7 それがきちんと寂しい
夏休みが終わる頃、夕方の空に少しだけ秋の色が混じり始めていた。
二学期が始まって一週間。教室の黒板は、進路関係の予定で埋まっている。
『推薦出願締切』
『共通テスト出願』
『専門学校AO』
『模試』
『面接練習』
『進路面談』
窓際の席で、茉白はそれを眺めた。
「……圧」
隣の日菜が笑う。
「分かる」
「黒板から未来が迫ってくる」
「逃げられないよ」
「こわ」
日菜は声を抑えながら言った。
「茉白も人のこと言えないじゃん。この前、また学校を見に行ったんでしょ?」
「……行ったけど」
「二校目!」
「比較」
茉白の机の横には、学校やオープンキャンパスの資料が入ったファイルがある。
「持ってるだけ」
「二回も行ってるし、先生にも相談したし」
「たまたま」
「出た、“たまたま”!」
茉白はむっとしてファイルを閉じた。
「うざ」
「褒めてるのに」
そう言いながらも、茉白自身、以前とは変わったと分かっていた。
春の頃は、進路希望調査も未定ばかり。将来のことなど考えたくなかった。
けれど今は、写真・映像系の学校を二校見に行き、授業内容や実習環境、機材、学費、卒業後の進路まで調べている。
まだ、どこへ行くかは決まっていない。
写真か映像か、大学か専門学校か、それを仕事にしたいのかも分からない。
それでも、「知らないから見ない」のはやめた。
分からないなら、見てから考える。
それだけでも、茉白にとっては大きな変化だった。
「で、日菜は第一志望、決まった?」
日菜は鞄からパンフレットを取り出し、茉白の机に置いた。
「ここ!」
保育系の学校だった。
「実習が多いところ。保育園や幼稚園との連携もあるの」
「遠い?」
「一時間二十分!」
「誤差」
「二十分だよ!?」
言い合いながら、二人は笑った。
その顔を見て、茉白は思う。
日菜が自分の知らない学校へ行き、知らない友達と過ごす。卒業すれば、会う回数も減るだろう。
以前は、それを「失う」ことだと思っていた。
けれど今は違う。
日菜は、日菜の行きたい場所へ進む。
自分も、自分の行きたい場所を探している。
同じ道を歩くことだけが、一緒にいることではない。
「受かるといいね」
日菜がぴたりと止まった。
「茉白が普通に応援してくれたから」
「前からしてるじゃん」
「今の方が、一緒に頑張ってる感じがする」
茉白は返事ができなかった。
目指すものも、進む道も違う。それでも日菜は、一緒に頑張っていると言った。
日菜には日菜の道がある。
颯真にも、凪にも。
そして自分にも、まだぼんやりしているけれど、道らしきものができ始めている。
同じ場所へ向かわなくても、同じ速度でなくても、それぞれの場所で前へ進めばいい。
「……何、その顔」
「別に」
「嬉しそう」
「気のせい」
そのとき、担任が教卓を叩いた。
「そこ、二人。話を聞けよ」
日菜が頭を下げ、茉白は黒板へ視線を戻す。
黒板には、締切、出願、模試、面接の文字が並んでいる。
さっきはただの圧だった。
けれど今は、その向こうに日菜の学校、颯真の志望、凪の目指す仕事、そして自分の未来がある。
全部、同じではない。
だからこそ、少しだけ楽しみだった。
茉白は進路ファイルを、もう一度開いた。
隣の日菜は何も言わず、嬉しそうに笑っていた.
※
秋が近づくにつれて、四人で集まる場所も少しずつ変わっていった。
春は、ゲームセンターやカフェだった。
学校帰りに気軽に立ち寄り、クレーンゲームに熱中したり、ショッピングモールを目的もなく歩いたりした。誰かが「暇」と言えば集まり、特に目的もなく時間を過ごしていた。
夏になると、公園や本屋、駅前へと場所が移った。
日菜が颯真との予定を優先して途中で抜けたり、凪が当然のように茉白の隣についてきたりして。
それでも四人で過ごす時間には、まだ「放課後」の延長のような気楽さがあった。
そして夏が終わり、秋が近づいた今。
ファミリーレストランの四人掛けテーブルには、ドリンクバーのグラスとポテトの皿だけではない。
四人分の参考書。
模試の結果。
大学や専門学校のパンフレット。
筆箱。
色の違う付箋。
ノート。
そうしたものが、所狭しと広がっていた。
少し離れた席では、小さな子どもがパフェを食べながら笑っている。
厨房からは食器の触れ合う音が聞こえ、店内にはハンバーグの匂いが漂っていた。
そんな休日らしい空間の一角だけが、完全に受験生の机と化している。
茉白はシャーペンを指先で転がしながら、目の前の光景を眺めた。
「……青春どこいった」
心の底から呟いた。
向かいに座る日菜が、単語帳から顔を上げる。
「ここ」
そう言って得意げに英単語帳を持ち上げた。
茉白は真顔でそれを見る。
「ないじゃん」
「あるよ! 受験も青春!」
「それを青春って言わないと、やっていられないだけじゃない?」
日菜の顔から元気が消えた。
「茉白ぉ……」
「図星?」
「もう英語無理」
日菜は力尽きたように机へ突っ伏した。
開かれた単語帳の上に頬を乗せ、完全に勉強を放棄する。
その隣で問題集を開いていた颯真が、視線すら上げずに言った。
「まだ始めて二十分だろ」
「二十分もやった!」
「二十分しか、だ」
「颯真くん厳しい!」
ようやく颯真が顔を上げる。
その表情には、恋人への甘さよりも家庭教師としての厳しさが勝っていた。
「昨日も同じところを間違えていたから」
日菜が勢いよく身体を起こした。
「覚えてるの怖い!」
「教えている側だから覚える」
「忘れてよ!」
「何のために教えているんだ」
あまりにも正論だった。
日菜は一瞬言葉に詰まったものの、すぐに両手を胸の前で合わせる。
「愛で許して」
颯真は瞬きひとつせず答えた。
「愛と文法は別」
「名言みたいに言わないで!」
そのやり取りを向かいから眺めていた茉白は、ストローを咥えたまま吹き出した。
アイスティーの氷が、グラスの中でからりと鳴る。
「水城、先生になったらモテそう」
突然話を振られた颯真が、露骨に嫌そうな顔をした。
「何でそうなるんですか」
「真面目系の若手教師」
「やめてください」
「女子高生にキャーキャー言われるやつ」
茉白が面白半分に続けると。
颯真はほんの少しも迷わなかった。
「日菜いるんで」
その場の空気が、一瞬だけ止まった。
いや、正確には日菜だけが止まった。
目を丸くしたまま、隣の恋人を見上げている。
「……颯真くん」
「何」
「好き」
「はいはい」
「反応薄い!」
「今、勉強中だから」
まるで何事もなかったかのように、颯真は問題集へ視線を戻す。
けれど向かいに座っている茉白からは、よく見えた。
「でも耳赤いよ」
颯真の手が止まった。
ゆっくり顔だけが上がる。
「黒瀬さん」
「何」
「黙って」
茉白はストローを指で弄びながら、少しだけ口元を上げた。
「当たり?」
「黙って」
二度言った。
その横から抑えきれない笑い声が漏れる。
凪だった。
英語の問題集を開いてはいるものの、先ほどからページはほとんど進んでいない。
「颯真、分かりやすい」
「一ノ瀬は勉強しろ」
「してる」
「してない。さっきから黒瀬さんしか見ていないだろ」
図星を刺されたにもかかわらず凪はまったく悪びれずちらりと隣を見る。
茉白と目が合うと、嬉しそうに笑った。
「見ながらでもできる」
「できるか」
颯真が即座に切り捨てる。
茉白も続けた。
「こっち見なくていいから」
「えー」
「えーじゃない」
茉白は自分の参考書へ視線を戻した。
けれど隣からの視線は消えない。
しつこい。
無視して問題文を読もうとするものの、これだけ堂々と見られると集中できない。
「何」
耐えきれず茉白は顔を上げた。
凪は少し首を傾げる。
それからごく自然な調子で言った。
「でも今日、ちょっとかわいい」
またか。もはや何度聞いたか分からない。
服を変えればかわいい。
髪型が違えばかわいい。
眠そうでもかわいい。
笑えばかわいい。
機嫌が悪くても、それはそれでかわいい。
凪にとって自分は一体いつかわいくないのだろう、とそんなことを考えた瞬間だった。
「今日“も”じゃないの」
言葉がするりと口から出た。
「……」
茉白自身が止まった。
凪も止まった。
向かいの颯真も。
日菜も。
一瞬、テーブルの時間だけが停止したように、静かになった。
ファミリーレストランのざわめきだけが妙に遠く聞こえる。
子どもの笑い声。
皿の音。
店員の「いらっしゃいませ」。
そして、四人の沈黙。
茉白はゆっくり瞬きをした。
―――今何て言った。
今日もじゃないの。
つまり、いつもかわいいと言え。
そういう意味になる。
「……」
茉白は眉間に皺を寄せた。
自分で言った言葉なのに。
意味を理解した瞬間、妙に居心地が悪くなった。
「……何」
先に周囲を威嚇することにした。
しかし一番先に復活した日菜がにやあと音が聞こえるような、どう考えてもろくでもない笑みを浮かべた。
「今の何!?」
「何が」
「“今日もじゃないの”って!」
「言い間違い」
「言い間違いでそんなの出る!?」
「出る」
「出ないよ!」
「出たじゃん」
「そういう意味じゃなくて!」
日菜がとうとう机を軽く叩いて笑い始めた。
「茉白! 茉白、それもう――」
「うるさい」
「だって!」
「うるさいって」
茉白が半眼で睨む。
けれど日菜の笑いは止まらない。
向かいでは颯真が額を押さえていた。
何に呆れているのかは分からない。
たぶん全部だ。
そして凪だけは何も言わなかった。
ただ茉白を見ていた。
笑っていた。
いつもの人をからかうような笑い方ではない。
驚いてそのあと隠しきれないほど嬉しくなってしまったような、ものすごく幸せそうな顔。
それが余計に恥ずかしい。
「……何その顔」
茉白が睨む。
凪は口元を押さえた。
「いや」
「言えよ」
「今、受験が終わってもいいくらい幸せ」
「終わるな」
即答だった。
横で颯真が深く頷く。
凪はまったく気にせず、少し身体を茉白側へ寄せた。
「じゃ、もう一回言って」
「死ね」
「落差」
「勉強しろ」
茉白は強引に会話を終わらせ、参考書へ視線を落とした。
文字を追う。追おうとする。
けれど全然頭に入ってこない。
さっき自分が言った言葉だけが、脳内で何度も再生されている。
―――今日“も”じゃないの。
何であんなこと言った。
「……」
頬杖をつくふりをして片手で耳を隠す。
少し熱い。
たぶん、気のせいではない。
最近こういうことが増えた。
以前なら凪が『かわいい』と言っても。『好き』と言っても『会いたい』と言っても全部『はいはい』
で終わった。
凪は誰にでも距離が近い。
そういう男だと思っていた。
軽い。
メロい。
口がうまい。
