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あなたの檻で、生きていく  作者: 瑠璃くちの


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鈴音がいれば、それでよかった(忍side)


 朝倉鈴音がうちに来ると聞いたとき、俺は素直にうれしかった。

 当時の俺は八歳で、ひとりっ子だった。

 別にひとりでいるのが嫌いだったわけじゃない。けれど、友達の家に遊びに行って、兄や姉に自然に混ざって喋っているのを見るたび、少しだけ羨ましくなった。年上のきょうだい、というものに憧れていたのだと思う。

「お姉ちゃんって、どんな感じかな」

 夕飯のときにそう言ったら、母は「お姉ちゃんじゃありません」と妙に冷たい声で返した。

「お父さんの姉の娘さん。少しのあいだ預かるだけだから、変に懐かないの」

 その言い方が気に入らなかった。

 来る前から、母は鈴音のことを厄介ごとみたいに扱っていた。父も似たようなもので、新聞をめくりながら「面倒は増やすなよ」と言っただけだった。

 でも、そんなふうに言われるほど、俺は余計に会うのが楽しみになった。

 きっと母たちは、大人の事情でそういう言い方をしているだけなのだろうと、そのときは思っていた。

 実際に会った鈴音は、俺が想像していた“お姉ちゃん”とは少し違っていた。

 もっと明るくて、もっと遠慮なく家の中に入ってくるような子を、勝手に想像していたのだ。

 けれど玄関に立っていた鈴音は、小さなボストンバッグを両手で抱えていて、まるで少しでも場所を取らないようにしているみたいだった。痩せていて、目が大きくて、笑うとたぶんかわいい。でも、その笑顔がひどく控えめだった。

「かわいい」

 思わずそう言ってしまったら、母にたしなめられた。

 でも鈴音は怒らなかった。困ったみたいに少し笑っただけだった。

「……鈴音です」

 小さな声だった。

 俺はすぐにその名前が気に入った。きれいな音だと思った。

「俺、忍。しのぶっていうの。よろしくね、鈴音」

 そう言って手を握ると、鈴音は少しだけ驚いた顔をして、それからそっと握り返してくれた。冷たい手だった。

 ああ、やっぱりうれしい。

 その瞬間、俺はたしかにそう思っていた。

 最初のうちは、鈴音は俺とどう接していいのかわからないみたいだった。

 俺が話しかければ答えてくれる。でも、自分からべらべら喋ることはない。笑うときも少し遠慮がちで、俺の顔色じゃなくて、たぶん両親の方を見ていた。

 どうしてだろう、と子どもながらに思った。

 答えは、わりとすぐにわかった。

 母と父は、鈴音にやさしくなかった。

 別に怒鳴るわけでも、手をあげるわけでもない。けれど、声の温度が違った。俺には「忍、学校どうだった?」と聞くのに、鈴音には「宿題は済んだの」「お皿下げて」としか言わない。俺が少しこぼしても笑って済ませるのに、鈴音が同じことをすると、母は露骨にため息をついた。

 一番最初にむっとしたのは、お菓子のことだったと思う。

 居間で俺だけプリンをもらって、鈴音にはなかった。鈴音は何も言わずに俯いていた。

 俺は半分を皿に分けて、「一緒に食べよう」と言った。鈴音は困ったように「いいよ」と断ったけど、俺がしつこく勧めたら、少しだけ食べてくれた。

 そのあとで母が俺を呼んで、低い声で言った。

「忍、そういうことしなくていいの」

「どうして?」

「甘やかす必要ないでしょ」

 そのとき、初めてはっきり腹が立った。

 なんで。

 どうして鈴音にはだめなんだ。

 同じ家にいるのに。俺があげたいと思っただけなのに。

 たぶん、あれが最初の反抗心だった。

 鈴音はやさしかった。

 ずっと、驚くくらいやさしかった。

 母に冷たい言い方をされても、父に話を聞いてもらえなくても、顔色ひとつ変えずに「はい」と答える。俺が宿題でわからないところを聞けばちゃんと教えてくれるし、風邪を引けば濡れたタオルを持ってきてくれる。学校で嫌なことがあってふてくされていても、何も聞かずにそっと牛乳を温めてくれたりする。

