8 『卒業おめでとう』
三月の朝は、春と呼ぶにはまだ少し寒かった。
駅から学校までの道を歩いていると、風は制服の袖口やコートの襟元から容赦なく入り込み、吐いた息にもかすかな白さが残る。
それでも、一月や二月の朝にあった、肌を刺してそのまま骨まで冷やすような鋭さはもうない。
校門脇に並ぶ桜の枝には固く閉じた蕾がいくつもついていて、咲くにはまだ早そうだったが、東から昇った朝日を受ける校舎の窓は淡く光り、風の中にも冷たい空気とは別の、ごく薄い土と草の匂いが混じり始めていた。
目には見えないところで、冬が少しずつ退いている。
そんな朝だった。
卒業式の日、茉白はいつもよりずいぶん早く学校へ着いた。
特別な理由があったわけではない。昨夜眠れなかったわけでもなければ、最後の登校だからと感傷に浸りたかったわけでもないし、校舎をゆっくり見て回って思い出を噛みしめようなどという殊勝なことを考えていたわけでも、もちろんない。
ただ、いつもの時間に目が覚めて、顔を洗い、髪を整え、制服へ袖を通した。いつもなら多少曲がっていても気にしないネクタイを、なぜか今日は一度だけ結び直した。朝食を食べ、なんとなくスマホを眺めてみても特に見たいものはなく、自室へ戻っても妙に落ち着かなかったので、結局いつもより早く家を出た。
それだけだ。
少なくとも、茉白はそういうことにしていた。
校門をくぐると、普段なら声や足音で賑わっている朝の校舎には、まだ人の少ない時間特有の静けさが残っていた。正門の傍には『卒業証書授与式』と墨書された白い立て看板が置かれていて、茉白はそこへ一度だけ目を向けると、すぐに視線を逸らした。
今日が何の日なのかくらい、分かっている。
それなのに、わざわざ文字にして突きつけられると、妙に居心地が悪かった。
昇降口へ入ると、外よりわずかに温度の高い空気と、ワックスや埃の混じった学校特有の匂いが鼻先を掠めた。
遠くで扉の閉まる音がして、どこかの教室からは机を動かす鈍い音が聞こえてくる。どれも三年間で何度となく耳にしてきた、特別でも何でもない朝の音だった。
自分の靴箱を開け、ローファーを脱いで上履きを取り出したところで、茉白の手がふと止まった。
靴箱の扉には、三年間使われて角の擦れた自分の名前のラベルが貼られている。その横の壁には、いつついたのかも分からない細い傷が何本か走り、少し離れた柱には、誰かが剥がし忘れた昨年の文化祭の案内シールが残されていた。
端はめくれ、色も褪せ、役目などとっくに終えているのに、誰にも気づかれないままそこにある。
昨日までと、何も変わらない。
きっと昨日も、一週間前も、何か月も前から同じ場所にあった。ただ、自分が気にしたことがなかっただけだ。
上履きへ足を入れながら何気なく昇降口を見渡した茉白は、そこで不意に、今日で最後なのだと思った。
この靴箱を開けることも、朝ここで靴を履き替えることも、この匂いのする昇降口から眠い顔で教室へ向かうことも、今日が最後になる。
たったそれだけの事実で、何の変哲もなかった景色の輪郭が、急に鮮明になったような気がした。
「……何これ」
思わず小さな声が漏れる。
自分でも、意味が分からなかった。
たかが学校だ。三年間通っただけで、別に毎日が楽しかったわけではない。
嫌いな授業もあったし、うざい教師もいた。
朝はいつも眠かったし、夏の教室は暑く、冬の体育館は異常なくらい寒かった。
定期テストの前には学校ごとなくなればいいと思ったこともあるし、進路希望調査を渡された頃には未来のことなど考えるだけで面倒だった。
早く卒業したいと思ったことだって、一度や二度ではない。
卒業なんて、ただ学校へ来なくなるだけだと思っていた。
日菜とは会いたければ会えばいいし、学校が変わったところで、自分まで別人になるわけでもない。終われば、それで終わり。ずっと、そんなふうに考えていた。
それなのに、本当に終わる日が来てみれば、どうしてか簡単には割り切れなかった。
茉白が靴箱を閉めると、ぱたん、と乾いた音がまだ静かな昇降口に小さく響いた。
今まで何百回と聞いてきたはずのその音まで、なぜか今日は耳に残る。
「……だる」
自分に言い聞かせるように呟き、廊下へ出た。
教室は三階にある。いつもの階段へ向かい、一段、また一段と上っていく。
上履きの底が硬い床を叩く音が規則正しく響き、まだ人の少ない校舎の静けさへ吸い込まれていった。
普段なら、三階まで上がるのが面倒だとか、もっと便利にできないのかとか、そんなことしか考えない道だった。
けれど、この日は途中の踊り場で、茉白はふと足を止めた。
大きな窓の向こうに、グラウンドが見える。
朝練のない校庭は静かで、昨夜の湿気をわずかに含んだ土が淡い朝日を受けている。
薄れた白線、サッカーゴール、端へ寄せられた体育用具、地面へ長く伸びる校舎の影。
何百回も目にしてきたのに、一度だって立ち止まって眺めようとは思わなかった景色だった。
けれど、明日からはもう、これを毎朝見ることはない。
そう思った瞬間、胸の奥がほんのわずかに狭くなった。
悲しい、と呼ぶには大げさだった。
泣きたいわけでもない。
ただ、まだ失くしてもいないものを先回りして惜しんでいるような、説明のつかない感覚が胸の内側に残った。
本当に面倒だ、と茉白は思う。
毎日そこにあるものは、そこにあるうちは何でもない。
廊下も、階段も、教室の机も、くだらない授業も、隣から聞こえてくる日菜の声も、明日も当然続いていくものとして受け流していた。
それなのに、明日にはもうないと分かった途端、どれも急に大切だったような顔をしてくる。
