エピローグ 明日のことくらいなら
最後のホームルームが終わった途端、教室の空気は見事なくらい崩れた。
さっきまで篠原の話を神妙な顔で聞いていた生徒たちが、今度は机を寄せ、椅子を引き、卒業証書の筒を片手に写真を撮り始める。
黒板の前では寄せ書きが増え続け、動画を回す者、制服のボタンを交換する者、花束を抱えたまま泣き笑いしている者までいて、教室のあちこちから名前を呼ぶ声が飛び交っていた。
篠原もいつの間にか生徒たちに囲まれている。
つい数分前まで「自分で考えろ」と教師らしい顔をしていたのに、今は肩を組まれ、写真を撮られ、寄せ書きまで求められている。
迷惑そうにしながらも本気では振り払わないあたりが、いかにも篠原らしかった。
その騒がしさを眺めていた茉白へ、不意に声が飛んできた。
「黒瀬、写真撮って!」
見ると、クラスメイトの女子がスマホを差し出している。
「なんでウチ」
「だって黒瀬、写真うまいじゃん。お願い!」
茉白は少し眉を寄せたものの、結局その端末を受け取った。
「知らんけど」
そう言いながら、窓から入る光を見て立ち位置を変える。
「そっち、もうちょい寄って」
「え、こう?」
「うん。そのまま」
シャッターを切る。
確認する間もなく、今度は別のグループから呼ばれた。
「黒瀬、こっちも!」
「はいはい」
友達同士。
女子だけ。
男子だけ。
篠原と生徒。
日菜。
クラス全員。
頼まれるたびに面倒そうな顔はするくせに、茉白は一度も断らなかった。
誰かの笑い方。
隣を見る顔。
肩を寄せる瞬間。
泣きながら笑う表情。
そういうものがレンズの向こうに見えるたび、自然と指が動いた。
気づけば、何十枚も撮っていた。
「茉白」
ひと息ついたところで、日菜がすっと顔を覗き込んでくる。
「何」
「撮る側ばっかじゃん」
「いいじゃん」
「よくない。茉白も入ろ!」
「別に」
いつものように返した途端、日菜が待ってましたと言わんばかりに指を差した。
「出た!」
「何が」
「すぐ自分だけ外に出るやつ!」
「今は違う意味なんだけど」
「知らん! 来て!」
反論する間もなく腕を取られ、そのままクラスメイトの輪へ引きずり込まれる。
中央には篠原がいて、その周囲を生徒たちがぎゅうぎゅうに囲んでいた。
「黒瀬、もっと寄れ」
「狭い」
「卒業生最後列、詰めろ!」
「日菜、押すなって」
「入って入って!」
「痛い」
文句を言いながらも、茉白は結局その場に収まった。
前方では誰かがスマホを構え、声を張る。
「撮るよー!」
その瞬間、日菜が当然のように茉白の肩へ頭を乗せた。
「重い」
「そのまま!」
「日菜」
「茉白、笑って!」
「無理」
「茉白!」
呆れて日菜の方を見た、その瞬間。
シャッター音が鳴った。
続けてもう一枚。
撮影が終わり、同級生が画面を見せに来る。
そこには、日菜に押しつけられながら、ほんの少しだけ笑っている自分がいた。
以前なら、こんな顔を撮られたこと自体が、少し気恥ずかしかったかもしれない。
笑っている自分を見せることも、写真の中へ入ることも、どこか落ち着かなかった。
けれど今は、隣で思いきり笑っている日菜と、その向こうで珍しく柔らかい顔をしている篠原を見ながら、素直に思った。
「……悪くない」
*
昼を過ぎる頃には、あれほど騒がしかった教室からも、少しずつ人が減り始めた。
保護者と帰る者。
そのまま友人と遊びに行く者。
最後に部活へ顔を出すと言って、制服姿のまま廊下を駆けていく者。
椅子を引く音や別れの挨拶がひとつずつ遠ざかるたびに、教室は少しずつ、本来の広さを取り戻していった。
「茉白」
鞄を肩にかけた日菜が、まだ席に残っている茉白を振り返る。
「ん」
