この子だけが、私に触れてくれた(前編)
母が死んだ日のことを、私はいまでもよく覚えている。
冬の匂いがしていた。
窓の隙間から入り込む風が冷たくて、台所の流しには洗いかけの茶碗が二つ置かれたままだった。母は朝から少し苦しそうで、それでも「大丈夫」と笑って、私の髪を撫でてくれた。その指先は細く、骨ばっていて、でも不思議とあたたかかった。
十歳の私は、母が病気だということを、ちゃんとはわかっていなかったのだと思う。
よく寝込むこと。すぐに息が上がること。薬を飲んでいること。仕事を長く続けられないこと。そんなことは当たり前みたいに日常にあって、私はそれを“うちの普通”だと思っていた。
父の記憶はほとんどない。
小さな頃に離婚したのだと母は言っていたし、その人の名字を名乗り続けていることに、母自身も特別な意味を持たせているようには見えなかった。朝倉という名字が、私と母のものだった。ただそれだけだった。
だけど、その日を境に、私はひとりになった。
救急車の音。
慌ただしい大人たちの声。
見知らぬ誰かに肩を抱かれて、私は何度も「お母さんは」と尋ねた。誰もすぐには答えてくれなかった。けれど、答えを聞かされる前からわかっていたのかもしれない。あの部屋から、母の気配がきれいに消えてしまっていたから。
母がいなくなってからの時間は、色を失ったみたいだった。
役所の人に連れられて行った施設の壁は、妙に白かった。消毒液の匂いがして、廊下を歩く足音だけがやけに響く。案内された部屋には、年上の女の子が二人いて、私が持ってきた小さなボストンバッグをじろじろ見た。
「それだけ?」
最初にそう言われた。
何を答えればいいのかわからなくて黙っていると、もう一人が鼻で笑った。
「かわいそ。ほんとに誰もいないんだ」
その言葉が、胸の真ん中に小さな針みたいに刺さった。
施設の先生たちは決して悪い人ではなかった。けれど、優しいことと、あたたかいことは、きっと同じではない。
朝は決まった時間に起きて、決まった時間に食事をして、決まった時間に眠る。名前を呼ばれても、それは大勢のうちのひとりとしてだった。私は間違ったことをしないように、できるだけ静かにしていた。泣くのも嫌だった。泣けば心配されて、心配されれば可哀想な子として見られる。その視線がたまらなく苦しかった。
夜になると、母のことを思い出した。
咳き込む音。煮物の薄い味。洗濯物を畳む手つき。私の前ではいつも少し無理をして笑っていたこと。
会いたいと思った。
会いたいと思うたび、もう二度と会えないのだとわかって、布団の中で息を殺した。
そんな生活が幾日か続いてから、ある日、職員さんが私を呼んだ。
「朝倉さん、親戚の方と連絡が取れたの。お母さんの弟さんにあたる方でね、引き取ってくださることになったのよ」
そのときの私は、きっとものすごくわかりやすく顔を上げたのだと思う。
親戚。
引き取る。
その二つの言葉だけで、目の前が少しだけ明るくなった気がした。
施設を出られる。
もう、あの白い廊下を歩かなくていい。
荷物を勝手に漁られたり、眠れない夜に枕元でひそひそ話されることもない。
行った先でどんな生活が待っているのかなんて、何も知らなかったのに、私はそれだけで安心してしまった。
子どもだったのだと思う。
それでも、期待せずにはいられなかった。
迎えに来たのは、母の弟だという男の人だった。
叔父は無口で、車の中でもほとんど話さなかった。助手席に座る叔母も同じで、バックミラー越しに私を見る目は、他人を測るように静かだった。
やっとひとつだけかけられた言葉は、「荷物、それだけ?」だった。施設で言われたのと同じ言葉だった。
「はい……」
答えると、叔母は小さく息をついた。
「そう」
たったそれだけなのに、歓迎されていないことは、子どもの私にもわかった。
家は、母と暮らしていたアパートよりずっと大きかった。二階建てで、門柱には表札が出ている。榊、と彫られた文字を見上げたとき、私は自分だけ違う名字なのだという事実を、妙にはっきり意識した。
「今日からここがあなたの家よ」
玄関先で叔母はそう言った。
けれどその声に、“おかえり”の響きはなかった。
通された部屋は一階の和室で、押し入れの匂いが少し湿っていた。机と小さな箪笥と、畳まれた布団がひと組。必要なものだけを置きました、というような部屋だった。
「変な気は起こさないでちょうだいね」
荷物を下ろした私に、叔母は唐突に言った。
「……え?」
「この家に馴染めないからって、学校で困らせたりしないで。あなたのお母さんみたいに」
その意味は、そのときはまだよくわからなかった。
