6 曖昧で頼りなくても
七月も半ばを過ぎると、朝という言葉がまるで言い訳にしか聞こえないほど、外はすでに暑かった。
登校してきた生徒たちは、教室の扉を開けるなり「暑い」「無理」「もう帰りたい」と似たような言葉を口にし、窓際では誰かが机の上に置いた小型扇風機へ顔を近づけている。天井のエアコンは低い唸りを上げながら懸命に働いていたが、三十人を超える高校生が一斉に持ち込む体温と夏の湿気までは処理しきれないらしい。
窓の向こうでは、校庭が朝から白く眩んでいた。
まだ一時間目すら始まっていないというのに、アスファルトの向こうでは陽炎が揺れている。
そんな教室の片隅で茉白は、自分の席に座ったまま、スマートフォンの画面をじっと見ていた。
表示されているのは、ここ数日で何度開いたか分からない学校案内のページだった。
写真。
映像。
グラフィックデザイン。
広告。
編集。
照明。
ページを少し下へ送るだけで、知らない言葉や知らない仕事が次々と現れる。
その一番下、見慣れてしまったほど何度も目にした文字。
オープンキャンパス予約受付中。
開催日は、今週の日曜日。
ちょうど空いている。
―――空いている、という事実に、昨日の夜からもう何度気づいたか分からない。
「……」
親指を動かす。
予約ページを開く。
氏名、連絡先、希望コース。
入力欄を眺める。
画面下部の予約ボタンまで指を滑らせる。
押す―――直前でやめる。
画面を閉じる。
また開く。
さっきからずっと、それを繰り返していた。
今朝だけで、たぶん三回目だ。
別に行きたくないわけではない。
むしろ少し見てみたい。
だから面倒なのだ。
これまでなら、『興味ない』で終われた。
その方が簡単だった。
好きかどうかを確かめる必要もない。
向いているか考えなくてもいい。
将来の選択肢になり得るものと向き合わなくても済む。
それなのに最近は、何かが少しずつ、そうさせてくれなくなっている。
「何してんの?」
突然、すぐ横から声が落ちてきた。
茉白はほとんど反射的にスマートフォンを伏せる。
顔を上げると、ちょうど鞄を机に下ろした日菜が、露骨に怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
朝からすでに完璧に巻かれた明るい茶髪。揺れるピアス。制服の上に羽織った薄手のカーディガンまで、本人の性格同様にやたら明るく見える。
「何でもない」
茉白は素知らぬ顔で答えた。
「今、めっちゃ怪しかった」
「気のせい」
「スマホ隠したじゃん」
「日菜が勝手に見るから」
日菜の目が細まる。
「見る前提なんだ」
「見るでしょ」
「見る」
「ほら」
即答され、茉白は半眼になる。
日菜はまったく悪びれもせず、自分の椅子を引いて座ると、今度は下から茉白の顔を覗き込んだ。瞳がきらきらと光っている。
「で、何見てたの?」
「だから何でもない」
「凪くん?」
「なんでそうなる」
「最近、茉白がスマホ見てちょっと黙る時、だいたい凪くんだから」
「違うし」
否定はしたものの微妙に心当たりがあったせいで、語尾が少し弱くなった。
日菜がそれを見逃すはずもない。
にやりとした口元を、茉白は無視する。
「じゃ何?」
「……学校」
「学校?」
予想外だったのか。
日菜の目がぱっと丸くなる。
その反応を見た瞬間、しまったと茉白は思った。
隠していたつもりはなかった。
ただまだ、人へ話したくなかった。
口に出してしまえばそれが急に「進路」になる気がしたからだ。
今のこれはそんな立派なものではない。
少し気になる。
ちょっと見てみたい。
もしかしたら好きかもしれない。
