第三話「飼い慣らせない夜」2
第二章 黒き哲学者の独白
皇立魔科学研究所、地下最深部・特別隔離実験室。 分厚い防弾ガラスと多重魔術結界で隔てられたその空間は、張り詰めた緊張感で満たされていた。空調の低い唸り音だけが響く中、ガラスの向こう側に鎮座する「それ」は、不定形の身体を揺らめかせながら、静かにこちらを見つめ返していた。
アトラ=ウンブラ。 氷海道の湖で見つけられた、自我を持つ『黒胎』。 彼は今、特殊合金製のケージの中に収容されていたが、その存在感はガラスや鉄の檻を透過し、観察者たちの肌を粟立たせていた。
「……では、始めましょうか」
醍醐 京一が、マイクのスイッチを入れた。彼の額には脂汗が滲んでいる。 対峙しているのは、かつて世界を滅ぼしかけた災厄の種子だ。言葉が通じるとはいえ、本質的な恐怖は拭えない。
「媒介役は、君に頼むよ。……ルカ君」
「はい」
ルカ・ノクスが、ガラスの前に立った。 彼女は、不安げな表情を隠し、努めて明るく振る舞いながら、ケージの中の黒い塊に語りかけた。
「アトラ。……怖くないからね。先生たちは、貴方のことを知りたいだけなの」
ルカの声に反応し、アトラの表面に浮かんでいた二つの蒼い光が、優しく明滅した。 ドロリとした黒い粘液が盛り上がり、形を変えていく。 それは、シルクハットを被った紳士の上半身を模した、精巧なシルエットとなった。 人間への擬態。あるいは、敬意の表現。
『理解しています、マスター・ルカ』
スピーカーを通さず、脳内に直接響く念話。その声色は、地下室の冷たい空気とは裏腹に、知的で、どこか哀愁を帯びていた。
『私は囚人であり、貴女たちは看守だ。……尋問を受けるのは、捕虜の義務でしょう』
「……貴方は、どこから来たの?」
ルカが、核心を問う。 それが、ここにいる全員が最も知りたい問いだった。 10年前の災厄の残滓なのか、それとも別次元から迷い込んだ新たな異物なのか。
『記憶はありません』
アトラは、首を横に振るような動作をした。
『気がついたら、あの冷たい湖の底にいました。……時間という概念すら曖昧な、泥と氷の世界に』
彼は、遠い過去を懐かしむように語り始めた。
『私の中にあったのは、ただ一つ。……猛烈な「飢え」だけでした』
その言葉と共に、アトラの輪郭がざわりと波打った。紳士のシルエットが崩れ、無数の牙を持つ獣の相貌が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに戻る。それは、彼が内側に飼っている本能の片鱗。
『世界を食らい尽くしたいという、焼け付くような衝動。……目の前にある水も、魚も、石も、すべてを飲み込み、私の空虚な内側を埋め尽くしたい。……そう、細胞の一つ一つが叫んでいました』
アトラは語る。 生まれたばかりの彼は、ただの捕食機械だった。湖の魚を捕食し、迷い込んだ水鳥を飲み込み、少しずつ質量を増やしていった。 食べれば食べるほど、飢えは増した。知識も、感情もなく、ただ「有」を「無」に変えるだけの虚しいサイクル。
だが、ある冬の夜。 厚い氷が割れ、湖面にぽっかりと穴が開いた時。
『私は、見ました』
アトラの蒼い瞳が、遠くを見つめるように細められた。
『夜空に浮かぶ、満月を』
凍てつくような銀色の光。湖面に映る、揺らめく月影。 それは、黒一色だった彼の世界に差し込んだ、初めての「色彩」だった。
『……美しい、と思いました』
その一言が、実験室の空気を変えた。美意識。 それは、ただ生存し増殖するだけの生物には不要な概念だ。 効率を求める進化の過程で、最も排除されるべき無駄な感情。
『その瞬間……私の飢えが、止まりました。あの光を食べてしまえば、もう二度と見ることはできない。……そう理解した時、私の中に「理性」という名のブレーキが生まれたのです』
食欲という本能の上に、美意識という理性が構築された瞬間。 獣は、哲学者へと進化した。
『私は人間を知りたい』
アトラは、ガラスの向こうにいるジン(夜刃迅)やキリコ(九十九霧狐)、そして科学者たちを見渡した。
『貴方たちが持つ、複雑で、非合理で、そして美しい感情の源泉を。……なぜ、貴方たちは争い、傷つけ合いながら、それでも愛を語るのか。……それを知れば、私もこの飢えの正体を理解できるかもしれない』