「颯真くん、来てるって。校門」
「へえ。よかったじゃん」
「凪くんも」
その名前に、茉白はわずかに視線を上げた。
「……いるの」
「いる!」
日菜の口元が、にやりと上がる。
「何その顔」
「別にぃ?」
「うざ」
「一緒に行こ」
いつもなら、そのまま立ち上がっていたかもしれない。
けれど茉白は、静かになり始めた教室を一度見渡した。
「先行ってて」
日菜が目を瞬く。
「え?」
「ちょっとだけ。あとで行く」
その言葉の意味を、日菜はすぐに察したようだった。
何か言いかけた唇を閉じ、代わりに柔らかく笑う。
「うん。じゃあ校門いるね」
「分かった」
「絶対来てね」
「行くって」
それでも日菜は、扉の前でもう一度だけ振り返った。
「置いてかないから」
その言葉に、茉白はほんの少しだけ目を細める。
春なら、きっと別の意味で受け取っていた。
置いていかれる。
日菜だけが先へ進んでいく。
そう思っていた頃が、確かにあった。
けれど今は。
「……うん」
素直に頷けた。
日菜が教室を出ていき、扉が閉まる。
そこで初めて、茉白は本当に一人になった。
*
卒業式のあとの教室は、朝よりもずっと静かだった。
机の上には、誰かの花束から落ちたらしい小さな花びらが残り、床には細いリボンが一本転がっている。
黒板には大きく『卒業おめでとう』と書かれ、その周りをクラス全員の名前や寄せ書きが埋め尽くしていた。
さっきまであれほど騒がしかったのに、今は窓から入る春の風がカーテンを揺らす音しか聞こえない。
茉白は、ゆっくり教室の中を歩いた。
日菜の席。
自分の席。
黒板。
窓。
後ろの掲示板。
春、この教室で日菜から「彼氏できた」と聞かされた。
あの日の自分は、まさか高校生活の最後がこんなふうになるとは思っていなかった。
日菜が変わっていくことが、少し寂しかった。
その寂しさを認められなくて、喧嘩もした。
凪に会った。
距離が近くて、いちいち言うことがメロくて、最初は本気でうざいと思った。
けれど少しずつ知っていった。
いつも笑っている凪の弱いところも。
怖いと言いながら、それでも自分の夢へ進もうとする強さも。
そんな誰かを見ていたからこそ、自分の中にも好きなものがあることに気づけた。
その時には気づかず、終わってから大事だったと分かるもの。
茉白はスマホを取り出した。
誰もいない教室へカメラを向ける。
画面の中にあるのは、ただの机と椅子と黒板だった。
それでも茉白には、その向こうにたくさんのものが見えた。
日菜の笑い声。
篠原の小言。
机へ突っ伏して眠る自分。
進路資料。
くだらない会話。
何でもない放課後。
もう、ここにはない。
でも、確かに、あった。
茉白は一度だけシャッターを切った。
「……終わんの、早」
ぽつりと漏れた声が、自分で思っていたより少し震えていた。
次の瞬間、視界がわずかに滲む。
「あー……」
茉白は困ったように笑い、片手で目元を押さえた。
「……これか」
ようやく、日菜が泣く理由が少し分かった。
楽しかったから終わってほしくない。
大事だったから寂しい。
きっと、それだけのことだった。
以前なら、そんな感情を少し馬鹿にしていたかもしれない。
今はもう、自分の中にもちゃんとある。
「……やば」
涙を拭いながら小さく笑い、最後に自分の机へ指先を触れる。
毎日使っていた、ただの机。
それなのに、離れ難かった。
「じゃ」
誰もいない教室へ向かって、茉白は少しだけ迷った。
「……またね」
もう戻ってくる場所ではないのに、さよならではなく、なぜかその言葉を選んだ。
扉を閉める。
*
校門へ向かうと、三人の姿はすぐに見つかった。
泣き腫らした顔の日菜と、その隣で苦笑している颯真。
