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あなたの檻で、生きていく  作者: 瑠璃くちの


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二人きりの家で、やさしく壊れる(中編)


 叔父と叔母の葬儀は、冷たい雨の日だった。

 朝から空が低く、薄い雲が街じゅうを押し潰すみたいに垂れ込めていた。式場の屋根を打つ雨音が絶えず耳に残って、焼香の匂いも、黒い服の人たちのざわめきも、どこか現実味がなかった。

 私は喪服の袖口を握りしめたまま、何度も息を整えていた。泣いていないわけではない。ただ、あまりに急な出来事すぎて、悲しみがちゃんと形にならなかった。

 隣では、忍が俯いていた。

 黒いネクタイをきっちり締めた横顔は、まだ高校生なのに妙に大人びて見えた。時折肩を震わせ、目元を押さえている。周囲から見れば、突然両親を失った哀れな少年そのものだった。

「しのぶ、大丈夫?」

 小声で声をかけると、忍はゆっくり顔を上げた。

 目は赤い。頬も濡れている。

「……大丈夫じゃない」

「うん……そうだよね」

「鈴音、どこにも行かない?」

 私は少しだけ目を見開いた。

 こんな場所で、最初にそれを確かめるのだと思った。

「行かないよ」

「ほんとに?」

「うん。今日は、ずっと一緒にいる」

 そう答えると、忍はようやく少し息をついたようだった。けれどその安堵の仕方が、両親を亡くした悲しみよりも、私を引き留められたことへのものに見えてしまって、胸の奥に小さな棘が立った。

 式のあと、親戚たちが控室で今後の話を始めた。

「あの子たち、これからどうするの」

「家は残るとしても、未成年だけじゃ……」

「施設ってわけにもいかないでしょうけど」

 その言葉に、体が強張る。

 “施設”という単語だけで、白い壁と消毒液の匂いが一気に蘇る。

「私、近くの大学に進学するつもりなので……」

 気づけば口を開いていた。

「その、通学もできますし、家のこともやれます。だから……」

「鈴音」

 低い声で名前を呼ばれた。

 見ると、遠縁だという男性が難しい顔をしていた。

「気持ちはわかるが、お前一人でどうにかできることじゃない」

「でも、忍を一人にするわけには……」

 言いかけたとき、隣の忍が私の袖をぎゅっと掴んだ。

「俺は、鈴音といる」

 ぽつりと落とされた声に、その場の全員が一瞬静かになる。

「忍……」

「知らない家はいやだ。知らない人もいやだ」

 忍は涙の滲んだ目で周囲を見た。

「鈴音がいるなら、ここでいい。ここがいい」

 親戚の女性が困ったように言う。

「でもねえ、忍くん。そんなわけにも」

「いやだ」

 その言い方は子どもの駄々にしか聞こえないはずなのに、なぜか私は背筋が冷えた。

 拒絶が、あまりに真っ直ぐだったからだ。

 結局、遠縁の男性が戸籍上の後見を引き受ける形になり、私たちは家に残れることになった。月に数度様子を見に来ること、困ったことがあればすぐ連絡すること、それが条件だった。