それだけだ。
そんな曖昧なものを「志望」と呼ぶにはあまりに頼りない気がしていた。
「写真とか、映像のとこ」
仕方なく答える。
聞いた瞬間、日菜の表情が一気に明るくなった。
「え、やっぱ興味あるんじゃん!」
「声でかい」
「ごめん! でも嬉しくて!」
「何で日菜が」
「だって茉白が自分で見てる!」
「そんな珍しい?」
「珍しいよ!」
両手を胸の前で組んで茉白に迫る。
「失礼」
「だって前まで、進路のページ開く前に閉じてたじゃん」
「開く前に閉じるって何」
「気持ち的に!」
意味は分からないが言いたいことは、なんとなく分かる。
以前の自分ならそもそも検索すらしなかった。
学校名を見る。
学科を調べる。
授業内容を読む。
ましてやオープンキャンパスの日程を何度も確認する。
そんなことはしなかった。
日菜は身を乗り出したまま、弾む声で尋ねる。
「どこ? 専門? 大学?」
「まだ決めてない」
「オープンキャンパスある?」
「ある」
「行くの!?」
「……知らん」
「あ、出た」
いつも茉白はそう。予防線を張る。日菜が吹き出しかけた。
だが次に茉白を見た時には少しだけ、その表情が柔らかくなっていた。
「茉白」
「何」
「行ってみれば?」
思ったよりも穏やかな声だった。
『絶対行きなよ! 』『予約しよ!』『今押そ!』
いつもの日菜なら勝手に畳みかけてきそうなものなのに、ただ、『行ってみれば』それだけだった。
そのせいで、かえって茉白は少し拍子抜けする。
「合わなかったら?」
「じゃ、違うんだって分かるじゃん」
「時間無駄じゃん」
「一日でしょ」
「暑いし」
「そこ?」
「大事」
真顔で言う茉白を見て、日菜が声を抑えて笑った。
それから机へ頬杖をつき、少しだけ考えるように視線を泳がせる。
「でもさ」
「何」
「行かないで、ずっと『どうなんだろ』って考えてる方が、茉白っぽくない」
「ウチっぽいって何」
「面倒だったら、さっさと確認して終わらせる」
茉白は黙った。
日菜は思ったより、茉白をよく見ている。
普段は感情のまま突っ走っているように見えるのにこういう時だけ、妙に的確だ。
「気になるなら、見てきた方が早くない?」
―――見てきた方が早い。
その言葉が思いのほか、すとんと胸へ落ちた。
未来を決める。夢を選ぶ。
そう思うから重い。
でも、ただ見に行く。合うか合わないか確認する。
それなら少しだけ、できそうだった。
「日菜」
「ん?」
「たまに頭いいこと言うね」
「たまに!?」
親友はいつも容赦がない。日菜は内心安心したような事実と認めたくない気がするような複雑な思いで茉白を見る。
「褒めた」
「全然嬉しくないんだけど!」
声を抑えながら抗議する日菜を横目に、茉白は小さく笑った。
もう一度、スマホを開く。
予約ページ、入力欄。
さっきまでと同じ。
違うのは、今度は、指が止まらなかったことだけだった。
必要事項を入力し、希望コースを選び、予約ボタンへ親指を置く。
ほんの一瞬また迷う。
けれど押した。
画面に【予約完了】と表示される。
「……予約した」
「えっ」
日菜が静止する。大きな目がさらに大きく、優しく、嬉しさを滲ませて開く。
「やったぁぁぁぁ!」
「うるさ!」
一斉に教室中の視線がこちらへ向いた。
「桃井、朝から何だ!」
ちょうど教室へ入ってきた担任の篠原が、呆れた声を飛ばしてくる。
反射的に振り返った日菜が篠原に迫る勢いで身を乗り出した。
「茉白が進路考えてます!」
「日菜!」
茉白の制止も虚しく、篠原も身を乗り出す。
「何だと!?」
「先生まで声でか」
茉白の戸惑ったような呆れたような呟き。耳を赤くして頬杖をつき、拗ねたようにあらぬ方向を向く。
