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答え合わせ

しばらく、言葉はなかった。

中庭に流れる風の音と、遠くで聞こえる城の気配だけが、ゆっくりと時間を進めていく。


真緒は、俺の傷だらけの身体を、改めて見ていた。

血の跡。破れた服。無理を重ねた痕。


そして、ふっと視線を落とす。


「……ね」


その声は、とても静かだった。


「あなた……ここに来るまで、どうやって生きてたの?」


責める調子ではない。

ただ、確かめるような問いだった。


俺は、一瞬だけ答えに詰まる。

だが、嘘をつく理由はなかった。


「……普通に、だよ」

「仕事して、帰って……」

「気づいたら、こっちに来てた」


言葉を選んだつもりだった。

けれど、その曖昧さが、かえって決定的だったのかもしれない。


真緒は、少しだけ目を伏せる。


「……気づいたら、か」


その呟きが、胸に刺さった。


「ね、ゆう」

彼女は、ゆっくりと顔を上げる。

「それって……“戻れない”ってこと、だよね」


心臓が、強く脈打った。


否定しようとした。

でも、言葉が出てこない。


真緒は、それだけで理解したようだった。


「……そっか」


小さく、息を吐く。


「あなた、もう……」


最後まで言わなかった。

言わなくても、分かってしまったから。


その瞬間だった。


俺の中でも、遅れていた何かが、音を立てて繋がった。


(……真緒が、ここにいる)


魔王として。

この世界で、生きている。


それはつまり――


「……真緒」


思わず、名前を呼んでいた。


「……向こうでは……」


喉が、ひどく乾く。


真緒は、少しだけ困ったように笑った。


「……考えてなかったでしょ」


図星だった。


俺は、ただ彼女が“ここにいる”ことを受け入れてしまっていた。

どうしてここにいるのか。

どういう形で、ここに来たのか。


考える余裕なんて、なかった。



しばらくして、俺はようやく口を開いた。


「……あのさ」


声が、思ったより低く響いた。


「俺、最後まで……ちゃんと前に進めてなかったんだと思う」


真緒は、何も言わずに聞いている。


「毎日、ちゃんと働いて」

「ちゃんと笑って」

「“大丈夫なふり”は、できてた」


でも、と続ける。


「心のどこかで、ずっと止まってた」


真緒の指先が、わずかに動いた。


「……止まってた?」


「うん」


俺は、視線を逸らさずに言った。


「真緒がいなくなってから……」

「何かを選ぶたびに、無意識に“後ろ”を見てた」


風が、二人の間を通り抜ける。


「前に進んでるつもりで、

 本当は、立ち止まってただけだったんだ」


その言葉のあと、俺は何も付け足せなかった。


真緒は、少しだけ視線を落とす。

足元の石畳を見つめるその横顔は、昔と変わらないのに、どこか遠かった。


「……私ね」


しばらくして、真緒が口を開いた。


声は落ち着いている。

でも、ほんの少しだけ、慎重だった。


「前に進みたかったんだ」

「ちゃんと、生きてるって言える場所まで」


俺は、黙って聞いていた。


「何かを失うのが怖くて止まるより」

「失うかもしれなくても、進んだ先で後悔した方がいいと思った」


一度、言葉を区切る。


「……病気のこと、わかったのは」

「あなたと別れる、少し前だった」


「……病気?」

胸の奥が、きしんだ。


「成功するか分からない手術があって」

「正直……確率は、低かった」


真緒は、空を見上げる。


「でもね」

「あなたの隣にいたら……きっと私は、選べなかった」


俺は、息を止めていた。


「怖くて」

「失敗したらって考えて」

「何もしないまま、時間が過ぎるのを待ってたと思う」


ゆっくりと、こちらを見る。


「それは……前に進むことじゃなかった」


静かな声だった。

でも、その一言一言が、確かに胸に届いた。


「だから……離れるしかなかった」

「あなたのことが嫌いになったわけじゃない」

「だって……生きたいって言うより」

「今だけでもいいから一緒にいたいって思っちゃうから」


その言葉が、痛いほど優しかった。



しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。


中庭の奥から、子供たちの笑い声がかすかに聞こえる。

城の中で、確かに誰かの生活が続いている音だった。


俺は、ゆっくりと息を整えてから口を開いた。


「……なあ、真緒」


彼女が顔を上げる。


「今……ここで」

「幸せか?」


問いは、思ったよりも静かに出た。

責めるつもりも、答えを縛るつもりもなかった。


ただ、知りたかった。


真緒はすぐには答えなかった。

少し考えるように視線を巡らせ、城の中庭を見渡す。


子供たちが走り回っていた場所。

兵士たちが頭を下げて通っていく回廊。

守るべきものが、確かにここにある場所。


「……幸せ、かもしれない」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。


――よかった。


それが、最初に浮かんだ感情だった。


俺は、それ以上何も言わなかった。

代わりに、ゆっくりと一歩、後ろへ下がる。


「……ゆう?」


真緒の声が、少しだけ揺れる。


俺は背中を向けたまま、答えた。


「それなら……いい」


それだけで、十分だった。


ここで俺が立ち止まれば、

ここで俺が手を伸ばせば、

今の彼女が守っているものすべてに、亀裂が入る。


子供たちの居場所も。

城の中で続いている日常も。

彼女が積み重ねてきた選択も。


全部。


「……もう、行くの?」


引き止めるような声だった。

でも、縋る声じゃない。


俺は、少しだけ立ち止まる。


「……俺がここにいたら」

言葉を選びながら、続ける。

「今の真緒の“全部”が、壊れるかもしれない」


剣を握る手に、力が入る。


「それでも、俺は……」

一度、息を吸う。

「壊さずに済むなら、そのほうがいいと思った」


沈黙。


その間に、風が二人の間を抜けていく。


次に聞こえた真緒の声は、

驚くほど、はっきりしていた。


「……それでも」


足音が近づく。

彼女が、俺の背後に立つ気配。


「それでも、私は」

少し間を置いて、続ける。

「一人で選んだ世界より……」


そこで、ほんの一瞬だけ声が震えた。


「……二人で見る世界を、選びたい」


胸の奥が、強く締めつけられる。


「前の世界では」

真緒は静かに言う。

「私は、一人で決めた」

「誰にも頼らず、誰も巻き込まず……前に進んだ」


その選択が、間違いだったとは言わない。

でも、と続ける。


「今は……違う」

「壊れるかもしれない未来でも」

「あなたと一緒に、向き合いたい」


俺は、ゆっくりと振り返った。


そこにいたのは、

魔王でも、城の主でもない。


――俺の知っている、真緒だった。


「……いいのか」

思わず、そう聞いていた。

「全部、変わるかもしれない」


真緒は、小さく笑った。


「変わるよ」

でも、迷いはなかった。

「でも、それを一緒に選べるなら……それでいい」


その瞬間、俺の中で決まった。


逃げない。

一人で背負わない。


「……分かった」


短く、そう答える。


「行こう」

真緒が言った。

「この城の中で、ずっと避けてきた場所へ」


俺は、剣を握り直す。


今度は、勇者としてじゃない。

一人で進むためでもない。


二人で選んだ未来へ向かうために。

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