ずるいと思った。
気づくのが、あまりにも遅い。
けれど、もしかすると、大切なものとはそういうものなのかもしれない。
特別だったから覚えているのではなく、あまりにも当たり前にそこにあったからこそ、なくなると知ったとき初めて、自分の中でどれほど大きな場所を占めていたのかに気づく。
茉白は窓の向こうを見つめたまま、コートのポケットへ手を入れた。指先にスマホの硬い角が触れる。
取り出せば、写真に残せる。
朝のグラウンドも、静かな階段も、卒業式の日の淡い光も、きっと残そうと思えば残せる。
けれど、茉白はスマホを取り出さなかった。
写真にすることと、覚えていることは、同じではない。
残したいからカメラを向ける瞬間もあれば、何にも隔てられず、その場所にいる自分の目で見ておきたい瞬間もある。少し前までなら考えもしなかったそんな違いを、今の茉白はなんとなく分かるようになっていた。
もう一度だけ、窓の向こうを見る。
春には、自分には何もないと思っていた。
将来も、やりたいことも、夢と呼べるようなものもない。何かを選べと言われることさえ面倒で、明日のことすら考えずに済むなら、それでよかった。
けれど、この一年で、気づけばずいぶん増えた。
好きなものができた。やってみたいことを見つけた。行きたい場所を自分で選んだ。
会いたいと思う人ができて、終わってほしくないと思える時間もできた。
何もなかったのではない。
たぶん、自分が見ようとしていなかっただけだ。
だからこそ今、少しだけ寂しい。
茉白は窓から視線を外し、再び階段へ足をかけた。
教室へ向かって、一段ずつ上っていく。
三年間、数えきれないほど歩いた、いつもと同じ道を。
けれど今日だけは、見慣れたものを置き去りにしないようにするかのように、その足取りはいつもよりほんの少しだけゆっくりとしていた。
※
三年の教室へ辿り着き、茉白は扉に手をかけた。
引き戸を開けると、まだ登校している生徒はほとんどいなかった。
普段なら朝から誰かしらの笑い声が飛び交い、椅子を引く音や机越しの会話で騒がしい教室も、今は静まり返っている。
窓から差し込む三月の朝日が、整然と並んだ机の天板を斜めに照らしていた。
机。椅子。黒板。窓。教卓。教室の後ろにある掃除用具入れ。
三年間、毎日のように目にしてきたものばかりだ。
後方の掲示板には、すでに役目を終えた進路関係のプリントが何枚か残されていた。
『推薦出願について』
『大学入学共通テスト』
『面接練習日程』
その文字を見つけ、茉白は教室の入口でわずかに目を細めた。
去年の秋頃には、あれほど煩わしく感じていた。
黒板に書かれた締切の日付も、廊下に掲示された模試の日程も、教師から繰り返し説明される出願手続きも、すべてが自分たちを急かしているように思えた。
まだ何も決められていない自分の背中へ、未来という得体の知れないものが容赦なく迫ってくるようで、目にするだけでも気が重かった。
それが今では、すべて過去の日付になっている。
出願した。
試験を受けた。
結果が出た。
悩み、選び、それぞれの行き先が決まった。
あれほど遠く感じていた未来の入口に、自分たちはもう立っている。
不思議な気分だった。
茉白は静かな教室を横切り、自分の席へ向かった。
窓際の最後列。
鞄を机の横へ置き、椅子を引く。
腰を下ろしてみれば、座り心地まで昨日と何一つ変わらない。
窓から見える校庭も、黒板までの距離も、机の表面についた細かな傷も、そのままだ。
「……変わらないな」
誰に聞かせるでもなく呟き、茉白は机の端を指先でなぞった。
当然のことだ。
机が卒業を理解しているわけではない。
今日が最後だからといって、教室が突然、特別な場所へ変わるわけでもない。
変わったのは、たぶん、こちらの方だった。
この席で、春に進路希望調査を渡された。
第一志望。
第二志望。
将来やりたいこと。
並んだ欄を見ても何一つ思い浮かばず、ほとんど白紙のまま提出した。
あの頃は、本当に何もないと思っていた。
やりたいことも。
行きたい場所も。
自分が何を好きなのかさえ。
考えることが億劫で、「知らない」と言っていれば、それ以上考えずに済んだ。
同じ机に座っているのに、今は鞄の中に写真・映像系の専門学校から届いた書類が入っている。
自分で調べて、自分で見学に行って、自分で受験して。
自分で選んだ場所。
その事実を思うと、少しだけ可笑しくなった。
たった一年で、人は案外変わるらしい。
茉白はポケットからスマホを取り出した。
何となくカメラを起動する。
画面の中に、誰もいない教室が収まった。
朝日に照らされた机。
長く伸びた椅子の影。
黒板。
まだ少し白く霞んでいる窓。
後ろの掲示板には、もう必要のなくなった進路関係の書類。
派手なものは、何一つない。
いわゆる映える写真でもなければ、誰かに見せるための写真でもない。
それでも茉白は少しだけ構図を整え、シャッターを切った。
静かな教室に、短い電子音が響く。
撮った写真を確認する。
ただ机が並んでいるだけだった。
けれど、好きだと思った。
誰もいない朝の教室。
まだ少し冷たい三月の空気。
窓から入る柔らかな光。
そして、今日でここへ通うことが終わるということ。
写真そのものには写らないものまで、茉白にはそこにあるように見えた。
昔は、そんなことを考えずに撮っていた。
目についたものへカメラを向け、何となく残す。それだけだった。
今は少し違う。
残したいから、撮る。
忘れたくないから、撮る。
その瞬間に自分が何を見て、何を好きだと思ったのかまで、写真の中へ残しておきたいと思う。