一瞬の静寂のあと、教室に笑いが起きた。
「黒瀬が?」
「マジ?」
「明日雪じゃん」
「死ね」
近くから飛んできた余計な声へ、茉白は眉を寄せる。
篠原も以前ならさらっと流して『どうせ適当だろ」』くらい言いそうだったが、今日は違った。
茉白を見るその目元が、ほんのわずかに緩んだ。
「……そうか」
「まだ見るだけですけど」
茉白は少し居心地悪そうに肩を竦める。
篠原は手にしていた出席簿を教卓へ置いて頷く。
「それでいい」
「え」
「最初から全部決まってるやつなんて、そう多くない」
それだけ言って篠原は教室の一番前、窓際の自分の席へ向かう。
ふと途中、思い出したように付け加えた。
「地図、やっと開いたな」
茉白の指が止まる。以前進路希望調査に三つとも「未定」と書いて出した時、篠原に言われた。
―――お前は迷ってるんじゃない。
―――まだ地図を開いてないだけだ。
あの時は余計なお世話だと思った。
未来のことを考えない自分を勝手に問題視された気がした。
今なら少しだけ、意味が分かる。
「……先生」
「何だ」
「ちょっとだけね」
自分でも何を言い訳しているのか分からない。
篠原はこちらを見ずにプリントのチェックを始めた。
「十分だ」
短い答え。
それだけなのに不思議と、少しだけ嬉しかった。
*
日曜日。
駅のホームに立った瞬間、茉白は本気で帰ろうかと思った。
暑い。眠い。人が多い。電車も混んでいる。
そして何より緊張している。
その事実が一番気に入らなかった。
白い半袖シャツに、薄手の黒いパンツ。
髪は低い位置で軽くまとめた。
耳にはいつもの小ぶりなピアス。
学校を見るだけだし、別に誰かに会うわけでもない。
だから服も適当―――のつもりだったのに出かける前鏡を二回も確認した。
それも気に入らない。
「……だる」
小さく呟く。
自分が進路に関係する場所へ、しかも一人で、自分の意思で向かっている。
それだけのことなのに妙に落ち着かない。
スマホが震えた。
『着いた?』
【心配】のスタンプとともにメッセージ。日菜らしい可愛いスタンプ。
『電車待ち』
送った直後に『がんばれ!!!!!!』と全力のメッセージ。画面いっぱいの勢いに、茉白は眉を寄せる。
『見るだけだから』
『写真撮ってきて!』
『学校を?』
『違う!』
『茉白が興味持ったもの!』
「……」
その一文に指が少し止まった。
何を撮るかは自分でもまだ分からない。
『気が向いたら』
心が動いたら。内心で言い直す。文字にはしない。
その直後にまた通知。
今度は凪だった。
『今日オープンキャンパスだっけ』
茉白の眉間へ皺が寄る。
『何で知ってる』
『日菜ちゃん→颯真→俺』
『情報流出』
『機密事項だった?』
『別に』
そう返すとすぐに『行ってらっしゃい』それだけのメッセージ。
「……」
意外だった。
もっと『偉い』とか『一歩前進じゃん』とか『俺もついていこうか』とか、いちいち何か言ってくると思っていた。
なのに、『行ってらっしゃい』だけ。
茉白は画面を見たまま、なぜか少し物足りなく感じた。
その感覚に気づく前に指先がメッセージを送る。
『それだけ?』
送信された文字を見て自分で自分に引いた。
「……は?」
何を期待している。慌てて送信取り消しをしようとしたのに即座に既読。
『何か言ってほしかった?』
「……うざ」
呟く。しまった、隙を見せてしまって構えるが平静を保つふりをする。
『別に』
『じゃ、それだけ』
対する凪の返信もあっさりとしていた。茉白の焦りを奴は知っている。ムカつく。スマホを投げそうになる。
茉白はスマホを閉じようとした。
