第12話 完璧な無資格工事
床下の暗闇で、ユウジは働いていた。
高さ五十センチほどの空間を、音もなく移動しながら、基礎に補強材を組み付けていく。頭の中には完成済みの構造計算。手元には、数日かけて少しずつそろえた材料。市販の鋼材と、金物と、特殊な配合で練った補修モルタル。
施工は、完璧だった。
既存の基礎は、傷ひとつつけない。ひび割れには適切な処置を。荷重の流れは計算どおりに整え、締め付けの力は一本ごとにミリ単位で管理する。人間の検査機器では測れない精度で、建物の足元が、着実に安全になっていく。
ユウジにとって、これは工事ではなかった。
困っている建物と、困っている人たちを、助けているだけである。
三分の二ほど進んだところで、点検口の方向から、小さな明かりが近づいてきた。
懐中電灯を口にくわえ、パジャマのまま床下を這ってくる人影がひとつ。
チナツだった。
「……見つけた」
「チナツ。ここ、埃がすごいから」
「うるさい」
チナツは、ユウジの目の前まで這ってきて、懐中電灯を突きつけた。
「一人でやらないって、言ったよね」
「危険じゃないよ」
ユウジは、心から言った。
落下の危険はない。粉塵も、この程度なら問題ない。工具の扱いも完璧で、怪我の可能性はゼロ。約束の「危険なこと」には、あたらない。それに昨日、先に話してもいる。抜かりのない、約束の遵守である。
チナツの声が、床下の暗闇に響いた。
「危険かどうかを、あんた一人で決めるな!」
建物の下で叫んでも、上で眠る人たちには届かない。それが分かっているから、チナツは思い切り叫んだ。叫びながら、半分泣きそうになっていることが、自分でいちばん腹立たしかった。
ユウジは、手を止めなかった。
ここで止めれば、中途半端な補強が残る。それは本当に危険だ。だから、続ける。続けながら、頭のどこかで小さな声がした。チナツの言った「危険」と、俺の計算した「危険」は、たぶん、別の言葉なんじゃないか。
小さな声は、締め付けの音に、静かにかき消された。
夜明け前、工事は完了した。
こぶしの家棟の基礎は、その夜のうちに、この国のどの新築より安全になった。
▽△▽
数日後、建築士が追加の詳細調査にやってきた。
報告書にあった「詳細調査を要する」の、その調査である。建築士は助手と二人、機材を抱えて床下に潜り、一時間後、妙な顔で出てきた。
「園長先生。少し、よろしいですか」
応接室で、建築士はタブレットの写真を先生に見せた。
「基礎に、補強が入っています」
「補強? 工事はまだ何も」
「ですよね。うちも入れていません。ですが、入っているんです。図面にない補強が、それも……その、大変申し上げにくいのですが」
建築士は、言葉を選んだ。
「極めて、高品質です。荷重の流れの理解が完璧で、既存部を一切傷めていない。正直、うちの事務所でこの精度が出せるかどうか。教科書に載せたいくらいの施工です」
「……それは、良いことでは、ないのですね」
「ないんです」
建築士は、きっぱり言った。
「誰が施工したのか分からない。材料の証明書もない。施工記録もない。つまり制度の上では、この補強は『存在しない』んです。どれだけ実物が優れていても、確認のしようがないものを、安全の計算に入れるわけにはいきません」
話は、補強の扱いだけでは済まなかった。
劣化の進行度を測るはずだった調査は、現状が変わってしまったため、一部やり直し。何者かが床下に出入りした経緯も、施設として整理しなければならない。報告書は書き直し。行政への説明も、一からやり直しである。
「建物は、確実に安全になりました」
建築士は、疲れた顔でまとめた。
「そして手続きは、確実に遅れました」
▽△▽
その日の夕方、園長先生は、ユウジとチナツを事務室に呼んだ。
呼ばれた理由に、二人とも心当たりしかなかった。
