第13話 子どもたちの引っ越し会議
引っ越し会議、と子どもたちが呼ぶことになるその集まりは、丁寧に準備された。
職員たちの方針は、最初から一貫している。
子どもたちを、何も知らないまま移動させない。
説明資料は年齢別に三種類作られた。小さい子には絵の紙芝居。小学生には地図と写真。中高生には、候補地の条件を並べた一覧表。分からない言葉を残さないよう、職員同士で何度も読み合わせをして、「仮住まい」は「工事のあいだ住む場所」に、「移転」は「お引っ越し」に書き直された。
そして生活グループごとに、希望と不安を聞く時間が設けられた。
こぶしの家の順番は、日曜の午前。居間の机を囲んで、子ども六人と、職員の田村さんと、記録係の職員がひとり。
ユウジは、この日を待っていた。
膝の上には、何もない。何もないが、頭の中には、ある。全候補地の比較。通学路の安全性。面会のしやすさ。通院の距離。工期との調整。全部を計算し尽くした、全員にとって最善の移転案が、発表の瞬間を待って、頭の中で行儀よく整列している。
丸めた紙を額にぶつけられて以来、書くのはやめた。だが、考えるのをやめろとは言われていない。みんなの話を聞いて、それから最善の案を出す。完璧な段取りである。
会議が始まる直前、田村さんがユウジの隣にしゃがんで、小さな声で言った。
「ユウジ。先に言っておくね」
「はい」
「今日は、ユウジの答えを発表する会議ではないよ」
「…………」
「みんなが、自分の言葉で話す日。ユウジの仕事は、聞くこと。いい?」
完璧な段取りは、開始十秒前に崩壊した。
▽△▽
会議は、田村さんの短い説明から始まった。
建物の足の骨が弱っていること。直すあいだ、別の場所で暮らすこと。場所はまだ決まっていないこと。決める前に、みんなの気持ちを聞きたいこと。
「正しい意見じゃなくていいの。わがままでもいいの。思ってることを、そのまま教えて」
最初に手を挙げたのは、小学四年の子だった。
「転校したくない。友だちと離れたくない」
次の子が続く。
「僕は、同じ部屋のケンタと一緒がいい。部屋が分かれるのは、やだ」
「あたしは、静かなところがいい。前にいたところ、車の音がうるさくて眠れなかったから」
少し間があって、いちばん年下の子が、小さな声で言った。
「……はやく、おひっこししたい」
みんなが、その子を見た。
「だって、おうちの骨、弱ってるんでしょ。こわれたら、こわいもん。はやく出たい」
通院を続けている子は、うつむいたまま言った。
「お母さんとの面会の場所、変えたくない。あそこじゃないと、お母さん、道が分かんなくなるから」
高校生は、腕を組んで、最後にひとつだけ言った。
「俺は、どこでもいい。どこでもいいから、早く決めてほしい。決まってないのが、いちばん落ち着かない」
ユウジは、聞いていた。
言われたとおり、口を挟まず、全部聞いていた。
そして、頭の中で、静かな異常事態が起きていた。
――希望が、一致しない。
転校したくない子の希望を叶える候補地は、静かな場所を望む子の希望と合わない。早く出たい子と、急に決めないでほしい気持ちは、正面からぶつかる。部屋を分けない条件を足すと、面会場所の条件が崩れる。どこでもいいから早くという希望は、全部の希望と少しずつ衝突する。
計算しても、計算しても、全員の丸が付く答えが、出ない。
最善の移転案は、確かにある。総合点のいちばん高い案なら、計算できる。でもそれは、誰かの希望を、点数の名の下に削った案だ。今この居間で、生の声を聞いてしまったあとでは、あの整列していた完璧な案が、急に、他人の顔をして見えた。
――完全な、一つの答えが、ない。
世界最高の頭脳が、生まれて初めて、その種類の問題と正面から向き合っていた。
▽△▽
チナツは、ずっと黙っていた。
発言の順番が回ってきそうになるたび、視線を机に落として、やり過ごした。
言っても、無駄だからである。
九年間の経験則が、耳元でささやいている。大人は聞く。うなずく。メモも取る。それで最後は、大人の事情で決まる。「みんなの気持ちを聞いて決めました」という一文が付くだけ、聞かれないより、たちが悪いこともある。
だから、黙っている。期待しなければ、裏切られない。
田村さんは、チナツを急かさなかった。
「チナツは、話したくなったらでいいからね」と一度だけ言って、あとは他の子の話を聞いている。時間が経つ。会議は終わりに近づく。