写真を始めたことで世界が変わったのではないのかもしれない。
見過ごしていたものを、少し丁寧に見るようになった。
たぶん、変わったのはそちらだ。
「茉白!」
静まり返っていた教室へ、聞き慣れた明るい声が飛び込んできた。
振り返る必要すらなかった。
この声を三年間、何度聞いただろう。
「日菜」
名前を呼びながら顔を上げると、ちょうど日菜が教室へ駆け込んでくるところだった。
「早いじゃん!」
「そっちも」
「昨日、全然寝れなかった!」
朝からすでに普段通りの音量だった。
茉白はスマホを机へ伏せながら、半眼で日菜を見る。
「子ども」
「卒業式だよ!?」
日菜は当然のように言い返しながら、茉白の席までやってくる。
制服姿はいつもと同じなのに、よく見れば髪は普段より少し丁寧に巻かれ、耳元のアクセサリーも式を意識したのか控えめなものになっていた。
メイクも確かにいつもより丁寧だ。
ただし、満面の笑顔でこちらへ駆け寄ってくる姿は、昨日までの日菜と何も変わらない。
そのことに、茉白は妙に安心した。
「見て!」
いきなり日菜が自分の頬を指差す。
茉白は眉を寄せた。
「何」
「今日、メイク完璧!」
「式が始まる前に泣いて終わるでしょ」
一瞬、日菜の表情が固まる。
「泣かないし!」
「去年、先輩の卒業式でも泣いてたじゃん」
「もらい泣き!」
勢いよく反論した日菜だったが、茉白が「今日は自分の卒業式だよ」と淡々と返すと、ぴたりと動きを止めた。
「……やばい」
「もう泣きそうじゃん」
「言わないで!」
本気で目元を押さえ始めた日菜がおかしくて、茉白は堪えきれずに笑った。
声に出して。
それほど大きくはない。
けれど、自分でも分かるくらい自然に。
日菜が目を丸くした。
その反応の方が気になり、茉白は笑みを残したまま眉を寄せる。
「何」
「いや」
「何」
二度聞かれて、日菜は少しだけ目元を緩めた。
「茉白、最近、本当によく笑うなって」
「そう?」
自覚はあまりなかった。
日菜は茉白の前の席から椅子を引き、背もたれを抱えるようにして逆向きに座った。
「うん。最初の頃なんて、ウチが変顔しても鼻で笑うくらいだったじゃん」
「今もそれくらい」
「違うよ」
日菜はすぐに否定した。
ふざけているときとは違う、妙に優しい声だった。
「ちゃんと笑う」
その言葉に、茉白は少しだけ返事に困った。
自分ではそんなに変わったつもりはない。
面倒なものは今でも面倒だし、うざいものはうざい。愛想よく振る舞う気もなければ、誰にでも笑うようになったわけでもない。
ただ、笑いたいときに、以前より少し我慢しなくなっただけなのかもしれない。
「……日菜がうるさいからじゃない」
照れ隠しのように言うと、日菜が口を尖らせた。
「人のせい?」
「半分」
「じゃあ、半分は?」
少しだけ考えて、茉白は肩を竦める。
「知らない」
「あ、出た」
日菜が吹き出した。
茉白もつられて笑う。
昔から何度も交わしてきたような、どうでもいい会話だった。
朝の教室には、まだ二人しかいない。
窓から差し込む光の中に、二人の笑い声だけが静かに広がった。
やがて日菜が、何気なく教室の後ろへ視線を向けた。
「ねえ」
「何」
「進路のプリント」
日菜の視線を追う。
「まだあるね」
「うん」
日菜は椅子の背もたれへ顎を乗せたまま、掲示板を眺めている。
「なんか、懐かしくない?」
「半年くらい前じゃん」
茉白が言うと、日菜は「そうなんだけど」と笑った。
「ずいぶん前みたい」
その感覚は茉白にも分かった。
たった一年。
正確には、一年も経っていない。
春には、日菜に彼氏ができた。
最初は、それだけだった。
親友に彼氏ができて、自分と過ごす時間が少し減った。それが面白くなくて、でも寂しいとは認めたくなくて、適当に茶化していた。
そこから、いろいろあった。
進路を考えた。
喧嘩もした。
オープンキャンパスへ行った。
模試の結果に一喜一憂した。
勉強した。
受験した。
合格した。
凪と出会った。
好きなものを見つけた。
好きな人もできた。
一つひとつ思い返せば、すべてこの一年の出来事なのに、春の自分はずいぶん昔の人間のように思える。
茉白は掲示板を眺めながら、不意に口を開いた。
「日菜」
「何?」
「最初さ、水城と同じ大学に行きたいって言ってたじゃん」
「言ってた!」
あまりにも即答されて、茉白は少し笑った。
「今、全然違うところじゃん」
日菜は一瞬きょとんとした。
それから、掲示板から視線を外し、少し照れたように笑う。
「そうだね」
「大丈夫?」
自分でも、ずいぶん率直に聞けるようになったと思う。
春なら、たぶん聞かなかった。
日菜が何を選ぼうと本人の自由だと思う一方で、聞いてしまえば自分まで何かを考えなければならなくなる気がしていたから。
今は、知りたいと思った。
日菜は少しだけ考えた。
すぐに「大丈夫」とは言わなかった。
そのことが、何となく嬉しかった。
「寂しいよ」
やがて、日菜は素直にそう言った。
「高校みたいに毎日会えるわけじゃないし、颯真くんは颯真くんで忙しくなるだろうし。ウチも実習とかあるし」
「うん」
「だから、たぶん寂しい」
日菜はそこで一度言葉を切ると、窓の外へ目を向けた。
けれど、その横顔は沈んでいない。
むしろ少し楽しそうだった。
「でも、楽しみ」
茉白は黙って続きを待った。
「保育の勉強をしたいし、実習とか大変そうだけど、やってみたい。颯真くんも、自分の大学で教師になるために頑張るし」
「うん」
「同じ場所にいないからって、別れるわけじゃないし」
それを言えるようになった日菜を見て、茉白は少しだけ目を細めた。
