逃げるべき檻へ、私は戻る(後編)
大学を卒業した春、私はまだ家にいた。
卒業式の日、袴姿のまま玄関を開けると、忍がリビングから出てきて、私を見たまましばらく何も言わなかった。
「……どうしたの」
「きれい」
ようやく落ちた声は、思っていたよりずっと低かった。
昔みたいに無邪気な言い方ではなくて、何かを噛みしめるような響きだった。
「ありがとう」
「鈴音、こっち向いて」
「なに?」
「ちゃんと見たい」
笑いながら言うと、忍は本気でそう言っているらしく、私の前まで来てじっと顔を見つめた。
その視線が長くて、私は少しだけ居心地が悪くなる。
「もういい?」
「よくない」
「写真ならさっき散々撮ったでしょう」
「そうじゃなくて」
忍は私の袖口にそっと触れた。
白い指先が、袴の生地の上をゆっくりなぞる。
「今日で、ひとつ終わったんだなって思ってる」
「卒業だから?」
「うん。それもある」
「それも?」
問い返したのに、忍は答えなかった。
ただ、細く笑っただけだった。
卒業後のことは、結局曖昧なままだった。
就職活動は途中で止まり、内定もない。大学に残る理由も、もうない。
本当なら、焦るべきなのだと思う。けれど焦りより先に、空っぽみたいな感覚が広がっていた。
毎日通う場所がなくなっただけで、世界との接点が一気に薄くなる。
朝起きても急いで化粧をする必要がなくて、時計を気にする必要もない。洗濯物を干して、簡単に掃除をして、夕飯の買い物をして、それだけで午前が終わる。
昼過ぎにはもう、することがなくなっていた。
そのくせ、心は妙に落ち着かなかった。
忍の言う通り、家にいて彼の帰りを待っていればいい——そう思えば思うほど、自分の輪郭がぼやけていくような気がした。
ある昼下がり、食器を拭きながら私はふいに思った。
このままだと、本当に何もなくなってしまう。
忍はまだ大学生で、朝になれば出ていく。
私は玄関で「いってらっしゃい」と言い、夕方に「おかえり」と迎える。
それは、たしかに穏やかだ。
けれど穏やかであることと、自分が生きていると感じられることは、同じではなかった。
だから、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、自分のための場所がほしくなった。
駅前の本屋で、アルバイト募集の紙を見つけたのは偶然だった。
図書館へ本を返しに行った帰り道だったと思う。
チェーン店ではない、昔ながらの書店で、文房具や雑誌も少し置いてある。入口に季節の新刊が平積みされていて、店内にはいつも静かな音楽が流れていた。
学生の頃から何度か立ち寄ったことがあった。
その日、ガラス扉の横に貼られた小さな紙が目に入った。
パート・アルバイト募集
午前〜夕方の間で応相談
紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
本屋。
静かな場所。
人と話すことがあっても、騒がしくない。
私にもできるかもしれないと思った。
なにより、そこは家から少し離れているようでいて、徒歩でも無理なく通える距離だった。
忍が大学に行っている間だけ。
彼が帰る前に、私も帰ればいい。
そうやって、自分に何度も言い訳した。
店長は五十代くらいの女性で、柔らかい声の人だった。
「朝倉さん、大学出たばっかりなのね」
「はい」
「接客経験は?」
「学生のときはしてなくて……でも、家のことはずっとやってきたので、細かい作業とかは嫌いじゃないです」
「本は好き?」
「好きです」
ありきたりな受け答えをしながら、私はずっと胸の鼓動が早いままだった。
面接なんて、ほとんど初めてだった。
それでも店長はふっと笑って、「緊張してる?」と優しく訊いた。
「少し……」
「大丈夫よ。うちはそんなに難しいことないから」