だからまともに受け取る必要なんてない。
そう思っていた。
でも今は少しだけ違う。
『かわいい』と言われるとどういう意味で言ったのか考える。
『好き』と言われると、以前のようにすべて冗談だとは思えない。
『会いたい』と届けば返信するまでほんの数秒だけ言葉を選ぶ。
そして自分から会いたいと思っている日もあることに最近気づいてしまった。
それが困る。
ものすごく困る。
凪は何も変わっていない。
相変わらずよく笑う。
相変わらず茉白を見る。
相変わらず軽口を叩いて、相変わらず「好き」と言う。
変わったのはたぶん自分の方だ。
以前なら通り過ぎていた言葉が今は引っかかって残る。
ときどき嬉しい。
そこまで考えたところで茉白は眉を寄せた。
―――だる。
恋愛なんてやっぱり面倒だ。
好きなのか。
違うのか。
付き合いたいのか。
どうしたいのか。
考え始めればまた大きな答えを求められるような気がする。
だからまだ決めなくていい。
好きかも、で、いい。
以前凪がくれた言葉を今度は自分に使う。
茉白はそっと息を吐いた。
「……黒瀬さん」
向かいから颯真の声が飛んできた。
茉白は顔を上げる。
「何」
颯真が茉白の手元を指した。
「そこ、五分くらい同じ問題を見ていますけど」
「……考えてる」
「問題を?」
横から凪が笑いながら口を挟む。
「俺のことじゃなくて?」
茉白は無言でシャープペンシルを持ち上げた。
「刺すよ」
「怖」
「嬉しそうにするな」
「茉白に構ってもらえたから」
「チョロ」
「知ってる」
凪はそう言って笑い今度こそようやく問題集へ視線を戻した。
茉白も小さく息を吐いてから参考書へ向き直る。
向かいでは日菜が英単語と格闘していて、隣では颯真が、その間違いを黙々と直している。
凪は数分に一度こちらを見る。
茉白はそのたび気づかないふりをする。
四人のテーブルには。
参考書。
模試の結果。
学校案内。
筆箱。
進路。
受験。
未来。
春にはなかったものばかりが並んでいる。
遊ぶ時間は減った。
会えば勉強することが増えた。
少し前までならつまらなくなったと思ったかもしれない。
でも不思議と悪くなかった。
同じ場所へ進むわけではない四人。
それでも今は同じテーブルでそれぞれの未来へ向かって勉強している。
たまに笑って。
からかって。
恋人同士がいちゃついて。
誰かが誰かを見すぎて怒られて。
そんな時間もきっと、あとから振り返ればちゃんと青春なんだろう。
もっとも十八歳の黒瀬茉白はそんな綺麗なことを口にするつもりなどまったくない。
だから英語の長文を見つめながら小さく呟く。
「……やっぱ青春どこいった」
日菜が顔を上げる。
「だからここ!」
「ないって」
「ある!」
二人の声に颯真がため息をつき、凪が笑う。
秋の夕暮れがファミレスの大きな窓から差し込んで、四人分の参考書と四人それぞれの未来を柔らかく照らしていた。
*
「茉白」
隣から名前を呼ばれ、茉白は参考書から顔を上げた。
「何」
「ここ」
凪が、自分の前に開いていた問題集の一箇所をシャープペンシルの先で示す。さっきまで散々茉白を見て颯真に怒られていたくせに、今度は一応、勉強する気になったらしい。
「分かる?」
「分かんない」
「どこから?」
茉白は問題文を一度眺めた。
英文、設問、選択肢。
数秒考えた末、潔く答える。
「全部」
凪が吹き出した。
「前と同じじゃん」
「成長してない」
「じゃ、一個ずつやろ」
「だる」
即答すると、凪は少し考えるように視線を上げた。
そして、いかにも茉白の扱いを心得ているという顔で言う。
「終わったらアイス奢る」
「やる」
「即答」
「人は報酬で動く」
茉白が当然のようにシャープペンシルを持ち直すと、凪は声を立てずに笑った。
「偉い」
「子ども扱いすんな」
「じゃあ」
凪は椅子を少し引き寄せた。
肩が触れるほどではない。
けれど、問題集を二人で見るには十分近い距離。
それから、悪戯を思いついたように目を細める。
「終わったらデート」
「やらない」
「何で」
「報酬になってない」
「俺にはなる」
「知らん」
あまりにも迷いなく返す茉白に、凪は「そっかあ」と残念そうに笑った。
ただし、本気で落ち込んでいるようにはまったく見えない。
「じゃ、茉白の行きたいとこ」
「ない」
「写真撮れるとこ」
その言葉に、問題集の上を滑っていた茉白の指が、ほんの少し止まった。
以前なら、それでも「ない」で終わっていたかもしれない。
けれど今は、少しだけ考えてしまう。
「……どこ」
「水族館とか」
「暗くない?」
「でも光、綺麗じゃん」
青い水。暗い館内。水槽から漏れる光。泳ぐ魚の影。
頭の中に浮かべてみる。
確かに綺麗かもしれない。
けれど、茉白はすぐ現実的な問題を口にした。
「撮りづらそう」
「じゃ街歩き」
「暑い」
「秋だよ」
「人多い」
「早朝」
「眠い」
一つ提案するたびに潰され、凪はとうとう笑った。
「難しいなあ」
「ウチを誘う方が悪い」
「でも行く?」
何気なく聞かれた。
だから、茉白も何気なく答えた。
「……受験終わったら」
言ったあと、問題集へ視線を落とす。
けれど、隣から何も返ってこない。
おかしいと思って顔を上げると、凪が妙な顔をしていた。
目を少し見開いて、本当に予想していなかったことを言われたように。
「何」
「今」
「何」
凪の表情が、ゆっくり笑顔へ変わる。
「普通に約束した」
そこでようやく、茉白も自分が何を言ったのか理解した。
受験が終わったら、二人で写真を撮りに行く。
「別にデートとは言ってない」
「言ってないけど」
凪はそれ以上、言葉尻を取ろうとはしなかった。
ただ、嬉しそうに笑って笑う
「先の予定くれるの、嬉しい」
茉白は返事をしなかった。
視線を問題集へ戻して、意味もなくシャープペンシルを転がす。
以前なら、『メロい』それだけで片づけられた。
凪はこういう男だから。何でも嬉しそうに受け取って、すぐ好意らしい言葉に変えるから。
そう思っていればよかった。
でも今は、それだけでは済まなくなっている。
受験が終わったら、一緒に写真を撮りに行く。
それは、未来の予定だった。
少し前まで、未来なんて考えるだけで面倒だった。
来月、卒業後、来年。
そんなものは、来たときに考えればいいと思っていた。
なのに今は、ほんの少し先の景色に、当たり前のように凪がいる。
カメラを持って、どこかを歩いて、凪が余計なことを言って、自分が呆れて、もしかしたら笑っている。
「……」
それが、少し嬉しい。
その事実には気づかないふりをして、茉白は問題集を指で叩いた。
「ほら」
「ん?」
「アイス」
「まだ何も解いてないよ」
「早く教えて」
「報酬への執着すご」
凪は笑いながら、今度こそ問題集へ向き直った。
*
十月に入ると、日菜は推薦入試に向けて、本格的な面接練習を始めた。
その日の放課後、普段は使われていない空き教室に、二人だけが残っていた。
窓から差し込む夕日はすっかり秋の色をしていて、教室の床へ長い影を落としている。
向かい合わせに置いた机。
茉白の手元には、日菜が用意した想定質問の紙。
その正面には、背筋を伸ばして座る日菜。
「では、志望理由を」
「はい!」
教室中へ響く声に、茉白は反射的に顔をしかめた。
「声でか」
「今の面接じゃないの!?」
「あ、ごめん」
「もー!」
日菜は頬を膨らませたあと、胸元へ手を当てて一度大きく息を吸った。
今日の日菜は、いつもより制服をきちんと着ている。
緩めがちなリボンも整え、髪も邪魔にならないよう、後ろでまとめていた。
たったそれだけなのに、普段より少し大人びて見える。
茉白はそんな友人を数秒眺めてから、手元の紙へ視線を戻した。
「もう一回」
「はい」
今度の日菜の返事は、ちょうどいい声量だった。
茉白は少しだけ面接官らしい声を作る。
「本学を志望した理由を教えてください」
日菜の表情が変わった。
ふざける気配が消える。
少し緊張しているのだろう。
膝の上で重ねた指には、わずかに力が入っていた。
それでも、一度息を整えてから、日菜はゆっくり口を開いた。
「私は、子どもが安心して過ごせる環境を作れる保育者になりたいと思っています」
茉白は黙って聞く。
志望校の実習が多いこと。実際に子どもと関わりながら学べる環境に惹かれたこと。自分が目指したい保育者について。
少し前まで、日菜の進路理由は、子ども好きだから! ほとんど、それだけだった。
もちろん、その気持ちは今も変わっていない。
でも今は、好きだから、その先で何をしたいのか、どんな人になりたいのかを、自分の言葉できちんと話している。
不意に、複雑な気持ちになった。
寂しいとは、少し違う。
嬉しい。それだけでもない。
ずっと隣にいた友人が、いつの間にか自分の知らないところできちんと未来を考えて、前へ進んでいる。
それを、誇らしいと呼ぶのだろうか。
「茉白?」
呼ばれて、我に返る。
「何」
「聞いてる?」
「聞いてる」
日菜が怪訝そうに眉を寄せた。
「なら何、その顔」
「別に」
「またそれ!」
「いや」
茉白は手元の紙を下ろした。
「普通に」
「うん?」
「ちゃんとしてんなって」
日菜が、ぱち、と瞬きをする。
それから、少しだけ照れたように笑った。
「……ほんと?」
「うん」
「変じゃない?」
「全然」
「噛んでない?」
「ちょっと」
「どこ!?」
椅子から身を乗り出す日菜に、茉白は思わず笑った。
「最後」
「えー! 全然気づかなかった!」
「まあ、でも」
茉白は笑いを残したまま続けた。
「日菜っぽい」
「何それ」
「いい意味」
日菜は、すぐには答えなかった。
自分の手元へ視線を落とし、何かを確かめるように指先を組み直す。
「茉白」
「何」
「ウチさ」
いつもより、少し静かな声だった。
「うん」
「前、颯真くんと同じ大学行きたいって言ってたじゃん」
「言ってた」
覚えている。
まだ日菜が、自分の夢と颯真と一緒にいたい気持ちを、うまく分けられていなかった頃。
「今は」
日菜は机の上へ置かれたパンフレットに視線を落とした。
表紙の端は、何度も開いたせいか、少しだけ柔らかくなっている。
「ここに行きたい」
静かに、けれどはっきりと言った。
「颯真くんが違う大学でも」
「うん」
「遠くなっても」
「うん」
日菜はパンフレットへ手を置く。
「ここ。行きたい」
茉白は、日菜の顔を見た。
少し不安そうで、少し緊張していて、それでも迷っていない。
誰かに決めてもらった顔ではない。
颯真のためでも、親のためでも、茉白のためでもない。
日菜が、自分で選んだ顔だった。
「……いいじゃん」
茉白は言った。
「めっちゃ」
日菜の目が、一瞬で潤んだ。
「……え」
茉白が引く。