春の日菜は、颯真と同じ場所へ行くことが、二人でいるための最も確かな方法だと思っていた。
でも、今は違う。
自分のやりたいことを選んだ上で、颯真の隣にいることを選んでいる。
誰かを好きでいることと、自分の人生を選ぶことは、どちらかを諦めなければ成立しないものではない。
たぶんそれは、自分にも少し関係のある話だった。
「あと」
日菜が急にこちらを見る。
「何」
「茉白もいるし」
一瞬、意味が分からなかった。
「……何でウチ」
「マブだから」
あまりにも当然のように言われ、茉白は半眼になる。
「急に重い」
「ひどい!」
日菜が大袈裟に胸を押さえる。
けれど、その顔を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
春。
日菜に彼氏ができたとき、置いていかれるような気がした。
今なら分かる。
日菜の世界に颯真が増えたからといって、自分の場所がなくなったわけではなかった。
日菜には日菜の未来がある。
颯真との時間がある。
そして、その中に自分もいる。
当たり前のように。
だから茉白は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ウチも」
「え」
日菜の顔が止まる。
しまった、と思ったときには遅かった。
「何」
「今」
「何」
日菜の目がみるみる輝いていく。
「ウチもって言った!」
「言ったけど」
「もう一回!」
「やだ」
「茉白ぉ!」
「うざい」
日菜が身を乗り出してくるので、茉白は椅子ごと少し後ろへ逃げた。
「卒業式なんだから!」
「関係ない」
「あるよ! 今日くらい素直になろうよ!」
「嫌」
「親友でしょ!」
「そういうの、自分で言う?」
「言う!」
結局、いつも通りだった。
日菜が騒いで、茉白があしらって。
それでも、最後には二人で笑う。
何度繰り返したか分からないやり取り。
でも、これを学校で毎日できるのは今日までだ。
そう思った途端、さっき階段で感じたのと同じ、小さな痛みが胸の奥に生まれた。
日菜とは、これからも会える。
連絡だって取れる。
遊ぼうと思えば、いつでも約束できる。
それでも、同じ制服を着て、同じ時間に学校へ来て、何の約束もしなくても隣にいる生活は終わる。
茉白は、騒ぎ続ける日菜を見た。
朝の光が、巻いた髪の縁を淡く照らしている。
よく笑う。
今日も、いつもと同じ顔で笑っている。
その顔を残しておきたいと思った。
茉白は机の上に置いていたスマホを手に取った。
「日菜」
「ん?」
「こっち見て」
「え?」
日菜は反射的に背筋を伸ばし、満面の笑顔で両手を顔の横へ持っていく。
「はい!」
「その顔やめて」
「何で!?」
思わず茉白は笑った。
「普通にして」
「普通って何!?」
「知らない」
「カメラ向けておいて、無茶振りすぎない!?」
ぶつぶつ文句を言いながら、日菜は作っていたピースを下ろした。
「じゃあ、どうすればいいの」
「別に何もしなくていい」
「それが一番難しいんだけど」
「日菜」
「何?」
「普通に喋ってて」
「誰と?」
「ウチ」
「撮る人と?」
「うん」
日菜はますます分からないという顔をした。
「変なの」
「いいから」
「じゃあ、何話す?」
「何でもいい」
「えー……じゃあ」
日菜は少し考える。
そして、急に悪戯っぽい笑顔になった。
「凪くんの話する?」
「やめて」
即答だった。
日菜が吹き出す。
「顔!」
「何」
「今の顔、凪くんに見せたい!」
「何で」
「絶対かわいいって言う!」
「いつも言ってる」
「惚気!?」
「違う」
「今の、完全に惚気じゃん!」
「うるさい」
茉白が半眼で睨む。
日菜は楽しそうに笑っていた。
その瞬間、茉白はシャッターを切った。
短い音が鳴る。
「……え?」
日菜が瞬きをする。
茉白はすぐに画面へ目を落とした。
朝の教室、窓から差し込む柔らかな光。
その中で日菜が笑っている。
ピースもしていない。
カメラ目線でもない。
少し身体をこちらへ向けて、何かを言いながら、本当に楽しそうに笑っている。
茉白の知っている日菜だった。
三年間、何度も見てきた顔。
「……いい」
思わず、小さく呟いた。
「見せて!」
すぐに日菜が身を乗り出す。
茉白は反射的にスマホを胸元へ引いた。
「あとで」
「今!」
「やだ」
「何で!?」
日菜がスマホへ手を伸ばしてくる。
茉白は椅子を引きながら身体を逸らした。
「いいから」
「理由になってない!」
「日菜、近い」
「見せてくれたら離れる!」
「やだ」
「茉白!」
二人しかいなかった静かな教室が、あっという間にいつもの騒がしさを取り戻していく。
茉白はスマホを守りながら笑った。
写真は、あとで見せてもいい。
卒業したあとでもいい。
何年か経ってから、「こんなの撮ったね」と見せてもいい。
今日で高校生活は終わる。
でも、今日残したものまで、今日で終わるわけではない。
「卒業記念に残しておく」
日菜の動きが、一瞬だけ止まった。
「……何それ」
さっきまでの勢いが少しだけ消え、代わりに嬉しそうな笑みが広がっていく。
「茉白、今日ちょっと素直じゃない?」
「知らない」
「またそれ!」
日菜が笑う。
茉白も笑った。
窓から差し込む三月の朝日が、二人のいる机を柔らかく照らしている。
誰もいなかった教室には、いつの間にか二人分の鞄が置かれ、椅子が引かれ、笑い声がある。
少しずつ、いつもの朝が戻ってくる。
それが最後の朝なのだということだけは、もう忘れなかった。
