神の御前にて(3)
ピチャン。顔に冷たい水滴があたった。濡れた額をぬぐいたいが、腕を動かすのも億劫だ。
「うう……ん」
「気がつきましたか。姫」
目を開けると誰かの顔が目の前にあった。ぼやけた輪郭に目の焦点があうまで数秒。ようやくサズマの顔だとわかった。上半身を起こしたとたんに、地面がグルグル回った。
「頭がクラクラするわ。追われて扉の中へ飛びこんだのは覚えているけど」
暗闇に飛びこんだとたんに、大渦に巻き込まれたように振りまわされて意識が途切れた。
「ここはどこかしら?」
「わかりません。神殿の島ではなさそうです」
その時になって初めて、ジュステは周囲の状況に気がついた。そこは青い光に満たされていた。光源があるわけではない、光は透明な壁や天井を通して降り注いでいた。床にあまりの冷たさに直に触れた手を思わず引っ込めた。
「氷?氷の洞窟!」
彼らのいるところは氷点下の氷の中だった。空気は凍えるほど冷たく、吐く息が白かった。
「私も気を失っていたようです。キャリオウ君に起こされました」
サズマもまだ少し気分が悪いようだ。こめかみを押さえてしきりに頭を振っていた。
「キャリオウ?そうだ、彼はどこに。それにリュイリュンちゃんも?」
「そこにいますよ。妹さんも一緒です」
サズマは顎で背後を示した。少し離れてキャリオウの後ろ姿があった。そして……
「ドラゴン……真っ白な」
真っ白なドラゴンがそこにいた。小屋よりも大きな体をぐったりと横たえていた。キャリオウは水滴で濡れたドラゴンの体を拭いたり、さすったりしていた。心配そうに話しかけたりしているが、まるで獣の吼え声みたいな言葉なので意味はわからなかった。
やがて白いドラゴンは少しだけ目を開いた。まだ苦しそうな唸り声を低く重く出すと、首をもたげてキャリオウを見た。とたんにキャリオウの顔がパッと明るくなった。嬉しそうにドラゴンの頭を抱きかかえると、ドラゴンの方も彼にほおずりしてきた。
「お?そっちも大丈夫だったか?」
キャリオウはジュステたちが背後に立っていることにようやく気がついた。
「ん?どうかしたのか」
ジュステたちの目はキャリオウを見ていなかった。彼の後ろのリュイリュンを見ていた。
「ご心配をおかけしました。私はもう平気で……あれ、どうかしました?」
リュイリュンが首を突き出して喋り出したとたんに、ジュステがサズマの背に隠れてしまったのだ。怯えているように見えた。ドラゴンの姿のリュイリュンを恐がっているのだ、と気づくまで少しかかった。
「お兄ちゃん、私ってそんな恐い顔してる?」
「いや、フツーだと思うけどなあ。でも母ちゃんに似てるからちょっと恐いかも」
「あ!お兄ちゃん、ひどーい」
聞くだけならごくな普通な兄妹の会話なのだが、妹の方が巨大なドラゴンであるため見た目には違和感があった。
「ご、ごめんなさい。ドラゴンを見るの初めてだったから、驚いてしまって」
ようやくサズマの背後から出てきたジュステだが、足がまだちょっと震えていた。
リュイリュンはジィッとジュステの顔を見つめていた。爬虫類系の瞳からは怒らせてしまったのか、悲しませてしまったのかも判別できなかった。人間の娘とドラゴンの少女は黙ってにらめっこを続けた。
「仕方ないと思うわ。私も人間の街へきた時は恐かったから」
沈黙はドラゴンの少女が破った。首を激しく揺するような仕草をしてジュステを驚かせたが、これが笑う時の癖だと知るのはもう少し後になる。
「私も今朝ね、生まれて初めて人間の街に来たの。すごく恐かった!人間の顔って見分けつかないし、表情だってよくわからないし。お兄ちゃんくらいよ、何考えてるのかすぐわかる顔は」
「そうよね!絶対、腹芸できないタイプよね、キャリオウ君は」
「いえ、違うと思います。彼は何も考えていないタイプだと……あ?」
なんか悲しそうにキャリオウはうずくまっていた。よってたかって馬鹿にされたみたいでちょっと悲しかった。事実、馬鹿にされてたけど。