その時追加でメッセージが届く。
『でも、茉白が自分で行こうって思ったの、なんか嬉しい』
心臓がほんの少しだけ変な拍を打った。
『お前関係ないじゃん』
『あるよ』
『何が』
『最初に写真好きって聞いたの俺じゃん』
『恩着せがましい』
『嘘』
すぐ訂正が入る。
『茉白が自分で見つけたことだから』
その一文を少し長く見た。
凪はこういうところだけ妙にずるい。
自分が影響を与えたと言えばいいのに。
最後には、ちゃんと茉白自身のものへ戻す。
『楽しんできて』
最後にそれだけ送られてきた。
電車がホームへ滑り込んでくる。
風が巻き起こり。まとめた髪の毛先が頬へ触れた。
扉が開くまで画面を見つめる。
空いた席へ腰を下ろしてから、少しだけ考える。
『うん』
短く返した。
窓の向こうで見慣れた街が、少しずつ後ろへ流れていく。
その先にあるのは、まだ知らない場所。
自分から未来の方へ移動している。
なんてそんな大げさなものではない。
ただ電車に乗っているだけ。
それでも、ほんの少し、自分が前に進んでいる。
そんなふうに思った。
*
学校は想像していたより、ずっと普通だった。
茉白の中では写真や映像を学ぶ学校なんて、もっと派手で、クリエイター志望みたいな人たちが、よく分からない服を着て、よく分からないオブジェを作って、『芸術とは』とか言っている。
そんな偏見に満ちたイメージがあった。
駅から十分ほど歩いた先にある、ガラス張りの校舎。
入口では学生スタッフが受付をし、廊下には作品が整然と展示され、教室では先生たちが保護者や参加者へ説明している。
普通だ。
けれど茉白にとっては何もかもが新しかった。
「写真コースの体験はこちらでーす!」
首から名札を下げた学生スタッフの明るい声に導かれ、茉白は教室へ入る。
一歩入った瞬間に目が止まった。
壁一面に写真。
人物。街。空。動物。食べ物。夜景。手。古い家。
誰かの後ろ姿。
同じ【写真】という一語で括られているはずなのにひとつとして同じものがない。
色も、距離も、光も、撮った人が何を見ていたのかも―――全部が違う。
「……」
茉白はゆっくり歩いた。
派手な夜景の写真。
鮮やかな花。
モデルらしい女性のポートレート。
どれも綺麗。
ある一枚の前で足が止まった。
夕方の商店街。
特別な景色ではない。
自転車、買い物袋を提げた人、シャッターを半分下ろした店、傾いた西日。
その中をランドセルを背負った小学生が、一人で歩いている。
ただそれだけ。
それだけなのに、なんとなく好きだと思った。
「それ、気になります?」
隣から声をかけられ茉白は顔を向ける。
首から名札を下げた学生スタッフの女性が立っていた。
笑顔は明るいがこちらへ距離を詰めすぎない。
その感じが少しありがたい。
「……ちょっと」
「私も好きなんです、それ」
「撮った人、学生?」
「はい。二年生です」
「へえ」
もう一度写真を見る。
「どこが好きです?」
突然聞かれた茉白は言葉に詰まる。
「何が……」
「この写真の」
好きな理由そんなもの考えたこともなかった。
好きか嫌いかなんてなんとなくで決めるものだと思っていた。
写真を見る。
「……普通なとこ」
ようやく答えた。
「普通?」
「何か、すごい景色じゃないし」
「はい」
「別に珍しい人もいないし」
「うん」
「でも」
もう一度視線を写真へ戻す。
「見たことある感じする」
学生スタッフの女性は少しだけ目を細めて笑った。
「それ、すごくいい見方ですね」
「そう?」
「写真って、珍しいものだけ撮るわけじゃないので」
彼女も同じ写真を見る。
「日常を残すのが好きな人もいます」