「何で泣くの」
「茉白が褒めるから!」
「前も褒めたじゃん」
「前より効く!」
「知らん」
目元を拭いながら、日菜はそれでも笑っていた。
「茉白も頑張ってね」
「何を」
「進路」
「まあ」
「写真!」
「うん」
少し間を置いて、日菜の口元がいたずらっぽく上がった。
「凪くん!」
「それは違う」
「えー」
「進路に混ぜんな」
「でもそっちも進んでるじゃん」
「進んでない」
「この前――」
「面接練習続けるよ」
「逃げた!」
日菜が笑う。
茉白も、呆れながら少しだけ笑った。
*
同じ頃、颯真は第一志望の国公立大学へ向けて、学校と予備校を往復する日々を送っていた。
朝は早く、放課後は遅い。
模試も増え、学校の課題と予備校の課題をこなしながら、それでも日菜の面接前夜には、きちんと電話をかけたらしい。
その話を茉白が聞かされたのは、面接が終わって数日後だった。
昼休み、日菜は自分の弁当をほとんど食べることも忘れて、興奮した様子で話し始めた。
「昨日じゃなくて、面接の前の日なんだけどね!」
「うん」
「颯真くんから電話きて!」
「うん」
日菜は一度スマホを胸元へ抱えるような仕草をして、その夜の会話を再現し始めた。
面接前夜。
ベッドに座った日菜は、電話越しに不安を隠そうともせず言った。
『緊張してるぅ』
「してる?」
『めっちゃしてる』
颯真の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
それだけで、日菜は少し安心した。
けれど、聞かずにはいられなかった。
『受かるかな』
電話の向こうで、ほんの少し間が空いた。
「それは分からない」
『そこ大丈夫って言ってよ!』
思わず叫ぶ。
颯真なら、嘘でも大丈夫と言ってくれると思ったのに。
けれど、彼はそうしなかった。
「でも」
落ち着いた声が続く。
「日菜がきちんと考えて、ここまで来たことは俺が知ってる」
『……』
「だから、言うべきことを言えばいい」
日菜は、膝の上で握っていた手を少し緩めた。
『……うん』
「俺のためじゃなくて、自分で選んだんだろ」
その言葉に、日菜は今度こそ迷わず答えた。
『うん』
「なら大丈夫」
そこまで話したところで、昼休みの教室で、日菜の目にまた涙が浮かんだ。
「もうさあ!」
「うん」
「そういうこと言うの!」
「うん」
「好き!」
茉白は箸を持ったまま真顔で返す。
「水城に言え」
「言った!」
「ならいいじゃん」
「茉白もっと共感して!」
「してる」
「薄い!」
日菜が抗議する横で、茉白は少しだけ笑った。
でも、心の中では別のことを考えていた。
この二人は、たぶん大丈夫。
絶対、なんて茉白には言えない。
未来のことは分からない。
人の気持ちだって変わる。
環境が変われば、今まで簡単だったことが難しくなることもあるだろう。
それでも、少なくとも今の二人なら、同じ場所へ行くことだけを一緒にいる理由にはしない。
毎日会えなくても、同じ大学でなくても、それぞれが一人でも立っていられる場所を持って、そのうえで隣を選ぶ。
そんな関係に、少しずつなっているのだと思った。
*
十一月、日菜の推薦入試の結果が出た。
朝、茉白が教室へ向かう廊下を歩いていると、遠くからものすごい勢いで、聞き慣れた声が飛んできた。
「茉白ぉぉぉぉ!」
「……何」
顔を上げた瞬間、日菜が廊下の向こうから全力疾走してくる。
「走んな!」
「受かったぁぁぁぁ!」
「え」
茉白が立ち止まる。
その次の瞬間、鞄を机へ置くどころか教室へ入る前に、日菜が勢いよく抱きついてきた。
「重」
「受かった!」
「聞こえた」
「受かったの!」
「うん」
「保育!」
「うん」
「第一志望!」
「分かったって」
いつもと同じようなやり取り。
なのに、抱きついている日菜の肩が震えている。
それに気づいて、茉白はようやく、本当に受かったのだと実感した。
夏前から学校を調べて、オープンキャンパスへ行って、颯真と同じ大学ではなくても自分がここへ行きたいと決めて、面接練習をして、何度も志望理由を書き直した。
その全部が、今日、一つの結果になった。
「……おめでと」
茉白は、いつもより少し静かな声で言った。
その途端、日菜の肩が大きく揺れた。
「何でさらに泣くの」
「嬉しいから!」
「メイク落ちるよ」
「どうでもいい!」
「それ後悔するやつ」
「今はいい!」
泣きながら、笑っている。
茉白は一瞬困った顔をしてから、仕方なく日菜の背中へ腕を回した。
軽く、ぽん、と叩く。
「よかったじゃん」
「うん!」
「頑張ったし」
「うん!」
それから、少しだけ声を柔らかくして囁いた。
「本当に。よかったね」
日菜は返事の代わりに、茉白の肩へ顔を押しつけた。
そのまま、しばらく泣いていた。
茉白は友人の背中を撫でながら、廊下の窓へ視線を向ける。
十一月の空。
夏よりずっと高く、澄んだ青。
白い雲が、ゆっくり流れている。
その景色を見ながら、茉白はふと思った。
撮りたい。
カメラは持っていない。
スマホならポケットにある。
でも今は、日菜を抱いている。
だから、撮らなかった。
ただ、日菜が受かった朝の青い空を、何となく覚えておきたいと思った。
*
その日の放課後、四人は駅前へ集まった。
名目は、日菜の合格祝い。
とはいえ、高校生四人。高級な店へ行くわけでもない。
結局入ったのは、いつものファミレスだった。
けれど今日は、いつもの受験勉強用のテーブルとは少し違う。
日菜の前には、彼女が好きな大きなパフェ。
颯真の横には、小さな花束。
そして凪が持ってきたのは、金色の文字で大きく『合格』と書かれた菓子だった。
「何これ」
日菜が笑いながら袋を持ち上げる。
「祝い」
「ダサ!」
凪が傷ついたふりをする。
「頑張って探したのに」
茉白も菓子を覗き込んだ。
「逆にすごい。これどこで売ってんの」
「駅の外れの駄菓子屋」
「わざわざ?」
「日菜ちゃん、こういうの好きそうだから」
「好き!」
即答だった。
凪が得意げに茉白を見る。
「ほら」
「何でウチに勝ち誇るの」
「見る目あるでしょ」
「知らん」
そんな会話をしている横で、颯真が小さな花束を手に取った。
豪華ではない。
けれど、日菜が好きそうな明るい雰囲気の花が束ねられている。
「日菜」
「ん?」
颯真はそれを差し出した。
「おめでとう」
日菜の顔が止まる。
「……颯真くん」
「頑張ったな」
その一言で、朝から何度目か分からない涙が、また日菜の目いっぱいに溜まった。
颯真が眉を寄せる。
「泣くな」
「無理!」
横から茉白も呆れたように言う。
「今日ずっと泣いてるじゃん」
「だって!」
日菜は花束を胸に抱えた。
そして、颯真を見る。
「颯真くんが言ってくれたから」
「何を」
「自分で決めろって」
颯真は少しだけ首を振った。
「俺は言っただけ」
「でも」
「決めたのは日菜」
それから、ほんの少し笑う。
「受かったのも日菜」
日菜の顔が、今にも崩れそうになる。
「……好き」
「知ってる」
「颯真くんも言って!」
「今?」
「今!」
颯真が一瞬、周囲を見る。
夕食時前の店内。
高校生四人のテーブル。
日菜の期待に満ちた顔。
そして、茉白と凪の視線。
「……好きだよ」
諦めたように息を吐いて、言った。
茉白の口から、反射的に声が漏れる。
「うわ」
颯真が即座に振り返った。
「何ですか」
「人前で言うんだ」
「言わせたの日菜ちゃんでしょ」
凪がフォローを入れる。
「でも言った」
「日菜が満足するなら」
その隣で、本人は完全に満足していた。
「好きぃ!」
日菜が颯真へ抱きつく。
「座れ」
「やだ!」
「店だから!」
その光景を見ながら、凪が楽しそうに笑う。
「純愛」
「うるさい」
颯真が返す。
そして、四人とも笑った。
茉白の手が、無意識にスマホへ伸びた。
カメラを起動する。
構図なんて、ほとんど考えなかった。
日菜が笑っている。
颯真は困ったような顔をしている。
凪も楽しそうに笑っている。
その全部が入ったところで、シャッターを切った。
一枚。
「え、今撮った?」
日菜がすぐ気づいた。
「撮った」
「見せて!」
「後で」
「今!」
「やだ」
「何で!」
茉白は画面を一度確認した。
少しぶれている。
全員がきちんとこちらを向いているわけでもない。
構図だって完璧とは言えない。
それでも、消す気にはまったくならなかった。
「いい感じだから」
茉白がそう言った瞬間、三人が一斉に黙った。
「……何」
茉白が警戒する。
先に笑ったのは、やはり凪だった。
「いや」
「何」
「茉白が自分で『いい感じ』って言ったから」
「写真の話」
「分かってる」
「その顔やめろ」
凪はまだ笑っている。
日菜も、颯真も、何となく嬉しそうだった。
それが少し居心地悪くて、茉白はスマホへ視線を落とす。
そこには、さっきの一枚。
日菜が笑って、颯真が困ったように笑って、凪が笑っている。
少しだけぶれた写真。
写真として完璧なのかは分からない。
でも、その瞬間の笑い声も、空気も、日菜が受かった日の嬉しさも、きちんと残っているような気がした。
*
店を出たあと、日菜と颯真は「少し歩いて帰る」と言って、二人で別方向へ向かった。
あの調子なら、おそらくまだ合格祝いは終わっていない。
残されたのは、茉白と凪だった。
夜の駅前。
十一月に入り、日が落ちると空気は急に冷たくなる。
茉白はコートのポケットへ両手を突っ込み、肩を少し竦めた。
「寒」
隣を歩く凪がすぐ反応する。
「マフラー貸す?」
「今日は持ってる」
「成長したね」
「何が」
「冬への対応」
「去年も持ってた」
「俺が貸したいだけ」
茉白は半眼で横を見る。
「いらん」
「残念」
凪は笑った。
二人で駅へ向かって歩く。
歩道沿いの街路樹には、早くもイルミネーション用の電飾が巻かれ始めていた。
まだ点灯はしていない。
黒いコードだけが、枝の間を這っている。
もう少しすれば、この道も冬の光でいっぱいになる。
「日菜ちゃん」
歩きながら、凪が言った。
「受かってよかったね」
「うん」
「茉白、めっちゃ嬉しそうだった」
「そりゃ」
「春と違う」
茉白が少しだけ顔を向ける。
「何が」
凪は前を見ながら、少し言葉を探した。
「前はさ」
「うん」
「日菜ちゃんが進路考えるたび、茉白ちょっと寂しそうだったでしょ」
茉白の歩幅が、わずかに乱れた。
「……また見てる」
「見てるって言ったじゃん」
「ストーカー」
「酷」
凪が笑う。
けれど、否定はしなかった。
「で?」
茉白が先を促す。
凪は今度は茉白を見る。
「今は」
少しだけ嬉しそうに目を細める。
「一緒に前向いてる感じする」
茉白の足が、ほんの少しゆっくりになる。