 でも、そんな鈴音がときどき夜になるとひどく疲れた顔をしていることに、俺は気づいていた。

 ある日、廊下で母と父が話しているのを聞いた。

「本当に似てるわよね、あの人に」

「姉さんのことはもう忘れろ。借金だけ押しつけて消えたんだ」

「忍にまで変な情を持たれたら困るのよ」

 意味は半分くらいしかわからなかった。

 でも、それが鈴音の母親の話だということと、父と母が鈴音を“うちの子”ではなく“あの人の娘”として見ていることだけは、子どもの俺にもわかった。

 その日の夜、鈴音は俺の部屋で一緒に折り紙をしていた。

 俺は鶴を作ろうとして失敗して、紙をくしゃっと丸めた。

「忍、もったいない」

 鈴音が笑いながら、その紙を拾って開く。

 指先がきれいだった。細くて、でもあたたかかった。

「鈴音」

「ん?」

「鈴音は、うち嫌い?」

 そう聞いたら、鈴音は少しだけ手を止めた。

 それから、困ったように笑った。

「嫌いじゃないよ」

「うそ」

「うそじゃない」

「じゃあなんで、いつもそんな顔してるの」

 鈴音はびっくりしたみたいに俺を見た。

 そのあと、少しだけ目を伏せる。

「どんな顔?」

「泣きそうな顔」

 言ってから、まずかったかもしれないと思った。

 でも鈴音は怒らなかった。

 少しだけ黙って、それから俺の頭を撫でた。

「忍はよく見てるね」

 その声がやさしくて、胸がぎゅっとした。

「鈴音が泣くの、やだ」

「うん」

「鈴音、悪くないのに」

 何が悪くないのか、そのときの俺にはちゃんと説明できなかった。

 でも、両親が鈴音に向ける冷たさは間違っていると思ったし、鈴音がそれを黙って受け入れているのも嫌だった。

 鈴音は少し目を丸くして、それから泣きそうな顔で笑った。

「ありがとう」

 それだけだった。

 でも、その“ありがとう”がうれしくて、俺はたぶんその日から、鈴音を守りたいと本気で思い始めた。

 最初は、ほんとうに姉みたいなものだった。

 鈴音が本を読んでいれば隣に座ったし、買い物に行くならついていったし、夜になって眠れなければ鈴音の部屋に行った。

「怒られるよ」

「少しだけ」

「……しょうがないな」

 そう言いながら布団を少し開けてくれる鈴音のことが、俺は大好きだった。

 俺が隣に潜り込むと、鈴音は小さく息をついて、それでも追い出さなかった。

 やわらかい匂いがした。シャンプーとか洗剤とか、そういう普通の匂いなのに、なぜだか安心した。

「鈴音、いなくならないでね」

 眠くなりながらそう言うと、鈴音はいつも髪を撫でてくれた。

「いなくならないよ」

 その言葉を聞くのが好きだった。

 でも、ずっと同じままではいられなかった。

 中学生になって、高校生になって、俺は鈴音を“姉”としてだけ見ているわけじゃないと気づいた。

 気づいたくせに、認めたくなかった。

 制服姿の鈴音を見ると胸がざわつく。

 髪を耳にかける仕草に目が離せなくなる。

 同級生らしき男が「朝倉さん、可愛くなったね」と言っているのを聞くだけで腹が立つ。

 そういう感情が普通じゃないことくらい、わかっていた。

 でも、だからといってやめられるものでもなかった。

 鈴音は家の中では相変わらずやさしかった。

 俺のことを気にかけてくれて、帰りが遅ければ心配してくれて、少し元気がないだけですぐ気づく。

「忍、何かあった?」

「別に」

「うそ。機嫌悪い」

「……鈴音のせい」

「え?」

「なんでもない」

 そんなやり取りをしながら、俺はどんどん鈴音のそばが当たり前になっていった。

 当たり前すぎて、失うかもしれないなんて考えたこともなかった。

