第14話 助けてもらう方法が分からない
白紙のまま動かない「誰かに頼む」の式について、ユウジは、約束を思い出した。
みんなの生活に関わることを、一人で決めない。
それなら、この行き詰まりも、一人で抱えるべきではないのだろう。ユウジは翌日、チナツに相談した。相談という行為自体が、すでに人生二周目にして初の試みだったのだが、本人に自覚はない。
「候補地の情報を集めるのに、外の人の協力がいる。でも、誰に頼めばいいか分からない」
チナツは、宿題を出した。
「じゃあ、考えて。助けてくれそうな人を、十人」
「十人」
「そう。名前と、その人に何を頼めそうか。十人でいいから」
「分かった」
ユウジは、素直にうなずいた。
チナツは、少しだけ安心した。十人なら、途方に暮れることもないだろう。頼るという練習の、最初の一歩にはちょうどいい。我ながら、いい宿題を出した。
翌朝、チナツは自分の甘さを知ることになる。
▽△▽
朝食前の居間で、ユウジは紙の束を差し出してきた。
厚さ、約一センチ。
「できた」
「……何これ」
「助けてくれそうな人。八十六人」
「十人って言ったよね!?」
「考えてたら、増えた」
チナツは束を受け取り、めくった。
めくって、絶句した。
卒園者。名前、年齢、現在の仕事、園にいた時期、得意なこと。元職員。退職の理由と、今の連絡先の調べ方まで。地域の建築士。学校の関係者。近隣の施設。少し離れた場所に空き家を持っている人。一人につき数行、几帳面な字で、その人が何を手伝えるかが書かれている。
情報量は、完璧だった。八歳の情報網ではない。
問題は、全員の名前の横に、もう一行ずつ、書き足されていることだった。
――仕事が忙しい時期のため、×。
――お母さんの介護があるため、×。
――前に園を手伝ってもらったばかりのため、×。
――交通費がかかるため、×。
――頼むと迷惑になるため、×。
チナツは、束を最後までめくった。
八十六人、全員に、×が付いていた。
「……あのさ」
「うん」
「助けてくれそうな人を探せって、言ったよね」
「探した。八十六人」
「で、全員に×付けたの?」
「みんな、大変だから」
ユウジは、当然のことのように言った。
「この人は今、仕事の繁忙期だし、この人は家族の介護があるし、この人には前も助けてもらったし。大変な人に頼んだら、もっと大変になる」
「私たちも大変なの」
「うん。だから、俺がやればいい」
「話が戻ってる!」
チナツは、紙の束で自分の額を押さえた。
八十六人分の調査能力と、〇人分の依頼能力。この男子の頭脳は、人を頼らない理由を探させたら、たぶん世界一である。しかも本人は、×を付けるたびに、相手を思いやったつもりでいるのだ。
「……逆にすごいよ。八十六人調べて、一人も頼れないって結論出すの」
「褒められた?」
「褒めてない」
▽△▽
その日の午後、チナツは事務室の前で、園長先生の電話を聞いてしまった。
盗み聞きのつもりはなかった。届け物を頼まれて、扉の前に立っただけである。扉は少し開いていて、先生の声は、廊下まで漏れていた。
「――ええ、ええ。お気持ちは本当にありがたいです。……いえ、大丈夫です。人手のほうは、何とか目処が。……そんな、お忙しいのに申し訳ないですから。ええ。うちのことは、うちで何とかしますので」
受話器を置く音がした。
チナツは、届け物を持ったまま、廊下で固まっていた。
電話の相手は、声の調子からして、手伝いを申し出てくれた誰かだ。卒園者か、元職員か。そして先生は、断った。ありがたいです、大丈夫です、うちで何とかします、の三点セットで。
――どっかで、聞いた言い方。
毎日聞いている。紙の束に、八十六回書いてあった。
チナツは、扉の隙間から、事務室の中を見た。
先生の机には、書類の山。会議の資料、行政とのやりとり、仮住まいの候補の資料。山は毎日増えているはずなのに、なぜか毎朝、少しだけ片づいている。そして先生は、片づいた分だけ、新しい仕事を積む。