「……そう?」
「うん」
「自分じゃ分かんない」
「俺は分かる」
「何で」
「最初から見てるから」
また、胸の奥が小さく動いた。
凪は時々、簡単な言葉で妙に深いところへ触ってくる。
茉白が自分でもまだ名前をつけられていないところへ。
「茉白、変わったよ」
笑っていた声が、少しだけ真面目になる。
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「前のウチ、だめだった?」
すぐに、凪は首を振った。
「そうじゃない」
「じゃ何」
「前の茉白も好き」
「……」
また、好き。
でも、以前のように聞き流せない。
茉白が黙ったことには触れず、凪は少しだけ考えてから続けた。
「でも」
言葉を選ぶ。
「今の茉白、自分のこと前より大事にしてる感じする」
その言葉に、茉白はすぐには返事ができなかった。
自分を大事にする。
そんなふうに考えたことがなかった。
別に、自分を嫌いだったわけでもない。
傷つけようとしていたわけでもない。
ただ、先の自分にあまり興味がなかった。
明日の自分、来月の自分、来年の自分。
そこに何があるのか、どうなっているのか。
考えなくても困らないと思っていた。
でも今は、学校を調べる。オープンキャンパスへ行く。学費を確認する。写真を撮る。受験が終わったら、凪と撮りに行く場所を考える。
それは、未来の自分へ時間を使うことだった。
少し先の自分が何かを好きでいる可能性を、きちんと残してやること。
選べるように、準備してやること。
未来を考えるって、もしかしたらそういうことなのかもしれない。
今いる自分だけでなく、まだ会ったことのない少し先の自分まで大事にすること。
「……凪は」
茉白が不意に聞いた。
「ん?」
「自分、大事にしてんの」
凪が少しだけ困ったように笑った。
「急だね」
「答えて」
「してるよ」
「ほんと?」
問い詰めるように見上げると、凪は一瞬黙った。
以前、公園で模試の判定を見ながら、いつもの軽さを失っていた顔を、茉白は覚えている。
だから、適当に答えているなら、たぶん分かる。
凪も、それを知っているのかもしれない。
「……前より」
ようやく、正直に答えた。
茉白は小さく頷く。
「ならいい」
「何で?」
「知らん」
「心配してくれた?」
「してない」
「してる顔」
「してない」
嬉しそうな凪の顔を見て、嫌な予感がした。
そして、案の定、
「かわいい」
「帰る」
茉白は歩く速度を上げた。
「ごめんって」
笑いながら、凪が追いつく。
「今のは仕方なくない?」
「知らん」
「茉白がかわいいのが悪い」
「置いてくよ」
「駅同じ方向なのに?」
「走る」
「待って」
そんなくだらないやり取りをしながら、茉白も少しだけ笑った。
*
十二月、凪の模試結果が出た。
B判定。
駅前のカフェで、スマホの画面を目の前へ差し出された茉白は、数秒じっと見つめた。
そして、
「……おお」
素で驚いた。
向かいに座る凪が、嬉しそうに笑う。
「戻った」
「すご」
「もっと」
「偉」
「もっと」
「頑張った」
「もっと」
茉白の眉間に皺が寄る。
「うざ」
「そこまで?」
「十分でしょ」
凪は笑った。
「でも嬉しい」
茉白はもう一度、画面へ目を落とす。
B判定。
以前、同じ志望校でD判定を取った。
あの日、公園のベンチで、初めて凪が笑って誤魔化すことをやめた。
怖い。不安。また駄目だったら。
そんな弱さを、茉白へ見せた。
あのときの凪と、今目の前にいる凪は、もちろん同じ人間だ。
でも、少しだけ違って見えた。
自信を取り戻したから。それだけではない。
怖いものを怖いまま持っていられるようになった。
そんな顔をしている。
「でもまだBでしょ」
茉白が言うと、凪が苦笑した。
「厳しい」
「違う?」
「いや、合ってる」
「じゃいいじゃん」
「容赦ないなあ」
「だってそうじゃん」
茉白は自分のドリンクをストローで混ぜた。
氷がグラスの中で小さく鳴る。
「だから」
「ん?」
「まだ頑張るんでしょ」
凪の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「うん」
「じゃ、頑張れば」
「軽いなあ」
「前も言ったじゃん」
「そうだね」
笑ったあと、茉白は少しだけ考える。
そして、以前と同じことをもう一度聞いた。
「怖い?」
凪はすぐには答えなかった。
画面へ目を落として、B判定の文字を眺める。
Aではない。
絶対に受かるわけでもない。
努力して、戻して、それでもまだ安心できるところにはいない。
「怖い」
今度の凪は、きちんと言った。
笑って誤魔化さず、軽く流さず、そのまま。
「でも」
凪は顔を上げた。
そして、茉白を見る。
「前より、一人じゃない気がする」
「……何それ」
「颯真いるし」
「うん」
「家族もいるし」
「うん」
少しだけ間を置いて、
「茉白いるし」
茉白の手が止まった。
「急に入れんな」
「入るよ」
「何枠」
反射的に聞いてしまった。
凪がごく自然に答える。
「大事な人」
茉白は無言でグラスを持ち上げた。
ストローへ口をつける。
飲む。
必要以上に長く。
「……メロ」
ようやく、それだけ言う。
凪が、なぜか安心したように笑った。
「最近、メロって言われると安心する」
「何で」
「茉白の通常運転だから」
「意味分かんない」
「それ言われるのも安心する」
「うざ」
「それも」
「もう喋んな」
凪が笑う。
茉白は窓の外へ視線を逃がした。
十二月。
駅前にはイルミネーションが灯っている。
十一月にはまだ黒いコードだけだった街路樹が、今はたくさんの小さな光を纏っていた。
季節は勝手に進んでいる。
夏が終わって、秋が来て、日菜が合格して、颯真は受験へ向かっていて、凪の判定はDからBへ戻った。
そして、自分も少しずつ変わっている。
それを一番近くで、凪に見つけられている。
少し前なら、それすら鬱陶しかったかもしれない。
今は、すべてを嫌だとは思わない。
受験が終わったら、写真を撮りに行く。
理学療法士になれた日には、凪を撮る。
そんな、まだずっと先の約束まである。
どちらも本当に叶うかなんて、分からない。
でも、分からない未来の中に誰かがいることを、以前ほど怖いとは思わなくなった。
むしろ、少し楽しみですらある。
「茉白」
不意に名前を呼ばれ、窓の外を見ていた茉白は顔を戻した。
「何」
凪はさっきまでの模試結果の画面を閉じ、少しだけ笑った。
「ありがと」
「何が」
「色々」
「雑」
「じゃあ」
凪は少し考える。
「Dだったときも、変に大丈夫って言わなかったこと」
茉白は黙る。
「怖いって言っていい感じにしてくれたこと」
凪の声はいつもの軽さを残している。
でも、そこにある気持ちは、たぶん冗談ではない。
「あと」
「まだあんの」
「ある」
凪はまっすぐ茉白を見る。
「Bになったの、ちゃんと喜んでくれたこと」
茉白は少し眉を寄せた。
「普通じゃん」
「俺には普通じゃない」
「……そ」
それ以上、何と言えばいいのか分からない。
だから、茉白はテーブルの上の凪のスマホを指差した。
「次」
「ん?」
「A」
凪が一瞬、目を丸くする。
「取れたら?」
「褒める」
「どれくらい?」
「普通に」
「もっと具体的に」
「うざ」
「アイス?」
「何でウチが奢るの」
「写真?」
「何を」
凪は楽しそうに笑った。
「そのとき考える」
「なら聞くな」
「未来の楽しみ増えた」
また、そういう言い方をする。
茉白は呆れたように息を吐いた。
けれど今度は、「メロ」とは言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ笑った。
窓の外では、冬の光が静かに瞬いていた。
春には、四人ともまだどこへ行くのか分からなかった。
日菜は、颯真の隣へ行くことが自分の進路だと思っていた。
颯真は、自分の夢を追いながら、日菜をどう支えるのかを考えていた。
凪は、平気な顔をすることで不安を一人で抱え込んでいた。
茉白は、そもそも未来を見ることすら面倒だと思っていた。
でも、季節が変わる間に、少しずつそれぞれが自分の足で自分の方角へ進み始めている。
離れていくためではない。
誰かについていくためでもない。
一人でも自分の道を歩けるようになるために。
そして、その道の途中で、また隣にいたい人を自分で選べるようになるために。
茉白は、まだそこまで綺麗には考えられなかった。
ただ、十二月のカフェで向かいにいる凪を見ながら思う。
受験が終わったら、一緒に写真を撮りに行こう。
その約束をきちんと覚えている自分が、少しだけ嬉しかった。
※
年が明けた。
一月になった。
新しい年を迎えたからといって、教室の空気まで一新されるわけではなかった。むしろ、冬休みを終えて学校へ戻ってきた三年生の間には、十二月までとは明らかに異なる緊張感が漂っていた。
共通テスト、一般入試、出願、判定、結果。それまで黒板の端に予定として書かれていた言葉が、もはや「いつか来るもの」ではなくなっていた。
廊下を歩けば、参考書を開いたまま教室を移動する生徒がいる。昼休みも単語帳を眺めている者がいる。進路指導室の前には、担任や進路指導担当の教師に相談する生徒が何人も並んでいる。
教室でも、以前なら誰かがくだらない話を始めればすぐに笑いが広がっていたのに、今ではその声さえ、どこか小さい。みんな、少しずつ余裕を失っている。
茉白も、その空気と無関係ではなかった。
大学受験組とは時期が少し異なるものの、写真・映像系の専門学校への出願準備を進めている。必要書類や志望理由、面談の準備。そして、入試に必須というわけではないが、面談の際に作品を見せても構わないと言われていた。
それなら、見せられるものくらいは選んでおこうと思った。
放課後の教室の窓際で、茉白は机に置いたスマホを操作し、これまで撮影してきた写真を一枚ずつ確認していた。
日菜、颯真、街角、猫、夕焼け、空、電車の窓に映った光、雨上がりの道路。日菜が合格した日に撮った、ファミレスの写真もある。少しぶれているのに、やはり消す気にはなれない。
写真を左右へ送っていくうちに、指が止まった。
凪。
夏の公園で、ベンチに座りながらこちらを見ている。真正面からカメラを意識した笑顔ではない。名前を呼んだあと、茉白がカメラを向けると、少しだけ驚いて、それから照れたように笑った。そんな瞬間を切り取った写真だった。
「……」
茉白は画面を見つめた。
写真として、好きだった。光の入り方も、背景の緑も、夏の空気も、表情も、すべていいと思う。
だから候補に入れる。