ただ、母の名前が責めるような口調で出されたことだけが悲しかった。
居間からはテレビの音がしていた。そこへ、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「お母さん、その子?」
現れたのは、目の大きな男の子だった。私より二つほど年下だと、あとで聞いた。少し癖のある髪が額にかかっていて、白い頬がまだ幼い。
その子は私の顔をじっと見て、それからふっと笑った。
「かわいい」
あまりにまっすぐな言い方で、私は瞬きをした。
母がいなくなってから初めて、棘のない言葉を向けられた気がした。
「忍、失礼でしょ」
叔母がたしなめると、その子——忍は首を傾げた。
「失礼じゃないよ。ほんとのことだもん」
それから忍は、私の前まで歩いてきて、ためらいもなく私の手を取った。
小さくて、熱のこもった手だった。
「ねえ、名前なんていうの?」
「……鈴音」
「すずね」
確かめるみたいに、ゆっくり呼ばれた。
その響きがあまりにやさしくて、泣きそうになった。
「ぼく、忍。しのぶっていうの。よろしくね、鈴音」
——ああ、この子だけだ。
その瞬間、そんなふうに思ったことを、今でも覚えている。
叔父夫婦は、私に対してどこかよそよそしかった。
ご飯はきちんと用意されたし、学校にも通わせてもらえた。服だって最低限は買ってもらえた。暴力を振るわれたわけでもない。
けれど、愛情の気配だけが、そこにはなかった。
私の誕生日を誰も覚えていないこと。
体調を崩しても「熱は?」としか聞かれないこと。
学校の話をしても「そう」で終わること。
忍には向けられる笑顔が、私には向けられないこと。
そういう些細なことの積み重ねが、子どもの心を少しずつ削っていくのだと、その頃の私はまだ知らなかった。
私はただ、“迷惑をかけないようにしよう”と思っていた。
静かにしていれば、ここに置いてもらえる。
役に立てば、邪魔にならない。
そう信じて、皿洗いを覚えて、洗濯物を取り込んで、忍の宿題を見るようになった。
忍は、最初からよく私に懐いた。
「鈴音、見て」
「鈴音、こっち来て」
「鈴音、今日ね、学校でね」
朝も夜も、何かあれば私を呼ぶ。私が台所に立てば隣に椅子を持ってきて座るし、本を読んでいれば肩にもたれかかってくる。寝る前には、まるで儀式みたいに「おやすみ」を言いにきた。
叔母はときどき「忍、あんまりくっつかないの」と言ったけれど、忍は気にも留めなかった。
「だって鈴音、ひとりでいるとさみしそうなんだもん」
そう言って、私の布団に潜り込んできた夜があった。まだ引き取られて間もない頃だったと思う。
その日、私は学校で、提出物の姓が違うことをからかわれた。忍くんと一緒に住んでいるのに榊じゃないんだ、どうして、家族じゃないの、という無邪気な問いに上手く答えられず、笑って誤魔化した。帰ってきても、そのことを誰にも言えなかった。
消灯後、布団の中で目を閉じていると、襖が少しだけ開いて、小さな影が滑り込んできた。
忍だった。
「怒られるよ」
「大丈夫。すぐ戻る」
そう言いながら、戻る気なんてないのが丸わかりで、私の横にぴったりくっついた。
「……どうしたの?」
「鈴音が泣きそうだから」
私は思わず息を止めた。
泣いてなんていない。泣かないようにしていた。なのに、この子にはわかってしまうのだと、そのことが不思議で、少し怖くて、でもどうしようもなくうれしかった。
「泣いてないよ」
「うん。でも、泣きそう」
暗闇の中で、忍が私の手を探って握った。
子どもの手の温度が、凍えていた場所にじんわり滲むみたいだった。
「鈴音がいなくなったら、やだ」
そのときの私は、それを幼い甘えだと思った。
実際、そういうものだったのかもしれない。
けれどその言葉は、不思議なくらい深く胸に沈んだ。
「いなくならないよ」
私は小さな声でそう言って、忍の髪を撫でた。
すると忍は安心したように目を閉じて、やがて私の腕に頬を押しつけたまま眠ってしまった。
その重みが、妙に愛しかった。
私はこの家で、叔父夫婦の愛情を手に入れることは最後までできなかった。
だけど、忍がいた。
その事実だけで、何度も救われた。
母についてのことを知ったのは、中学生になってしばらくしてからだった。
居間の扉の向こうで、叔母と知らない女の人が話しているのを、たまたま聞いてしまったのだ。
「よくまあ、引き取ったものよねえ。あんな姉の娘」
「血が繋がってるからって、何でも許されると思ってたのかしら。借金だけ押しつけて、自分は男と逃げて」
「お父さんとお母さん、どれだけ苦労したか……」
私は廊下で立ち尽くした。