その一言だけで、少し息がしやすくなった。
面接が終わり、帰り際に「一緒に働く日高くんにも会っていって」と呼ばれた。
「日高です」
レジの奥から出てきたのは、三十前後に見える男性だった。
細身で、眼鏡をかけていて、声が穏やかだった。どこか本屋に似合う人だと思った。
「よろしくお願いします」
頭を下げると、日高と名乗った男性はやわらかく笑った。
「決まったら、仕事は俺も教えると思うんで。そんなに構えなくて大丈夫ですよ」
「はい……ありがとうございます」
「朝倉さん、本好きそうですね」
「え?」
「なんとなく」
そう言われて、私は少しだけ笑ってしまった。
「好きです」
「じゃあ、たぶん向いてます」
その何気ない会話だけで、胸の奥に小さな灯りがともるみたいだった。
採用の連絡は、三日後に来た。
私は電話を切ったあともしばらくスマホを握ったままで、妙に震える指先を見つめていた。
嬉しい。
その感情を、こんなにも素直に思ったのは久しぶりだった。
でも同時に、どうやって忍に隠そう、と思った。
「今日、図書館行ってくるね」
朝、そう言って家を出る。
それが最初の嘘だった。
「何時に帰る?」
「夕方前には」
「ちゃんと連絡して」
「うん」
玄関先で、忍は私の鞄の持ち手に一瞬触れた。
ただそれだけなのに、なぜだか探られているような気がして、私は少しだけ呼吸を浅くした。
初出勤の日、レジの前に立つと手が震えた。
雑誌の補充の仕方、在庫確認の端末の使い方、文房具の棚の整理、問い合わせへの応対。どれも決して難しいわけではないのに、久しぶりに「家の外で役に立たなければならない」ことが、思った以上に緊張を呼んだ。
「大丈夫ですか?」
雑誌の束を抱えたまま固まっていると、日高さんが声をかけてきた。
「すみません、ちょっと覚えること多くて……」
「最初はみんなそうですよ」
日高さんは私の手元を見て、ひとつひとつ丁寧に説明してくれた。
「これ、月刊誌はこっち、週刊誌はこっち。慣れると流れで覚えます」
「はい」
「焦らなくていいです。朝倉さん、ちゃんとメモ取ってるし」
そう言われるだけで、肩の力が抜ける。
帰り道、私は少しだけ空を見上げた。
春の光はまだやわらかくて、街路樹の若葉が淡く揺れていた。
家へ帰ると、忍はいつも通りソファに座っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「図書館どうだった?」
「……普通」
「何借りたの」
一瞬、息が詰まる。
「今日は返しただけ」
「ふうん」
それだけで終わった。
けれどその“ふうん”が妙に静かで、私は少し体に力が入った。
それでも翌日も、その次の日も、私は本屋へ行った。
ほんの数時間でも、店に立っているあいだは、自分がきちんとひとりの大人として扱われている気がした。
誰かの帰りを待つ存在ではなく、そこにいていいと言われる存在。
日高さんも店長も必要以上に踏み込んではこなかったし、それがありがたかった。
「朝倉さん、袋詰めきれいですね」
「そうですか?」
「角がちゃんとしてる」
「家で包装みたいなこと、たまにしてたので」
「なるほど。そういうの、出ますね」
日高さんと交わすのは、その程度の会話だった。
でも、その普通が私には新鮮だった。
家に帰れば、忍は相変わらずだった。
「今日、遅かった」
「ちょっと本見てたから」
「何の本?」
「料理本とか……」
「買った?」
「ううん」
「買えばよかったのに。鈴音が欲しいなら」
そんなふうに、やさしく言う。
怒らない。詰め寄らない。
だから余計に、私は自分のしていることが後ろめたくなった。
それでもやめられなかったのは、本屋にいるあいだだけ、自分の呼吸が少し深くなる気がしたからだ。
ひと月が過ぎる頃には、仕事にも慣れてきた。