指先で選択する。一秒ほど迷って、やはり外した。少し考えて、また入れる。そして、また外す。
「何してんの?」
突然、すぐ横から声がした。
茉白は反射的にスマホを伏せた。
「見るな」
いつの間にか、日菜が隣に来ていた。
すでに進路が決まっている日菜は、最近、少しだけ余裕を取り戻していた。もちろん学校の勉強は続けているが、受験の真っただ中にいる生徒たちとは、まとっている空気が少し違う。
「え、何?」
「何でもない」
「今、すごく隠したじゃん」
「隠してない」
「隠したよ」
日菜が机へ身を寄せる。茉白はスマホを遠ざけたが、遅かった。
「あ」
日菜の目が画面を捉えた。そして、すぐに声を上げる。
「あ、凪くんじゃん」
「見るなって」
「いい写真」
「……そう?」
思わず聞いてしまうと、日菜が一瞬だけ目を丸くした。けれど余計なことは言わず、もう一度画面を見る。
「うん。なんか凪くんらしい」
茉白もつられて写真へ視線を戻した。
「入れればいいじゃん」
「何か……」
「何?」
言いづらかった。でも、日菜にはなぜか言ってしまった。
「私情っぽい」
日菜がきょとんとする。
「写真って私情じゃないの?」
茉白の指が止まった。
「何それ」
「だって」
日菜は茉白のスマホへ指を伸ばすことはせず、ただ横から画面を眺めた。
「茉白が撮りたいと思ったんでしょ」
「うん」
「その瞬間の凪くんを残したいと思ったんでしょ」
「……まあ」
「じゃあ、いいじゃん」
日菜は、本当に何でもないことのように言った。
「好きだから撮った写真でも」
茉白の指先が完全に止まる。ほんの一瞬、心臓が不規則に鳴った。
「……何が」
自分でも、何を聞いているのか分かっていた。それでも聞いた。
日菜は誤魔化さなかった。
「凪くん」
「は?」
「好きでしょ」
「違う」
反射だった。考えるより先に、口から出た。
けれど日菜は、いつものように「絶対好きじゃん!」とは騒がなかった。笑いもしない。ただ茉白を見つめた。その目が、少しだけ優しい。
「茉白」
「何」
「前の“違う”と」
日菜は少しだけ笑った。
「今の“違う”、全然違うよ」
「……」
茉白は返せなかった。
以前、凪のことを好きなのかと聞かれたとき、「違う」と答えることに何の迷いもなかった。事実を述べているだけだった。
今も同じ言葉だったはずなのに、何かを否定するというより、何かから逃げるために口にした気がした。
日菜は、それ以上追及しなかった。
「まあ、自分で気づけば」
そう言って、自分の席から持ってきた参考書を開く。
「何それ」
「私も昔、茉白に同じことされたし」
「何を」
「颯真くんを好きだって認めるまで」
茉白は真顔で日菜を見る。
「お前、すぐ彼氏できたって騒いでたじゃん」
「……あれ?」
「一瞬だった」
日菜は少し考えた。
「じゃあ、違うか」
「適当」
二人で少し笑った。
いつもの空気に戻る。日菜は参考書へ視線を落とし、茉白もスマートフォンへ戻った。
でも、画面にはまだ凪の写真が映っている。
さっきまでは、入れるか外すか、それだけを考えていたはずなのに、今は写真を見るたび、別の言葉が浮かぶ。
好き。
「……」
違う、とはもう一度言えなかった。
茉白は少し迷ってから、その写真を作品候補へ入れた。今度は外さなかった。
*
受験が近づくにつれて、凪からの連絡は少し減った。
当然だった。第一志望を目指して勉強している。十二月の時点でB判定。あと少しだからこそ、気を抜けない。それくらい、茉白にも分かっている。
だから、自分から頻繁に連絡することもしなかった。勉強の邪魔になるかもしれない。今までの茉白なら、それで何も問題はなかったはずだった。
なのに夜、ベッドへ入り、なんとなくスマホを開く。通知はない。SNSを眺めては閉じ、写真フォルダを見ては閉じる。そして、またホーム画面へ戻る。
「……暇」
口からぽつりと漏れたその言葉に、自分自身で少し引っかかった。
以前にも、同じことを言った。日菜が颯真と一緒に帰るようになった頃、一人になった帰り道で。
暇。
あのときは、いつも隣にいた日菜がいなくなったことで、時間の使い方が分からなくなっただけだった。
でも、今は違う。
日菜ではない。凪から連絡が来ない。それだけなのに、少し静かすぎる。
今日、何をしていたのだろう。勉強。たぶん、それだけ。分かっている。それなのに、話したいことがいくつかある。
日菜が昼休みに妙に丁寧な敬語を使って笑われたこと。颯真が珍しく寝不足で、授業中にぼんやりしていたらしいこと。作品候補の写真を選んだこと。
―――凪の写真を入れたこと。
そこまで考えて、茉白はスマホを胸元へ伏せた。
「……うざ」
誰に言ったわけでもない。たぶん、自分に向けた言葉だった。
会いたい。話したい。連絡が来てほしい。
そんな感情が、思った以上に自分の中へ入り込んでいることに腹が立つ。
その瞬間、ぶ、とスマホが震えた。
茉白は反射的に画面を見る。
『終わった』
凪からだった。
気づけば、思っていたよりずっと早くメッセージを開いていた。
『何が』
既読がつき、すぐに返ってくる。
『今日の勉強』
『おつ』
『今、電話していい?』
茉白の指が、ほんの少し止まった。
電話。別に断る理由はない。そう思って、『いいけど』と送る。
数秒もしないうちに、画面が着信表示へ切り替わった。早い、と思いながら通話ボタンを押す。
「何」
『第一声、それ?』
聞き慣れた声。それだけで、さっきまで静かだった部屋が少しだけいつもの感じになる。
「用件」
『声が聞きたかった』
「……」
言葉が一瞬出なくなった。
『茉白?』
「いる」
『今、少し黙った?』
「黙ってない」
『かわいい』
「切る」
『待って』
電話の向こうで、凪が笑う。いつもの声。でも、よく聞けば少しだけ掠れている。笑い方にも、いつもほどの勢いがない。
茉白は眉を寄せた。
「疲れてるじゃん」
電話の向こうが一瞬静かになる。
『分かる?』
「分かる」
『さすが』
「寝れば」
『でも、少し話したい』
「何」
『何でも』
「面倒」
そう返すと、凪が小さく笑った。
『じゃあ、切る?』
「……」
茉白は黙った。
切る。それが普通だ。疲れているなら寝ればいい。受験前だし、睡眠も大事。
それなのに。
「……別に」
自分の声が、思ったより小さくなる。
『うん』
「話してれば」
電話の向こうで、凪が静かになった。
「何」
『いや』
「何」
少し間を置いて、凪が言う。
『今の、普通に嬉しかった』
「……そ」
茉白は、ベッドの背もたれ代わりにしていたクッションへ身体を預ける。
耳元には凪の呼吸が聞こえる。離れた場所にいるのに、不思議と近く感じる。
それから、本当にどうでもいい話をした。
今日の学校で、日菜が先生に話しかけるとき、「ご確認していただいてもよろしかったでしょうか」という妙に長い敬語を使い、先生に「現在形でいいぞ」と直されたこと。
『日菜ちゃんらしい』
「でしょ」
『茉白、絶対笑ったでしょ』
「少し」
日菜情報で、颯真が睡眠不足で珍しくぼんやりしていたこと。
『颯真が?』
「授業が終わってもノートを見てたらしい」
『それ、寝てたんじゃない?』
「目は開いてたみたい」
『器用』
「水城に言ったら怒られるよ」
そして、茉白が面談で見せる写真を選んでいること。
『どんなのを入れるの?』
「色々」
『見たい』
「受験が終わったら」
『また先の予定をくれた』
「そういう意味じゃない」
凪の勉強の話もした。苦手な単元や、覚えたはずなのに模試になると迷う問題、共通テストのこと、第一志望のこと。
途中、凪が何度か欠伸をする。そのたびに「寝れば」と言うのに、『もう少し』と返ってくる。
何でもない話だった。大事な話をしたわけでもない。告白も、将来の約束も、何もない。
それでも、気づけば通話時間は三十分を超えていた。
茉白は画面の表示を見て、少し呆れる。
「寝ないの」
『寝る』
「じゃあ、切る」
『茉白』
「何」
少しだけ間があった。
『受験が終わったら』
「うん」
『写真を撮りに行こうね』
以前、ファミレスで何気なく交わした約束だった。
茉白は少しだけ目を細める。
「覚えてたんだ」
『絶対って言ったじゃん』
そうだった。
凪は未来を勝手に二人分にする。そして、一度その中へ茉白を入れると、意外なくらい覚えている。
「……そ」
『楽しみ』
窓の外では、冬の夜が静かに広がっていた。カーテンの隙間から、隣の家の灯りが少しだけ見える。
茉白はベッドの上で膝を抱えながら、ほんの少し笑った。
「私も」
そう言った瞬間、電話の向こうが完全に静かになった。
「何」
『いや』
「何」
凪の声が急に少しだけ弾む。
『今の、もう一回言って』
「切る」
『待って!』
さっきまで疲れていたはずなのに、急に元気になっている。
茉白は呆れながら、通話終了のボタンへ指を置いた。
「おやすみ」
『茉白』
「何」
今度は、凪の声が少しだけ優しくなる。
『好き』
何度も聞いてきた言葉だった。春から何度も、何度も。そのたびに適当に流してきた。
だから今回も、同じ言葉を返す。
「はいはい」
でも、声が以前と同じだったかは、自分では分からない。
凪は少し笑った。
『前より“はいはい”が優しい』
「知らない」
『おやすみ』
茉白は一瞬だけ返事を迷った。以前なら、そのまま切っていたかもしれない。
「うん」
今日は、小さく返す。
「おやすみ」
通話が切れる。
部屋が急に静かになった。さっきまで耳元にあった凪の声が、もう聞こえない。
茉白はしばらく、スマホを手にしたまま動かなかった。
やがて画面が暗くなる。黒くなった液晶に、自分の顔が映る。
「……」
少し笑っていた。ほんの少し、口元が緩んでいる。
その顔を見て、茉白は眉を寄せた。
日菜の言葉が不意に戻ってくる。
好きでしょ。
違う。そう言った。
でも、本当に違うのだろうか。
凪から連絡がなくて、少しつまらなかった。通知が来て、嬉しかった。声を聞いて、安心した。疲れているのが分かった。もう少し話したいと言われて、切りたくなかった。
受験が終わったあとの約束を、自分も楽しみにしている。
そして、「好き」と言われても、以前のように面倒だとは思わなかった。
茉白は暗くなったスマホを胸元へ置いた。
好き、かもしれない。
その言葉を、今すぐ認める必要はない。答えを決めなくてもいい。
夢と同じ。将来と同じ。分からないなら、少しずつ近づけばいい。
凪が以前、自分へ言った。
やってみたい、で十分。
なら、恋もきっと、似たようなものでいい。
好きかもしれない。今は、それくらいで十分なのかもしれない。
茉白は天井を見上げ、それから一人で小さく息を吐いた。
「……だる」
けれど、その声は少しだけ笑っていた.