 話がまとまったあと、忍はずっと私の隣から離れなかった。

 焼香に立つときも、式場を出るときも、傘を差して雨の中を歩くときも、私の腕が触れ合うほど近くにいる。

「忍、手、冷たいよ」

「鈴音があったかいから」

「そんなこと言って……風邪ひくよ」

「ひいたら看病してくれる?」

「するけど」

「じゃあいい」

 少しだけ笑ったその顔は、どこから見ても年相応の男の子だった。

 なのに、その笑みの奥にあるものをうまく読めなくて、私は目を逸らした。

 家に戻った夜は、ひどく静かだった。

 叔父の咳払いも、叔母が台所で鍋をかき回す音もない。家そのものが、急に広くなってしまったようだった。

 仏間に遺影を置き、線香をあげ、忍と向かい合って座る。

 煙が細く立ち上るのを見つめていると、忍がぽつりと呟いた。

「鈴音」

「うん?」

「これから、ずっと二人だね」

 やはりその言葉だった。

 病院で耳元に落とされたのと同じ響きで、今度ははっきりと。

「……そう、だね」

 答えながら、自分の声が少し硬くなるのがわかった。

「嫌?」

「え?」

「二人なの、嫌?」

「そんなことないよ。ただ……」

「ただ?」

 忍が小さく首を傾げる。

 私は言葉を探して、結局うまく見つけられなかった。

「急だったから。まだ、ちゃんと整理できなくて」

「俺は、鈴音がいるならいい」

 その即答に、息が詰まりそうになる。

「忍……おじさんとおばさんのこと」

「悲しいよ」

 言葉は間違いなくそうだった。

 けれどその顔に浮かんでいるものは、悲しみだけには見えなかった。泣き腫らした目の奥に、奇妙な落ち着きがあった。

「悲しいけど、鈴音がいるから平気」

「平気って……」

「だって、これから誰にも鈴音を取られない」

 その瞬間、ぞくりとした。

 思わず黙り込んだ私に、忍はすぐに笑った。

「あ、ごめん。変な言い方した」

「……ううん」

「でも、本音だよ」

 その“本音”が、なぜだか怖かった。

 けれど私は、その怖さを見ないふりをした。

 見てしまえば、たった一人になってしまう気がしたから。



     

 叔父夫婦がいなくなってからの生活は、思っていたよりも忙しかった。

 朝は私が早く起きて、簡単な朝食を作る。洗濯機を回し、ゴミをまとめ、忍を起こす。学校に行って、帰ってきたら買い物をして、夕食を作って、風呂を掃除して、食器を洗う。

 やることは山ほどあった。けれど忙しさは、余計なことを考えずに済むという意味ではありがたかった。

 忍は思った以上に素直に私の言うことを聞いた。

 食事も残さず食べたし、洗濯物を畳んでくれることもあった。家のことも進んでやってくれるようになった。けれど、その代わりのように、私から離れなくなった。

「鈴音、今日何時に帰るの?」

「今日は補習ないから、四時前かな」

「じゃあ迎えに行く」

「え、いいよ。寒いし」

「やだ。行く」

「忍……」

「だって心配だもん」

 そんなやり取りが増えた。

 最初は、両親を失ったばかりだからだと思っていた。甘えたいのだと。無理もないと、自分に言い聞かせた。

 けれど忍の“心配”は、少しずつ形を変えていった。

「明日の放課後、先生に進路の相談したいんだけど」

 ある日の夕飯時、そう言うと、忍が箸を止めた。

「進路?」

「うん。前に言ってた大学、やっぱり気になるから」

「遠いとこ?」

「……そう」

「行くの?」

 私は味噌汁のお椀を両手で持ったまま、小さく息をついた。

「まだ決めてない。片道二時間以上かかるし、学費のこともあるし」

「行かないで」

「忍」

「行かないでよ」

 あまりにまっすぐな声だった。

 私は困って笑おうとしたけれど、忍の顔を見て笑えなくなる。

 泣きそうな目をしていた。

「鈴音、いなくなったら、俺ほんとに無理だから」

「そんなことないよ。今はそう思ってても、そのうち」

「思わない」

 ぴしゃりと言い切られる。

「ずっと思う。鈴音がいないなら、何もいらない」

「忍、そういうこと言わないで」

「どうして? 本当なのに」

「大丈夫だよ。ここから通うつもりだから…」

 私は返事に詰まった。

 本当なのに、と言われると、それ以上否定できなかった。

「……とりあえず、ご飯食べよう」

 話を切るように言うと、忍は不満そうに眉を寄せたまま、それでも箸を持ち直した。

 その横顔に、ほっとする自分がいた。

 私が必要とされている。

 それを嬉しいと思ってしまう自分に、私は気づかないふりをした。



     

 結局私は、遠くの大学を諦めた。

 後見人になった親戚は「無理なく通えるところにしておけ」と当然のように言い、私も強く反論しなかった。できなかった、の方が近いかもしれない。

 合格通知が届いた日、忍は自分のことみたいに喜んだ。

「やったじゃん、鈴音」

「うん。よかった……」

「これで毎日早く帰って来れるね?」

「家から近いんだから、なるべく早く帰って来るよ」

「絶対?」

 忍が椅子ごとこちらへ寄ってきて、じっと顔を覗き込む。

 その距離の近さに少し身を引くと、忍はすぐ気づいて口を尖らせた。

「なに、その反応」

「近いよ」

「だめ?」

「だめじゃないけど……」

「ならいいじゃん」

 ふっと笑って、忍は私の肩に額を預けた。

「うれしい。鈴音といられる時間が減らなくて」

 その声を聞いていると、大学へ進むことが“世界を広げること”ではなく、“忍のもとへ毎日帰ること”にすり替わっていくようだった。

     