 それが変わったのは、鈴音が高校三年になった年の夏の終わりだった。

 夜、喉が渇いて台所へ行こうとしたとき、居間から両親の声が聞こえた。

 扉の隙間から漏れる明かりの前で、俺は足を止める。

「卒業したら出ていってもらうしかないでしょう」

 母の声だった。

「大学へ行くなら寮でもなんでも入ればいいのよ」

 心臓が、どくんと大きく鳴った。

「高校までは面倒を見るって話だったからな」

 父が言う。

「これ以上置いておく義理はない。姉さんの娘だからって、いつまでも背負えるか」

「忍にもいい加減、距離を覚えさせないと」

 頭の中が真っ白になった。

 出ていく。

 寮。

 義理はない。

 言葉がうまく繋がらないくせに、その意味だけははっきりわかった。

 鈴音がいなくなる。

 この家から、俺のそばから。

 気づいたら扉を開けていた。

「嫌だ」

 父も母も、驚いた顔でこちらを見る。

「忍、聞いてたの?」

「鈴音を追い出すの、やめて」

「追い出すんじゃない。進学するなら自立しろって話だ」

「違う。父さんたち、鈴音のこと邪魔なだけじゃん」

「忍」

 母の声が鋭くなる。

 でも止まらなかった。

「ずっとそうだった。冷たくして、家族みたいにしないで、それでいらなくなったら出ていけって、そんなのひどい」

「言葉に気をつけろ」

「嫌だ。鈴音、ここにいさせてよ。ずっと一緒でいいじゃん」

 父は呆れたように息を吐いた。

「冗談じゃない。あんな姉の娘をいつまでも置いておけるか」

 その一言で、頭の中の何かが切れた気がした。

 あんな姉の娘。

 父にとっても母にとっても、鈴音はそれでしかない。

 どれだけやさしくても、どれだけ頑張っても、ずっと。

 俺の方が知ってる。

 鈴音がどれだけ我慢して、どれだけ気を遣って、どれだけこの家で息を潜めてきたか。

 父さんも母さんも、何もわかってない。

 その夜、俺は眠れなかった。

 ベッドに入って目を閉じるたび、鈴音のいない家が浮かぶ。

 大学へ行って、寮に入って、知らない誰かと笑う鈴音。

 俺のいないところで生きる鈴音。

 そんなの、無理だった。

 最初は子どもっぽく、ただ駄々をこねているだけだと思っていた。

 でも数日経っても、その考えは消えなかった。むしろ、日に日に輪郭を持っていった。

 父と母がいなければ。

 鈴音を追い出そうとする人がいなければ。

 鈴音はここにいられる。

 それはおかしい考えだと、たぶんどこかではわかっていた。

 でも同時に、ひどく自然な結論にも思えた。

 だって父も母も、鈴音を大切になんてしていない。

 鈴音はここにいた方がいい。俺がいる。俺が守れる。

 だったら、鈴音を傷つけるものはいらない。

 父と母が揃って出かける日を、俺は知っていた。

 親戚の家に用があるとかで、朝から車で出る予定だった。

 その朝は、妙に静かだった。

 手は震えた。でも、やめようとは思わなかった。

 車に触れたとき、喉の奥がひどく渇いていたのを覚えている。

 うまくいくかは賭けだった。失敗したらどうなるかも、そのときの俺にはよくわかっていなかった。

 でも、やるしかないと思っていた。

 鈴音を失う方が、ずっと怖かったから。

 結果として、うまくいってしまった。

 警察からの連絡を受けて駆け込んだ病院で、白い布のかかった二つの台を見たとき、悲しくなかったわけじゃない。

 一応、親だった。

 優しい家族ではなかったけど、それでも俺の父と母だった。

 だから葬儀でもちゃんと泣いた。

 泣けた。

 それは嘘じゃない。

 でも、鈴音がそばにいた。

 俺が泣けば背中を撫でてくれた。