※
二月。
入試が始まり、結果が届き、それぞれの未来が順番に形になっていった。
まだ何も決まっていなかった春には、遠すぎて想像もできなかった場所へ、四人とも少しずつ近づいている。
そして、茉白にもその日が来た。
写真・映像系の専門学校から、合格通知が届いた。
自宅のリビング。テーブルの上に置かれた封筒を開け、取り出した書類を上から下まで読む。見間違えていないか、もう一度確認する。
そこには、確かに『合格』の文字があった。
「……受かった」
最初に口をついて出た言葉は、それだけだった。
隣で結果を待っていた母親が、一拍遅れて声を上げる。
「おめでとう!」
「うん」
「よかったね!」
「うん」
「もっと喜びなよ!」
茉白は合格通知から顔を上げた。
「喜んでる」
「顔!」
「これが喜んでる顔」
「分かりづらい!」
母親が呆れたように笑う。茉白も、少しだけ口元を緩めた。
でも、胸の中では確かに嬉しかった。
自分で選んだ。誰かに勧められたからではない。日菜が進路を決めたからでも、凪に背中を押されたからでもない。
自分で調べ、自分で学校を見に行った。授業も、機材も、学費も、卒業後のことも確認した。
そうして、ここなら少し挑戦してみたい。そう思えた場所だった。
春の自分なら、そもそも封筒を待つ未来すら想像していなかった。
茉白は合格通知をもう一度眺めてから、テーブルの端に置いてあったスマホを取った。
最初に開いたのは、日菜とのトーク画面だった。
『受かった』
送信してから、数秒もしないうちに着信が入る。
「早」
呟きながら出る。
「何」
『茉白ぉぉぉぉ!』
思わずスマホを耳から離した。
「うるさ」
『おめでとう!』
「うん」
『やったじゃん!』
「うん」
電話の向こうで、日菜の声がどんどん弾んでいく。
『写真!』
「うん」
『映像も!』
「うん」
『茉白が自分で決めたとこ!』
「うん」
少し間があって、日菜の声が急に震えた。
『何でウチが泣いてんの!?』
「知らん」
そう返しながら、茉白は笑った。
たぶん、今の自分の顔なら、母親にも少しくらい分かるかもしれない。
日菜との電話を終えると、次に凪へ連絡しようとして、一瞬だけ指が止まった。
別に、迷うことでもない。結果が出たら伝える。そういう話はしていた。
茉白は短く打つ。
『受かった』
送ると、すぐに既読がついた。返信より先に、着信画面へ切り替わった。
茉白は少しだけ笑ってから電話に出る。
「何」
『茉白』
「うん」
いつもの凪なら、もっと大騒ぎすると思っていた。
『やったじゃん』とか、『お祝いしよ』とか。そんな声が飛んでくると思っていた。
でも、聞こえたのは思っていたよりずっと静かな声だった。
『おめでとう』
「……うん」
『ほんとに』
少しだけ、息を吸う音がする。
『おめでとう』
茉白は眉を寄せた。
「何で二回」
『嬉しいから』
「また」
『うん』
凪は迷いなく答えた。
「お前が喜ぶの」
『喜ぶよ』
「何で」
少し間があった。それから、凪の声がゆっくり届く。
『茉白がさ』
「うん」
『“何もない”って言ってたところから、自分で見つけたじゃん』
胸の奥が、じわりと熱くなった。
春の進路希望調査で、何を書けばいいのか分からなくて、将来なんて考えるだけで面倒だった。
『最初に会った頃』
「うん」
『将来とか興味ないって感じだったのに』
「うん」
『学校見に行って、写真とか映像とか調べて』
凪は、茉白がしてきたことを一つずつ覚えていた。
『今、自分で行く場所決めた』
茉白は何も言えなかった。
誰かに褒められるほどのことだと思っていなかった。ただ、分からないままなのが嫌になって、少し見て、調べて、好きかもしれないと思ったものへ手を伸ばしただけだ。
でも、凪はそんな一年を一言で、「かっこいい」と言った。
茉白は瞬きをした。
今まで凪には、散々かわいいと言われた。笑っても、怒っても、眠そうでも、何をしていても、かわいい。もう聞き慣れたくらいに。
でも、かっこいい。そう言われたのは、たぶん初めてだった。
しかも、今日のそれは外見のことではない。自分が選んできたこと、ここまで歩いてきた自分そのものを褒められたのだ。
「……凪」
『ん』
「ありがと」
電話の向こうで、凪が少し笑った気配がした。
『うん』
「あと」
『何?』
そこで、茉白は少し迷った。これを言えば、たぶん凪はまた喜ぶ。そう分かっている。
でも、言いたかった。
「そっちも」
『うん』
「絶対受かって」
凪が息を止めたような気配がした。少しして、声が返ってくる。
『絶対はないよ』
「知ってる」
『前、茉白が言ってたじゃん』
「うん」
絶対なんてない。落ちる可能性もある。それでも、やりたいならやればいい。
昔、自分が凪へ言ったことだった。
茉白は窓の外を見る。二月の空には薄い雲が広がり、冬の光が白く町へ落ちている。
「でも」
自分でも驚くくらい、素直に言えた。
「受かってほしい」
電話の向こうが静かになった。返事がない。
「凪?」
『……今』
「何」
凪が小さく息を吐く。
『結構きた』
「何が」
『全部』
少し笑う声。でも、たぶん泣きそうなのだと思った。
前なら分からなかったかもしれない。今は、声だけでも何となく分かる。
「泣く?」
『泣かない』
「ならいい」
『茉白さ』
「何」
凪が少しだけ、いつもの調子を取り戻した。
『俺が落ちたら、飯付き合うって言ったじゃん』
「言った」
『受かっても付き合って』
「何で」
『ご褒美』
茉白は小さく笑う。
「結局それ」
『駄目?』
「……」
断る理由を少し考える。なかった。
だから、「受かったらね」と答えた。
凪がすぐに返す。
『約束』
「うん」
『絶対』
「はいはい」
いつもの言葉。でも、その「はいはい」は、もう春の頃の、凪の好意を流すための返事ではなかった。
*
それから数週間後、凪の結果が出る日。
その日、茉白は学校にいた。卒業式の練習で体育館に集められていたが、寒いし、長いし、眠い。体育館の床から上がってくる冷気に、足先の感覚がなくなりそうになる。
しかも、スマホは鞄の中にあって確認できない。
今日は、凪の第一志望の結果発表日だった。そのことを、朝から何度も意識していた。
式の流れを確認する教師の声が響く。起立、礼、着席。卒業証書授与の確認。
いつまでやるんだろう。そう思いながらも、茉白の頭の片隅にはずっと別のことがあった。
――結果、どうだったんだろう。
ようやく練習が終わると、茉白はいつもより少し早く教室へ戻った。
自分の席へ座ると、隣から日菜がすぐ身を寄せてくる。
「凪くん、今日だよね」
「うん」
「来た?」
「まだ見てない」
日菜が目を見開いた。
「見なよ!」
「今見る」
鞄を開けてスマホを取り出し、画面をつける。
通知は一件。凪からだった。
胸の奥が一度、大きく鳴った。
トーク画面を開く。短い。たった四文字。
『受かった』
「……」
茉白は、その文字をしばらく見つめた。
日菜が我慢できずに声をかける。
「茉白?」
「受かった」
「え!?」
日菜が椅子から飛び上がりそうな勢いで身を起こす。
「凪くん!?」
「うん」
「やったじゃん!」
「……うん」
返事をしながら、茉白は画面から目を離せなかった。
D判定。公園。怖い。そう言った凪。
学費。奨学金。国家資格。理学療法士。
あの日、ベンチに座っていつもの笑顔を消した凪が、『落ちたら?』と聞いた。
自分は大したことでもないように、『そん時考えればよくね?』と言った。
やりたいなら、なればいい。怖いなら、怖いままでいい。
それでも凪は、そこからちゃんとここまで来た。
「電話しなよ!」
日菜の声に我に返る。
「今?」
「今!」
「授業」
「もう終礼だけ!」
「あとで」
「茉白!」
日菜はもどかしそうに笑っている。
でも、茉白は先に文字を送りたかった。
指を動かす。
『おめでとう』
送信すると、すぐに既読がついた。
『ありがとう』
続けて、また通知が届く。
『今』
少し間が空いてから、もう一通。
『会いたい』
茉白の胸の奥が強く動いた。
以前なら、急。何で。そんなふうに返した。凪が会いたいと言うたび、適当に流していた。
でも、今日は違った。
凪の顔が見たかった。受かったとき、どんな顔をするのか、直接見たかった。
だから、考えるより先に指が動いた。
『ウチも』
送ると、数秒で既読がついた。それきり、返事は来ない。
「……何」
茉白が画面を睨む。
隣から日菜が覗き込もうとする。
「見んな」
「茉白」
「何」
「今、何送った?」
「何でもない」
「顔赤い」
茉白は即座に言い返した。
「暖房」
日菜が天井を見る。
「ついてない」
「うるさ」
日菜はそれ以上追及せず、ただものすごく嬉しそうに笑った。
*
放課後、駅前に着くと凪は改札の外にいた。
帰宅する学生や仕事帰りの人が行き交う中、制服姿の凪が立っている。
空はもう夕暮れで、街灯がつき始めていた。冷たい風が駅前を抜けていく。
春。あの頃、凪はただ日菜の彼氏の友達だった。妙に距離が近くて、やたらこちらを見て、かわいいだの好きだの軽々しく口にする、面倒な男。それだけだった。
今は違う。
茉白が近づくと、凪が気づいて顔を上げる。目が合い、そして笑う。
その顔を見た瞬間、本当に受かったのだと実感した。
「……受かったんだ」
「うん」
「ほんとに」
「うん」
何度確認しても、答えは同じだった。
「理学療法士」
凪が少し笑う。
「まだ、なるのは先だけどね」
「でも」
茉白は凪の前で足を止めた。
「スタートじゃん」
その一言で、凪の表情が少し揺れた。喜んでいるのに、泣きそうにも見える。
「茉白」
「何」
凪は何かを迷うように、少しだけ手を動かした。でも、触れない。
やっぱり、この男は勝手には来ない。
「今、抱きしめたら怒る?」
「……」
茉白は少し考えた。
凪は触れる前に聞く。ふざけているように見えて、嫌がることはしない。
そして、今日くらいはいいと思った。
「……今日は」
少しだけ視線を逸らす。
「いい」
次の瞬間、凪の腕が茉白の背中へ回った。
そっと、本当に大事なものへ触れるように。強くはない。茉白が少しでも離れようとすれば、すぐに解けるくらいだ。
でも、ちゃんと抱きしめられている。
茉白の頬が凪の制服の胸元へ触れた。近い。思っていたよりずっと近くて、心臓の音がする。
速い。自分のなのか、凪のなのか分からない。たぶん、両方だった。
「……凪」
「うん」
「心臓やば」
頭の上で、小さく笑う気配がした。
「どっちの?」
「知らん」
「俺も」
凪の声も少し震えていた。そのことが、茉白にはなんとなく嬉しかった。
いつも余裕そうで、何を言っても笑っている凪が、今は自分と同じくらい緊張している。