最初、何の話かわからなかった。けれど、“姉”という言葉で、それが母のことだと悟った。
母は家族に借金を残して家を出た。
駆け落ちみたいな形だった。
祖父母が私に会ったこともないのは、そのせいだった。
聞きたくなかった。
でも、耳に入ってしまったものは、もう消せなかった。
母がどれだけ苦しかったのか、私にはわからない。
何があって家を出たのかも、本当のところは知らない。
ただ、母の人生がここでは“迷惑をかけた娘”としてしか語られていないことが悲しかった。そして、その血を引く私は、最初から歓迎されるはずがなかったのだと、妙に納得してしまった。
その夜、食卓で叔父の顔を見ることができなかった。
味噌汁の湯気ばかりを見つめている私に、忍が小さく尋ねた。
「鈴音、具合悪い?」
「ううん」
「うそだ」
じっと見つめられて、私は困ったように笑った。
「なんでもないよ」
忍はそれ以上聞かなかった。
けれど、食事のあとに私の部屋へ来て、黙ったまま隣に座った。
「……聞いちゃったの?」
その一言で、私は顔を上げた。
忍はまだ幼さを残していたけれど、その目だけは妙に静かだった。
「なにを……」
「母さんたちの話」
私は答えられなかった。
代わりに、唇が震えた。
「鈴音は悪くないよ」
迷いなく言い切る声だった。
「でも、お母さんのこと……」
「それでも、鈴音は悪くない」
忍はそう言って、私の手を握った。
小さかった手は、いつの間にか少し大きくなっていた。
「鈴音は鈴音だよ。誰の娘でも、関係ない」
その言葉に、私は泣いてしまった。
母のことを庇ってもらえたわけではない。過去が消えるわけでもない。
それでも、“関係ない”と言ってくれる人がいることが、たまらなくうれしかった。
忍は私が泣きやむまでそばにいてくれた。
それから少しだけ怒ったような声で言った。
「鈴音を泣かせる人、きらい」
まっすぐで、幼い言葉だった。
けれどそのときの私は、その不穏さに気づきもしなかった。
日々はそれでも流れていった。
忍は背が伸びて、声が少し低くなった。
私は高校に入り、制服のスカート丈を気にするようになった。並んで歩くと、昔ほど年の差を感じなくなることに、ふとした拍子に戸惑った。
それでも家の中では、私たちはずっと昔と同じだった。
忍は相変わらず、私をよく呼んだ。
私の隣に座りたがり、買い物にもついてきたがり、夜になると私の部屋の前で足を止めた。
「忍、もう自分の部屋で寝なよ」
高校生になった頃、一度だけそう言ったことがある。
さすがにいつまでも一緒に眠るのはおかしい、と、遅すぎるくらい遅く思い至ったのだ。
すると忍は、しばらく黙ったあとで、「だめ?」と聞いた。
その声音が、子どもの頃と変わらなくて、私は強く出られなかった。
「……たまになら」
そう答えると、忍はうれしそうに笑った。
その笑顔を見て、私は自分が何かを間違えたのかどうか、わからなくなった。
私にはもう、忍のいない生活がうまく想像できなかった。
叔父夫婦は私に冷たいままだったけれど、追い出されずにここで暮らしてこられたのは忍がいたからだと、どこかで本気で思っていたのだと思う。
忍が必要としてくれる。
忍がそばにいてくれる。
それだけで、私は“ここにいていい”気がしていた。
高校三年の秋、進路希望調査の紙を前にして、私ははじめて本気で悩んだ。
行きたい大学はあった。
県外の、少し遠い場所。文学部のある学校で、一人暮らしをするか、寮に入ることになるだろう。先生は「朝倉なら行ける」と言ってくれた。うれしかった。けれど同時に、胸の奥がざわついた。
ここを出る。
忍を残して。
その想像に、罪悪感にも似た痛みが混じった。
そんなとき、夕食のあとで叔父が珍しく私に話しかけてきた。
「高校を卒業したら、家を出ろ」
箸を持つ手が止まった。
「寮でもなんでもいい。高校までは面倒を見る約束だったが、その先まで背負うつもりはない」
淡々とした言い方だった。怒っているわけでもない。ただ、決めていたことを告げただけという顔だった。
「わかりました」
私はそう答えた。
答えるしかなかった。
叔母は味噌汁を飲みながら、こちらも見ずに言った。
「その方がお互い楽でしょうしね」
胸のどこかが、じわりと冷えた。
わかっていたはずなのに、少しだけ期待していたのだと思う。十年近く一緒に暮らしてきたのだから、もしかしたら、ほんの少しは情があるのではないかと。
そんなものは、最初からどこにもなかった。
食卓の向かいで、忍だけが俯いたままだった。
部屋に戻ってから、私は参考書を開いた。文字が目に入らなかった。
寮。家を出る。