「朝倉さん、これ返本お願いしていい?」
「はい」
「あと、明日新刊の平台作りたいんで、早めに来られます?」
「大丈夫です」
「助かります」
日高さんは基本的に静かな人だったけれど、こちらの小さな変化によく気づいた。
「今日、疲れてる?」
「え?」
「なんとなく。顔色あんまりよくないです」
「……ちょっと寝不足で」
「無理しないでくださいね。立ち仕事、慣れないとしんどいし」
そう言って、休憩の時間に温かいお茶を淹れてくれたこともあった。
気遣われることに慣れていない私は、そのたび少しだけ戸惑った。
でも、ありがたかった。
ある日、開店準備で日高さんがレジ確認をしながら言った。
「朝倉さん、卒業したばっかりって言ってましたよね」
「はい」
「うち、今はバイトでも、そのうち契約社員の話が出ることあるんです」
私は伝票を揃える手を止めた。
「社員、ですか」
「もちろんすぐじゃないし、店長判断もありますけど。朝倉さん、仕事丁寧だから」
「でも私……」
「家庭の事情とか、あるなら無理にとは言わないです。ただ、もったいないなと思って」
もったいない。
その言葉が、妙に胸に残った。
「……ありがとうございます」
「今度、もし時間あれば、もう少し詳しく話します?」
彼はレジの金額を確認しながら、あくまで軽い調子で言った。
「店だと忙しいし、ご飯でも食べながら」
私は反射的に断ろうとした。
忍の顔が浮かんだからだ。
けれどその直前で、日高さんが続けた。
「変な意味じゃないですよ。仕事の話です。朝倉さん、いつも急いで帰るから、そういうの苦手かなと思ってたけど」
恥ずかしさで頬が熱くなる。
「……わかってます」
「ならよかった」
ご飯でも食べながら。
たったそれだけの誘いなのに、胸がざわついた。
怖いのは、誘いそのものよりも、自分が少し嬉しいと思ってしまったことだった。
「じゃあ……少しだけなら」
そう答えた瞬間、日高さんが意外そうに目を丸くした。
「ほんとに?」
「そんなに驚きます?」
「いや、断られると思ってたんで」
「私、そこまで感じ悪くないです」
少しだけ笑いながら言うと、彼も笑った。
「じゃあ、来週。店閉めたあとにでも」
私は頷いた。
その約束が、家へ帰る頃にはもう秘密になっていた。
食事の日までの数日は、落ち着かなかった。
別に悪いことをするわけではない。
そう思おうとしても、忍に言えない時点で、それが嘘だとわかってしまう。
当日の朝、忍はいつも通り大学へ行く支度をしていた。
「今日、帰り遅い?」
靴を履きながら忍が訊く。
「どうして?」
「夕飯どうしようかなと思って」
「……ちょっと買い物してくるかも」
「買い物?」
「うん。服とか、見たり。最近全然買物行けてなかったから…」
「ふうん」
そこで忍は、私をじっと見た。
笑ってもいないし、怒ってもいない。ただ静かに観察するみたいな目で。
「何時ごろ?」
「多分そんな遅くならないよ」
「連絡して」
「する」
それだけで終わったのに、その目が一日中頭から離れなかった。
仕事を終えたあと、駅近くの小さな定食屋に入る。
日高さんはメニューを開きながら言った。
「こういう店、大丈夫ですか」
「はい」
「もっと軽いカフェとかの方がよかったかなと思ったんですけど、朝倉さん、そっちあんまり落ち着かなさそうで」
「……よくわかりますね」
「見てたらなんとなく」
その“見てたら”に、少しだけ肩がこわばる。
でも彼の視線は忍のそれとはまったく違っていた。息苦しくなるものではなく、ただ穏やかな観察だった。
「朝倉さん、家の事情って、あんまり聞かない方がいいですか」
料理を待つあいだ、日高さんがそう言った。
「……どうしてですか」
「いや、ずっと働き方を制限してる感じがあったから。もっと入れそうなのに入らないし、連絡も気にしてるし」
