎晩、誰かの手で静かに片づいていた。片づいた山だけを見た周囲は、園長先生の仕事量を、実際の半分ほどに見積もっていた。無理は、完璧に隠されていた。
完璧に隠した者が、廊下にいることも、誰も知らなかった。
ユウジは、会議室の外の廊下で、壁にもたれて座っていた。
盗み聞きのつもりだった。会議の中身を知っておけば、今夜からの手伝いの精度が上がる。パーフェクトな耳は、扉越しの声を、一言も逃さず拾っている。
声だけでは、なかった。
拾いたくない音まで、拾っていた。
先生の呼吸が、浅い。心拍が、会議の後半から、ずっと速い。声の輪郭が、疲労の限界にいる人間の形をしている。ユウジの頭脳は、その全部を計測しながら、大丈夫、まだ大丈夫、と判定を繰り返していた。
閉会の気配。椅子を引く音。
先生が、立ち上がる。
その瞬間、扉の向こうの心拍が、乱れた。
▽△▽
会議室の中で、それを最初に理解した人間は、いなかった。
園長先生は、閉会の礼をしようと立ち上がり、口を開きかけて、ふっと、糸が切れたように傾いた。
誰かが、あ、と声を上げる。
隣の席の教頭が、手を伸ばす。届かない。
床が、先生を迎えようとした、その一瞬前。
会議室の扉が開いて、閉まった。少なくとも、音はそう聞こえた。開いて、閉まるまでの間に、小さな影が机の間を抜けたことを、正確に見ていた者は、一人もいない。
先生の体は、床に届かなかった。
小さな両腕が、先生を抱き止めていた。
頭を守り、首を支え、衝撃を殺して、ゆっくりと床へ横たえる。完璧な、受け止め方だった。
「園長先生!」「救急車!」
大人たちが立ち上がり、部屋が騒然となる。電話を取る者、駆け寄る者、椅子をどける者。
その中心で、ユウジは、先生の脈に指を当てていた。
脈、ある。呼吸、ある。顔色は悪いが、唇の色は保たれている。頭は打っていない。意識消失は、過労と血圧によるもの。命に、別状はない。
計測は、一秒で終わった。
結論は、出た。大丈夫だ。先生は、死なない。
結論は出たのに、ユウジの手は、震え始めていた。
パーフェクトな肉体に、震える理由はない。筋肉は正常。神経も正常。それなのに、先生の脈を取る指先が、小さく、小さく、震えている。
目の前の光景に、別の光景が、重なっていた。
玄関先の、朝の光。乾いた銃声。白いシャツに広がっていく赤。自分を抱き起こす腕。降ってくる涙。しゃべらないで、救急車が来るから、すぐ来るから――。
あのときは、抱かれる側だった。
今は、抱き止める側にいる。
立場が入れ替わっただけで、腕の中に大事な人がいて、その人の無事を確かめずにいられないことだけが、八年前と、寸分たがわず同じだった。
ユウジの口が、勝手に動いた。
「せんせい……だいじょうぶ?」
八歳の声で。
十八歳のときと、まったく同じ言い方で。
救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。
園長先生のまぶたが、薄く開いた。焦点の合わない目が、自分を覗き込む小さな顔を、ゆっくりと捉える。
先生の手が、力の入らない動きで持ち上がって、ユウジの頬に、触れた。
「……あなた、なの?」
その言葉を最後に、先生の目は、また閉じた。
▽△▽
診断は、過労と、持病の悪化だった。
命に関わる状態ではない。ただし、しばらくの休養が必要。医師は「倒れるまで気づかれなかったのが不思議なくらいです」と首をかしげ、園の職員たちは、返す言葉がなかった。
入院から三日目の午後、田村さんに連れられて、ユウジとチナツは病院へ見舞いに来た。
病室の手前で、田村さんは看護師に呼び止められ、手続きの話になった。
「二人で先に行ってて。四〇二号室ね」
病室の白い光の中で、園長先生は、ベッドの背を起こして座っていた。
顔色は、だいぶ戻っている。
「いらっしゃい」
先生は笑って、ユウジを手招きした。チナツは、なぜか入り口で足を止め、「……飲み物、買ってくる」と言って、廊下へ消えた。