 大学生活は、想像していたものとは少し違った。

 新歓のビラを配る先輩たち。

 楽しそうに写真を撮る新入生。

 授業が終わったらみんなで食堂へ行こうと誘い合う声。

 本当なら、その輪の中へ少しずつ入っていけたのかもしれない。

 けれど私は、どうしても足が向かなかった。

 理由はひとつではない。

 家計のこともあったし、叔父夫婦を失ってまだ時間が経っていないこともあった。

 でも、それだけではなかった。

 授業終わりにスマホが震える。

『何時に帰る?』

 忍からだ。

 まだ高校生のくせに、まるで私の帰宅時間を管理するみたいに毎日連絡してくる。

『今日は二限までだから三時くらい』

 そう返すと、すぐに既読がついた。

『寄り道しないで?』

 私は少しだけ画面を見つめてから、

『図書館だけ、少し』

 とだけ送った。

「朝倉さん、これからカフェ行かない?」

 同じ授業を取っている女の子に声をかけられて、私は反射的に首を振っていた。

「ごめん、家に帰らないと」

「そっか。じゃあまた今度ね」

 笑顔で手を振られ、私も曖昧に笑い返す。

 また今度。

 たぶん、その“今度”は来ないのだろうと思いながら。

 家に帰ると、玄関先まで忍が出てくる。

「おかえり」

「ただいま」

「遅かったね」

「図書館に寄るって言ったでしょう」

「ほんとに?」

 靴を脱ぐ手が少し止まる。

 疑われるようなことは何もしていないのに、その問いかけだけで胸がざわつく。

「……ほんとだよ」

「ならいい」

 忍はそこでやっと笑う。

 そして当然みたいに私の鞄を持っていく。

「今日、何食べたい?」

「鈴音が作るならなんでもいい」

「それ困るなあ」

「じゃあ、オムライス」

「子どもっぽい」

「鈴音が作るオムライス、好きだから」

 そんなやり取りをしているうちに、息苦しさは薄れていく。

 代わりに、妙な安堵が胸に広がった。

 帰る場所がある。待っている人がいる。必要としてくれる人がいる。

 それだけで満たされてしまう自分を、私はまだ深く考えなかった。

     



 バイトをしようと思ったのは、大学一年前期の終わり頃だった。

 学費は奨学金と母が遺した僅かな貯金でどうにかなっていたけれど、それでも余裕はない。自分の服くらいは自分で買いたかったし、何より家の中と大学だけの往復が、少しずつ息苦しくなっていた。