私は水の入ったグラスを両手で持った。
冷たさが掌に滲む。
「大したことじゃないです」
「ならいいんです。ただ——」
日高さんは少し言いよどみ、それから言葉を選ぶように続けた。
「朝倉さん、ちゃんと働ける人だから。自分で思ってるより、外でやっていけますよ」
その一言が、ひどく真っ直ぐ胸に入ってきた。
外でやっていける。
そんなふうに言われたことは、たぶんなかった。
「……ありがとうございます」
声が少し掠れた。
日高さんは気づかないふりをするみたいに、注文した料理の話へ移った。
ご飯を食べながら、私は大学のこと、本屋の仕事が思ったより楽しいこと、本が好きなことを少しだけ話した。
家のことはほとんど言わなかった。忍のことも。
でも、誰かとこうして普通に食事をするのが久しぶりで、私は少しだけ気が緩んでいたのだと思う。
帰り道、店を出ると小雨が降り始め空気がひやりとしていた。
夜の街は思っていたより静かで、街灯の明かりが濡れた路面にぼんやり映っている。
「じゃあ、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。急にすみませんでした」
「いえ。ちゃんと話せてよかったです」
そう言い合って別れようとしたとき、不意に背後から声がした。
「鈴音」
心臓が跳ねた。
振り返ると、少し離れた街灯の下に忍が立っていた。
傘も差さず、朝、家を出る時に着ていた黒いジャケットのまま。
表情は暗くてよく見えないのに、その目だけがはっきりとこちらを見ているのがわかった。
「……忍」
「迎えに来た」
日高さんが私と忍を見比べる。
「お知り合いですか」
言うより先に、忍が答えた。
「家族です」
その言い方が、妙に固かった。
「そうですか」
日高さんは空気を読むみたいに一歩引いた。
「じゃあ、朝倉さん。気をつけて」
「は、はい」
忍はそのあいだ一度も日高さんから目を逸らさなかった。
何かを測るような、静かすぎる視線だった。
日高さんが駅の方へ去っていくのを見届けてから、ようやく忍がこちらへ歩いてくる。
「帰ろう」
それだけだった。
怒鳴りもしないし、責めもしない。
なのに、喉の奥がひりつく。
家までの道はほとんど会話がなかった。
私が何か言おうとしても、忍は短く「うん」と返すだけ。
その静けさが、かえって怖かった。
玄関の鍵が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「忍、あの——」
「何食べたの」
背を向けたまま、忍が言う。
「え?」
「ご飯。何食べたの」
「……定食屋で、唐揚げ」
「おいしかった?」
そこでようやく振り返った忍の顔を見て、私は息を呑んだ。
怒っていない。笑ってもいない。
ただ、ひどく静かだった。
「なんで、来たの」
「鈴音がうそついたから」
胸が冷たくなる。
「うそって……」
「買い物って言った」
「仕事の話だったの。あの…実はバイト、してて……」
「知ってる」
「え?」
「最初は仕事の話だった」
忍はゆっくり私の方へ歩いてくる。
一歩ごとに逃げ場がなくなる気がした。
「でも、あの人、鈴音のこと気に入ってる」
「そんなこと——」
「あるよ」
ぴしゃりと言い切られる。
「俺、見てたから」
「……何を」
忍は少しだけ首を傾げた。
その仕草が昔と同じであることが、かえって不気味だった。
「全部」
「全部って、何」
「面接受けた日も。初出勤の日も。レジで困ってたときも。あの人にお茶淹れてもらった日も」
ぞっとした。
指先が一気に冷える。
「……何、言ってるの」
忍は私の鞄を指で示した。
「スマホ、位置情報共有したままだよね。緊急のときのためにって、前に入れたやつ」
そんなの、もう何年も前だ。