 手を握ってくれた。

 「行かないよ」と言ってくれた。

 そのたびに、胸の中の悲しみの底に、別の感情が滲んだ。

 安堵だった。

 これで鈴音はここにいる。

 俺のそばにいる。

 もう誰も、寮に入れろとか、家を出ろとか言わない。

 その安堵に気づいたとき、自分がひどくおかしいことをしているのはわかった。

 でも、それでもよかった。

 葬儀の夜、鈴音は何度も「大丈夫?」と聞いてくれた。

 大丈夫じゃない、と答えると、困ったように眉を下げて、それでもそばにいてくれた。

「忍、少し寝た方がいいよ」

「ひとりでいるのはやだ」

 そう言うと、鈴音は少し迷ってから頷いた。

「……じゃあ、今日だけね」

 今日だけ。

 たぶん、鈴音はそういうつもりだった。

 でも俺はその時点でもう知っていた。たぶん終わらない。

 布団に入ると、鈴音の体温がすぐ近くにあった。

 子どもの頃と同じみたいで、でも全然同じじゃなかった。

「忍」

「ん」

「寂しいね」

「……うん」

 寂しかった。

 それも本当だ。

 だけど、その寂しさより大きいものが、もう俺の中にはあった。

「鈴音、いて」

「いるよ」

「ずっと?」

 鈴音は少し黙って、それから俺の髪を撫でた。

「しばらくは、ちゃんと一緒にいるから」

 しばらく、じゃだめだと思った。

 でも、そのときはまだ言わなかった。

 鈴音の腕に触れながら目を閉じる。

 両親を失ったはずなのに、不思議なくらい心が落ち着いていくのを感じた。

 数日もすると、悲しみはだいぶ薄れていた。

 親戚の前では泣けたし、思い出せば胸が痛まないわけでもない。

 でも、それ以上に、鈴音がいつもそばにいてくれることが幸福だった。

 食卓の向かいに座る。

 買い物に一緒に行く。

 夜に「眠れない」と言えば、ためらいながらも一緒に寝てくれる。

 それはまるで、俺がずっと欲しかったものが一度に手に入ったみたいだった。

 鈴音は何も知らない。

 俺が何をしたのかも、どうして両親が死んだのかも。

 それなのに、やさしく抱きしめてくれる。

 泣いている俺を慰めてくれる。

 「忍がいてくれてよかった」なんて言ってくれる。

 そのたびに、罪悪感みたいなものが一瞬だけ胸を掠める。

 でも、鈴音の手が触れると、それはすぐに消えた。

 これでよかったんだと思った。

 父さんも母さんも、鈴音を知らなかった。

 鈴音がどれだけきれいで、やさしくて、ちゃんと守られるべきか、何もわかっていなかった。

 俺だけが知ってる。

 俺だけが、鈴音の本当の価値を知ってる。

 だったら、俺がそばにいるのが正しい。

 夜、鈴音が眠ったあとで、その横顔を見つめる。

 やわらかい髪が頬にかかっていて、睫毛が静かに伏せられている。

 触れたくなる。でも起こしたくなくて、指先だけでそっと髪を払った。

「鈴音」

 小さく名前を呼ぶ。

 返事はない。

 それでも満たされる。

 ここにいる。

 俺の手の届く場所にいる。

 たぶんあの頃にはもう、戻れなかった。

 きょうだいがほしいと思っていたはずなのに、そんなものでは足りなくなっていた。

 守りたいと思ったはずなのに、渡したくないに変わっていた。

 鈴音が幸せならそれでいいと思っていたはずなのに、その幸せの中に俺がいないことだけは許せなくなっていた。

 それでも、後悔はしていなかった。

 鈴音がいれば、それでよかった。




 今日も鈴音の隣で目を閉じる。

 肩が触れる。髪の匂いがする。

 それだけで、胸の奥が満たされていく。

 両親を失った寂しさは、鈴音のおかげで早い段階で消えていった。

