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パーフェクト人間ユウジ  作者: よんまるよん
第一部 帰ってきたユウジ

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11/12

第11話 この建物では暮らし続けられない

 報告書が届いてから、園長先生は、すぐには子どもたちに何も言わなかった。


 言わない、と決めていた。


 大人がまだ整理できていない話を、結論だけ子どもに投げてはいけない。二十年の仕事が、そう教えている。不安というものは、情報の穴に住みつく。穴だらけの話を渡せば、子どもたちはその穴を、想像で埋めることになる。


 だから、まず大人が動いた。


 法人の本部と、自治体の担当課と、建築士。事務室の電話は鳴り続け、先生は何度も同じ説明を、少しずつ正確にしながら繰り返した。


 一週間かけて、分かったことは、こうである。


 建物は、すぐに倒れるわけではない。今日も明日も、来月も、普通に暮らせる。


 ただし、大きな地震が来たとき、こぶしの家棟の安全は、保証できない。基礎の内部の劣化は、外からの見た目より進んでいた。


 長期間、このまま暮らし続けることは、難しい。


 直すなら、大がかりな補強か、建て替え。どちらにしても、工事のあいだ、子どもたちが暮らす場所が、別に要る。


 紙にすれば、五行の話だった。


 その五行が、どれだけの数の暮らしに触るのか。先生は、こぶしの家の名簿を眺めながら、夜遅くまで考え続けた。


▽△▽


 子どもたちへの説明は、年齢に分けて行われた。


 小さい子たちには、絵を使って、短く。


「おうちの足の骨がね、ちょっと弱っていることが分かったの。だから、お医者さんならぬ、建物のお医者さんに、直してもらうことになるかもしれません」


 幼い子が、手を挙げた。


「きょう、おうち、こわれるの?」


「壊れません。今日も明日も、大丈夫。ちゃんと直すために、先に調べているの」


 その子は安心して、絵の中の「建物のお医者さん」に興味を移した。質問は「注射はするの?」に変わり、説明会は少しだけ笑いに救われた。


 年長の子たちへの説明は、笑いの少ない時間になった。


 高校生は、真っ先に通学のことを聞いた。工事のあいだ住む場所が遠くなれば、転校になるのか。部活は。受験の年に、それは。


 通院を続けている子は、うつむいたまま、小さな声で聞いた。


「……病院、変わる?」


 主治医に、やっと慣れたところだった。診察室で泣かずに話せるようになるまで、二年かかった子である。


 先生は、ごまかさなかった。


「まだ決まっていません。決まっていないことを、決まったみたいには言いません。その代わり、決める前には、必ずみんなの話を聞きます」


 仮住まいの場所によっては、生活グループが分かれる可能性もある。その一言が伝えられたとき、部屋の空気が、いちばん重く沈んだ。


 部屋の隅で、チナツは黙って聞いていた。


 膝の上で、指を組んでいる。


 ――また、住む場所を決められるんだ。


 声には出さず、心の中で、つぶやいた。


 母の家。知らない親戚の家。一時保護所。そして、ここ。チナツの九年間は、大人の事情で荷造りをする九年間だった。やっと歯ブラシの色を自分で選んだばかりの場所で、また、次の話が始まっている。


 先生たちは誠実だ。決める前に話を聞く、と言った。あの言葉に嘘はないのだろう。


 でも、チナツは知っている。


 子どもの話を聞いたあとでも、決めるのは、大人なのだ。


▽△▽


 その夜、ユウジは床下点検口の前にいた。


 懐中電灯も持たずに、暗闇の点検口から、じっと床下を覗き込んでいる。パーフェクトな目には、暗がりの奥の基礎も、ひび割れの走り方も、鉄筋の状態も、全部見えていた。


 ――なるほど。


 報告書は正しい。劣化は、確かに進んでいる。放置していい状態ではない。


 同時に、ユウジには、直し方も見えていた。


 どこを、どの順番で、どう補強すればいいか。構造計算は、覗き込んだ数分のうちに終わっている。必要な材料は、市販品の組み合わせで足りる。特殊な機械も要らない。人手も要らない。俺の腕力なら、要らない。


