第二話「湖畔の黒き哲学者」3
第三章 知性という名の孤独
張り詰めた静寂の中、ルカ・ノクスの足音だけが、砂利を踏む小さな音を立てて響いていた。彼女は、恐怖に足をすくませることもなく、目の前の黒い異形――アトラ=ウンブラへと近づいていく。
「……貴方は、人を襲わないの?」
ルカの問いかけは、純粋な好奇心と、母性にも似た慈愛に満ちていた。対するアトラの表面に浮かんだ二つの蒼い光が、困惑したように明滅する。
『襲いたい、という衝動はあります』
アトラの思念が、隠すことなく脳内に響いた。それは、哲学的な響きを持ちながらも、生物としての根源的な業を告白していた。
『強烈な飢餓が、常に私を内側から苛んでいる。……貴女たちの血管を流れる熱い液体を啜りたい。その魂を噛み砕き、私の空虚な内側を埋め尽くしたい。……そう、細胞の一つ一つが叫んでいます』
アトラの身体が、苦しげに波打つ。 本能が「食え」と叫んでいる。 目の前にいる無防備な少女。その柔らかな肉体、溢れ出る生命力。 すべてを飲み込み、同化してしまえという甘美な誘惑。 だが、彼はそれを理性という名の鋼鉄の意志で拒絶している。
『ですが、私は考えました。……ただ食らい、増えるだけの存在に、何の意味があるのかと』
彼は、偶然発生した突然変異体だった。 10年前の災厄で世界中にばら撒かれた数え切れないほどの『黒胎』の中で、奇跡的に「自我」という光が灯った特異点。獣は、考える葦となった。
「自分がどこから来て、何者なのか」。 その哲学的とも言える問いが、食欲という原始的な本能を抑え込んでいるのだ。
『私は……知りたいのです。この世界の美しさを。……そして、私の生まれた意味を。……食欲を満たすだけの一瞬の快楽のために、この思考を手放したくはない』
アトラの言葉には、深い孤独と、高潔な知性が宿っていた。 ルカは、そっとアトラに手を伸ばした。 その掌に、金色の光が灯る。
「ルカ、やめろ!」
背後で、ジン(夜刃迅)が血相を変えて叫んだ。 彼の顔から血の気が引いている。
「お前の光は『聖なる力』だ! 魔の泥に触れれば、対消滅を起こしてそいつは消し飛ぶぞ!」
《黎明の恩寵》。 それは、あらゆる負のエネルギーを中和し、浄化する絶対的な光。 純粋な魔の塊である『黒胎』に触れれば、それは治療ではなく「処刑」となる。 爆発的な反応が起き、ルカ自身も吹き飛びかねない。
「自殺行為よ。……混ぜるな危険、って習わなかった?」
沈 黒燼も目を見張り、直刀の柄を握りしめた。即座にルカを引っ張り戻そうと身構える。
だが、ルカは手を止めなかった。 彼女の瞳には、確信があった。 目の前の「彼」が必要としているのは、攻撃でも、拒絶でもないことを。
「いいえ。……この子は、欲しがっています」
ルカは、躊躇なく手を伸ばした。
「罰ではなく……温もりを」
ルカの手が、アトラの濡れたような黒い表面に触れた。
ジュウウウッ……!