 消えたというより、上書きされたのだと思う。

 鈴音がそばにいる幸福で。

 罪悪感がまったくなかったわけじゃない。

 仏間の遺影を見れば、少し胸が痛んだ。

 でもそのあとで鈴音が「忍、ご飯できたよ」と呼ぶだけで、痛みは引いていく。

 たぶんそれで、俺は決定的に壊れたのだと思う。

 鈴音が高校を卒業して、大学生になった。

 俺はまだ高校生で、鈴音より二つ下で、家の中ではまだ“甘えん坊の従弟”でいられた。

 でも心の中は、そんな言葉では済まなくなっていた。

「今日、新歓どうだった?」

 夕飯の支度をしている鈴音に聞く。

「ビラいっぱいもらった」

「サークル入るの?」

「まだ考えてない」

「入らなくていいよ」

「え、どうして」

「帰ってくるの遅くなるから」

 そう言うと、鈴音は少し困った顔をする。

 その顔が好きだった。

 困っているのに、すぐに俺を切り捨てない顔。突き放せない顔。

 鈴音自身はたぶん気づいていなかったけど、俺はそこに期待していた。

「忍、そういうこと言わないの」

「だって、ほんと」

「大学くらい、少しは自由にさせてよ」

 自由。

 その言葉が嫌いだった。

 鈴音の自由は、たぶん俺から離れていくことと近い意味を持っていたから。

 大学に入ってからも、鈴音はそれほど変わらなかった。

 朝は家を出て、講義が終われば帰ってくる。たまに図書館に寄ることはあっても、誰かと食事に行ったり、遅くまで遊んだりはしない。

 それに少し安心した。

 同時に、それだけじゃ足りなくなった。

 今日は何時に終わるの。

 誰といるの。

 寄り道しないで。

 そのくらいのことは、聞いてもいい気がした。

『何時に帰る?』

 授業の終わり頃を見計らってメッセージを送る。

 既読がついて、『三時半くらい』と返ってくるだけで、胸が少し緩む。

 俺が求めていたのはたぶん、連絡そのものじゃない。

 鈴音の時間の中に、俺が当然みたいに存在している確認だった。

 鈴音がバイトの話を出したとき、正直に言えば、ひどく焦った。

「私、バイトしようかなと思ってる」

 その一言だけで、頭の中がざわついた。

 家の外。知らない人。知らない場所。

 鈴音が俺の知らない時間を持つ。

「なんで?」

 とっさに出たのは、それだけだった。

「お金ほしいし、時間もあるし」

「いらないでしょ」

 きつく聞こえたのか、鈴音が少し目を瞬かせた。

 それでも引かなかったのは、そのときの俺に余裕がなかったからだ。

 鈴音には、たぶんわかっていなかった。

 “普通”のことを一つ許すたびに、鈴音がそっち側へ行ってしまいそうで怖かった。

 普通に働いて、普通に友達を作って、普通に誰かを好きになって、普通に俺のいないところで生きる。

 それはたぶん、健全なんだろう。

 でも俺にとっては破滅と同じだった。

「俺じゃ足りないの?」

 あれは、半分は本音で、半分は鈴音の弱いところを知っていて言った言葉だった。

 鈴音は必要とされることに弱い。

 愛された記憶より、我慢した記憶の方が多いからだと思う。

 だから“いてほしい”“待っててほしい”という言葉に、とても弱い。

 それは、ずっと見てきたからわかる。

 俺だけが知っている鈴音の形だった。

 就活の話が出たときには、もう迷わなかった。

「鈴音は家にいればいい」

 そう言うと、鈴音は困ったように笑う。

「何言ってるの」

「本気だよ」

「忍、まだ学生でしょ」

「卒業したら働く」

「その前は?」

「今まで通りでいい」

 会話としてはおかしいことくらいわかっていた。

 でも、理屈じゃなかった。

 俺が養う。

 俺の帰りを待っていて。