 夕食のあと、意を決して切り出す。

「私、バイトしようかなと思ってる」

 その瞬間、忍の手が止まった。

 食後の湯飲みを持っていた指先が、ぴたりと動かなくなる。

「……なんで?」

「なんでって、普通に。お金もほしいし、空いた時間もあるし」

「いらないでしょ」

「いるよ。教科書代とか、化粧品とか、いろいろ」

「俺がなんとかする」

 思わず笑ってしまいそうになった。

「忍、まだ高校生じゃない」

「両親が遺した遺産もあるし、鈴音は働かなくていい」

「何言ってるの」

 軽く流そうとしたのに、忍は真顔のままだった。

「本気だよ」

「そこまで甘えるわけにいかないよ」

「鈴音が外に出なくて済むならむしろ甘えてほしい」

「外に出るくらい、普通でしょう」

「普通じゃなくていい」

 その言い方に、私は笑みを消した。

「忍」

「俺、やだ」

「何が?」

「鈴音が、知らない場所で、知らない人と仲良くなるの」

 子どもじみた独占欲だと思えば、それまでなのかもしれない。

 でも、もう子どもではない声で言われると、響きが変わる。

「バイトくらいで大げさだよ」

「大げさじゃない」

「忍」

「ねえ、鈴音」

 忍は椅子を引いて立ち上がると、私のそばへ来て、正面から覗き込んだ。

「俺じゃ足りないの?」

 胸の奥が、どくんと鳴った。

「そういう話じゃ……」

「そういう話だよ」

 低く、静かな声だった。怒鳴っているわけではない。

 なのに、逃げ場がなくなるような圧があった。

「家に帰ったら俺がいる。話も聞くし、なんでもする。鈴音が困ること、全部減らす。だから、それでよくない?」

「でも……」

「鈴音」

 名前を呼ばれるだけで、言葉が止まる。

「お願い。バイトしないで」

 その“お願い”は、懇願みたいでいて、ほとんど命令に近かった。

 それでも私は、その必死さに胸を締めつけられた。

「……そこまで言うなら、ちょっと考える」

 そう答えると、忍はすぐに表情を和らげた。

「ほんと?」

「うん」

「約束?」

「約束……」

 言い終わる前に、忍が私を抱きしめた。

 突然で、呼吸が浅くなる。

 広くなった肩。首筋に触れる息。昔みたいに無邪気に甘えてくるには、もう近すぎる体温だった。

「鈴音、大好き」

 耳元で囁かれたその言葉の意味を、私は聞き返せなかった。

 結局、バイトの話は立ち消えになった。

     



 サークルにも入らなかった。

「朝倉さん、文芸サークルどう? 朝倉さん本好きそうだし」

「うーん、ごめん。家がちょっと……」

「そっか。忙しいんだね」

 そう言って笑ってくれる人たちの中に、私は最後まで入っていけなかった。

 授業が終わるたび、スマホが震えるからだ。

『もう終わった?』

『どこにいる?』

『早く帰ってきて』

 画面を開くたび、胸の奥がざわつく。

 でも同時に、安心してしまう。

 私の帰りを待っている人がいる。

 誰かの一日の中で、私はちゃんと必要とされている。

 その感覚を、私は手放せなかった。

 大学二年の頃には、忍はすっかり背が高くなっていた。家の中ですれ違うたび、彼がもう“弟みたいな子”ではないことを思い知らされる。

 けれど、私たちの距離はむしろ昔より近かった。

 夜、リビングでレポートを書いていると、忍がソファの端からじりじり寄ってくる。

「なに」

「別に」

「別に、って顔じゃないよ」

「鈴音、こっち向いて」

「いま無理。課題やってる」

「五分だけ」

「五分って……」

「三分でもいい」

 呆れて笑うと、忍は満足したように私の肩にもたれた。

「重い」

「鈴音が細いんだよ」

「そういう問題?」

「問題」

 そんな他愛ない会話の途中で、ふと気づくことがある。

 こうしている時間が、私は好きなのだと。

 窮屈なくせに、落ち着く。

 邪魔されているはずなのに、嬉しい。

 それが何より怖かった。




     

 二年後、忍は私と同じ大学に入った。

 合格発表の日、家に帰るなり満面の笑みで抱きつかれた。

「受かった」

「え、ほんとに?」

「ほんと」

「すごい、おめでとう……!」

 純粋にうれしくて言ったはずなのに、次の瞬間には違う感情が胸に広がっていた。

 ああ、本当に来るんだ。

 大学にまで。

 忍は私の腰に腕を回したまま、嬉しそうに笑った。

「これで毎日一緒だね」

「……家でも毎日一緒じゃない」

「足りない」

 冗談みたいに言われて、私は曖昧に笑うしかなかった。

 大学での忍は、想像以上に目立った。

 顔立ちが整っているせいもあるし、どこか人を惹きつける静かな雰囲気があるせいもあった。けれど本人は、友達を作ることにも、大学生活を広げることにもほとんど興味を示さなかった。

「忍くんって、彼女いないの?」

 食堂で女子にからかわれているのを見かけたことがある。

 私は少し離れた場所で聞こえないふりをしていた。

 すると、忍は笑って答えた。

「いるようなものかな」

「え、なにそれ。幼なじみとか?」

「そんな感じ」

 こちらを見もせずにそう言うのが、逆に怖かった。

 講義が終わると、忍は当然のように私の教室まで来た。

「鈴音、帰ろ」

「まだノートまとめたいんだけど」

「家でやればいい」

「図書館寄りたい」

「俺も行く」

「忍……」

「だめ?」

 だめ、と言えないことを知っている目だった。

 周囲から見れば、仲の良い従姉弟だろう。実際、そう説明していた。

 けれど、私たちの間に流れる空気は、少しずつそれだけでは済まなくなっていた。

     