叔父夫婦が亡くなったあと、連絡がつかないと不安だからと忍に言われて入れたアプリ。私はずっと、使っていないものだと思っていた。
「それだけじゃないよ」
そう言って、忍はリビングの棚の上に置いてある小さな時計を手に取った。
何の変哲もない、丸い卓上時計。
でも忍が裏蓋をずらすと、そこには小さなレンズのようなものがあった。
息が止まる。
「……これ」
「カメラ」
「なんで……」
「鈴音が心配だから」
あまりに自然な口調だった。
まるで、雨が降るから傘を持っていく、というくらい当たり前のことみたいに。
「心配って……こんなの、おかしいよ」
「おかしくないよ」
「おかしいよ!」
思わず声が大きくなる。
忍の目が、そこで初めて少しだけ揺れた。
「もしかして、私の部屋も?」
「うん」
「いつから」
「卒業する前くらい」
膝から力が抜けそうになる。
私は反射的に数歩下がった。
「気持ち悪い……」
その言葉に、忍がはっきり傷ついた顔をした。
でもすぐにそれすら消して、静かに言う。
「気持ち悪くても、仕方ないよ。鈴音がうそつくから」
「うそをつくしかなかったの!」
「どうして?」
「どうしてって……忍が、こんなふうに全部決めようとするから!」
喉が震える。
怖いのに、怒りもあった。
「バイトもだめ、就職もだめ、誰かと話すのもだめ。そんなの、息ができない」
「俺はできてる」
「私は忍じゃない」
「でも、俺がいないとだめなのは一緒でしょ」
その言葉に、私は一瞬何も言えなくなった。
違う、と反射的に否定したかった。
でも、喉の奥で言葉が止まった。
忍はそれを見て、ふっと目を細める。
「本屋なら、黙っててもいいと思った」
「……え」
「静かだし、鈴音も少しは楽しいだろうし。男の人もいたけど、そんなに近づいてこなかったから」
ぞくりとした。
「でも今日、二人でご飯行った」
「仕事の話だって言ったでしょ」
「わかってる。でもいやだった」
忍は私の目をまっすぐ見て言った。
「鈴音が、俺の知らない場所で、俺の知らない顔して笑うの、無理」
その“無理”が、ひどく冷たかった。
「……日高さんに何かしたの」
「まだしてない」
「まだ?」
「何もしないで済むなら、その方がいい」
「何、それ」
忍は少し黙って、それから淡々と言った。
「鈴音が、もう会わないなら」
私は背筋が凍るのを感じた。
「忍」
「なに」
「……前から聞きたかったんだけど、おじさんたちの事故も」
声が掠れた。
聞いてはいけないことだとわかっていた。
でも、今ここで聞かなければ、一生聞けない気がした。
「あなたが?」
しん、と部屋が静まる。
冷蔵庫のモーター音だけが、遠くで低く唸っていた。
忍はしばらく何も言わなかった。
やがて、ひどく静かな声で答える。
「うん」
そのたった一音で、世界が傾いた。
「……嘘」
「嘘じゃない」
「なんで」
「鈴音を追い出そうとしたから」
私は首を振った。
理解したくなかった。
でも忍は、逃がさないみたいに言葉を続ける。
「前から嫌だった。ずっと嫌だった。鈴音に冷たいくせに、鈴音を家に縛って、でもいらなくなったら捨てるみたいな言い方して」
忍は少しだけ笑った。
笑っているのに、目の奥は冷えきっていた。
「俺から遠ざけようとした日、ほんとに無理だと思った。あの人たちさえいなくなれば、鈴音はここにいられるって」
「やめて……」
「ブレーキ、細工した。上手くいくかは半々だったけど」
「やめて!」
耳を塞いでも、声は消えなかった。
足が震える。
吐き気がした。
「怖い?」
忍が一歩近づく。
「怖いに決まってるでしょ……」
「でも、うれしいんでしょ」
その言葉に、私は顔を上げた。
「何言ってるの……」
「だって鈴音、ずっとそうだった」
忍の声はやさしいくらい静かだった。
「俺が必要って言うと、困った顔しながら、でもうれしそうだった。就活やめたのも、バイト隠したのも、俺を嫌いになれないからでしょ」