少し離れたところには凪がいて、茉白を見つけた瞬間、いつものように目元を柔らかくした。
「遅い」
「ごめん」
近づくなり、日菜が茉白の顔を覗き込んでくる。
「茉白……泣いた?」
「泣いてない」
「目赤い!」
「花粉」
「今日!?」
「今日」
「嘘!」
日菜が途端に嬉しそうに騒ぎ出し、茉白は露骨に顔をしかめた。
「水城、こいつ止めて」
「無理です」
颯真は一切迷わずそう答えると、隣の日菜を見て小さく息を吐いた。
「今日は特に」
「彼氏でしょ」
「彼氏でも無理なものは無理です」
「颯真くん!」
抗議する日菜に、颯真は慣れたように「はい」と穏やかに返す。
「ハグして!」
「分かったから落ち着いて。後でね」
「するんだ」
茉白が即座に拾うと、颯真の耳がうっすら赤くなった。
「黒瀬さん、今日はもう勘弁してください」
「耳赤いよ」
「一ノ瀬」
「俺、何も言ってないけど」
突然振られた凪が、とうとう堪えきれずに笑った。
四人の間に戻ってきたのは、いつもの空気だった。
―――でも。
制服姿で学校の前にこうして並ぶのは、今日が最後になる。
「ね、写真撮ろ!」
日菜がスマホを高く掲げる。
「また?」
「四人で! 校門の前ではまだ撮ってない!」
「何枚撮るの」
「無限!」
「容量死ぬ」
「いいから!」
結局、茉白も日菜たちと並んだ。
日菜の隣に颯真。
茉白の隣には凪。
いつもよりわずかに距離が近い凪へ、茉白が横目を向ける。
「近い」
「離れる?」
すぐにそう聞かれ、茉白は少しだけ考えた。
「……そこまでじゃない」
凪の口元が嬉しそうに緩む。
「じゃ、このくらい?」
「うん」
「触っていい?」
「いちいち聞くね」
「大事だから」
その一言に、茉白はほんの少し視線を逸らした。
「……肩なら」
凪の腕が、そっと茉白の肩へ回る。
触れ方は軽い。
逃げようと思えばいつでも離れられるくらいの距離。
そういうところが、凪だった。
それを見た日菜が「うわ」と声を上げかけたので、茉白は即座に睨んだ。
「何」
「何でもない!」
「顔がうざい」
「茉白も手!」
「何」
「凪くんに!」
「何で」
「バランス!」
「意味分かんない」
「卒業式!」
「便利だな、その言葉」
日菜が笑う横で、颯真が校門前の台へスマホを置き、慣れた手つきでタイマーを設定した。
「撮るぞ」
「待って、泣いた顔直す!」
「今さらです」
「颯真くん冷たい!」
「三」
「待って!」
「二」
「茉白、笑って!」
「無理」
「一」
その瞬間。隣の凪が、茉白にだけ聞こえるくらいの声で囁く。
「卒業おめでとう」
不意打ちだった。
茉白は思わず凪を見る。
凪が笑う。
その顔につられるように、茉白の口元も自然に緩んだ。
シャッター音。
写真の中で、日菜は目を真っ赤にしながら笑っていた。
颯真も穏やかに笑っている。
凪も、茉白の肩へ腕を回したまま笑っている。
そして茉白も、ちゃんと笑っていた。
誰一人完璧な顔ではない。
日菜の目元は泣き腫らしているし、颯真の髪も少し乱れている。凪だっていつもの余裕たっぷりの表情ではなくて、少しだけ幼く見えた。
「……いいじゃん」
茉白が呟くと、日菜がすぐ画面へ顔を寄せる。
「ほんとだ!」
颯真も覗き込み、静かに目を細めた。
その横で凪だけは、写真ではなく茉白を見ていた。
「何」
気づいて尋ねると、凪は少しだけ笑った。
「いや。茉白、すげえいい顔してるなって」
「写真の話?」
「本人」
「メロ」
「最後の日も言われた」
苦笑する凪へ、茉白はほとんど考えずに返した。
「最後じゃないでしょ」
凪の表情が止まる。
「……え?」
「何」
「今、最後じゃないって」
「そうでしょ」