だから茉白は、胸元へ隠したスマホを握ったまま、目の前でまだ笑っている日菜の顔を、今度はカメラ越しではなく、自分の目でしっかりと見ていた。
※
卒業式の日、体育館には朝から暖房が入っていた。それでも、床に近いところだけはどこか冷えが残っていて、椅子に座っていると足元からじわじわと冷気が上がってくるようだった。
壇上には校旗が掲げられ、その前には卒業証書を載せた長机と、来賓用の椅子が整然と並んでいる。保護者席からは時折小さな咳払いが聞こえ、天井近くに設置された暖房機の低い唸りが、広い体育館の空気をわずかに震わせていた。
こういう式典は、本来なら茉白の苦手なものだった。
長い。眠い。校長の話はだいたい同じで、来賓挨拶も何人か続けば内容の違いなんて分からなくなる。普段の茉白なら、あと何分で終わるかを考えながら、適当に前を向いてやり過ごしていたはずだった。
けれど今日は、妙に一つ一つの音が耳に残った。
『卒業生、起立』
教員の声が体育館へ響いた直後、何百脚もの椅子が一斉に床を擦り、低く大きな音が波のように広がった。茉白も周囲に合わせて立ち上がり、スカートの裾を軽く整える。
その時、少し前の列にいる日菜の後ろ姿が目に入った。
いつもなら巻き方ひとつにもこだわっている明るい茶髪は、今日は普段より少しだけ丁寧に整えられていて、制服も珍しくきちんと着ている。式の最中でもこっそり振り返って変な顔くらいしてきそうな日菜が、今日はずっと正面を向いていた。
ただ、その肩が小さく震えている。
泣いてるな、と茉白はすぐに分かった。
式が始まってから、まだ十五分ほどしか経っていない。
予想より早い。
あとで絶対に言ってやろう。
そう思うと少し笑いそうになったのに、同時に自分の喉の奥にも妙な違和感があることに気づいた。
何かが詰まっているような、乾いているような、うまく説明できない感覚だった。
咳をするほどではない。ただ、いつもより少しだけ呼吸がしづらい。
茉白は一度、小さく息を飲み込んだ。
壇上では卒業証書授与が進み、名前を呼ばれた生徒が一人ずつ立ち上がって前へ出ていく。
返事をする声、靴音、証書を受け取る時の衣擦れ。
毎年同じように行われているはずの儀式なのに、今日はなぜか、そのすべてがやけに鮮明だった。
校長の式辞が続き、担任たちの姿が見え、やがて在校生代表の送辞が終わる。卒業生代表が壇上へ上がり、少し緊張した声で答辞を読み始めた。
『三年間――』
その言葉が聞こえた瞬間、茉白はほんの少し目を伏せた。
三年間。
卒業式なら、誰かが必ず言う言葉だ。
三年間を振り返って。
三年間ありがとうございました。
三年間、たくさんの思い出がありました。
普段なら、ありきたりだと思って終わっていただろう。
けれど今日は、その短い言葉に、勝手に景色がついてきた。
一年生の頃。
まだ日菜と今ほど仲良くなかった頃の教室。席が近かったわけでもないのに、休み時間になると何となく話すようになって、いつの間にか一緒に昼を食べるようになった。
最初の頃の日菜は、今より少しだけ遠慮があった。
茉白が無表情でいるだけで、「怒ってる?」と何度も聞いてきた。
そのたびに、「元から」と答えた。
普通ならそこで少し距離を取るものなのかもしれない。
でも日菜は離れなかった。
翌日も、その次の日も、当たり前みたいに話しかけてきて、いつの間にか茉白の隣が自分の場所だとでもいうように笑っていた。
二年生になると、思い出はもっと増えた。
文化祭。体育祭。放課後の教室。コンビニの前。テスト前なのに勉強もせず、床に座ってアイスを食べたこと。
帰り道で急に雨が降ってきて、二人で走ったこと。
何となく撮った夕焼け。
その時はどれも、特別だなんて思っていなかった。
ただの一日。
明日になればまた次の日が来る。
その程度だった。
そして三年生の春。
日菜に彼氏ができた。
水城颯真。
真面目で、やたらちゃんとしていて、最初は日菜とどうして付き合っているのか少し不思議に思った。
でも、日菜が颯真の話をする時の顔を見れば、すぐに分かった。
本当に好きなのだ。
茉白はそれを微笑ましく思っていたし、日菜が幸せならそれでいいと思っていた。
日菜が少しずつ勉強を始めて、進路の話をするようになって、颯真と将来のことまで考え始めた時、茉白の中にはうまく説明できない寂しさが生まれた。
自分だけが同じ場所に取り残されているような感覚だった。
あの時は、それを素直に認めることができなかった。
別に。
知らん。
そんな言葉で流していた。
それから、凪に会った。
一ノ瀬凪。
距離が近い。
何でもさらっと褒める。
いちいち言うことがメロい。
女慣れしてそう。
胡散臭い。
最初は本気でそう思っていた。
顔がいいことも、人気があることも分かったけれど、それ以上に、いちいちこちらの反応を楽しんでいるようなところが鬱陶しかった。
なのに、いつの間にか、凪が現れるだけでその日の空気が少し変わるようになった。
日菜や颯真とはまた違う。
自分でも気づかないところへ、凪だけがするりと入ってくる。
公園のベンチ。
模試の判定。
理学療法士。
中学時代の怪我。
サッカーを諦めた話。
学費。
奨学金。
それでもやりたいと言った夢。
『怖いよ』
いつも余裕そうに笑っていた凪が、初めてそんな言葉を口にした。
あの時、茉白は初めて知った。
笑っている人間が、本当に何も怖くないわけではない。
むしろ、怖いまま笑っていることだってある。
それでも前へ進もうとしている。
その姿を見て、自分も少しだけ未来を見てもいいのかもしれないと思った。
オープンキャンパス。
借りたカメラ。
階段の踊り場で撮った母娘。
