第三話「飼い慣らせない夜」1
第一章 コンクリートの森へ
皇国の北端、氷海道。 見渡す限りの雪原と、凍てつく静寂に支配されていた白銀の世界から数時間後。 最新鋭の輸送機を降りたキリコ(九十九霧狐)たちを待っていたのは、息が詰まるほどの文明の密度だった。
皇国首都・東帝都。 空を埋め尽くす鉛色の雲からは、いつものように冷たい酸性雨が降り注いでいる。 だが、ここの雨は雪のように静かではない。 無数の摩天楼を打ち、アスファルトを濡らし、都市全体が発する熱気と混ざり合って、不快な湿気を帯びたノイズとなっている。
「……空気が、重いわね」
キリコは、空港のタラップを降りながら、パーカーのフードを目深に被り直した。 湿気を含んだ風が、彼女の狐耳を不快になでる。氷海道の澄み切った冷気が、今はもう恋しかった。
「へっ。……俺にはこっちの方がお似合いだぜ。鉄と油と、欲望の臭いだ」
ジン(夜刃迅)は、背負った荷物の重みを確認しながら、ニヤリと笑った。 彼が背負っているのは、特殊合金で作られた檻のようなケージだ。 中には、漆黒の流体が蠢いている。
一行は、空港の滑走路脇に待機していた黒塗りのワンボックスカーに乗り込んだ。向かう先は、この国の頭脳にして心臓部。地下深くに広がる、「皇立魔科学研究所」。
車窓を流れる景色は、巨大な電子回路のようだった。 立体交差するハイウェイ、明滅するホログラム広告、そして無表情に行き交う人々。 自然物など何一つない、コンクリートの森。
「……ここが、東帝都の地下……」
ルカ・ノクスが、車内で不安そうに呟く。 車は、政府専用の地下ゲートを通過し、螺旋状のトンネルをどこまでも潜っていく。 深度が増すにつれて、気圧の変化で耳がツンとする。窓の外は完全な闇になり、誘導灯の赤い光だけが規則正しく流れていく。
地下500メートル。 重厚な隔壁が開くと、そこには広大な研究施設が広がっていた。無機質な白い壁、消毒液とオゾンの臭い、そして忙しなく行き交う白衣の研究員たち。ここには、昼も夜もない。あるのは、真理を解き明かそうとする執念だけだ。
「……相変わらず、薬品と鉄の臭いがする場所ね」
車を降りた沈 黒燼が、廊下を歩きながら懐を探った。 彼女は、すれ違う研究員たちがギョッとして振り返るのも構わず、愛用の紙巻きたばこを取り出し、口にくわえた。 黒い道士服を着崩したその姿は、清潔すぎるこの空間において、あまりに異質で、毒々しい華のようだった。
「火、貸してくれない?」
「……ここは禁煙だ、シェン」
ジンが、呆れたように、しかし素早く彼女の手からライターを取り上げた。
「それに、今日は大事な商談だぞ。……依頼人を怒らせるな」
「ちぇっ。……堅苦しいわねえ」
シェンは不満げにたばこを耳に挟み、肩をすくめた。 キリコは、そんな二人を横目に見ながら、前方を歩く案内人の背中を追う。 彼女の神経は、張り詰めていた。 ここからは、物理的な戦闘ではない。 「交渉」という名の、別の戦場だ。
彼らが運んできた荷物――特殊ケージの中で、黒いスライム状の物体が、興味深そうに周囲を観察している。 アトラ=ウンブラ。 自我を持った特異な『黒胎』。
『ほう……』
アトラの思念が、キリコたちの脳内に直接響く。 その声色は、初めて見る景色に感動する子供のようであり、同時にすべてを見透かす老賢者のようでもあった。
『壁の中を、光の粒子が走っている……。あれは、魔力ではなく電子ですか。……人間とは、光だけでなく、雷(電気)をも飼いならしているのですね』
彼は、研究所の至る所に張り巡らされた送電ケーブルや、サーバーの点滅を、まるで美術品でも眺めるかのように見つめている。 時折、その不定形の身体がプルプルと震えるのは、恐怖ではない。 知的好奇心による歓喜の震えだ。
「……変な奴」
ジンが、背中のケージを揺すり上げる。
「自分が解剖されるかもしれないってのに、余裕だな」
『解剖……。ふむ、私の構造を分解し、理解しようとする行為ですね。……それはそれで、興味深いですが』
「呑気なこと言わないでください」
ルカが、ケージの格子越しにアトラに触れた。 《黎明の恩寵》の温かい光が、黒い泥を優しく包む。
「私が守りますから。……絶対に、痛いことはさせません」
『……感謝します、マスター・ルカ。貴女の手は、いつだって温かい』
アトラは、ルカの指先に自らの体の一部を擦り寄せ、猫のように甘えた。その光景は、ここが魔科学の最前線であることを忘れさせるほど、奇妙で、穏やかなものだった。