それは私にとって自由のはずなのに、なぜだか心が軽くならない。
襖がすっと開いた。
忍だった。
「入るよ」
返事を待たずに中へ入ってきて、私の机の横にしゃがみこむ。最近の忍は、前よりも背が高くなっているせいで、そうして屈む姿に妙な圧があった。
「鈴音、大学、遠くに行くの?」
私は少し迷ってから頷いた。
「まだ決めてないけど……たぶん」
「寮?」
「うん」
忍はしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「やだ」
あまりに素直な拒絶に、私は苦笑しかけた。
「そんなこと言っても」
「やだよ」
もう一度、今度はさっきよりはっきりと言う。
私はその顔を見て、笑えなくなった。
怒っているというより、追い詰められているような目だった。
置いていかれる子どもの顔ではなく、何かを奪われそうな人の顔だった。
「忍」
「鈴音、いなくなったら、俺どうしたらいいの」
その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。
嬉しい、と、思ってしまった自分に気づいて、私は目を伏せた。
「大げさだよ。大学行っても、会えなくなるわけじゃないでしょう」
「違う」
忍は私の膝に額を押しつけた。
子どもの頃の癖そのままの仕草だったけれど、その体はもう子どもではなかった。
「鈴音が、俺のいないところで生きるのがいやだ」
その言い方に、私はわずかな寒気を覚えた。
けれど次の瞬間には、忍の髪に触れてしまっていた。慰めるみたいに、宥めるみたいに。
「まだ決まってないから」
そう言うと、忍は私の制服のスカートを指先でつまみながら、静かに笑った。
「なら、決めないで」
その笑い方に、なぜだか背筋がひやりとした。
十二月に入ってすぐ、事故は起きた。
その日は朝から冷え込みが強くて、吐く息が白かった。
叔父夫婦は、少し離れた親戚の家まで車で出かける予定だった。私は昼まで学校の補習で、忍は家にいた。風邪気味だから休むと言っていたのだ。
行ってきます、と玄関で言った叔母に、私は「いってらっしゃい」と返した。叔父は何も言わなかった。いつものことだった。
それが、最後だった。
昼過ぎ、学校から帰る途中で知らない番号から電話がかかってきた。
応答すると、警察だと名乗る男の人の声がした。車が電柱に衝突し、叔父夫婦が搬送されたこと。身元確認のため、すぐに病院へ来てほしいこと。
何を言われているのか、最初は理解できなかった。
気づけば私は走っていた。冬の空気が喉を切るみたいに痛かった。病院の名前も、どの道を通ったかも曖昧だ。ただ白い建物の前で足がもつれそうになったことだけ覚えている。
案内された部屋で、白い布のかかった二つの台を見た瞬間、世界の音が遠のいた。
警察の人が何か説明していた。居眠り運転の可能性だとか、ブレーキ痕がどうとか、かなりの速度で衝突したとか。けれどひとつも頭に入ってこなかった。
ただ、まただ、と思った。
母がいなくなったときと同じだ。
何かが急に終わってしまう。
準備も、覚悟もさせてもらえないまま、私のいる場所だけが切り取られていく。
私のすぐ後にその場に駆けつけた忍は、私を見るなり泣き崩れた。
「いやだ、いやだ……」
子どものみたいに嗚咽して、私のコートにしがみついてくる。
私はその背中を撫でることしかできなかった。自分だって足元が崩れそうなのに、忍を支えなくてはいけないと思った。そうしなければ、この子は本当に壊れてしまう気がした。
「しのぶ……」
呼ぶと、忍は私の肩に顔を埋めたまま、震える声で言った。
「鈴音だけはいかないで」
「行かないよ」
「ほんとに?」
「うん」
約束するみたいに答えた私に、忍は縋るように腕を回した。
その力が痛いほど強くて、私は少しだけ息を詰めた。
病院を出る頃には、もう夜になっていた。空気はさらに冷え、街灯の明かりがやけに白かった。
迎えの車を待つあいだ、忍はずっと私の手を握っていた。冷たい手のひらだった。なのに、その指先だけが不自然なくらい熱かった。
ふいに、忍が私の耳元で囁いた。
「これからは、ずっと二人だね」
私は一瞬、自分が聞き間違えたのかと思った。
泣いていたはずの声は、驚くほど静かだった。
悲しみの底からこぼれた言葉というより、何かを確かめるような響きだった。
「忍……?」
問い返そうとして顔を見ると、忍はもう一度泣き出した。
さっきまでと同じように、苦しそうに、子どもみたいに。
気のせいだったのかもしれない。
そう思おうとした。
思うしかなかった。
けれど、握られた手の強さだけが、いつまでも離れなかった。