 就職活動の時期が近づいてきた頃、私は一度だけ、本気で家を出たいと思った。

 大学のキャリアセンターで企業案内を見て、県外の出版社の資料を手に取ったときだ。

 もしここに就職したら。

 もしこの家を離れたら。

 そんな想像が、ほんのわずかに胸を浮き立たせた。

 その日の夜、夕飯のあとに話を切り出す。

「そろそろ就活、ちゃんと考えないとなって思ってる」

 向かいに座る忍が、味噌汁を飲みかけたまま止まった。

「就活?」

「うん。もう大学四年だし」

「働くの?」

「そりゃそうでしょ」

「なんで?」

「なんでって……」

 思わず苦笑してしまう。

「卒業したら働くのが普通だよ」

「普通じゃなくていいって前にも言った」

「前の話とは違うよ」

「違わない」

 忍はお椀を置くと、じっと私を見た。

「鈴音は家にいればいい」

「何言ってるの」

「本気で言ってる」

「冗談に聞こえないのが困るんだけど」

「困らなくていいよ。俺が養うから」

 私は一瞬、言葉を失った。

 まだ大学二年のくせに、何を言っているのだろう。そう思うのに、笑えなかった。

「忍、まだ学生だよ」

「卒業したら働く」

「その前は? 私、どうやって生きるの」

「今まで通りでいい」

「それじゃだめだから言ってるの」

「だめじゃない」

「だめだよ」

 少し強めに返すと、忍の眉がぴくりと動いた。

「どうして」

「どうしてって……自分で働いて、自分のお金で生活できた方がいいに決まってるでしょう」

「俺がいるのに?」

「忍がいることと、それとは別」

「別じゃない」

 静かだった声が、少しだけ低くなる。

「鈴音、俺じゃ頼りない?」

「そういうことじゃないって、何回言えば」

「じゃあ何」

 忍は立ち上がり、食卓の向こうからこちらへ回り込んできた。

 逃げ場を塞ぐみたいに、私の椅子の背に手を置く。

「鈴音は、誰かに必要とされたいんでしょ」

 どくり、と心臓が跳ねた。

「……なに、それ」

「違う?」

「違わないけど……」

「なら、俺で足りるじゃん」

 あまりにまっすぐで、あまりに残酷な言い方だった。

 私は唇を噛んだ。

「鈴音が外で働いて、知らない人と笑って、知らない場所で居場所を作るの、俺いやだよ」

「忍」

「家にいて。俺の帰り待ってて」

 忍は少しかがんで、私と目線を合わせた。

「そうしてくれるだけで、俺は頑張れるから」

 その言葉は、ずるかった。

 私がずっと欲しかったものを、正確に差し出してくる。

 必要とされること。

 待たれること。

 いてほしいと言われること。

 そんなふうに求められたことなんて、これまでほとんどなかった。

「……でも、怖いよ」

 ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。

「何が?」

「忍の言うこと、全部聞いてたら……私、自分で何も決められなくなりそうで」

 忍は少しだけ目を見開き、それから、驚くほどやさしい顔で笑った。

「決めなくていいよ」

「え……」

「決めるの、苦手でしょ。鈴音」

 否定できなかった。

 忍は私の髪に触れ、耳の後ろへそっと流した。

「俺が決める。鈴音が困らないようにする。寂しくないようにする。だから、家にいて」

 怖い。

 そう思った。

 でも同時に、どうしようもなく甘かった。

「……少し、考えさせて」

「うん」

「すぐには答えられない」

「待つよ」

 そう言いながら、忍は私の額に唇を寄せた。

 触れたか触れないかの軽いキスだった。

 私は息を止めた。

 忍は何も言わず、ただ微笑んだ。

「鈴音が俺のとこにいてくれるなら、それでいい」

 その夜、私はほとんど眠れなかった。



     