日常を残す写真。
人がいる景色。
その人が、その時だけ見せる顔。
自分は、そういうものを見ることが好きなのかもしれないと気づいた夏。
それまで自分には何もないと思っていた。
夢も目標も、やりたいことも。
でも、好きかもしれない、その程度なら自分にもあった。
受験の季節。
日菜が頑張った。
颯真が頑張った。
凪も、模試の判定を少しずつ上げていった。
自分も、進路資料を開いた。
以前なら考えられなかったくらい、真面目に。
冬の駅前。
凪に抱きしめられた。
不意に、その時の体温まで思い出した。
茉白は小さく息を吐いた。
多い。
思っていたより。
ずっとたくさんあった。
自分は、高校生活に何かを期待していたわけではない。
青春したいとか、思い出を作りたいとか。
そんなことは一度も考えたことがなかった。
ただ毎日学校へ来て、日菜と話して、時々笑って、面倒な授業を受けて帰る。
それだけの三年間だったはずだ。
でも、こうして思い返してみれば何もなかった日なんて、ほとんどなかった。
どの日にも、何かしら残っている。
誰かの顔、声、匂い。
夕方の光。
くだらない会話。
その時は何でもなかったものばかりが、今になって妙に鮮明だった。
前の列で、日菜の肩がまた小さく震えた。
隣の生徒もハンカチで目元を押さえている。
体育館のあちこちから、鼻をすする音や小さな嗚咽が聞こえ始めていた。
茉白はまだ泣いていない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
けれど壇上が、ほんの少しだけ滲んで見えた。
瞬きをすると視界は戻った。
きっと暖房のせいだ
空気が乾燥しているだけ。
そういうことにしておこう。
卒業生代表の声が、静かな体育館に響いた。
『私たちは今日、この学校を卒業します』
その一文だけが不思議なくらい、まっすぐ胸の奥へ届いた。
―――卒業する。
今日で終わる。
明日から、もう高校生ではない。
この教室へ毎朝来ることも。
日菜が朝から「茉白ぉぉ」と騒ぎながら席へやってくることも。
廊下で篠原に呼び止められることも。
放課後の誰もいない教室で、窓の外の夕焼けを何となく撮ることも。
全部、今日で終わる。
茉白は、その事実を初めて本当の意味で理解した。
卒業することなんて、ずっと前から知っていた。
カレンダーにも書いてあったし、進路が決まった頃から何度も話題にもなった。
でも、知っていることと実感することは、全然違った。
寂しい。
たぶん、そうなのだと思う。
ただそれだけでは足りない気もした。
嬉しかったことも、少し苦しかったことも、置いていかれると思ったことも、誰かに会えてよかったと思ったことも。
全部ひっくるめて終わってしまうことが惜しい。
それに気づいた瞬間、もう「知らん」では誤魔化せない気がした。
※
うん、今回は一文ごとの細切れ感をかなり抑えて、段落の中で情景→行動→心情→会話が自然に流れる文章にするね。
特に「寂しいよ」は茉白の成長が最も端的に現れる台詞だから、そこへ至るまでを静かに積み上げる形で仕上げます。
※
卒業式を終えて教室へ戻る頃には、廊下には式典の厳かな空気から解放された生徒たちの声が溢れていた。
卒業証書の筒を手に友人同士で写真を撮る者もいれば、体育館からずっと泣き続けているらしく、赤くなった目元をハンカチで押さえながら歩いている者もいる。
反対に、普段以上の大声で笑っている生徒もいた。
誰もが今日で終わることを知っているからこそ、いつも通りに振る舞う方法が分からなくなっているようにも見えた。
茉白は日菜と並んで三年の教室へ戻り、自分の席へ向かった。
何百回と出入りした教室だった。黒板も、窓際の薄いカーテンも、少し傷のついた机も、後ろの掲示板も何一つ変わっていない。それなのに、これが最後だと思った途端、見慣れているはずのものが妙に目についた。
掲示板には、もう役目を終えた進路関係のプリントが何枚か残っている。
『推薦出願』『共通テスト』『面接練習』
去年の秋には、そこに書かれた文字を見るだけで未来を急かされているような気がした。何も決まっていなかった自分にとっては、どれも「早く選べ」と迫ってくる言葉にしか見えなかったのに、今ではすべて過ぎてしまった予定だ。
不思議なものだと思いながら、茉白は椅子を引いた。机の端へ卒業証書の筒を置き、腰を下ろす。
やがて最後のホームルームを告げるチャイムが鳴った。
何年間も聞き続けてきた、何の変哲もない音だった。普段なら意識すらしないのに、今日ばかりは鳴り終わった後の静けさまで耳に残った。
ほどなくして篠原が教室へ入ってきた。
いつもと同じスーツ姿で、教壇へ立つ仕草も変わらない。進路、課題、遅刻、提出物。これまで篠原がこの場所から話してきたことといえば、大抵そんなものだった。
模試の日程を忘れるな。提出期限を守れ。桃井、騒ぐな。黒瀬、寝るな。
そのたびに面倒だと思っていた声も、もう聞くことはなくなる。
そう考えると、少しくらい小言を言われてもよかったような気がしてしまうのだから勝手なものだ。
ところが当の篠原は、いつものように出席簿を開くでもなく、教壇に両手をついたまま、どこか困ったような顔で生徒たちを眺めていた。
「何を話すか、昨日まで考えてたんだが」
珍しく歯切れの悪い担任に、前の方の男子がすかさず声を上げた。
「先生、泣く?」
途端に教室のあちこちから笑いが起こる。篠原は眉間に皺を寄せ、いかにも心外そうな顔をした。
「泣かん」
「絶対泣くじゃん」
「泣かんと言ってるだろ」