「それより問題はこれからどうするかよ!」
ジュステが強引に話題転換を試みた。うずくまってたキャリオウがちょっとだけ顔を上げた。
「とにかく、父ちゃん助けなきゃ!」
「しかし、ここがどこかもわからない状況では動きようもありません」
「えっ?神殿の裏手じゃないの?」
サズマが腕組みして考えてる横でキャリオウは不思議そうな声を上げた。
「どう考えても、あの島にこんな場所ありませんよ。そもそもどうやってここへ来れたのか」
「普通に扉開けて入ってきたじゃんか」
「それなんですけど、あんなところに扉なんてありましたっけ?」
サズマが口にした疑問は当然のことだ。神殿を下調べした時には祭壇などという目立つ場所に扉はなかったし、カモフラージュされている様子もなかった。ジュステもまた考え込んだ。
「なかったと思うし……それに祭壇の裏へ出たなら、単に神殿の外へ出るだけのはずよ。もしかして、空間連結魔法じゃないかしら」
「なに?空間連結魔法!」
リュイリュンの口にした言葉にキャリオウが真っ先に反応した。全員の緊張した視線が集まる中で次の言葉は……
「……ってなんなんだ?」
(結局、知らないってオチですか)
(まあ、そんなことだろうと思ったけど)
(お兄ちゃん、少しは勉強してよ)
言いたいことは山ほどあったが、それは置いといてサズマは説明することにした。
「遠く離れた二つの場所の距離をゼロにしてしまう高度な魔法です。極めれば時間を超えた二地点の連結も可能だとされています。古代の魔道士はこの術を駆使して一日で世界を一回りしたとも言われていますが、現在では失われた魔法の一つで再現に成功した例はありません。それほど驚嘆すべき魔法なのです。これでわかりますか?」
「……全然わからないや。俺、ややこしい理論とか苦手だし」
「……そうですか。まあ、今はここがどこなのか調べるのが先決です」
サズマは氷の洞窟の奥を見た。青い光で満たされた洞窟は先が見えないほど続いていた。
「風があるな、出口があるかもしれない」
一行は風のくる方向へ歩き出した。歩き始めてからサズマは思い出した。キャリオウは足にかなりの重傷を負わされたはずだ。しかし、歩くのに不自由してるようには見えなかった。
「足の怪我は大丈夫なんですか?」
「うん、もう平気だ。治った」
キャリオウはズボンの破れ目から怪我を見せた。出血は止まり、かさぶたができていた。
「トカゲの尻尾並みの回復力ね」
ジュステは呆れたようにそう言った。一応人間だとはいうものの異常な怪力振りといい、常識から外れた生物と言ってもよかった。
一行は寒さに震えながら歩き続けた。特に南国育ちのキャリオウとリュイリュンは寒さに弱かった。キャリオウは体を縮こまらせてブルブル震えていたし、リュイリュンも牙をカチカチ鳴らし続けていた。
「人間に変化できるなら、私の上着をお貸しできるのですが」
「ありがと、サッちゃん。でも、まだ魔力が回復してないから」
相変わらず『サッちゃん』という可愛い愛称で呼ばれ続けるサズマはちょっと肩を落とした。今までは王妃様だけだったのが、今ではドラゴンからもサッちゃんと呼ばれている。いずれは公式文書にもサッちゃんと記されるかもしれない。
「気を落とさないでね、サッちゃん」
「わざと言ってますね、姫」
ジュステからもからかわれ、サズマの暗ーい影がますます濃くなった。
「でさー、出口が見つかったらどうすんの?サッちゃん」
「体勢を立て直して神殿へ戻ってルパーオウさんを救出します」
キャリオウの言葉に暗ーいサズマの暗ーい返事が返ってきた。しかしルパーオウの名が出たとたんにキャリオウとリュイリュンの顔も暗くなった。
「お父さん、大丈夫かな」
「大丈夫に決まってる!だらしないけど島で一番強いドラゴンなんだからな!」
妹を元気づけるためだろう。キャリオウは笑いながら威勢のいい声を上げた。しかし瞳に宿る不安の色は隠しようもなかった。
「それもありますが……キャリオウ。あなたに話しておかなければならないことがあります」