「日常」
「誰かの顔とか。帰り道とか。光とか。朝の机とか」
静かに彼女は続ける。
「撮った時には何でもなくても、後から見ると大事だったりするもの」
茉白の中にいくつかの映像が浮かんだ。
日菜。
文化祭。
体育祭。
コンビニの駐車場。
雨上がりの道。
夕焼け。
店の裏にいた白猫。
教室で笑う日菜。
颯真の隣で照れる日菜。
傘を開く凪。
―――何でもない。
わざわざ人へ見せるほどでもない。
でも、消したくない。
そう思ってずっと残している写真。
「……それも写真なの?」
つい。そんなことを聞いていた。
学生スタッフは不思議そうに、でもすぐ笑って当たり前みたいに答えた。
「もちろん」
その言葉だけがなぜか妙に胸へ残った。
*
体験授業では小さな一眼レフカメラを貸してもらった。
「まず、絞りが――」
先生が説明する。画面。数字。ダイヤル。シャッタースピード。ISO。被写界深度。
聞けば聞くほどに思わず声が漏れた。
「……分からん」
隣で補助をしていた学生スタッフが笑った。
「最初みんなそうです」
「数字多すぎ」
「慣れます」
「スマホでよくない?」
半分本気で聞く。
「スマホも全然いいですよ」
「え」
予想していなかった答えだった。
茉白は顔を上げる。
「写真好きなら、機材は何でも」
「カメラ買わなきゃいけないと思ってた」
「もちろん使えた方が、できることは増えますけど」
学生は軽く肩を竦めた。
「でも、撮りたいって思う方が先です」
―――撮りたい。
その言葉が静かに引っかかった。
何を。
自分は何を撮りたいのだろう。
「じゃあ、校内で自由に撮ってきてください」
説明が終わり、参加者たちはそれぞれ教室を出ていった。
茉白も借りたカメラを首から下げて歩く。
最初は何を撮ればいいのか分からなかった。
校舎、一枚。
展示、一枚。
窓、一枚。
机、一枚。
近くでは他の参加者が観葉植物へカメラを向けたり、壁の作品を撮ったり、友達同士で互いを撮影している。
茉白も真似をするが撮った画像を確認するたびに違和感を感じる。
「……違う」
何となくしっくりこない。
上手い下手以前に自分が何を撮りたいのか分からない。
少し歩いて階段の踊り場へ出た。
大きな窓、午後の光、白い壁へ長い四角形の光が落ちている。
その前を参加者らしい母娘が歩いていった。
自分と同じくらいの娘と母親。
「さっきの先生、面白かったね」
母親らしき人が何か言う。
娘がふっと笑った。
その瞬間、茉白の手が考えるより先に動いた。
カメラを構える。
ファインダー。
光。
二人。
シャッター。
乾いた音。
一枚。
「……」
画面を確認する。
少し傾いている。
光も若干強い。
母親の顔は半分しか映っていない。娘の顔はこちらを向いているが、逆光になっていてふたりの顔は判別できない。ただその表情のニュアンスは伝わる。
たぶん技術的にはうまくない。
でも好きだった。
娘の笑った顔、それを見る母親。
二人の距離。
なんとなくそこにある空気まで映っている気がした。
「……あ」
その時少しだけ分かった。
自分は景色だけが好きなのではない。
人がいる景色。
それが好きなのかもしれない。
誰かを見る。
何をしているのか。
どんな顔をしているのか。
誰かと一緒にいる時どんなふうに表情が変わるのか。
思えばずっとそうだった。
日菜の笑顔。
颯真を見る日菜。
日菜を見る颯真。
四人で撮ったプリクラ。
そこに写る凪。
そしてその凪が、自分を見ている顔。
「……」
カメラを下ろす。
胸の奥に小さな感覚が生まれた。
自分は人を見ている。
たぶん、昔から。
その瞬間を残すことが好きなのかもしれない。