別の女子が篠原の顔を覗き込むようにして、「でも先生、目赤くない?」と追撃すると、篠原は一瞬言葉に詰まった。
「……寝不足だ」
「嘘だー」
「うるさい。最後くらい担任の話を黙って聞け」
叱っているはずなのに、いつもの鋭さがない。そのことが余計におかしくて、教室には再び笑いが広がった。
茉白も口元を緩めながら篠原を見ていた。
教師だって卒業式には困るらしい。
三年間、散々偉そうに「自分で考えろ」と言ってきたくせに、最後に自分が何を言うかは昨日まで悩んでいたのだと思うと、少しだけ親近感が湧いた。
篠原は生徒たちの笑いが収まるのを待ってから、一度小さく息を吐いた。
「……三年間、長かったか?」
その問いに、教室の後ろからすぐに「短かった」という声が飛んだ。ほとんど同時に、別の場所からは「いや、長かった」という声も上がる。
篠原はその両方を聞いて、わずかに笑った。
「どっちでもいい。楽しかったやつもいれば、早く卒業したかったやつもいるだろうし、三年間ずっと同じ気持ちだったやつなんて多分ほとんどいない」
そこまで言うと、篠原は教室をゆっくりと見渡した。
いつもなら注意するべき生徒を探すために向けられる視線が、今日は一人一人の顔を覚えておこうとしているように見えた。
「ただ、今日から先は、お前らが自分で決めなきゃいけないことが今までよりずっと増える」
その声が少しだけ静かになったことで、教室から自然と笑いが消えていった。
「進学するやつもいる。就職するやつもいる。まだ迷ってるやつもいるだろうし、一度決めた進路を途中で変えるやつもいる。大学に入ってから違うと思うかもしれないし、なりたかった仕事に就いてから、向いてないと気づくことだってある」
篠原はそこでわずかに肩を竦めた。
「一回くらい失敗するやつも、多分いる」
教室のどこかから小さな笑いが漏れる。
「というか、おそらく全員、一回どころじゃない」
今度はもう少し大きな笑いが起こったが、篠原自身も薄く笑っただけで、すぐに続けた。
「それでいいんだ。十八で決めたことを、一生守り続けなきゃいけないわけじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、茉白の脳裏に三者面談の日の光景が蘇った。
好きだからといって、それを仕事にしなければいけないわけではない。趣味にしたっていいし、途中で変わってもいい。
あの日も篠原は、驚くほどあっさりそう言った。
茉白にとって「進路」は、一度選んだら後戻りのできない道のように思えていた。だから選ぶこと自体が面倒で、怖くて、考えないことで逃げていたところもあったのだと思う。
「ただし」
篠原の声がわずかに強くなった。
「考えることだけは、やめるな」
その瞬間、篠原の視線が一度だけ自分へ向いたような気がして、茉白は自然と顔を上げた。
「間違ってもいいし、迷ってもいい。一回決めたことを変えたって構わない。でも、自分が何を嫌だと思ってるのか、何が好きなのか、何なら少し頑張ってみてもいいと思えるのか、それくらいは自分で考えろ」
誰も喋らなかった。
窓の外から運動部らしい掛け声がかすかに聞こえてくる。彼らにとって今日は普通の一日なのだろう。
廊下の向こうから別のクラスの笑い声も聞こえたが、この教室の中だけは、不思議なくらい静かだった。
「周りと同じ道を選んだ方が安心することもあるし、誰かに決めてもらった方が楽な時もある。でも、その先を生きるのはお前らだからな。どうしたいか分からないなら、分からないなりに考え続けろ。それで十分だ」
茉白は篠原を見つめながら、春に言われた言葉を思い出していた。
―――考えることまで放棄するな。
あの時は、正直うざいと思った。
将来なんて分からない。やりたいことなんかない。分からないものについて考えろと言われたところで、答えようがない。
けれど今なら、篠原が何を言いたかったのか少しだけ分かる。
夢を決めろと言っていたわけではない。
未来を完璧に設計しろとも、何か立派な人間になれとも言っていなかった。
自分のことを、自分で考える。
何が好きなのか。何をやってみたいのか。
誰といたいのか。何を失ったら寂しいのか。
そういう小さな気持ちを、「知らん」の一言でなかったことにしない。
きっと、それだけだったのだ。
春の茉白には、それすら難しかった。
けれど今は、好きかもしれないものがある。
やってみたいこともある。
進んでみたい場所も、そこで見てみたい景色もある。
そして、自分とは違う場所へ進んだとしても、これからもそばにいてほしいと思える人たちがいる。
それだけでも、あの頃とは随分違っていた。
篠原はもう一度、生徒たちの顔を見渡した。何か言葉を探すようにわずかに口を開き、結局それ以上飾ることを諦めたらしく、小さく息を吐く。
「……まあ、これ以上言うと本当に泣くやつが増えそうだから、終わる」
「先生がでしょ」
すかさず飛んできた声に、篠原は眉を吊り上げた。
「黙れ」
いつもの言い方だった。
それが可笑しくて、また教室に笑いが広がる。
篠原も今度は止めなかった。騒がしくなる教室をしばらく眺めたあと、ほんの少しだけ表情を緩める。
「卒業、おめでとう」
たったそれだけだった。
けれど、その言葉が落ちた瞬間、教室は一度だけしんと静まり返った。
次いで、誰かが拍手をした。
一人、二人と続き、やがて大きな拍手が教室を満たす。
笑いながら泣き始める生徒もいれば、「先生ありがとう」と声を上げる者もいる。
篠原は照れ臭そうに片手を上げただけだったが、その目元が先ほどより赤くなっていることについては、もう誰も指摘しなかった。