「えっ、何かあったの?」
いきなりそう言われてキャリオウは戸惑った。しかもジュステの口ぶりからしてかなり深刻な話らしい。
「姫、今はそんな状況ではありません」
「いいえ、サズマ。今、話しておかなければ機会はないかもしれないのですから」
そしてジュステは話し始めた。十二年前のクーデターの真相、大臣の陰謀、ブロセニアの野望。そしてキャリオウを偽の王子に仕立てて、大臣の悪行を暴こうとしたこと。本物の王子はクーデター直後、遺体で発見されたこと。調査と偽ってキャリオウに成人の儀を受けさせ、大臣を不利な立場に追い込む計画を見破られ失敗したこと。
話している間、なぜかキャリオウは驚きも怒りもしなかった。代わりにリュイリュンが目を見開き、怒りを表現するかのように角先にパチパチと小さな稲妻を踊らせた。
「ひどい!許せない!」
意味不明な咆哮の後で彼女は人間語で言いなおした。ジュステを見る目は先ほどまでの友好的なものではなく、抹殺すべき敵に向けるものに変わった。
「嘘をついてお兄ちゃんを人間同士の争い事に巻き込んだのね!自分を生んだお母さんに会いたいっていう気持ちを利用したのね!」
「ごめんなさい、こんなはずじゃなかったの。他人を巻き込まないつもりだったし、危険も避けられるはずだった」
「言い訳しないでよ!あなたなんか魔物よりたちの悪い生き物だわ!」
リュイリュンはますます敵意を強め、対してジュステは言い訳もできずに黙って頭を下げるばかりだった。
「姫を責めるのは止めてください。計画立案者は私なのですから」
「二人とも同罪よ。長老から聞いたとおりだったわ。人間は好戦的で狡猾な生き物だから近づいてはいけないって」
語気を強めるリュイリュンの目が赤く染まっていく。こみ上げる強い攻撃衝動を行動に移さないのは、ジュステたちの側にキャリオウがいるからに過ぎない。キャリオウが少しでも離れれば、角から放たれる電撃が一瞬で二人を消し炭に変えるだろう。
「噂と違って人間の中にも……いい人間もいるんだと思ったのに」
「もーいいから、そのくらいにしとけよ。リュイ」
キャリオウの声でリュイリュンの瞳の赤が消えた。キャリオウは困り顔で頭をポリポリかいていた。ショッキングな事実を知ったにも関わらず、気にした様子もなかった。
「子供のお前があまり物騒なことを考えるんじゃない。お姫様もサッちゃんも俺を騙したくて騙したんじゃないんだからな」
「でも!お兄ちゃんもお父さんもひどい目にあってるじゃない。こいつらのせいだよ!」
「あのなー、聞いただろう。父ちゃんは魔族を叩くために協力してたんだぞ。それにな」
ここでキャリオウは決まり悪そうにうつむいて少し小さな声で話した。
「俺も気がついてたし。戦災孤児身元調査が嘘だっていうのは」
「え?……」
この発言にはジュステもサズマもリュイリュンも目を丸くした。キャリオウは言いにくそうだったが、さらに続けた。
「いくら俺が馬鹿でもさ、おかしいと思うぞ。ただの身元調査に魔物がでしゃばってくるし。全員逃げ出して俺一人になっても調査続けるって言うし。何の関係もないはずのお城に寝泊りさせるし。最後は調査になりそうもない儀式に参加しろと言い出すし。ここまでくれば誰でも気づくよ」
確かに、異常事態続発の成り行きに不信を持たないほど鈍感な奴もいないだろう。
「私、にぶそうな奴だから気づかれなくてすみそうだ、って思ってたのに」
これがジュステの感想だった。
「いや、私もこれくらい鈍感ならいけると思ってたんですが」
サズマも心底驚いていた。
「お兄ちゃんのくせに……どーして感づいたのよ!」
十二年を供に暮らした義妹の言葉がこれだった。
「お前らなあ、俺のコトそーとーな馬鹿と思ってないか」
「うん、思ってた」
「確かにそうです」
「完璧馬鹿でもなかったのね」
口々に囁かれる評価にキャリオウは悲しくなった。俺はそこまで馬鹿と思われていたのか、知り合ったばかりの人間はともかく家族にまで。