案内されたのは、最深部にある特別実験室だった。厚さ50センチの防爆ガラスと、対魔術結界で幾重にも守られた、隔離空間。 その中央に、ジンはケージを置いた。
「……待っていたよ」
部屋の奥から、二人の男が歩み寄ってきた。
一人は、白衣を纏い、神経質そうな眼鏡をかけた若い研究員。皇立魔科学研究所・主任研究員、鷹宮 恒一。 彼は、ケージの中のアトラを見るなり、その瞳を狂気的なまでに輝かせた。
「素晴らしい……! 実に素晴らしい!」
鷹宮は、挨拶もそこそこにケージに張り付き、食い入るようにアトラを観察し始めた。 ガラスに鼻がつくほどの距離。
「報告書の通りだ……! 波動パターンは『黒胎』そのものなのに、波形が安定している! カオスの中に秩序がある! まさか、本当に自我を持つ個体が存在するとは!」
彼は持っていたタブレットを高速でタップし、ブツブツと独り言を漏らす。
「思考回路はどうなっている? 記憶媒体は? 言語中枢の代わりになる器官は? ……即刻、解剖……いや、対話実験を! サンプル採取を! 彼の脳波(思考回路)の全データを吸い上げなければ!」
狂気的な探究心。 未知への渇望。 それは、かつて彼の師であった男が持っていたものと同じ、科学者特有の業だ。 キリコは、背筋が寒くなるのを感じた。 この男にとって、アトラは「知的生命体」ではない。「貴重な実験材料」でしかないのだ。
「……鷹宮君、落ち着きなさい」
その鷹宮を、静かな、しかし有無を言わせぬ声が制した。 もう一人。 鷹宮の背後に控えていた、初老の男。 白髪交じりの髪に、やつれた頬。白衣のポケットに両手を突っ込み、猫背で立つ姿は、どこか幽霊のようにも見える。
かつて世界を滅ぼしかけ、そして救うために戦った罪人にして天才。醍醐 京一。
「相手は未知の知性体だ。……不用意に触れれば、汚染されるぞ」
ダイゴは、冷静に、しかし警戒心を露わにしてアトラを見つめた。その眼差しは、鷹宮のような熱狂ではなく、危険物を扱う処理班のような冷徹さだった。
「……ようこそ、黒狐便の諸君。遠路はるばる、よく運んでくれた」
ダイゴが、キリコたちに向き直る。 その瞳には、深い疲労と、隠しきれない憂いが滲んでいた。
「だが……君たちは、とんでもない『爆弾』を持ち込んでくれたものだ」
「爆弾じゃありません!」
ルカが、思わず声を上げた。 彼女は、ダイゴの威圧感に怯えながらも、一歩前に出てアトラのケージを庇った。
「この子は……アトラちゃんは、話が通じます! 私たちを襲ったりしません!」
「……『今は』な」
ダイゴは、冷たく言い放った。
「黒胎の本質は『浸食』と『捕食』だ。……今は理性が本能を抑えているようだが、それがいつまで続く? ふとした拍子にタガが外れれば、この研究所ごと飲み込まれるぞ」
ダイゴは、かつてアークステイツで見た、オズシュタイン博士の末路を思い出していたのだろう。知性を持った黒い泥。 それは、人工魔王と同じか、それ以上に危険な存在になり得る。
『……懸念は理解できます、博士』
その時、ケージの中から声が響いた。アトラだ。 彼は、不定形の身体を変化させ、人間の上半身のようなシルエットを模った。
『私は、自分が何者なのかを知りません。……自分の中に眠る飢餓が、いつ牙を剥くかもわからない。……貴方の恐れは、正しい』
アトラは、ガラス越しにダイゴを見据えた。 その蒼い瞳(発光体)は、鏡のように澄んでいた。
『ですが……私は、怪物として処理されるためにここに来たわけではありません』
「……ほう」
ダイゴが眉をひそめる。
「ならば、何をしに来た? ……我々に食われるためか? それとも、我々を食うためか?」
『対話をしに来たのです』
アトラは、静かに、しかし力強く告げた。
『私は知りたい。……人間という種が持つ、非合理で、複雑で、そして美しい『心』の在り方を。……それを知れば、私もこの飢えを飼いならせるかもしれない』
哲学者。 その異名は、伊達ではなかった。彼は、自らの存在意義を賭けて、人間という鏡に自分を映そうとしているのだ。
「……面白い」
鷹宮が、眼鏡の位置を直しながら笑った。 ダイゴは、沈黙したままアトラを見つめ、そして深く嘆息した。
「……交渉の余地はある、ということか」
ダイゴが視線をキリコに移す。 ここからは、ビジネスの時間だ。
「……さて、運び屋さん。この『荷物』の処遇について、話し合おうか」
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