そして茉白の前では、日菜が完全に泣いていた。
「うわぁぁぁ……」
ハンカチを両手で握り締め、肩を震わせながら泣いている。体育館でも十分泣いていたはずなのに、まだこれだけ涙が残っていたのかと感心するくらいだった。
茉白は思わず笑った。
「泣きすぎ」
「茉白ぉ……」
日菜が涙でぐしゃぐしゃになった顔を向けてくる。朝はあれほど丁寧だったメイクも、今となっては見る影もない。
「先生がぁ……」
「聞いてた」
「終わるぅ……高校終わるぅ……!」
途中からまた声が大きくなり、茉白は呆れたように眉を寄せた。
「うるさ。隣にいるんだから聞こえてる」
「だって終わるんだよ!? もうこの教室来ないんだよ!?」
「知ってるよ」
「茉白は寂しくないの!?」
その問いに、茉白はすぐには答えなかった。
以前の自分なら、考えるまでもなかったと思う。
別に。
そう言えば済んだ。
卒業なんて誰にでも来るし、学校が終わったところで人生が終わるわけでもない。日菜とだって会おうと思えば会える。そんなふうに理屈を並べてしまえば、「寂しい」と認める必要なんてなかった。
けれど今は、体育館で思い出した三年間がまだ胸の中に残っている。
この机も、黒板も、窓から見える校庭も今日で最後だ。
明日の朝になっても日菜はこの席へ来ないし、篠原の小言を聞くこともない。
放課後になれば何となく残っていた教室も、これからは自分たちの場所ではなくなる。
そう考えると、胸の奥が少し狭くなる。
茉白は泣いている日菜を見た。
いつも笑って、騒いで、何でも大袈裟で、恋人ができてからも変わらず自分のところへやって来た親友。
進路が別々になっても、日菜を失うわけではない。
それでも今までと同じではなくなる。
それが寂しい。
もう、その気持ちまで知らないふりをする必要はないのだと思った。
「……寂しいよ」
静かに口にすると、日菜の泣き声がぴたりと止まった。
「……え?」
涙で濡れた目を丸くしている。
茉白はその顔がおかしくて、少しだけ口元を緩めた。
「何」
「今、寂しいって言った?」
「聞こえたでしょ」
「もう一回言って」
「やだ」
「茉白!」
日菜は泣いているのか笑っているのか分からない顔になり、そのまま勢いよく茉白へ抱きついてきた。
予想していなかった衝撃に椅子がわずかに鳴り、茉白は反射的に机へ手をつく。
「ちょ、重い」
「今日くらいいいじゃん!」
「メイクつくんだけど」
「もう全部終わってるからいいの!」
「それは知ってる」
「ひどい!」
日菜は文句を言いながらも離れる気配がなく、茉白の肩へ顔を押しつけている。
いつもなら、暑いだの重いだの言ってすぐに引き剥がしていただろう。
でも今日は、そうしなかった。
腕の中にある制服の感触も、肩口で聞こえる泣き声も、抱きつかれたせいで少し乱れた髪も、何となく覚えておきたいと思った。
茉白は一瞬だけ迷ったあと、日菜の背中へ腕を回した。
その動きに気づいたのだろう。日菜がわずかに身体を止める。
けれど何も言わず、次の瞬間には先ほどより強く抱きついてきた。
「……茉白」
「何」
「大好き」
耳元で聞こえた言葉に、茉白は少しだけ目を細めた。
日菜は昔からこうだ。
好きなものを好きと言う。
寂しければ寂しいと言う。
嬉しければ全力で喜んで、悲しければ人前でも泣く。
茉白にはできなかったことを、この親友はずっと当たり前のようにやってきた。
だから、たぶん、自分も少しずつ覚えたのだ。
寂しい時は、寂しいと言ってもいい。
大切なものを、大切だと思ってもいい。
「……知ってる」
結局、返した言葉はいつもの茉白らしく素っ気なかった。
けれど日菜の背中へ回した腕は、そのままにしておいた。
「茉白も言ってよぉ」
「調子乗んな」
「親友の卒業式だよ!?」
「ウチも卒業式なんだけど」
「じゃあ言って!」
「やだ」
「茉白ぉぉぉ!」
また始まった、と茉白は笑った。
その声に気づいた日菜も、泣きながら笑う。
教室の中では、あちこちで写真を撮る声が飛び交い始めていた。
担任と握手をする生徒、黒板へ寄せ書きを始める生徒、もう一度泣き出す生徒。春の光が窓から斜めに差し込み、見慣れた机や椅子を柔らかく照らしている。
いつもの教室と、ほとんど変わらない。
騒がしくて、誰かが笑っていて、くだらないことで声が上がる。
それなのに、これが最後だった。
茉白は日菜を抱き返したまま、窓の向こうへ目を向けた。
校庭には穏やかな春の光が落ち、風に揺れた木々の枝が、地面へ淡い影を作っている。
終わってしまう。
寂しい。
そんなふうに思えるくらいには、この三年間が自分にとって大切だったのだ。
春にはそのことさえ知らなかった。
何が好きなのかも、何をしたいのかも、誰と離れるのが寂しいのかも考えず、何を聞かれても「知らん」で済ませていた。
今も未来のすべてが分かるわけではないし、分かりたいとも思わない。
ただ、自分の中に生まれた気持ちくらいなら、もう無視しなくてもいい。
茉白は泣きじゃくる日菜の背中を、今度は自分から一度だけ優しく撫でた。
それに気づいた日菜がまた何か言おうと顔を上げたので、茉白は先回りするように半眼を向ける。
「何も言うな」
「まだ何も言ってない!」
「顔がうるさい」
「顔!?」
いつものように日菜が騒ぎ、茉白は声を立てて笑った。
最後の教室に響いたその笑い声は、これまで撮ってきたどんな写真にも残っていない。
だからこそ茉白は、忘れたくないと思った。
写真に残せなくても、きっと覚えていられる。
そう思えるくらいには、この三年間を、ちゃんと好きになっていた。