「はー、怒って損しちゃった。でも、それならどうして帰ってこなかったのよ」
「そりゃ、せっかくサッちゃんが一生懸命やってるから悪いかなーって思ってたし。もう少し人間の国を見物したかったし」
「それだけですか?」
呆れきって何も言いたくなくなった女性二名を差し置いて、サズマが質問した。ギクリとするほど真面目な顔で。この時、キャリオウは少し答えをためらった。
「……少しだけ恐かったんだ」
あどけなさの残る顔に不安が浮かんだ。
「恐かったんだ。俺を知ってる人間なんていないと思うのが。誰も俺なんかを捜していないって思うのが。本当の母親は俺なんか必要じゃ……あーやめた、やめたよ、こんな話!」
キャリオウは笑って胸をはった。無理をして去勢を張ってるのではなかった。辛気臭い面倒な話題は性に合わないのだ。
「とにかく、ここ出てさー。父ちゃん助け出してから考えよう!それでいいだろ?」
「そうね、そうしよー!ここすごく寒いし」
人と竜の兄妹は元気良く歩き出した。取り残された人間二人は少しの間呆然としていたが、すぐにサズマが先に立って歩き出した。
「姫、彼の言う通りです。今はここから出ることだけ考えましょう」
「そうね。何もかもここを出たらの話よね」
ジュステも笑った。営業スマイルではなく、サズマの前でも滅多にみせない本当の笑顔だ。
(ここを出たら、ルパーオウさんを助け出して。それからキャリオウ君の本当の両親を捜そう。彼のような子供の親なら今でもずっと捜しているはずだわ。生きていれば)
「外に近づいてる、と思うか?サッちゃん」
「いや……むしろ遠ざかってるような気がします」
サズマはそう答えた。事実、光はだんだん薄暗くなっていくし、気温も下がってきた。
「結局、出られないの?」
リュイリュンの声も暗い。寒いせいか体力の回復も遅いし、時間がかかると父の身も心配だ。
「空気の流通がありますから、外につながってるのは間違いないと思うのですが」
「待った!魔物の反応がある!」
キャリオウの声に緊張が走った。差し出した右手には黒い菱形が浮かんでいた。おなじみの魔物の反応だ。
「どこですか?」
サズマは剣を引き抜きジュステをかばうように身構えた。魔剣ユニコーンの封印は少し前に解けていた。高位魔族といえど完全に封印できるほどヤワな魔剣ではないのだ。
「前方、近い!だけど反応がおかしいぞ」
魔の存在を感知する呪印は母・クイリュンが息子の安全のために設計し彫り込んだ万能危険物感知魔方陣だ。敵が強いほど大きな文様が肌に浮かぶ。それが……
「とんでもない奴がいる、らしいですね」
この寒気の中でサズマの額に汗が浮かんだ。氷より冷たい汗が。浮かび上がった文様は手の甲どころか腕全体にまで拡大し、肩まで真っ黒に染まったのだ。
「とんでもない奴だけど。おかしいぞ」
「どうおかしいんです?」
「感触で生きてるか死んでるかも分かるんだけど。こいつは生きても、死んでもいない」
「何よ、それ?どういうこと?」
要領を得ない返事にジュステは苛立った。が当のキャリオウ自身もわからないらしく、頭を振るばかりだ。
「注意して接近しましょう。他に道もありませんし」
サズマの言葉に全員うなずき、足音を立てぬようにそろりそろりと前進することにした。ほどなく氷の回廊が終わり、広大な空間が開けた。城がすっぽり納まりそうな高い天井と奥行き。巨大な塔と見まごうほどの氷の柱が二列に並んで奥へと続く。天井の氷を通して降り注ぐ暗い青い太陽光だけが唯一の照明だが、それが氷の大ホールの神秘性と不気味さを一層高めていた。
「なんだ、ここは。自然の地形にしては規則性がありすぎる。人工物にしては大掛かりすぎる」
サズマは妙な胸騒ぎを覚えた。来てはならない場所に迷い込んだのではないか。そんな不安が胸をよぎる。
「あそこに何かあるよ」
キャリオウはまっすぐ前を指差した。氷の柱の列が終わるところ、鏡のように平らな氷壁があった。その中に何かの影が見えた。とても巨大な青い影が。強風のように吹きつける禍々しさを感じ取れた。