「違う」
「違わない」
忍は私の手首を掴んだ。
強すぎる力ではない。振り払おうと思えば振り払えるくらい。
なのに私は動けなかった。
「鈴音」
すぐ目の前で名前を呼ばれる。
「俺、鈴音がいないと生きていけない」
昔から何度も聞いてきた言葉だった。
でも今は、その意味がまったく違って聞こえる。
「もう、普通には戻れないよ」
そう言って、忍は私の手首に額を押しつけた。
「俺は戻らない。戻りたくない」
低く、掠れた声だった。
「鈴音も一緒にいて」
私はその場で泣いた。
声も出せないまま、ただ涙だけが落ちた。
怖かった。
全部が怖い。
監視されていたことも、嘘みたいな静けさで殺人を認めたことも、この先何が起こるかわからないことも。
それなのに、心の一番醜い場所では、こんなにも求められてしまったことに、震えるほど満たされてしまっている自分がいた。
そのことが、何より恐ろしかった。
翌朝、忍が大学へ行ったあと、私は小さなバッグひとつだけ持って家を出た。
逃げなければと思った。
あの家にいたら、きっと何もかも飲み込まれてしまう。
そう思うのに、玄関を閉めた瞬間から息が苦しかった。
どこへ行けばいいのかわからない。
警察に行くべきなのかもしれない。
でも、何をどう話せばいいのかもわからない。証拠があるのかもわからない。何より、忍を告発してしまったら、本当にすべてが終わってしまう気がした。
駅前のビジネスホテルに部屋を取った。
バイト代を少しずつ貯めていたお金で、どうにか払えた。
狭い部屋のベッドに腰を下ろしても、全然落ち着かなかった。
静かなはずなのに静かじゃない。
空調の音がうるさくて、壁の向こうの気配が気になって、カーテンの隙間から入る光も冷たかった。
スマホが震えた。
忍からだった。
『どこにいるの』
見た瞬間、体が硬くなる。
続けてまた通知が鳴る。
『怒ってないよ』
『寒くない?』
『ちゃんと食べて』
優しい言葉ばかりだった。
それが余計に苦しかった。
私は返事をしなかった。
でも画面を閉じても、そこに残っているような気がして、スマホを伏せた。
夕方近くになって、本屋から着信が入った。
無視しようかと思ったけれど、結局出た。
「朝倉さん? 今日どうしたの、大丈夫?」
店長の声だった。
「すみません……ちょっと体調が」
「そう。無理しないで。あのね、日高くんも今日は来られなくて」
「え……」
「なんか出勤途中に、駅で揉め事に巻き込まれたみたいで。大した怪我じゃないって言ってたけど、顔に傷できてて」
私は一気に血の気が引くのを感じた。
「駅で……」
「そうそう。物騒よねえ。朝倉さんも気をつけてね」
電話を切ったあと、私はしばらくその場から動けなかった。
やっぱり。
そう思った瞬間、頭の中に真っ先に浮かんだのは、日高さんのことではなく、忍の顔だった。
夜になっても眠れなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、私は自分が無意識に“ただいま”と言いそうになるのを止めた。
家に帰る想像をしてしまっている自分に気づいて、胃の奥が冷えた。
翌日、私は本屋へ行った。
荷物を取りに行く、ただそれだけのつもりだった。
店の奥の事務スペースで、日高さんは椅子に座っていた。
口元に薄く絆創膏が貼られていて、頬に青い痣がある。右手の甲にも擦り傷が見えた。
「……日高さん」
「ああ、朝倉さん」
いつもと変わらないように笑おうとして、それが少しだけ歪む。
「大丈夫ですか」
「たいしたことないですよ」
「昨日……」
それ以上言えなくて黙ると、日高さんは少しだけ表情を改めた。
「朝倉さん、あの子、家族って言ってましたよね」
私は頷くこともできなかった。
