第10話 ユウジは一度死んでいる
物置の豆電球の下で、ユウジは話し始めた。
自分は前に、一度死んでいること。
その前は、この若葉園で育ったこと。同じ玄関の前に置かれて、同じ名前で、同じこぶしの家で暮らしたこと。勉強も運動も苦手だったこと。
十八歳になって、園を出る日の朝、逃げてきた強盗が園に入り込んだこと。人質にされかけた園長先生をかばって、撃たれたこと。
白い場所で、神様に会ったこと。
何でも願いを叶えると言われて、パーフェクト人間にしてもらったこと。
生まれ変わる場所は、もう一度、若葉園の玄関前をお願いしたこと。
チナツは、遮らずに最後まで聞いた。
聞き終えて、最初に確認したのは、能力のことでも、死の瞬間のことでもなかった。
「……神様が、泣いてたの?」
「うん」
「なんで?」
「分かんない」
「あんたがアホだったからじゃない?」
「アホは関係なくない?」
「大ありだと思う」
チナツは、こめかみを押さえた。
転生。神様。前世。どれも、まともに信じられる話ではない。ただ、この男子に関しては、四メートルの垂直跳びのほうを先に見てしまっている。信じられない話の在庫が、もう一つ増えたところで、棚は同じ棚である。
問題は、この話が本当かどうか、確かめる方法だ。
「証拠は?」
「証拠……」
「能力は見せられるでしょ。でも前世は、口だけでどうとでも言える。この園で育ったって言うなら、あんたにしか知りようがないことを見せて」
ユウジは、少し考えて、立ち上がった。
「じゃあ、玄関に来て」
▽△▽
深夜の玄関は、常夜灯だけがついていた。
ユウジは靴箱の上の壁を指さした。そこには、古い木製の掛け時計が、静かに振り子を揺らしている。
「これ、前世の俺が十二歳のときに壊した」
「はあ」
「廊下で野球の素振りをして、飛んでいったバットが直撃した。先生にすごく怒られて、自分で直すって約束して、三日かけて直した」
ユウジは椅子を持ってきて、時計をそっと壁から外した。
「そのとき、裏に彫った」
時計の裏板が、チナツの目の前に向けられる。
埃をかぶった木の板に、彫刻刀の拙い文字が、確かに刻まれていた。
――ユウジ 十二さい
――こんどはこわさない
チナツは、文字を指でなぞった。彫り口は古い。埃の積もり方も、最近彫ったものではない。時計の裏なんて、外さなければ誰にも見えない場所だ。職員だって、知っているとは思えない。
「……直したとき、ネジが一本足りなくなって」
ユウジは、時計を元に戻しながら続けた。
「探しても見つからなくて、しかたなく手持ちの別のネジで代用した。なくした一本は、そのあと大掃除のときに、靴箱の下から出てきた。捨てるのが悔しかったから、靴箱のいちばん下の段の、奥の柱の隙間に差してある」
「……見ていい?」
「どうぞ」
チナツは膝をつき、靴箱の最下段に頭を突っ込んだ。奥の柱の隙間。指を差し入れると、小さくて硬いものが、指先に触れた。
錆びた、ネジが一本。
チナツは、ネジをつまんだまま、しばらく靴箱に頭を突っ込んだ姿勢で固まっていた。
▽△▽
次は、倉庫だった。
棚の下の段から、ユウジは古いボストンバッグを引き出した。埃よけの布を丁寧にたたんで、脇に置く。
「これが、前世の俺の荷物。園を出る日に持っていくはずだった」
「これの存在は、まあ、職員に聞けば知れるけど」
「うん。だから、これ」
ユウジはバッグの内ポケットから、手のひらサイズの小物入れを取り出した。安っぽい缶のケースに、三桁のダイヤル錠が付いている。
「卒園のとき、先輩がくれた貴重品入れ。番号は俺しか知らない」
「……番号は」
「五、一、六」
チナツはダイヤルを回した。五。一。六。
かちり、と小さな音を立てて、錠が開いた。
中には、数枚の小銭と、プリペイドカードと、折りたたまれた便箋が一枚、入っていた。
「読んでいいよ」
チナツは便箋を開いた。
鉛筆の、不器用な字。書いては消した跡が、何か所も残っている。
――先生へ
――今までありがとうございました。ごはんも、うんどう会も、しんろの相談も、ぜんぶありがとうございました。