アトラの言葉は詩的であり、同時に底知れない空虚さを孕んでいた。 彼は自分という存在の空洞を埋めるために、食事ではなく「知識」と「感情」を求めているのだ。
「……危険だな」
ダイゴが、低い声で呟いた。 彼の眼鏡の奥で、鋭い警戒の光が明滅する。
「彼は、学習している。……今は『美』に興味を持っているが、もし彼が『人間の悪意』や『暴力』の味を覚えてしまったら……」
かつてダイゴが対峙したオズシュタイン博士のように。あるいは、魔王アヴァベルのように。 強大な力を持つ者が、歪んだ思想を持った時、それは世界を滅ぼす災害となる。
「彼は、最悪の捕食者になるぞ。……知識という武器を持った、制御不能の怪物に」
「そんなことありません!」
ルカが反論する。だが、ダイゴの懸念は、その場にいる大人たち全員の胸に重くのしかかっていた。 鷹宮 恒一でさえ、メモを取る手を止めてアトラを凝視している。
『……博士の懸念はもっともです』
アトラが、悲しげに肯定した。
『私自身、自分が怖いのです。……ふとした拍子に、この理性が決壊し、貴方たちを食い殺してしまうのではないかと』
彼は、自らの危険性を誰よりも理解していた。 だからこそ、孤独を選び、湖の底で月を見上げていたのだ。
「……なら、ここで処分されるのが一番安全だとは考えないのか?」
ジンが、腕組みをしたまま冷たく言い放った。情に流されそうになる空気を、あえて断ち切るような鋭利な言葉。 黒い翼の運び屋として、リスク管理は絶対だ。
『ええ。……それも一つの論理的帰結です』
アトラは、ジンに向かって静かに頷いた。死を受け入れる覚悟すらある。 その潔さが、逆にジンの調子を狂わせる。
「……チッ。殺しがいがねえな」
「待ってください! まだ話は終わっていません!」
鷹宮が、興奮した様子で割り込んできた。 彼はコンソールのデータを指差し、震える声で叫んだ。
「彼の脳波パターン……いや、魔力波形を見てください! これは、単なる思考のノイズじゃない。……彼は、常に『外部』と通信している!」
「通信?」 キリコが眉をひそめる。
『……お気づきになりましたか』
アトラが、感心したように鷹宮を見た。
『私の利用価値は、観察されることだけではありませんよ、博士』
アトラの黒い身体から、微弱な波紋が広がった。それはガラスを透過し、実験室の空気を振動させる。
『私には……聞こえます』
アトラの声が、深く、重く響く。
『遠く離れた場所にいる……同胞(兄弟)たちの産声が』
「……何だって?」
ダイゴが身を乗り出す。
『世界中に散らばった黒胎。……それらが目覚め、宿主を見つけ、あるいは暴走を始める予兆。その微細な魔力の揺らぎを、私は感知できます』
黒胎同士の共鳴現象。 セプティマ・ザイオンでルカを襲ったあの現象を、彼は自らの意思で制御し、広域探知に応用できるというのだ。
『言うなれば……私は、貴方たちの「レーダー」になれる』
アトラは、自身の胸(にあたる部分)に手を当てた。
『貴方たちは、黒胎を回収したいのでしょう? ……ならば、私を使ってください。私が、兄弟たちの居場所を教えましょう』
それは、悪魔の取引にも似た提案だった。怪物を使って、怪物を狩る。 毒を以て毒を制す。
「な、なんと……! それがあれば、黒胎の回収効率は飛躍的に上がる!」
鷹宮が色めき立つ。 現在、黒胎の発見は偶発的な事故や、被害が出てからの通報に頼っている状態だ。もし、予兆の段階で発見し、回収できれば、どれだけの命が救えるか。科学者としての合理性が、恐怖を上書きする。
「彼を研究所で管理しましょう! 最重要機密として! ……この能力は、皇国の……いや、世界の希望になり得る!」
鷹宮の熱弁。 ダイゴも、その有効性は認めざるを得なかった。 だが、それは同時に、アトラという「人格」を、永遠に実験室の檻に閉じ込めることを意味していた。 便利な道具として。
「……お断りです!」
その時。 ダンッ! とテーブルを叩く音が響いた。
ルカだった。 普段は穏やかで、虫も殺せないような彼女が、鬼のような形相で鷹宮たちを睨みつけていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