そんなふうに、初めて自分の中のものへ言葉を与えた。
*
帰り道。
駅へ向かいながら。
茉白はスマホで、今日撮った写真を何度も見返していた。
借りたカメラのデータは、学校側がその場でスマホへ転送してくれた。
上手いとは正直思わない。
ピントが甘い。明るすぎる。何を撮ったのか分からない写真まである。
それで一枚、一枚。
気づけばずっと見ている。
「……楽しかったな」
ぽつりと口から出て足が止まりかけた。
自分で言った言葉に少し驚く。
楽しかった。
まあまあ。
でも悪くないではなく【はっきりと】楽しかった』
そう思ったそれだけで胸のどこかが少し軽くなる。
茉白はスマホを開く。
まずは日菜から。
『行ってきた』
数秒も待たず返信。
『どうだった!?!?!?』
「早」
『声聞こえそう』
『楽しかった!?』
親指が止まる。
『まあ』
いつもの答え。
迷って送らずに消す。
改めて打ち直す。
『楽しかった』
またすぐに返信。
『うわああああああああ』
『茉白が!!!!』
『自分から!!!!』
『楽しかったって!!!!!!』
四連投。
『うるさ』
『今度話して!全部!』
『気が向いたら』
『絶対ね!!』
茉白は歩きながら小さく笑った。
次は凪。
何を送るか少し迷って階段で撮った母娘の写真を選ぶ。
送信。数分後に既読がつく。
『いいじゃん』
茉白の指が動く。
『ほんと?』
送ってから自分で少し驚く。
評価を聞いた。
自分から写真をどう思うか知りたかった。
『ほんと』
『前より人撮ってる感じする』
凪の連投。茉白が首を傾げる。
『前?』
『茉白が送ってくれる写真、景色多かったから』
「……」
よく見ている。
本人である自分より、自分の写真を。
『今日、人撮るのちょっと好きかもって思った』
送る。
返事が来るまで少しだけ時間があった。
『そっか』
それだけ。
『何』
『いや』
少しの間。返信に困っているのかもしれない。
返答は予想外だった。
『嬉しい』
駅前の信号で茉白の足が止まる。
『何でお前が』
『茉白が好きなもの見つけたから』
胸の奥が少しだけあたたかくなった。
『まだ見つけたってほどじゃない』
『じゃあ、好きかもを見つけた』
『それなら十分じゃん』
前にも凪は言っていた。
好きかもそれくらいなら自由だと。
あの時は簡単に言うなと思った。
でも、今なら少しだけ分かる。
『凪』
気づけば名前を打っていた。
『ん』
『ありがと』
既読―――返事が来ない。
「……何」
思わず声が漏れる。珍しいいつもなら何かしら秒で返してくるのに。
『今、普通に嬉しくて言葉出なくて』
しばらく後、送られてきた返信に、画面を見た茉白は力が抜けたように笑った。
『きも』
『ひど』
『でも』
『うん』
少し迷う。
でも今日は言ってみた。
『ウチも今ちょっと嬉しい』
「……」
茉白の足が止まった。
何を自然にそんなことを。
取り消し、取り消さないと。
指が動く。
しかしすでに既読。
「さいあく」
茉白が呟いたその直後。
『会いたい』
「……は?」
駅前の人混みの中で本気で声が出た。通行人が数人ちらりとこちらを見るが気にしていられない。
『急』
『今から行っていい?』
『どこに』
『そっち』
『待つのだるい。暑い』
『アイス奢る』
『高いやつ?』
『二個まで』
『待つ』
送って自分で一瞬固まる。
待つと送った。
迷いなし即答。
「……まあ」
誰も聞いていないのに小さく呟く。
「アイスだし」
完全に言い訳だった。
口元が少しだけ笑っていることにも気づかないふりをした。
*
三十分後。
駅前の時計の下。