 結局、就職活動は本気では進められなかった。

 エントリーシートを書きかけてはやめ、説明会の予約をしては取り消した。

 誰かに止められているから、だけではない。

 本当は自分でも、外へ出ていくことを恐れていたのだと思う。

 もし家を出たら。

 もし忍のいない生活に戻ったら。

 私はちゃんと息ができるのだろうか。

「ねえ、鈴音」

 ある晩、ソファでぼんやりしていると、忍が私の膝に頭を乗せてきた。

「重い」

「そんなこと言わないで」

「ほんとのことだし」

「好きなくせに」

 何気ない口調で言われて、私は言葉に詰まる。

「……そういう言い方、ずるい」

「ずるくないよ」

 忍は私を見上げて笑った。

「鈴音、俺のこと好きでしょ」

「従弟として、なら」

「うそ」

「うそじゃない」

「じゃあ、なんで振り払わないの」

 骨ばった指が私の手首を撫でる。

 ぞくりとしたのに、手を引けない。

「なんで、こうやって触ってても怒らないの」

「……忍」

「なんで、就活もやめたの」

 私は黙った。

 答えたくなかった。答えてしまえば、もうごまかせなくなる気がした。

「鈴音」

 名前を呼ばれる。

 やさしい声だった。

「俺が必要だからでしょ?」

 否定の言葉は、喉の奥でほどけた。

 代わりに私は、忍の髪をそっと撫でた。

 それだけで忍は満足したみたいに目を細める。

「……うれしい」

 小さく呟く声に、胸が締めつけられた。

 怖い。

 でも、うれしい。

 その矛盾を抱えたまま、私は忍を拒めなかった。

 たぶんこの頃にはもう、私はかなり深いところまで来てしまっていたのだと思う。



     

 春の終わり、大学からの帰り道。

 駅前の信号で立ち止まっていると、背後から声がした。

「鈴音」

 振り向くと、忍がいた。

 講義は午前で終わるはずではなかっただろうか、と一瞬思う。

「どうしたの? 今日、午後も授業じゃなかった?」

「休講になった」

「そうなんだ」

「鈴音は?」

「図書館寄ってた」

 そう答えた瞬間、忍の目が少しだけ細くなった。

「誰と?」

「ひとりだよ」

「ほんとに?」

「ほんとだってば」

 思わず笑うように返すと、忍はしばらく私の顔を見ていた。

 やがてふっと肩の力を抜き、私の鞄を奪うみたいに受け取る。

「帰ろ」

「うん」

「今日は何食べたい?」

「忍が決めて」

「じゃあハンバーグ」

「昨日も肉だったよ」

「鈴音、最近ちゃんと食べてないから」

「食べてるよ」

「足りない」

 そんな何気ない会話の中に、監視みたいなものが混じっている気がして、私は少しだけ息苦しくなった。

 でも、家に帰ってしまえば、その息苦しさはまた薄れていく。

 夕飯を作って、二人で食べて、片づけをして、同じテレビを見て、夜になれば自然に同じ空間にいる。

 その繰り返しは、もう生活というより習慣で、習慣というより祈りのようだった。

 壊したくない。

 壊れるのが怖い。

 そう思うこと自体が、もう十分におかしかったのかもしれない。

     



 その年の冬、忍がベッドの端に腰掛けて言った。

「鈴音」

「なに?」

「卒業したら、ずっと家にいる?」

 私は布団の上で本を閉じた。

 質問の形をしているけれど、問いではないのだとわかってしまう。

「……そうなるかも」

「就職しない?」

「まだ、わかんない」

「しなくていい」

「忍」

「俺、ちゃんと働くから」

 まっすぐな目で言われる。

 いつの間にか、あの甘えん坊で泣き虫だった子どもは、こんな顔をするようになっていた。

「鈴音は家にいて、俺の帰り待ってて。ご飯作って、おかえりって言って」

「それ、まるで……」

「夫婦みたい?」

 先に言われて、息が止まる。

 忍は笑っていなかった。

 冗談めかした響きすらない。

「いや?」

 私は答えられなかった。

 嫌だと言えない。でも、いいとも言えない。

 ただ黙り込む私を見て、忍はふっと目を細めた。

「鈴音、そういう顔するとこ好き」

「……どんな顔」

「困ってるくせに、俺を突き放せない顔」

 その一言が、あまりに的確で、何も言えなくなる。

 忍はゆっくり立ち上がると、私の頬に手を添えた。

 指先は冷たいのに、触れられたところだけ熱くなる。

「大丈夫」

「何が……」

「鈴音が、何も決めなくて済むようにするから」

 そのやさしさが、ほとんど檻だった。

 それでも私は、その手を振り払わなかった。

 振り払えなかったのか、振り払いたくなかったのか、もう自分でもわからない。

 ただ、忍の手の中にいると、不思議と落ち着いた。

 誰にも必要とされなかった過去が、そこにいる間だけ静かになる気がした。

 その代わりに、少しずつ何かを失っていることも、本当はわかっていた。

 わかっていて、見ないふりをしていた。

 忍が笑う。

 私の名前を呼ぶ。

 私の帰りを待つ。

 私だけを見ている。

 その事実が、どうしようもなく甘かったから。

 たぶん、狂っていたのは忍だけじゃなかった。



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