接触面から、激しい蒸気のような白い煙が上がった。肉が焼けるような音が響き、アトラの巨体が激しく痙攣した。
『ぐ、うぅ……ッ!?』
苦悶の思念が、周囲に衝撃波となって伝播する。
「ほら見ろ! 焼けてるじゃねえか!」
ジンが叫び、地面を蹴った。ルカを引き剥がすために。
だが、次の瞬間。
『……あぁ』
アトラの震えが、ピタリと止まった。 苦痛の唸りではない。それは、深い安堵と、恍惚の吐息だった。
黒い流体の表面を覆っていた刺々しい波紋が消え、鏡のように穏やかな球体へと安定していく。焼けていたのではない。 ルカの光が、アトラの内側で暴れていた飢餓感を「満たし」、その空っぽの胃袋に温かなスープを注ぎ込んだのだ。
『……暖かい』
アトラの青い瞳(発光器官)が、うっとりと細められた。彼の中の「飢え」という名の空洞が、ルカの光によって埋められていく。
『これが……光。……痛いほどに、甘い』
「な……?」
ジンが足を止め、呆然と立ち尽くす。聖なる光を浴びて、消滅するどころか、エネルギーとして吸収した? 魔が聖を取り込むなど、この世界の理ではあり得ない現象だ。
「……相性が、逆転してるわね」
キリコ(九十九霧狐)が、興味深そうに観察しながら呟いた。彼女の『千里眼(狐の窓)』は、ルカとアトラの間で起きている未知のエネルギー循環を捉えていた。
「ルカちゃんの光は、『邪悪を払う』攻撃的な光じゃないわ。……欠けたものを埋め、傷を癒やす『補完』の光」
キリコは、アトラを見つめた。
「そして、このアトラって個体は……通常の黒胎とは違う。彼は『空白』そのものなのよ。だから、ルカちゃんの光を毒としてではなく、自分を埋めるための『栄養』として変換できる特異体質なの」
攻撃としての光ではなく、食事としての光。 ルカとアトラ。 本来なら相容れないはずの「聖女」と「魔物」は、凹と凸のように、パズルのピースとして完璧に噛み合っていた。
『……貴女は、太陽のようだ』
黒い流体が、甘えるようにルカの手に擦り寄った。 その感触は、もはや冷たくも不気味でもない。ひんやりとしたゼリーのような、人懐っこい感触。
「ふふっ。……くすぐったいよ、アトラ」
ルカが笑う。 それは怪物と対峙する戦士の顔ではなく、捨て猫を拾った少女の、無防備で優しい笑顔だった。
「……チッ。調子が狂うな」
ジン(夜刃迅)が、大きく息を吐き出して翼を収めた。殺気は霧散し、脱力感が肩に乗る。
「殺れないわね、これじゃ。……依頼は『回収』だし、死体を持って帰るわけにもいかないもの」
沈 黒燼も刀から手を離し、呆れたように、しかし口元を緩めて煙草を取り出した。 冷たい月夜に、紫煙が揺らめく。
「連れて帰りましょう」
ルカ・ノクスが、二人を振り返った。 その瞳は、もう譲らないという意志で輝いていた。
「この子は、私たちが守ります。……研究所の実験台になんてさせません」
「……へいへい。お姫様の仰せのままに」
ジンが頭を掻く。 キリコ(九十九霧狐)が肩をすくめる。『黒狐便』に、新たな(そして非常に手のかかる)居候が増えることが決定した瞬間だった。
湖畔の静寂の中、奇妙な友情が芽生えようとしていた。 世界を呪うはずだった泥が、少女の愛によって知性を得て、月を愛でる哲学者となった夜。
ゴゴゴゴゴ……。
その時、遠くの北の空で、低い雷鳴が轟いた。 空気がビリビリと震え、湖面にさざ波が立つ。 嵐が来る前の、重苦しい気配。 それは、これから彼らを待ち受ける運命の激流を暗示しているかのようだった。
「……降りそうね」
キリコが空を見上げる。 月が、厚い雲に隠れようとしている。
だが、今の彼らには、守るべき小さな温もりがあった。 ルカの腕の中で、黒いスライム――アトラが、安らかに微睡んでいる。その穏やかな光景だけが、凍てつく世界の中で確かな「熱」としてそこに在った。
「帰ろうぜ。……風邪ひく前にな」
ジンが背を向け、歩き出す。四人と一匹の影が、夜霧の中へと消えていく。 新たな物語の幕開けは、静かに、そして優しく訪れていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