凪は本当にすぐに来た。自転車を押しながら、前髪は汗で少し額へ張りつき白いTシャツの肩もわずかに汗で色が濃くなっている。
「早」
茉白が呆れたように言う。
「会いたかったから」
凪は呼吸を整えながら何でもないように返した。
「それでチャリ飛ばした?」
「安全運転」
うそつけと茉白は思う。いくら暑いとはいえ息切れてただろ、と。
「汗やば」
「暑いからね」
「アホじゃん」
「呼ばれて嬉しかった」
「呼んでない」
「待つって言ってたじゃん」
「アイス」
「知ってる」
凪はコンビニ袋を持ち上げる。
中から冷気が少し漏れた。
「買ってきた」
「何」
「茉白が前、好きって言ってたやつ」
「……言ったっけ」
「言ってた」
「いつ」
「五月くらい」
茉白は無言で凪を見る。
「覚えてんの怖」
「褒めて」
「怖」
「ひどいなあ」
けれど袋を受け取る。
本当に好きなストロベリーヨーグルトアイスだった。
それがちょっと嬉しい……とは言わない。
二人で近くの小さな公園へ向かう。
前にも来た場所。
凪が模試の結果を見せ初めて弱音を吐いた、あの公園。
今日は同じベンチなのに少し違って見えた。
夕方。
まだ暑いが昼間より風はある。
木陰から蝉の声。
遠く子どもの笑い声。
二人で並んで座ってアイスの袋を開ける。
冷たい空気が指先へ触れた。
「で」
凪がこちらを見る。
「どうだった?」
「学校?」
「うん」
茉白は一口アイスを食べた。
舌が冷える。
暑かった身体が少しだけ落ち着く。
「普通に楽しかった」
「へえ」
凪の目元が一気に柔らかくなる。
「その顔何」
「いや」
嬉しそうに笑っている。
「茉白が『普通に楽しかった』って言うの、珍しいなって」
「日菜と同じ反応すんな」
「日菜ちゃんも?」
「めっちゃ騒いでた」
「そりゃ騒ぐよ」
「何で」
「だって茉白」
凪は少しだけ笑みを弱めた。
「今まで全部『別に』だったじゃん」
「そんなことないし」
「あるよ」
「……まあ」
否定しきれなかった。
凪はそれ以上何も言わない。
どうだった、と聞いた後は待っている。
話すかどうかを茉白へ任せている。
だから茉白も少しずつ今日見たものを話した。
壁にあった写真。
普通の商店街。
日常を残すこと。
母親と娘。
カメラ。
撮りたいもの。
「ウチ」
言葉を選びながらアイスの棒を見つめる。
「人撮るの、好きかも」
「うん」
凪は笑わなかった。
大げさに喜びもしない。
ただ、聞く。
「何か」
「うん」
「その人の、その時しかない顔とか」
言葉にすると少し恥ずかしい。
だから茉白は正面を向いたまま話す。
「あとで見たら、こんな顔してたんだって分かるじゃん」
「分かる」
「日菜とかさ」
「うん」
「一人の時と、ウチといる時と、水城といる時で全然違う」
「分かる」
「水城も、日菜見る時だけ顔変わる」
「分かる」
「あいつ分かりやすいよね」
「本人だけ気づいてないけど」
同時に笑う。
そこで茉白は何気なく続けた。
「凪も」
「俺?」
「顔違う」
凪が瞬く。
「どんな?」
「普段」
「うん」
「水城からかってる時」
「うん」
「あと」
そこまで言って茉白は一瞬止まった。
目線が泳ぐ。頬がわずかに熱くなるのを感じた。
「……ウチといる時」
隣が急に静かになる。
「何?」
怪訝に思い凪を見る。
凪が珍しく本当に黙っている。
「いや」
「何その顔」
「今それ言われると」
「何」
凪は少しだけ照れたように笑った。
「ちょっと期待する」
「何を」
「茉白が俺のこと、よく見てるなって」
目が合う。
やわらかい、あの、メロい顔。さらりとこっちのこと包み込んで、自然体で色気振りまく顔。
以前なら、はいはい、で済んだのに今は。