凪は茉白の肩口へ少しだけ顔を伏せた。
「ほんとに」
小さな声だった。
「受かってよかった」
「うん」
「怖かった」
「知ってる」
前は知らなかった。凪がどんな顔で不安になるのか。笑いながら、どんなふうに弱さを隠すのか。
でも、今は知っている。
「ありがとう」
「何が」
「全部」
凪はそれ以上説明しなかった。たぶん、説明されなくても少し分かる。
公園で話を聞いたこと。D判定のとき、大丈夫なんて言わなかったこと。怖いと言わせたこと。Bになったとき、喜んだこと。受かってほしいと言ったこと。
でも、茉白だって凪からたくさんもらった。
夢なんて呼ばなくていいと教えてもらった。やってみたい、で十分だと教えてもらった。未来をそんなに大きく考えなくてもいいのだと教えてもらった。
だから、少し迷ってから、茉白も凪の背中へ腕を回した。
ぎゅ、とほんの少しだけ。
凪の身体が止まった。
「……何」
茉白が聞く。
「いや」
「何」
凪の声に、急に嬉しさが混じる。
「茉白からも来た」
「うざ」
「嬉しい」
「離れる?」
「やだ」
「じゃ黙って」
「はい」
素直だった。
そのまま、二人は少し抱き合っていた。
駅前では、大勢の人が通り過ぎていく。制服の高校生が改札へ急ぎ、親子が買い物袋を持って歩いている。電車の到着を知らせる音も、遠くから聞こえてくる。
誰も、自分たちのことなんて気にしていない。
茉白にはその瞬間だけ、周囲が妙に静かに感じられた。
春、何も知らなかった。凪のことも、自分のことも、未来のことも。
今は、少しだけ知っている。
凪は、怖くても進める人だ。軽く笑っているだけではない。弱い顔を見せられる人で、努力して、ちゃんと自分の未来を掴みに行ける人だ。
そして自分は、そんな凪に受かってほしいと思った。
連絡が来ないと少し寂しい。声を聞くと安心する。会いたいと言われれば、会いたいと思う。嬉しいことがあれば、自分も嬉しい。隣にいると、少し嬉しい。
いや、少しではないのかもしれない。
それを何と呼ぶのか、もうなんとなく分かっていた。
*
しばらくして、二人はようやく離れた。
凪の制服から身体を離した茉白は、何事もなかったような顔をして言う。
「で、飯」
「え」
「受かったら行くって」
凪が数秒遅れて思い出す。
「あ」
「何食べる」
「そこすぐ切り替える?」
「腹減った」
凪は少し目を丸くして、それから笑った。
「デート?」
「飯」
「デートで」
「飯」
「デート飯」
茉白は踵を返した。
「帰る」
「ごめん」
凪が笑いながら、すぐ隣へ来る。
二人で駅前の通りを歩き始めた。
少し進んだところで、凪がまた声をかける。
「茉白」
「何」
「今日」
「うん」
凪が妙に嬉しそうな顔をしている。嫌な予感がした。
「会いたいって返してくれたじゃん」
「送った」
「もう一回言って」
「やだ」
「何で」
「一回言った」
「でも直接聞きたい」
茉白が半眼になる。
「欲張り」
凪は悪びれない。
「好きな子にはね」
以前なら、一秒もかからなかった。きも、メロ、うざ。そのどれかを反射的に返していた。
今日は、少しだけ黙った。
隣を見る。凪もこちらを見ている。待っていた。いつもの余裕そうな顔をしているが、茉白には分かる。ほんの少し緊張している。返事を待っていて、たぶん期待している。
茉白は前を向いた。
そして、「……ウチも」と答えた。
「うん」
凪の声が少しだけ真剣になる。
「今日」
「うん」
茉白は一度、息を吸った。
別に、大した言葉ではない。メッセージではもう言った。だから、もう一度言うだけだ。
「会いたかった」
凪が完全に黙った。
歩きながら、その足が止まりかける。
茉白は横を見る。
「何」
「いや」
「何」
「ちょっと待って」
「何で」
「無理」
「何が」
凪は片手で口元を覆った。耳が赤い。
さっきまで好きだのデートだの散々言っていた男とは思えない。
「今の」
凪はそれだけ言って、言葉を失っている。
その顔を見た瞬間、茉白は堪えきれずに笑った。
「……何それ」
「茉白」
「ん」
「笑うな」
「だって」
「無理」
耳まで赤くしている凪がおかしくて、かわいくて、茉白はさらに笑う。
「いつもメロいくせに」
「茉白から来るのは聞いてない」
「何それ」
「想定外」
「弱」
「好きな子から会いたかったって言われて平気な男いる?」
「知らん」
「いないよ」
「お前だけじゃん」
少し前まで、凪に照れさせられてばかりだった。今日も抱きしめられたとき、心臓がうるさかった。
なのに、今は立場が逆だ。それが妙に楽しい。
茉白は少しいたずらっぽく笑った。
「じゃ」
「ん?」
「もう一回言う?」
凪が目を見開いた。
「……待って」
「言ってほしいんじゃないの」
「そうだけど」
「じゃあ」
「待って」
茉白は笑う。
「どっち」
「心の準備」
「面倒」
「茉白にだけは言われたくない」
「じゃ言わない」
「それは嫌」
「欲張り」
「好きだから」
また、好き。
でも今日は、逃げるための言葉がすぐには出てこなかった。
凪が少し困ったように笑う。それから、我慢できなくなったように言った。
「……好き」
「急」
「好き」
「二回言うな」
「無理」
「何が」
「今日の茉白、全部ずるい」
完全に余裕を失っている。
それがおかしくて、茉白はまた笑った。
ずっと自分を照れさせて面白がっていた男。何を返しても嬉しそうに、好きだと、かわいいと言っていた男。
今は、自分の一言でこんな顔をする。
そのことが妙に嬉しい。そして、もっと見たいと少しだけ思った。
茉白は隣を歩く凪を見た。
「凪」
「何」
まだ耳が赤い。
茉白はほんの少し口元を上げる。
「今日、かわいいじゃん」
凪が止まった。
「……茉白」
「何」
「ほんと待って」
「何で」
「俺、今日死ぬかも」
「受かった日に死ぬな」
「だって茉白が」
「知らん」
そう言って、茉白は先へ歩く。
後ろから、「待って!」と凪の声が追いかけてくる。
その声を聞きながら、茉白はまた少し笑った。
未来なんて、まだ分からない。春からずっとそうだった。
進路も、夢も、恋も、全部、初めから答えがあったわけではない。
でも、分からないまま少しずつ近づいて、見て、知って、自分で選んできた。
だから、この気持ちも、もうたぶん同じだった。
凪のことが好き。
その答えは、もう思っていたほど大きくも怖くもなかった。
ただ、今はまだ本人には言ってやらない。それくらいがちょうどいい。
「茉白、待ってって」
追いついた凪が、また隣へ並ぶ。
茉白は前を向いたまま、「飯、どこ」とだけ言った。
凪は一瞬、何か言いたそうにした。それでも、すぐに嬉しそうに笑う。
「何食べたい?」
「肉」
「了解」
「奢り?」
「合格祝いだから俺が」
「ウチも受かった」
「じゃお互い奢る?」
「意味ないじゃん」
「確かに」
二人で笑う。
冬の夕暮れ。駅前の向こうには、春にはなかった未来が少しずつ形になり始めていた。
※
冬の夜。
二人は駅前の通りを並んで歩いていた。結局、何を食べるかはまだ決まっていない。
「焼肉がいい」
「いや、混んでいそう」
「ハンバーグでもいい」
「それなら、いつものファミレスと変わらない」
そんな話をしながら、二人は行き先を決められないまま歩いていた。
ふと、茉白は思った。この先の人生も、同じなのかもしれない。
進む方向は決まった。日菜は保育、颯真は教師、凪は理学療法士。そして自分は、写真や映像。
けれど、それはゴールではない。あくまで、それぞれが選んだ最初の方向だ。
春には、そんな未来の一つさえ想像していなかった。
日菜が颯真とは違う学校を自分から選ぶことも、颯真が教師を目指して受験勉強に追われていることも、凪が理学療法士になるための学校に合格することも。
まして、自分が写真や映像を学びたいと思い、学校を探し、受験し、合格通知を受け取ることなど、何一つ想像していなかった。
それでも一年も経たないうちに、四人はそれぞれ少しずつ、自分の意思で進路を選んだ。
だからこそ、気づいてしまう。選ぶということは、何かが始まるということであり、同時に、これまでと同じではいられなくなるということでもある。
学校は変わる。生活時間も変わる。新しい人に出会い、新しい場所へ行く。
今のように、誰かが一言「今日暇?」と送れば、当たり前のように四人が駅前へ集まることも、少なくなるのだろう。
日菜とは、毎日隣の席で話せなくなる。颯真をからかい、日菜が怒り、凪が横で笑う。そんな何気ない時間も、同じ形では、もう続かない。
茉白は、冬の街を見渡した。
街路樹のイルミネーション。店先から漏れる暖かな光。電車が到着するたびに増えては減る人波。
凪と初めて出会った春から、何度も歩いた駅前。それなのに、今日は少し違って見える。
卒業まで、あと少し。本当に、あと少ししかない。
そう考えた途端、胸の奥に小さな痛みが落ちた。
未来が嫌なわけではない。専門学校へ進むことは楽しみだ。写真も、映像も、もっと知りたい。挑戦してみたい。
けれど、未来へ進むためには、今から離れなければならない。それが、少しだけ寂しい。
「茉白?」
隣から呼ばれ、茉白は顔を上げた。
「何」
凪が、少しだけこちらを覗き込んでいた。
「今、ちょっと寂しそう」
茉白は反射的に眉を寄せる。
「……見るな」
「見てるから」
「うざい」
いつもなら、そこで終わる。凪も笑って、別の話をする。しかし、今日は違った。
「何考えてた?」
そう聞かれて、茉白は少しだけ迷った。
以前なら、「別に」と答えて、それで閉じていた。言っても仕方がない。説明するのが面倒だ。自分でもよく分からない。そうやって、すべてを「別に」や「知らない」で片づけてきた。
でも、今は、もう少し話せる気がした。
「卒業」
「うん」
「近いなって」
凪は急かさなかった。ただ、茉白の歩調に合わせて隣を歩く。
「うん」
「なんか……」
茉白は前を見る。冬の光、駅前、行き交う人々、ガラスに反射する街灯。そして、視界の端にいる凪。
喉の奥で、言葉が一度引っかかった。こんなことを言う自分が、少し自分らしくない気がする。
それでも。
「……嫌かも」
そう言った。
凪の目が、わずかに細くなる。そこに、からかう気配はなかった。
「終わるの?」
「うん」
認める。声にすると、思っていたよりずっと素直だった。
「ちょっと」
茉白はマフラーに顎を埋め、それから静かに言った。
「卒業したくない」
口にした瞬間、胸の中に曖昧にあったものが、ようやく形になった。
春には、卒業など何とも思わないだろうと、本気で思っていた。学校は学校。終われば、それで終わり。日菜とは、卒業しても会えばいい。それだけだと思っていた。