 家にいて。

 その生活を想像すると、ひどく落ち着いた。

 それはたぶん、夫婦みたいなものだと自分でもわかっていた。

 それでも、鈴音に向かって“夫婦みたい?”と聞いたとき、怖くはなかった。むしろ、ようやく言えたという感覚に近かった。

 鈴音はその問いに答えなかった。

 でも拒絶もしなかった。

 その“拒絶しない”が、俺をどんどん甘やかした。

 大学に入ったあと、俺は鈴音と同じ場所にいることを当然のように選んだ。

 学部まで完全に合わせる必要はなかったけれど、通える距離と、帰る時間の感覚が近い方が都合がよかった。

 鈴音は「すごい、おめでとう」と言ったけど、その声の奥にほんの少しだけ息苦しさが混じるのも、ちゃんとわかった。

 でも、その息苦しさごと抱え込めばいいと思った。

 大学で鈴音の教室まで迎えに行く。

 図書館にもついていく。

 食堂に寄るなら隣に座る。

 周りには仲のいい従姉弟に見えただろう。

 実際、それを壊す必要はなかった。

 大事なのは、周囲がどう見るかじゃない。

 鈴音の毎日に、俺がどれだけ深く入り込めるかだった。

 それでも、鈴音は卒業したあと少し変わった。

 家にいる時間が長くなるにつれて、たぶん自分でも息苦しくなったのだと思う。

 最初は小さな違和感だった。

 買い物に行く回数が少し増えたり、図書館に行くと言う日が多くなったり。帰ってきたとき、どこか表情が軽い日がある。

 怪しいと思ったわけじゃない。

 ただ、嫌な予感がした。

 昔、緊急用だと言って入れた位置情報共有のアプリは、そのまま残っていた。

 鈴音は機械に強くないし、設定を消していないことにも気づいていなかった。

 最初にそれを見たとき、やっぱり嫌な気持ちにはなった。

 卑怯だとも思った。

 でも、確認した場所が駅前の本屋だったから、少しだけ安心した。

 本屋。

 派手な場所じゃない。

 夜の店でもなければ、男だらけの職場でもない。

 静かで、鈴音に合っている。

 だから最初のうちは黙っていた。

 わかっていたんだと思う。

 完全に閉じ込めてしまえば、鈴音は息ができなくなる。

 だから、少しだけなら許してもいい。

 俺の見える範囲なら。

 それで充分だと思っていた。

 部屋にカメラを置いたのは、その少しあとだった。

 監視という言葉にするとひどく聞こえる。

 でも俺の中では、確認に近かった。

 鈴音がちゃんと家にいるか。泣いていないか。知らない誰かを入れていないか。

 それを知るために必要なことだった。

 もちろん、最初から全部の部屋じゃない。

 リビングに一つ。廊下に一つ。

 それで足りなくなって、鈴音の部屋にも置いた。

 自分でもおかしいとは思った。

 でも、おかしいからやめる、という発想にはならなかった。

 鈴音を守るためだ。

 鈴音が俺に嘘をつかないように。

 俺が鈴音を見失わないように。

 日高という男を初めて見たのは、本屋の外だった。

 眼鏡をかけていて、穏やかそうで、いかにも鈴音が警戒を解いてしまいそうな顔をしていた。

 その男が鈴音にお茶を渡した日、胸の奥がひどくざらついた。

 でも、その時点ではまだ何もしなかった。

 仕事の相手なら仕方がない。

 そう思おうとした。

 鈴音が本屋で働くこと自体は、俺がある意味で許していることでもあったから。

 でも、食事に誘われたとわかった瞬間、それは無理になった。

 仕事のあと、定食屋。

 位置情報がそこに止まっているのを見たとき、頭が真っ白になった。

 スマホを握る手が冷たくなる。

 行くか、待つか、少し迷った。

 でも、行かない選択肢は最初からなかった。