 工期の計算結果は、こうだった。


 ――一晩。


 一晩で、この建物は安全になる。


 補強が済めば、引っ越しは要らなくなる。高校生は転校しなくていい。あの子は病院を変わらなくていい。グループも分かれない。チナツは、荷造りをしなくていい。先生は、あの分厚い書類の山と、夜中の電話から解放される。


 誰も、悲しまない。


 こんなに単純で、こんなに全員が助かる答えが、目の前に転がっている。


 ユウジの頭の中で、計画は音もなく完成していった。


 完成した計画のどこにも、「工事には資格と検査が要る」という項目は、入っていなかった。正確には、知識としては入っている。建築の法律も、検査の制度も、全部頭にある。ただ、それらは「安全のための仕組み」であり、俺の工事は完璧に安全なのだから、目的はすでに満たされている――頭脳はそう整理して、その項目を、静かに棚の奥へしまった。


 世界最高の頭脳は、自分に都合のいい整理だけは、驚くほど手際がいい。


▽△▽


 翌日の放課後、中庭のベンチで、チナツはユウジを捕まえた。


 捕まえた理由は、勘である。説明会からこっち、この男子の目が、何かの完成予想図を見ている目をしていた。九年物の観察眼は、この手の目を見逃さない。


「一人でやらないって、約束したよね」


「まだ何もしてないよ」


「『まだ』って言った。今」


「…………」


「何するつもり?」


 ユウジは、少し迷ってから、正直に答えた。約束の一つ目、危険なことは先に話す。これは先に話しているのだから、約束は守っている。そういう理屈である。


「建物を直す」


「……は?」


「基礎の補強。俺なら一晩でできる。材料も工具も、そろえられる。そうすれば、誰も引っ越さなくていい」


 チナツは、三秒ほど、言葉を失った。


 言いたいことが多すぎるときは、順番に言うしかない。


「誰に頼まれたの?」


「みんな困ってる」


「頼まれてないでしょ」


「でも直せるよ」


「できるかどうかの話じゃない」


「じゃあ、何の話?」


 ユウジは、本気で聞いていた。


 できる。安全になる。全員が助かる。この三つがそろっていて、ほかに何の話があるというのか。


 チナツは、目の前の男子の完璧な頭脳に、どこから説明すればいいのかを考えた。勝手に直された建物が、そのあと世間でどう扱われるのか。誰が説明できなくて、誰が責任を問われて、誰の立場が危うくなるのか。あんたの言う「誰も悲しまない」の勘定に、どうして毎回、そういう大人の事情と、あんた自身が入っていないのか。


 考えているうちに、夕食の時間の放送が流れた。


「……この話、まだ終わってないから」


「うん」


「絶対、勝手にやらないでよ」


「善処します」


「役所の返事、禁止!」


 二人は食堂へ向かった。ユウジの返事が「うん」ではなかったことに、チナツは気づいていた。気づいていたから、その夜は、眠りが浅かった。


▽△▽


 深夜。


 チナツは、目を覚ました。


 何の音で覚めたのかは、分からない。ただ、家の中の気配が、いつもと違う。九年間、知らない家で眠ってきた耳は、こういうときだけ、無駄に性能がいい。


 チナツは布団を出て、廊下を歩いた。


 ユウジの部屋の戸を、細く開ける。


 布団は、きれいに整えられたまま、空だった。


 ――あの、アホ。


 チナツは廊下を戻り、耳を澄ませた。


 最初は、何も聞こえなかった。


 やがて、聞こえた。


 床の、ずっと下。建物の足元の暗がりから、規則正しく、小さく響いてくる。


 きり、きり、と。


 金属を、締める音だった。

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