「これは、何だ。何者なんだ!」
壁面に近づいたサズマが影の正体を確認した時、上げた声がこれだった。
氷の中に一匹のドラゴンがいた。全身、青一色に染まった、キャリオウでさえ見たこともないほど巨大なドラゴンだ。その大きさは、例えばルパーオウは家の一軒くらいは体で覆い隠せるかなりの大型種だが、彼ですら小鳥に等しい。
「もう一匹いますね」
サズマが指摘したとおり、青いドラゴンの下にうつ伏せに赤いドラゴンが巨大な足に踏みつけられていた。こちらは翼は折られ全身に深い傷を負い、一目で絶体絶命の状況とわかった。青いドラゴンはとどめの一撃をくれてやろうとばかりに、青い炎を吐きかけ、赤いドラゴンは敗北の瀬戸際にも関わらず、闘志に燃える目でにらみかえしていた。
二匹のドラゴンは凍りついてるわけではなかった。吐き出す炎までがそのままの形で凍るはずがなかった。
「まるで時間が止められたみたいだ……」
何の気なしにキャリオウは壁面に触れようとした。
「キャリオウ君!うかつに触れては危険です!」
サズマが驚いて警告した。状況から見て二匹のドラゴンは未知の魔法で封印されたらしい。下手に触れるのは危険かもしれない。だが、一瞬遅くキャリオウの手が氷壁に触れていた。
とたんにキャリオウはのけぞった。背骨が折れるのではないかというくらい、激しく何度も。
「いわんこっちゃない!」
慌てたサズマがキャリオウを氷壁から離そうと、腕をつかんだ。が、サズマの動きも止まった。目を極限まで見開いて全身をガクガクと震わせてた。
「サズマ!」「お兄ちゃん!」
動転したジュステとリュイリュンもキャリオウに触れてしまい、同じ状態におちいった。
……ここは、どこだろう。
氷の洞窟でもなければ神殿の島でもない。見渡す限りの荒野だった。正確には荒野になってしまった場所だ。散らばる岩石に見えたのは崩れた建築物のなれの果てであり、草一本生えない死の大地は栄えた都の跡だった。
そして生命あふれるこの大陸を死臭漂う荒野に変えた元凶は目の前にいた。おびただしい瘴気をまきちらし、何十もの国、何百もの都市、何億もの人命を奪った邪悪な生き物が。
青いドラゴン。少し前までは決して邪悪な存在ではなかったが、今のそいつはこの世の邪気を全て集めた邪悪な生物だ。ともに戦いを挑んだ仲間は全て倒され、食い殺された。彼もまた深手を負わされ、追い詰められつつあった。彼が敗れ去る時、世界中の生命が食い尽くされて大地は永遠の死を迎えるだろう。それだけは避けなければならない。彼の命に代えても。
戦いの前に彼は唯一人残った仲間に望みを託した。異種族だが彼が最も信頼している仲間だ。猛反対されたが、他に打つ手がないと説得した。後は青いドラゴンをおびき寄せるだけだった。
強烈な尻尾の一撃を脳天に食らって彼は倒れた。立ちあがるより早く背中を巨大な後足が踏みつけ動けなくされた。
首を後ろに曲げて見上げると、狂気をたたえた目が狂暴な笑みを浮かべた。開いた口の奥で青白い炎が燃え盛っていた。勝利を確信しているのだろう。だが、誘い込まれたのはそっちだ。少し離れた崖の上を彼は横目でちらりと見た。
一人の娘がそこにいた。一枚布で作った真っ白な服を身につけた裸足の娘だ。東の果てからやってきた魔を封じる力を持った一族だと言っていた。涙を流しながら彼女は異国の言葉で呪文を唱えていた。いかなる魔力をもってしても破ることのできない、最強の封印術を発動させる呪文、いや呪いの言葉を。
彼と魔竜を囲むように何本もの氷柱が大地を突き破ってあらわれた。肌に刺さるような冷気が空気を凍らせながら体に浸透してきた。異変を察した青いドラゴンは一時退却を試みようとしていたが、そうはさせない。彼の吐き出した炎が青いドラゴンの目をふさいだ。自分の尻尾を相手の後足に巻きつけ彼は敵の逃走を防いだ。
怒りに燃える青いドラゴンが、青い炎を吐いた瞬間に封印術が発動した。