 店の前で二人を見たとき、鈴音は笑っていた。

 大きくじゃない。

 でも、家で俺に向けるのとは少し違う顔で笑っていた。

 それが、駄目だった。

「迎えに来た」

 そう言ったとき、鈴音の顔色が変わる。

 日高は空気を読んで引いた。

 あの時点ではまだ、殴りたいとか殺したいとか、そこまで明確に思っていたわけじゃない。

 ただ、鈴音をその場から連れ帰りたかった。

 家に帰ってから、鈴音を問い詰めた。

 嘘をついてバイトをしていることも、食事に行ったことも、全部知っていると示した。

 カメラを見せたのは、衝動に近かったかもしれない。

 でも、本当はずっと言いたかった。

 俺はこれだけ見てる。これだけ気にしてる。これだけ鈴音のことで頭がいっぱいなんだと。

 鈴音が「気持ち悪い」と言ったときは、さすがに少し傷ついた。

 でも、それより先に腹が立った。

 どうして。

 こんなに見てるのに。

 こんなに必要としてるのに。

「鈴音がうそつくから」

 そう言ったのは、本音だった。

 鈴音が最初から俺に全部話していれば、こんなふうにはならなかった気がした。

 両親の事故のことを聞かれたとき、隠すこともできたと思う。

 でも、もういいかとも思った。

 そこまで知って、それでも鈴音が俺から離れられるのか、知りたかったのかもしれない。

「うん」

 認めた瞬間、鈴音の顔から血の気が引いた。

 怖がらせたかったわけじゃない。

 でも、怖がるのは当然だとも思った。

 それなのに、俺はどこかで期待していた。

 怖がって、泣いて、それでも俺を切れない鈴音を。

 翌朝、鈴音はいなくなった。

 何となく胸騒ぎがして家に戻ったら、鈴音の身の回りの物がいくつか無くなっていて、心臓が掴まれたみたいになった。

 玄関に靴がない。

 連絡をしても返ってこない。GPSアプリを確認したけれど反応していない。

 怒っているとか、呆れているとか、そういう感情の前に、純粋に息ができなくなった。

 頭の中で最悪の想像ばかりが膨らむ。

 警察に行ったのかもしれない。もしかしたら日高のところかもしれない。

 返事のないメッセージを送りながら、初めて少しだけ後悔した。

 言わない方がよかったのかもしれない。

 もっとゆっくり、もっと上手く囲っていればよかったのかもしれない。

 でも、もう遅かった。

 日高に会いに行ったのは、その日の昼前だった。

 会えばわかると思った。

 鈴音がどこにいるか、本当に何も知らないのか、鈴音に何か言ったのか。

 日高は電車を降りて本屋に向かう途中だった。日高の出勤時間は把握していた。

 呼び止めると、驚いた顔でこちらを見る。

「朝倉さんの家族の……」

「もう関わらないでください」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。

「どういう意味ですか」

「そのままです。鈴音に仕事の話以上のことしないで」

「仕事の話ですよ」

「そう見えないから言ってる」

 日高は眉をひそめた。

「あなた、少しおかしいですよ」

 その一言で、視界が狭まった。

 おかしい。

 何度も自分でも思っていた言葉だった。

 でも、こいつにだけは言われたくなかった。

 胸ぐらを掴んだのは一瞬だった。

 殴るつもりだったのか、引き寄せたかっただけなのか、そのときの俺にはよくわからない。

 揉み合いになって、日高が壁にぶつかって、口元を切った。手の甲も擦りむいていた。

「次、鈴音に近づいたら、これじゃ済まない」

 それだけ言って離れた。

 本当は、もっとひどいこともできたと思う。

 でも、やらなかった。