チナツは、机の木目を見ていた。
木目の向こうに、いくつかの顔が浮かんでは消えた。歯ブラシを二本持って、夜まで待つ気だった男子の顔。廊下に置かれた、ぬるい水。「決まっていないことを、決まったみたいには言いません」と言った、園長先生の顔。
……言うだけなら、ただだ。
どうせ裏切られるにしても、言わなかった後悔より、言った証拠のほうが、ましかもしれない。
会議の最後、田村さんが「他にはいい?」と見回したとき、チナツは、手を挙げずに口を開いた。
「……三つ、ある」
部屋が、静かになった。
「私は、同じ学校へ通いたい。転校は、もうしたくない」
記録係のペンが動く。
「こぶしの家のみんなと、一緒がいい。ばらばらは、やだ」
ペンが動く。
「あと……引っ越す日を、急に決めないでほしい。『明日出るよ』みたいなのは、もう、やだ」
最後のひとつは、声が少しだけ揺れた。
田村さんは、うなずいた。大げさに褒めなかった。よく言えたね、とも言わなかった。ただ、三つを自分のメモにも書き取って、チナツの目を見て、こう言った。
「その三つを、できるだけ守れる方法を探すね」
できるだけ、という言葉を、チナツは聞き逃さなかった。約束ではない。保証でもない。大人の言葉の中では、まだ疑っていい部類の言葉だ。
ただ、記録係の書類の上に、自分の三つの希望が、他のみんなの希望と同じ大きさの字で並んでいるのが、席から見えた。
――記録は、された。
それが何になるのかは、まだ分からない。分からないが、チナツは、書かれた三行から、しばらく目を離せなかった。
▽△▽
会議のあと、中庭で、ユウジがチナツに追いついた。
言おうかどうか迷って、結局、言ってしまうのがユウジである。
「あのさ。俺の考えてた案でも、チナツは同じ学校に通えたよ」
「……だから何?」
「希望どおりだった。こぶしの家も、分かれない案だった」
自慢のつもりはなかった。ただの、計算結果の報告だった。俺の案は、ちゃんとチナツの希望と合っていた。だから、あの案は正しかった。そう確認したかっただけである。
チナツは、足を止めて、ユウジに向き直った。
「偶然、合ってただけ」
「偶然じゃないよ。計算して――」
「先に聞かなきゃ、意味ないでしょ」
チナツは、言葉を探しながら、ゆっくり続けた。
「あの三つはさ、あんたの紙に書いてあっても、私の希望じゃないの。私が、自分の口で言って、書いてもらって、初めて私の希望なの。……分かる?」
「…………」
「答えが合ってるかどうかの話じゃないの。誰が言ったかの話なの」
ユウジは、立ち止まったまま、長いこと考えた。
結果は同じ。中身も同じ。それでも、俺の紙に書かれた「同じ学校」と、チナツが自分の声で言った「同じ学校」は、別のものだという。
計算の外側に、また、新しい式が現れていた。
――結果だけ正しくても、過程が間違うことが、ある。
床下で怒られた夜から、ずっと解けなかった式に、初めて、変数の名前がひとつ、書き込まれた気がした。
▽△▽
その夜、ユウジは机に向かった。
頭の中の完璧な移転案を、呼び出す。
候補地の比較。点数。順位。あの日、行儀よく整列していた、俺だけの最善案。
ユウジは、それを、消した。
紙なら破るところだが、頭の中なので、静かに白紙へ戻す。惜しいとは、思わなかった。あの案には、今日の居間で聞いた声が、一つも入っていない。四年生の友だちの名前も、面会の道が分からなくなるお母さんのことも、揺れていたチナツの三つ目も、入っていない。
――作り直そう。
今度は、全員の希望を横に並べて、削る順番を俺が決めない案を。ぶつかる希望は、ぶつかったまま、大人たちに見えるように整理して。決めるのは、俺じゃない。
手順を組み直していくと、途中で、どうしても必要な項目が出てきた。
候補地の情報は、外の人に聞かなければ集まらない。面会や通院の調整は、関係する機関の協力がいる。子どもの計算だけでは、届かない場所が、いくつもある。
つまり、誰かに、頼む必要がある。
ユウジの手が、止まった。
直し方なら、何百通りも計算できる。作り方も、守り方も、計算できる。
なのに、「誰かに頼む」の一行だけ、その先の式が、白紙のまま動かない。
頼まれるのは、いつだって自分の側だった。前世の十八年も、今世の八年も、ずっとそうだった。頼み方というものを、ユウジは、二つの人生を合わせて、一度も計算したことがなかったのである。