青いドラゴンの動きが急に鈍くなり、吐き出した炎の流れも空中で静止してしまった。
……成功だ、時が止まった。我々の勝ちだ。
もつれ合う二匹のドラゴンのまわりで氷壁が急速に成長していった。究極の封印魔法・時封印。閉鎖空間を作りだし、その中の時の流れを完全停止させる。内側からは脱出不可能、外側からも物理力も魔力も時間停止面で遮られて破ることはできない。これで魔竜は永遠に封印された、彼もろとも。最後に彼はもう一度崖の上の娘に目をやった。彼女は泣いていた、大声を上げて地につっぷして泣いていた。
……私のために涙を流してくれるのか。お前には悪いことをしてしまったな。生きて帰れぬとわかっていたのに。許しておくれ。わが最愛の妻よ。
……我が記憶をのぞく者よ。時の流れに見捨てられ、永遠に閉じ込められし我を哀れと思うなら。時の果てに取り残されし、我が妻を哀れと思うなら。この封印を解くことなかれ。我等の悲劇を永遠の果てに封じたまえ。
赤いドラゴンの記憶の声はそこで途絶えた。
「大丈夫ですか、姫?」
「ええ、なんとか」
ジュステとサズマは氷の床に座り込んでいた。リュイリュンも腰が抜けたみたいに脱力して荒い息をしていた。太古のドラゴン同士の戦いの記憶の中にいたのは十秒ほどの時間だったが、何日もたったような気がした。
「ドラゴン同士の戦い、神話で聞いたことがあったけど。事実だったみたいね。それにあの後、おかしな夢を見たわ」
「夢、どんな夢ですか?」
「初めて舞踏会に出された時のことよ。八十人のダンスの相手させられて。悲惨だったわ」
「私は……両親が死んで剣の師匠に引き取られた日のことを」
「わたしも見たよ!」
リュイリュンが長い首を二人の間に突っ込んできた。
「あのね、産屋の洞窟から外に出た日のこと。お父さんとお兄ちゃんと初めて会ったの」
最初に見たドラゴンの記憶は共通だったが、その後は全員違うらしい。
「キャリオウ君。君はどう……」
サズマはハッとした。キャリオウはまだ氷壁に触れたままだ。まぶたをかたく閉じ、蒼白な顔で汗を流していた。
「キャリオウ君!」「お兄ちゃん?」
瞬間、キャリオウは目を開いた。氷壁から手を離し、落ち着いた顔でサズマに向けた。
「あ、サズマさん。リュイ。大丈夫だった?」
「おどかさないでよ、もう」
平静な声にリュイリュンは安堵した。
「みんな大丈夫みたいだね。よかった」
「大丈夫ですけど。君は何かあったのでは?」
「……俺は平気だよ。何ともなかった」
何もなかった?本当だろうか。さっきまでのキャリオウと違うような気がするのは気のせいだろうか。
「さっきの幻は何だったのかしら」
「あのドラゴンの記憶だ」
キャリオウは悲しそうな目で赤いドラゴンを見た。
「青い方を捕まえるために、おとりになったんだ。自分も封印されるのを覚悟の上で」
キャリオウは氷壁を軽くと叩いた。記憶を見せるのは一度きりなのか、今度は何も起きない。
「ここにはもう何もない。ただ魔竜を封じただけの場所だ。俺たちのやることは!父ちゃんを助け出し、大臣のたくらみをぶっ潰し、魔物を叩きのめす。これだけだ」
唐突な反撃宣言に全員開いた口がふさがらなかった。援軍もなく武器もない。それどころか、ここから出る手段さえ見つからないのに。
「とにかく、出口を捜さなければ。援軍も要請しますが到着まで……」
「援軍を待つ暇はないな。父ちゃんの体力がそれまで持たない。それと出口はそこにある」
キャリオウは氷柱の一つを指差した。先ほどと同じく青銅の扉がそこにあった。
「馬鹿な、確かにさっきまでは何もなかった!」
「急ごう、父ちゃんが待ってる」
驚く一同を尻目にキャリオウは扉に向かった。我に返ったサズマはキャリオウの変化に思い当たることがあった。
「キャリオウ君、尋ねておきたいのですが。最後に君が見た記憶は何でしたか」
キャリオウは足を止めた。少しの間、黙っていたが振り返るとニカッと笑った。
「何も見なかったよ」