 鈴音が嫌がるからじゃない。

 そこまでしなくても、鈴音はたぶん戻ってくると、どこかで信じていたからだ。

 信じたいだけだったのかもしれない。

 それでも、そのときの俺にはそれしかなかった。

 鈴音が帰ってきたのは次の日の夜だった。

 玄関の鍵が回る音がして、反射みたいに立ち上がる。

 ドアの向こうに鈴音が立っていたとき、膝から力が抜けそうになった。

「……おかえり」

 本当は、もっといろんな言葉があった。

 どうして。どこにいたの。もう行かないで。

 でも全部飲み込んで、それだけ言った。

 鈴音は少し泣きそうな顔で、「ただいま」と返した。

 その一言だけで、胸の奥が熱くなった。

 帰ってきた。

 自分から。

「怒ってる?」

 そう聞くと、鈴音は首を振った。

 怒っていないわけじゃないだろう。でも、本当に怒っているだけなら帰ってこない。

 そのことがわかって、また息がしやすくなる。

「離れてみて、わかったの」

 鈴音がそう言ったとき、もう少しで泣くところだった。

「忍がいない方が、もっと怖かった」

 ずっと欲しかった言葉だった。

 ずっと確かめたかったことだった。

 俺だけじゃない。鈴音ももう、普通には戻れないんだと。

 鈴音が「私も、たぶん、もう普通じゃない」と言ったとき、胸の奥にひどく醜い喜びが広がった。

 それはいけないことなんだろう。

 鈴音を普通じゃなくしたのは俺だから。

 でも、それでもうれしかった。

「もうどこにも行かない?」

 子どもの頃から同じことばかり聞いている。

 情けないと思う。

 でも、そのたびに鈴音が答えてくれるのがうれしかった。

「行かない」

 その返事を聞いたとき、ようやく本当に終わった気がした。

 いや、終わったというより、始まったのかもしれない。

 俺は鈴音を抱きしめた。

 壊さないように、でも離れないように。

 鈴音も逃げなかった。

「鈴音も、俺以外いらないって言って」

 たぶん、ひどいことを言っている。

 でも、鈴音は少しだけためらったあと、「忍だけ」と答えた。

 それで充分だった。

 本屋は辞めてもらった。

 日高から短い連絡が来ていたみたいだけど、鈴音は返さなかった。返せなかったのかもしれない。

 そのことを責めるつもりはなかった。

 もう鈴音は戻ってきたし、ちゃんと俺の隣にいる。

 夕方、台所で一緒に夕飯を作る。

 包丁を持つ鈴音の横顔を見ているだけで落ち着く。

「忍、危ないからこっち持って」

「うん」

「ちゃんと猫の手にして」

「細かい」

「怪我する方が困るの」

 そんな何気ない会話の全部が、俺には愛しかった。

 鈴音はたぶん、今でもときどき怖がっている。

 俺の視線も、執着も、普通じゃないことも、全部わかっている。

 でもその上で、ここにいることを選んだ。

 それならもう、いいと思った。

 救いでも檻でも、鈴音がここにいるなら、どちらでも同じだ。

 夜、俺が「ただいま」と言う。

 鈴音が「おかえり」と返す。

 たったそれだけのことが、昔よりずっと重い意味を持っていた。

 きっと俺はこれからも、鈴音を離したくないと思い続ける。

 見ていたいし、触れていたいし、誰にも渡したくない。

 それはたぶん、やさしい愛とは呼ばれない。

 でも、俺にとってはそれが愛だった。

 鈴音がいて、俺がいて、この家がある。

 もうそれだけでいい。

 もし世界の全部に間違っていると言われても、鈴音が俺の腕の中で息をしているなら、それでよかった。





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