ユウジは、ベッドの脇の丸椅子に座った。
先生は、しばらく、何も言わなかった。
ただ、ユウジの顔を、見ていた。
この三日間、点滴の管を眺めながら、先生は考え続けていた。考えることしか、できない三日間だった。そして考えの材料は、八年分、あった。
同じ名前。同じ玄関。同じ毛布と、同じ名札。
抱き上げた瞬間に泣きやんだ、あの目。
困ったときに、左の耳たぶへ触れる癖。あの子と、同じ癖。
カレーの日、ニンジンだけを最後まで残して、最後に必ず食べる癖。あの子と、同じ順番。
困っている子がいると、考えるより先に自分のプリンを差し出す、あの子と同じ癖。渡したあとで褒められると、褒められる理由が分からないという顔で笑う、あの同じ笑い方。
八年間、先生は、その一つ一つを見るたびに、同じ言葉で蓋をしてきた。偶然です。子どもには、よくあることです。この子は、この子です。蓋は、職業人としての誠実さで作られていて、頑丈だった。
でも、あの夕方。
落ちていく意識の際で聞いた、あの声。
せんせい、だいじょうぶ。
あの言い方を、先生は知っている。世界でただ一人の言い方だ。自分が撃たれたのに、血を流しているのは自分なのに、腕の中から、先生の心配だけをする。あの言い方だけは、偶然という言葉では、もう蓋ができなかった。
先生は、静かに口を開いた。
「ユウジ」
「はい」
「あなたは、誰なの?」
ユウジの背筋が、伸びた。
「……ユウジだよ」
「どのユウジ?」
「…………」
病室の時計の秒針が、いやに大きく聞こえた。
「……今の、ユウジ」
「前のユウジでも、あるの?」
まっすぐな問いだった。逃げ道を塞ぐためではなく、ただ、答えだけを待っている問い。
ユウジの頭脳が、猛烈な速さで回り始めた。ごまかす選択肢が、次々に生成されては、先生の目の前で、次々に崩れていく。鳥はもう使えない。偶然も、もう効かない。八年間かけて積み上げた「普通の子ども」の設定が、たった一つの言い方のせいで、足元から崩れている。
「あの……それは……」
「ユウジ」
「な、なんのことか……」
そのとき、病室の戸が、開いた。
両手に缶ジュースを三本抱えたチナツが、立っていた。
買いに行ったはずの飲み物を抱えたまま、戸の外で、ずっと聞いていた顔だった。
チナツは、つかつかと入ってきて、ユウジの隣に立った。
「もう、言って」
「……先生が、困る」
「八年間黙ってた方が、ずっと困る」
チナツは、缶をユウジの膝に一本、押しつけた。
「私が横にいるから。言って」
ユウジは、膝の上の缶を、両手で握った。
冷たさが、手のひらから伝わってくる。震えそうになる指を、缶の冷たさが、押さえてくれている気がした。
ユウジは、先生の目を見て、話し始めた。
前に、一度死んだこと。あの朝、玄関で撃たれて死んだ、あのユウジであること。白い場所で神様に会って、何でも願いを叶えると言われたこと。パーフェクト人間にしてもらって、生まれ変わる場所は、もう一度、若葉園の玄関前をお願いしたこと。
四十九日の次の朝に、呼び鈴を鳴らしたのは、たぶん神様であること。
八年間、ずっと、言えなかったこと。
▽△▽
話が終わっても、園長先生は、長いあいだ、黙っていた。
窓の外で、夕方の色が、少しずつ濃くなっていく。
やがて、先生は口を開いた。責める声ではなかった。ただ、八年分の重さだけが、静かに乗っていた。
「どうして、帰ってきたと、言ってくれなかったの?」
「……先生が、怖がるかと思って」
「どうして、また一人で、全部やろうとしたの?」
「先生たちを、困らせたくなかったから」
先生の目から、涙がこぼれた。
拭かなかった。拭かないまま、先生は、震える声で、はっきりと言った。
「あなたが死んだことが、私の人生で、一番困ったことです」
ユウジは、膝の上の缶を、握りしめた。
八年間の計算が、その一言で、根元から崩れていく音を、ユウジは聞いていた。