「昨日、駅で偶然会って、ちょっと話しかけられて」
日高は声を低くした。
「もう朝倉さんに関わるなって。すごかったですよ。静かなのに、何するかわからない感じで」
膝が小さく震える。
「……すみません」
「謝らないでください」
日高さんはため息をついた。
「俺、別に朝倉さんを困らせたいわけじゃない。仕事ができそうだから声かけただけです。でも……もし家で何かあるなら、誰かに相談した方がいい」
誰かに。
その言葉に、私はすぐには頷けなかった。
「朝倉さん?」
「……できないです」
ようやく出た声は、情けないほど小さかった。
「どうして」
私は答えられなかった。
どうしてかなんて、自分でもわかっていた。
怖いからだ。
忍が怖い。
でも、忍を失うことの方が、もっと怖い。
その矛盾を口にしたら、自分が本当に壊れてしまう気がした。
「すみません」
もう一度謝ると、彼はそれ以上追及しなかった。
ただ、静かに言った。
「朝倉さん、あなたはたぶん、思ってるよりずっと追い詰められてます」
その言葉に、私はただ唇を噛んだ。
荷物を取って店を出る。
午後の空は白く霞んでいて、風だけが少し強かった。
そのまま駅へ向かえば、もっと遠くへ行けたのかもしれない。
知らない街へ。
忍のいない場所へ。
でも、足は勝手に家の方へ向いていた。
日が暮れる頃には、見慣れた家の前に立っていた。
門扉はいつも通りで、玄関の灯りだけがついている。
胸が苦しくて、でも少しだけ安心してしまって、その安心に自分でぞっとした。
鍵を開けると、すぐに忍が出てきた。
リビングで待っていたのだろう。
私を見るなり立ち上がる。
目の下には薄く隈ができていた。
「……おかえり」
その声は、思っていたよりずっと弱かった。
「ただいま」
口からその言葉が出た瞬間、私は泣きそうになった。
帰ってきてしまった。
自分から。
忍はすぐには近づかなかった。
少し距離を置いたまま、私の顔を見ている。
「怒ってる?」
私は首を振った。
「怒ってるっていうより……怖い」
「うん」
「全部、怖い」
「うん」
忍は素直に頷いた。
「ごめんね」
「ごめんで済むことじゃないよ」
「わかってる」
その会話が、あまりにも静かで、逆に涙がこぼれた。
「でも……」
「うん」
「離れてみて、わかったの」
言葉を探しながら、私はようやく顔を上げた。
忍の目はまっすぐ私を見ていた。
「忍がいない方が、もっと怖かった」
その一言を口にした瞬間、何かが決定的に壊れた気がした。
忍が、息を呑む気配がした。
それから、ゆっくりと一歩近づいてくる。
「鈴音」
「おかしいよね」
笑おうとしたのに、うまくできなかった。
「普通なら、もう帰ってこない方がいいってわかってるのに。警察に行くべきなのかもしれないのに。なのに、ホテルにいても、ずっと落ち着かなくて……ただ、忍のことばっかり考えてた」
涙が次々に落ちる。
「怖いのに、会いたかった」
忍の表情が、少しずつ歪む。
泣きそうにも見えた。
「……それ、言っていいの」
「よくないと思う」
「じゃあ、言わないで」
「でも本当だもん」
私は泣きながら笑った。
ひどくみっともない顔をしていると思った。
「私も、たぶん、もう普通じゃない」
忍がそこで初めて、私に触れた。
壊れ物に触れるみたいに、そっと頬に手を添える。
「鈴音」
「うん」
「帰ってきてくれて、うれしい」
「……うん」
「もうどこにも行かない?」
その問いは、ずっと昔から変わらない。
十歳の頃、布団の中で手を握られた夜から、何も変わっていない。
ただ、その意味だけが変わってしまった。
私はしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「行かない」
「ほんとに?」
「うん」
「俺が、怖くても?」