――俺は元気にやるので、心配しないでください。
――俺がいなくなったぶん、少し楽をしてください。
チナツは、読み終えて、顔をしかめた。
「何これ」
「先生への手紙。出ていく日に、こっそり置いていくつもりだった」
「感謝の手紙で、なんで最後が『楽をしてください』なの」
「先生、いつも働きすぎだから。俺がいなくなれば、世話する子が一人減るから、そのぶん――」
「はいはい、分かった。もういい」
チナツは便箋をたたみ、缶に戻した。
分かったのは、手紙の意味ではない。この手紙が、間違いなく目の前の男子の書いたものだ、ということである。八年前に封じられた手紙の中まで、今と寸分たがわず、アホだった。
これ以上の筆跡鑑定は、いらない。
▽△▽
倉庫の床に、二人は座り込んだ。
チナツは、転生の仕組みを理解したわけではなかった。神様のくだりは、正直、まだ半分も飲み込めていない。
ただ、ひとつだけ、はっきりした。
この男子は、嘘をついていない。
そして、はっきりした瞬間、チナツの中に湧いてきたのは、感動ではなかった。
怒りだった。
「……それで?」
「何が?」
「一回死んで、生まれ変わって、パーフェクトになって。それで、また誰かを守って死ぬつもり?」
「今は死なないよ」
ユウジは、事もなげに答えた。
「今の体は、頑丈だから。銃くらいなら平気だし」
「死ななければ、何してもいいの?」
「みんなが助かるなら」
「それ、自分を捨ててるのと同じだから」
ユウジは、きょとんとした。
「捨ててないよ。俺が自分で選んでるんだから」
「選んで捨ててるの!」
チナツの声が、倉庫に響いた。
ユウジには、本当に分からなかった。困っている人を助ける。自分はそのために動く。全部、自分の意思だ。誰かに強制されたわけでも、投げやりになっているわけでもない。どこにも「捨てる」要素がない。
チナツには、それこそが見ていられなかった。
選択肢を並べるとき、この男子の皿には、最初から自分の分が載っていない。載せ忘れているのではない。載せる習慣が、そもそもないのだ。前世の手紙がその証拠だ。十八年間の感謝を書いて、最後に頼んだことが「俺がいないぶん楽をして」。自分の幸せを願う欄が、一行もない。
母に振り回されてきたチナツは、知っている。
自分を勘定に入れない人間の周りでは、いつか必ず、誰かが泣く。
▽△▽
「条件、出すから」
チナツは、指を三本立てた。
「秘密は守ってあげる。誰にも言わない。その代わり、三つ」
「うん」
「一つ。危険なことをする前に、私に話すこと」
「うん」
「二つ。みんなの生活に関わることを、一人で決めないこと」
「うん」
「三つ。『俺は大丈夫』で話を終わらせないこと」
「……善処します」
「そこだけ返事が役所なの、なんで」
チナツは念を押して、小指を突き出した。指切りなんて子どもっぽいと思ったが、この男子には、書面より儀式のほうが効きそうな気がした。
ユウジは、真面目な顔で小指を絡めた。
約束は、成立した。
成立したのだが、このときユウジの頭の中では、静かな解釈が一つ、走っていた。
――危険なこと、というのは、俺が怪我をするかもしれないことだな。
――俺の体は怪我をしないから、たいていのことは、危険じゃない。
パーフェクトな頭脳による、完璧な抜け道である。
チナツが聞いたら小指ごとひねり上げそうな解釈は、口に出されないまま、夜の倉庫にしまい込まれた。
▽△▽
翌朝。
園長先生は、事務室で一通の封筒を開けていた。
差出人は、建築士事務所。雨漏りの修理をきっかけに、法人が依頼していた、建物全体の点検の報告書である。古い建物だから、悪いところの一つや二つは出るだろう。修繕の予算を考えながら、先生はページをめくった。
めくる手が、止まった。
報告書の中ほど。図面に赤い印がいくつも付いた、そのページ。
――こぶしの家棟 基礎内部に想定を超える劣化。詳細調査を要する。
先生は、報告書をもう一度、最初から読み直した。
二度読んでも、書かれていることは変わらなかった。
子どもたちの暮らす建物の、足元の話だった。