先生は、怒っている顔ではなかった。困っている顔とも、少し違う。長年の「原因不明」の記録の束を、机の端に、なぜかそっと置いている顔である。直った加湿器。直った玩具の列。応急処置された屋根。
「単刀直入に聞きますね」
先生は、二人を順番に見た。
「床下の補強、誰が施工したのか、心当たりはありませんか」
ユウジは、目をそらした。
窓の外を見た。夕方の空に、ちょうど、すずめが飛んでいた。
「……鳥かもしれない」
隣で、チナツが息を吸った。
「その鳥、今度は床下に入ったんだ」
「飛べるのに?」
「あんたが言うな」
先生は、二人のやりとりを、黙って見ていた。
それから、深くは追及しなかった。証拠はない。八歳の子どもが基礎補強をしたなどと、報告書に書けるはずもない。ただ、先生は最後に、こう言った。
「誰がやったにしても……その人は、この園を助けたかったのだと思います。それは、分かっています」
ユウジの肩が、少しだけ動いた。
「でも、その人に伝えたいの。助けてもらった側は、『ありがとう』と『どうして相談してくれなかったの』を、両方言いたくなるものなのよ」
二人は、事務室を出た。
廊下を歩きながら、ユウジは先生の言葉を、頭の中で三回、再生した。三回再生しても、後半の意味が、うまく計算できなかった。
▽△▽
中庭のベンチで、チナツは正座するように座り、ユウジを隣に座らせた。
「言いたいことは、分かってるよね」
「……補強は、成功した」
「そうだね。コンクリートは直したかもしれないけど、約束は壊した」
「でも、安全になった」
「安全になったよ。それで、手続きは遅れた。調査はやり直し。先生の仕事は増えた。引っ越しの話は、早まった」
チナツは、指を折りながら数え上げた。
「あんたの完璧な工事の結果が、これ。どうして分かんないの。みんなが知って、納得して、責任を持って進めなきゃ、意味ないの」
「俺が責任を持つよ」
「八歳に持てない責任があるの!」
チナツの声が、中庭に響いた。
ユウジは、黙り込んだ。
頭の中で、何かが渋滞を起こしていた。
工事は成功した。計算は正しかった。建物は安全になった。どの項目にも、間違いはない。全部に丸が付いている。丸しか付いていないのに、結果の欄には、怒っているチナツと、仕事の増えた先生と、早まった引っ越しが並んでいる。
――完璧に成功したのに、怒られている。
前世と今世を合わせて、初めての経験だった。
失敗して怒られたことなら、何度もある。花瓶を割って、時計を壊して、怒られてきた。あれは分かる。壊したからだ。
でも今回は、壊していない。直したのだ。完璧に直して、それで怒られている。
世界最高の頭脳が、演算の途中で、初めて答えの出ない式の前に立ち止まっていた。式の名前を、ユウジはまだ知らない。
▽△▽
数日後、職員会議で方針が決まった。
調査と手続きのやり直しで、工事の計画は後ろへずれる。その一方で、建物の安全評価は宙に浮いたままになった。正体不明の補強は計算に入れられない。つまり書類の上では、こぶしの家棟は「詳細不明の建物」になってしまった。
結論。一時的な生活場所への引っ越しを、当初の想定より早く、具体的に決めなければならない。
説明を聞いた子どもたちの間に、ざわめきが広がった。仮住まいの候補、学校のこと、グループのこと。決めることが、一気に増えた。
その夜、チナツはユウジの部屋の前に立った。
戸は開いていた。ユウジは机に向かって、何かを猛烈な速さで書いている。覗き込むと、紙の上には、仮住まいの候補地の比較表らしきものが、すでに三枚。
チナツは、無言でその紙を取り上げた。
「あ」
「あんたはさあ」
チナツは、紙を丸めた。丸めながら、言った。
「今度は、みんなの話を聞いて」
「聞けば、直していい?」
「直すことから離れろ!」
丸めた紙が、ユウジの額に命中した。
パーフェクトな反射神経は、よける判断をしなかった。よけてはいけない場面だということだけは、なぜか、計算より先に分かったのである。