チナツは、知っている。夜中に廊下を歩く音のことも、朝いちばんに事務室の書類がそろっている理由も。
――そうか。
――この園、二人いるんだ。
助けているつもりで、相手の無理を隠す奴。頼られたら全部引き受けるくせに、自分は誰にも頼らない奴。片方は八歳で、片方は園長先生で、お互いに相手の心配ばかりして、自分の欄だけ白紙にしている。
似た者同士が、無理を打ち消し合って、外からは何も見えなくなっている。
チナツの背中を、冷たいものが走った。
これは、コンクリートのひび割れと、同じだ。
外からは見えない場所で、静かに進む劣化。見つかったときには、たぶん、報告書が要るくらいになっている。
▽△▽
夕食のデザートは、プリンだった。
こぶしの家で、プリンは事件の火種と決まっている。案の定、年下の子の容器が机の縁で跳ね、床で原形を失った。
ユウジの手が、自分のプリンをすっと差し出す。いつもの、完璧な初動である。
その手首を、チナツがつかんだ。
「待った」
「え」
「あんたも、食べたいでしょ」
居間が、少し静かになった。年下の子は、床のプリンと、宙で止まったプリンを交互に見ている。田村さんが台所から、いつもどおり新しいプリンを持ってくる。事件は、それで解決である。ユウジのプリンが出動する必要は、最初からない。
ユウジは、つかまれた手首のまま、言った。
「俺は大丈夫」
「その言い方、嫌い」
「どうして?」
「大丈夫って言えば、誰も心配しなくて済むと思ってるから」
「心配しなくていいよ」
「それを決めるのは、あんたじゃない」
ユウジは、動きを止めた。
チナツは、手首を離さないまま、続けた。
「心配するかどうかは、心配する側が決めるの。あんたが『大丈夫』って言っても、私が心配なら、私は心配するの。それを止める権利、あんたにないから」
――心配する側が、決める。
ユウジの頭脳が、その一文を、何度も読み返していた。
考えたことも、なかった。心配は、かけるものであり、かけないように管理するものだった。前世の十八年も、今世の八年も、ユウジの仕事は、自分という項目を全員の心配リストから削除しておくことだった。削除しておけば、みんなの荷物が軽くなる。それが優しさだと、疑ったことがなかった。
でも、チナツは言う。リストに載せるかどうかは、リストの持ち主が決めるのだと。
俺が消しても、消しても、チナツのリストには、俺の名前が載っているのだと。
それは、管理できない領域だった。世界最高の頭脳の、外側にある領域だった。
ユウジは、何と答えていいか分からず、宙に浮いたままのプリンを見た。
「……食べて」
チナツは手首を離し、自分のプリンを開けた。
ユウジは、自分のプリンを、静かに机へ戻した。ふたを開けて、一口食べた。
おいしかった。
おいしいと感じたことが、なぜか、少しだけ胸に痛かった。
▽△▽
その夜、事務室の明かりは、日付が変わっても消えなかった。
園長先生は、翌週の会議の資料を作っていた。自治体と、法人と、学校と、建築士。全員が納得する形で、子どもたちの生活を分断しない案を通すための、大事な会議である。
資料は、何度も書き直された。この一枚の出来で、あの子たちの通学が決まるかもしれない。あの子の面会場所が決まるかもしれない。そう思うと、手が抜けなかった。
ようやく区切りをつけて、先生は立ち上がった。
立ち上がった瞬間、視界が、すっと暗くなった。
床が、傾いた気がした。
先生はとっさに机へ手をつき、崩れかけた体を支えた。書類の山が、ずれて、数枚が床へ滑り落ちる。
数秒、そのままの姿勢で、呼吸を整える。
……大丈夫。少し、立ちくらみがしただけ。
先生は落ちた書類を拾い、何事もなかったように、鞄へ入れた。
こぶしの家の自室で、ユウジは目を開けていた。
パーフェクトな耳は、聞いていた。
事務室の方向。椅子の音。よろめく足音。手のひらが机を叩く、鈍い音。紙が床を滑る音。
ユウジは、布団の上に起き上がった。
胸の奥で、八年間眠らせていた何かが、ゆっくりと目を覚まし始めていた。