胸が痛んだ。
でも私は目を逸らさなかった。
「怖いよ」
「うん」
「でも、忍がいなくなる方が、もっと嫌」
そう言うと、忍は本当に泣きそうな顔をした。
その顔を見るのは、たぶん初めてだった。
「……鈴音」
「だから」
私は自分から一歩近づいた。
忍の胸に額をつける。
そこから聞こえる心臓の音が、少し早かった。
「もう、いいよ」
「いいって?」
「閉じ込められても」
口にした自分の言葉に、自分でぞっとする。
でも、もう止まれなかった。
「忍の腕の中にいると、私、安心しちゃうの」
忍の体がわずかに震えた。
「ほんとに?」
「うん」
「後悔しない?」
「するかもしれない」
「それでも?」
「それでも」
忍はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと私を抱きしめる。
きつすぎない。
逃がさないけれど、壊さない力。
その腕の中にいると、やっぱり息がしやすかった。
おかしい。
間違っている。
そんなことは、最初からわかっている。
でも、愛されなかった時間も、どこにも居場所がなかった記憶も、忍の腕の中にいる間だけは少し静かになる。
それが救いであると同時に、檻なのだとしても。
忍が私の髪に顔を埋めたまま、掠れた声で言う。
「もう、誰にも触らせない」
「うん」
「鈴音も、俺以外いらないって言って」
私は少しだけ目を閉じた。
ここで拒めば、たぶんまだ戻れるのだろう。
でも、戻りたいとは思えなかった。
「……いらない」
自分の声が、ひどく遠く聞こえる。
「ほんと?」
「うん」
「俺だけ?」
「忍だけ」
そう言うと、忍はようやく安堵したように息を吐いた。
それから、確かめるみたいに私の唇に触れた。
やさしいキスだった。
やさしいのに、ひどく罪深い気がした。
それでも私は、目を閉じた。
数日後、本屋には辞めると伝えた。
店長は残念そうにしてくれたし、日高さんには会わなかった。
最後に届いた短いメッセージには、
無理しないでください
とだけあった。
私は返信しなかった。
できなかった。
家へ帰ると、忍が台所に立っていた。
珍しくエプロンをして、ぎこちない手つきで野菜を切っている。
「危ないよ」
「鈴音が遅いから」
「遅くないでしょ」
「遅い」
「ほんと、わがまま」
「知ってる」
そんな会話をしながら隣に立つ。
包丁を持つ忍の手に、自分の手を重ねて教える。
昔、宿題を見てやっていたみたいに。
窓の外では、夕暮れがゆっくりと沈んでいく。
静かな家だった。
もう叔父も叔母もいない。
私たちを咎める人も、引き離す人もいない。
そのことを恐ろしいと思う。
同時に、ほっとしてしまう。
「鈴音」
「なに?」
「ただいまって言って」
帰ってきたばかりでもないのに、忍が言う。
私は少しだけ笑ってしまった。
「……ただいま」
「おかえり」
忍が満足そうに笑う。
たぶん私たちは、どこかでとっくに壊れていた。
母を亡くした日からかもしれない。
叔父夫婦の冷えた家で、忍だけが私の手を握ってくれたあの夜からかもしれない。
それが愛だったのか、執着だったのか、もううまく分からない。
ただひとつ分かるのは、私はもう、この檻の外で生きていく自分を思い描けないということだった。
忍の視線は今日もまっすぐ私に向いている。
独り占めしたいという欲と、壊さないように抱え込むやさしさが、同じ顔をしてそこにある。
怖い。
でも、うれしい。
逃げたい。
それでも、ここにいたい。
そんな矛盾を抱えたまま、私は忍の作りかけの夕飯を手伝う。
隣に立つと、彼は安心したように少しだけ肩の力を抜く。
この家の中だけが、私たちの世界だった。
歪んでいて、狭くて、誰にも祝福されない世界。
それでも彼の腕の中だけが、私にとって唯一、帰ってこられる場所だった。