けれど、今は違う。
日菜と毎朝会えなくなる。授業の合間にくだらない話をすることも、放課後にそのまま駅へ向かうことも、きっと減っていく。
颯真とも、凪とも、この四人で参考書を広げ、遊び、笑い、誰かの恋愛を茶化し、どうでもいいことで喧嘩する。そんなふうに、同じ時間を当たり前のように共有することが終わる。
「……俺も」
不意に、凪が言った。
茉白が顔を向ける。
「え」
「卒業したくない」
「お前も?」
「うん」
意外だった。
凪は、未来を楽しみにしているように見えた。理学療法士になりたいと、ずっとその先を見ていた。
だから、茉白はそのまま口にする。
「未来を楽しみにしていそうなのに」
「楽しみだよ」
凪は、少しだけ笑った。強がりでも、無理をしている笑顔でもない。
「大学も楽しみだし、理学療法士になるのも楽しみ」
「うん」
「でも」
そこで、凪は茉白を見る。
「今も好きだから」
「……」
一瞬、自分のことを言われたのかと思った。たぶん、半分くらいは、そうなのかもしれない。
でも、凪が言っている「今」は、それだけではない。高校、友達、颯真、日菜、四人でいる時間、この一年。そのすべて。
「終わるのが、寂しい」
凪は静かに言った。
その言葉に、茉白は少しだけ救われた。
未来へ進みたい。今が終わってほしくない。一見、矛盾しているようで、その二つは同時に存在していていい。
新しい場所が楽しみでも、今いる場所から離れるのが寂しくてもいい。
「そっか」
「うん」
少しだけ、胸が軽くなる。
茉白は前を向き、しばらく歩いてから言った。
「じゃあ」
「何?」
茉白は、ほんの少しだけ口元を緩める。
「卒業まで、たくさん遊ぶ?」
凪の足が、一瞬乱れた。
「……茉白から?」
「何」
「今、茉白から遊ぼうって言った?」
「嫌ならいい」
「嫌じゃない!」
即答だった。しかも、声が大きい。近くを歩いていた人が、一瞬こちらを見た。
茉白が顔をしかめる。
「声が大きい」
「絶対遊ぶ」
「受験が終わったからって、浮かれるな」
「遊ぶ」
「はいはい」
凪は、完全に嬉しくなっている。
「写真も撮ろう」
「うん」
「四人でも」
「うん」
「二人でも」
そこで、茉白はほんの少しだけ返事を止めた。
もう、断る理由などなかった。受験が終わったら、写真を撮りに行く。ずっと前から約束している。
「……うん」
だから茉白は、きちんと答えた。
凪が笑った。いつもの、人をからかう笑い方ではない。ただ、本当に嬉しそうな顔だった。
「約束」
「最近、それが好きだね」
「何が?」
「約束」
「好き」
凪は前を向いた。歩きながら、少しだけ遠くを見るようにして言う。
「未来の予定を作るのが好きなんだ」
「何それ」
「だって」
凪の声が、少しだけ柔らかくなる。
「未来に茉白がいるって思えるから」
「……」
また、そういうことを言う。いちいち、甘い。
以前なら、呆れて終わっていた。今は、胸の奥が少し温かい。
茉白は隣を見た。
「凪」
「ん?」
「お前さ」
「うん」
「ずっとそれ言ってて」
凪が首を傾げる。
「何を?」
「甘いこと」
「いいの?」
思ったより早く聞き返され、茉白は少し言葉に詰まった。
「たまに」
「たまに?」
凪が面白そうに繰り返す。
「うざいけど」
「うん」
「……嫌いじゃない」
そう言った直後、隣の気配が消えた。
茉白は数歩進んでから、おかしいと思って振り返る。凪が、完全に立ち止まっている。
「何してるの」
「茉白」
「何」
「今日、俺をどうするつもり?」
「何が」
凪は片手で額を押さえた。
「無自覚?」
「知らない」
「本当にずるい」
心底困ったような顔をしている。
「何で」
「俺ばかり甘い男扱いされてるけど」
凪は小さく笑う。そして、茉白に追いつきながら続けた。
「茉白も大概だからね」
「知らない」
「それ」
隣へ並ぶ。
「いつか自覚して」
「何を」
凪は少しだけ笑った。しかし、声は妙に静かだった。
「俺のことを、どれだけ好きか」
「それは言われすぎて知ってる」
春から、もう何回聞いたか分からない。
けれど、凪は首を振る。
「違う」
「何が」
凪は少しだけこちらを見る。
「茉白が、俺のことをどれだけ好きか」
茉白の足が、ほんの少しだけ止まりかけた。心臓が、また変なところを叩く。
しかし、凪はそれ以上何も言わなかった。答えを求めない。追及もしない。
好きなのか、違うのか。今ここで決めろとは言わない。
ただ、再び前を向いて、茉白の隣を歩く。
春から、ずっとそうだった。
凪は近づいてくる。けれど、押しつけない。好きだと言う。しかし、同じ言葉を要求しない。手を差し出す。けれど、取るかどうかは茉白に委ねる。
初めて会った頃、茉白はそれを軽い男だと思っていた。
今なら、少し違って見える。
凪はずっと、待っていたのだ。茉白が自分から一歩近づけるまで。
だから、茉白も少しずつ近づけた。
写真を撮った。連絡を待つようになった。電話を切りたくないと思った。未来の約束をした。会いたいと言った。抱きしめ返した。
そして今、凪の隣を歩いている。
茉白は前を向いたまま、ほんの少し右手を動かした。ポケットから手を出す。
冬の冷気が指先に触れる。すぐ隣には、凪の手がある。歩くたびに近づいては、離れる。
茉白は少しだけ指を伸ばした。触れる。指先だけが、ほんの一瞬触れた。
凪の手が、ぴたりと止まった。歩みさえ、少し乱れる。
茉白も緊張していた。抱きしめられるより、なぜかこちらの方が恥ずかしい。
「……何」
凪の声は、さっきより少し低い。
茉白は前を向いたまま答える。
「別に」
いつもの言葉。しかし、今度の「別に」は、逃げるためではなかった。
自分でも、きちんと分かっている。
指先を離さない。そのまま、凪の手に重ねる。
凪が一瞬だけ息を止めた。それから、確かめるように、そっと茉白の手を握った。
強くはない。いつものように、逃げようと思えば簡単に離せる。
でも、茉白は離さなかった。
掌が温かい。思っていたより、ずっと。
「……茉白」
「何」
「好き」
「今言う?」
「今だから」
茉白が小さく息を吐く。
「うざい」
「うん」
「甘い」
「うん」
今日は、何を言っても凪は嬉しそうだった。
茉白は少しだけ、握られた手に力を込めた。握り返す。
ほんの少し。それだけなのに、凪の指が一瞬強くなった。すぐに、また優しくなる。
「……でも」
茉白が言う。
「うん」
凪が待つ。
「今日は許す」
数秒後、凪が笑った。声を上げるわけでもない。ただ、嬉しさを隠しきれないような、そんな笑い方だった。
茉白は、その横顔を見た。
街路樹の光が、凪の頬に淡く落ちている。笑っている。
その顔を、写真に残したい。ふと、そう思った。
スマホはコートのポケットにある。取り出してカメラを向ければいい。今の光も、表情も、きっときれいに残せる。
しかし、茉白はスマホを取り出さなかった。
今は手を繋いでいる。これを離してまで、撮らなくてもいいと思った。
残すことは大切だ。写真なら、あとから何度でも見られる。あの瞬間を形にして、取っておける。
しかし、カメラを構えている間、自分はいつだって少しだけ、その場の外側にいる。見る側。残す側。
今は違う。
凪の隣にいて、手を握って、同じ冬の空気の中にいる。写真に残らなくても、自分がその瞬間の中にいる。
それも悪くない。いや、たぶん大切なのだ。
茉白は、そんなことを少しずつ知り始めていた。
高校三年生の冬。
四人の進路は、少しずつ形になった。
日菜は、子どもたちのそばに立つ未来へ。颯真は、教壇に立つ未来へ。凪は、誰かの身体と心を支える未来へ。そして茉白は、カメラや映像を通して、何かを残す未来へ。
同じ場所へ進むわけではない。同じ夢を見ているわけでもない。
それぞれに違う学校があり、違う生活があり、知らない人と出会い、知らない景色を見る。
春の茉白なら、そのことを『離れていく』と感じていたかもしれない。
しかし、今は少し違う。
別の道へ進むことと、大切ではなくなることは同じではない。
毎日会えなくても、隣の席でなくても、同じ制服を着なくても、会いたいなら会いに行けばいい。話したいなら連絡すればいい。遊びたければ約束すればいい。
未来の中に誰かを置いてもいい。自分で選べばいい。
そして茉白は初めて、その未来を怖いだけではなく、少し楽しみだと思えるようになっていた。
専門学校で、何を撮るのだろう。どんな人と出会うのだろう。どんな景色を好きになるのだろう。
日菜は、どんな保育者になるのだろう。颯真は、どんな教師になるのだろう。凪は、どんな理学療法士になるのだろう。
いつか、凪が理学療法士になった日に、自分が約束どおりカメラを向ける未来。そんな景色を、今は以前より少し現実のものとして想像できる。
けれど、未来を楽しみに思えるようになったからといって、今が終わる寂しさまで消えたわけではない。
むしろ、大切になったからこそ、終わってほしくないと思う。
日菜と毎日会える時間。四人で制服のまま駅前に集まれる時間。放課後、くだらないことで笑える時間。そして、凪と同じ高校生として並んでいられる時間。
すべて、あと少し。それが、きちんと寂しい。
しかし、寂しいからといって、立ち止まるわけにはいかない。楽しいからといって、終わりを見ないふりもできない。
未来へ進みたい。今を終わらせたくない。
その一見矛盾した二つの気持ちを、どちらもなかったことにしない。
茉白は凪の手を握ったまま、冬の駅前を歩く。
「それで」
しばらくして、現実的な問題を思い出す。
「飯」
凪が笑った。
「まだ決めてなかったね」
「肉」
「やっぱり焼肉?」
「あり」
「じゃあ、行こう」
「混んでいたら?」
「待つ」
「面倒」
「じゃあ、別の店」
「探すのが面倒」
「難しいなあ」
どこかで聞いたことのあるやり取りだった。
茉白が少しだけ笑う。
「凪」
「ん?」
「決めて」
「珍しい。任せていいの?」
「今日は」
「じゃあ、絶対に美味しいところへ連れていく」
「ハードルを上げたね」
「茉白が喜ぶ店を探す」
「普通でいい」
「それが一番難しいんだよなあ」
凪が笑う。茉白も少しだけ笑った。
行き先は、まだ決まっていない。今日の夕飯も、これから先の人生も、細かいところまでは分からない。
それでも、もう何もないとは思わない。
自分の中には、好きなものがある。やりたいことがある。大切な人たちがいる。
隣には、手を繋いで歩きたいと思える人もいる。
それなら、たぶん未来は何も分からないままでも歩いていける。
二人の影が街灯の下で長く伸びる。
繋いだ手だけは、どちらも離さなかった。
そうして、冬の夜の向こうで、高校生活の終わりが静かに、しかし確実に近づいていた。