茉白は少し不思議そうに首を傾けた。
「卒業するだけじゃん」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
春、日菜に彼氏ができた頃。
自分との時間が減っていくことを、失うことだと思った。
置いていかれるような気がした。
けれど今は違う。
卒業しても、日菜は日菜だ。
颯真も、凪も、いなくなるわけではない。
会う回数は減るかもしれない。
それぞれ別の学校へ進み、生活の時間も少しずつ変わっていく。
でも、終わるわけではない。
「……茉白」
日菜がまた泣きそうな顔になる。
「泣くな」
「だって茉白がいいこと言うから!」
「普通のことでしょ」
「前の茉白なら言わなかった!」
「知らん」
「言わなかったもん!」
とうとう日菜は堪えきれず、また茉白へ抱きついた。
「卒業してもマブだからね!」
「知ってるし」
「絶対遊ぼうね!」
「うん」
「連絡してね!」
「お前がするでしょ」
「するけど、茉白もして!」
そこだけは譲るつもりがないらしい日菜に、茉白は少しだけ笑った。
「気が向いたら」
「して!」
いつもなら、そのまま適当に流していた。
どうせ日菜から連絡が来る。
その時返せばいい。
そう思って終わっていたはずだった。
けれど今日は、茉白は少しだけ考えてから。
「……する」
そう答えた。
日菜の動きがぴたりと止まる。
「今、するって言った?」
「言った」
「約束!」
日菜が嬉しそうに小指を差し出す。
茉白はその指を見た。
以前なら、未来の約束なんて面倒だと思ったかもしれない。
どうなるか分からないのに。
守れる保証もないのに。
けれど今は、不確かなものを不確かだからという理由だけで、全部拒まなくてもいいと思える。
日菜とまた遊ぶ。
颯真が教壇に立つ姿を見る。
理学療法士になった凪を、自分の手で撮る。
自分もその時、カメラを持っているかもしれない。
分からない何ひとつ、決まってはいない。
数年先なんて何も分からない。
それでも見てみたい未来がある。
茉白は、日菜の小指へ自分の指を絡めた。
「うん。約束」
その言葉は、以前よりずっと簡単に口から出た。
春の光の中、四人の笑い声が校門の前に重なる。
卒業した。
ひとつの時間は確かに終わった。
けれど、終わったからといって、全部がなくなるわけではない。
今日撮った写真の外側にも、この先は続いていく。
茉白はもう一度、スマホの画面へ目を落とした。
そこには、泣いて、笑って、少し不格好な四人がいる。
完璧ではない。
だからこそ今しか撮れなかった一枚だった。
その真ん中で笑っている自分を見ても、もう恥ずかしいとは思わなかった。
むしろこんな顔をしている自分ならこの先も案外、悪くないかもしれない。
茉白はほんの少しだけ目を細め、画面の中の四人を見つめた。
写真は、その瞬間を残す。
けれどそこに写った人たちの時間まで止めるわけではない。
日菜も、颯真も、凪も、自分もこの先へ進んでいく。
それでいい。
また会えばいい。
また笑えばいい。
残しておきたいと思った時にはまた撮ればいい。
そう思えるようになったことが、この三年間で茉白が手に入れた、一番大きな変化なのかもしれなかった。
遠い未来なんて分からない。今知りようもない。
その時隣に誰がいるのかもわからない。でも、明日は。明後日は。そんなちょっと先のことくらいなら。
茉白は凪を見上げる。
気がついた凪が柔らかく微笑む。
そっとその手に指を絡めた。
凪が目を見開く。茉白はちょっと笑った。
きっとこうして過ごして行くのだと思う。
未来が分からなくても、今の茉白は、明日のことくらいは知っているから。
【終】