心臓が、少しだけ動く。
慌ててごまかすように茉白は目を逸らした。
「……被写体として」
「俺、撮ってくれる?」
「気が向いたら」
つんと顎をあげて茉白が答えるも、凪は身を乗り出して詰めてくる。
「今は?」
「嫌」
「即答」
「近いし」
凪は面白そうに目を瞬かせるとベンチの端を指さした。
「じゃ向こう行く?」
「そこまでしなくていい」
「じゃ撮って」
「うざ」
凪が笑う。
茉白は少し考える。
そしてスマホを取り出した。
「……一回だけ」
「え」
冗談のつもりだった。まさか茉白が応えるなんて思っていなかった。凪の表情が本当に固まる。
「動くな」
「待って」
「何」
「ちょっと緊張する」
「お前でも?」
「茉白に撮られるから」
両手を顔の前にかざして動揺している。
「意味分かんない」
「自然にした方がいい?」
「自然にして」
「急に一番難しいやつ」
「いつも通りでいい」
その言葉に凪の肩の力がふっと抜けた。
「茉白見ていい?」
「何で」
凪が少し首を傾げて微笑む。
「いつも通りだから。いつも自然体」
「……」
ずるい、またそういうことを言う。
「駄目?」
茉白は少し迷う。考えるまでもなかった。許可しようがしまいが、この男は茉白を見ているから。
「……別に」
茉白はスマホを構える。
画面の中で凪がこちらを見る。
いつものように笑う。
でも、少しだけ照れている。
あ、この顔。
自然と指が動いた。
シャッター音。
「見せて」
「待って」
凪が身を乗り出すのを片手で制した。自分が先に見たい。切り取って保存したあの瞬間を。
画面を見る。
夕方の光。
公園、ベンチ、凪。
こちらを見る顔。
ほんの少しだけ照れた笑み。
「……」
いい。
そう思った。
たぶん今日撮った学校の写真よりずっと。
「どう?」
「まあ」
「その『まあ』どっち」
「悪くない」
「見たい」
「待って」
「何で」
理由はない。
ただ少しだけ見せるのが惜しい。
自分だけのものにしたい。
そんな変な感覚があった。
「茉白」
「何」
「もしかして」
「違う」
「まだ何も言ってない」
「顔がうざい」
凪が吹き出す。
結局茉白は画面を向けた。
「うわ」
「何」
「俺だ」
「お前でしょ」
「いや」
凪はしばらく写真を見ていた。
「なんか」
「何」
「いいね」
「自分で言う?」
「俺がいいんじゃなくて」
凪の視線が写真から茉白へ移る。
「茉白が撮った俺、いい」
「……」
またその言い方、笑い方。
「メロ」
「褒められた」
「悪口」
「でも保存していい?」
「送る」
「やった」
すぐに写真を送る。
凪がすぐに保存する。
その様子を茉白は横から見る。
自分が見た凪。
自分が切り取った凪。
その写真を本人が好きだと言った。
それがなんとなく嬉しかった。
*
数日後。
夏休み前の三者面談。
放課後の教室には昼間よりずっと静かな空気が漂っていた。
他の生徒たちはすでに帰り、廊下から時折別の教室で話す先生と保護者の声が聞こえる。
茉白は母親と並んで篠原の前へ座っていた。
机の上に進路希望調査票。
第一希望。
第二希望。
第三希望。
全部未定だった紙。
「それで黒瀬」
篠原が資料へ目を落としながら言う。
「少し興味が出たところがあるらしいな」
「はい」
隣で母親が勢いよく茉白を見る。
「え、そうなの?」
「言ってなかったっけ」
「聞いてない」
「今言った」
「茉白」
「何」
「そういうの言ってよ」
叱る声ではない。
むしろ嬉しそうだ。
それが茉白には少し気まずい。
「まだ決めたわけじゃないし」
「何に興味あるの?」
「写真とか」
「へえ」
「映像とかも」
「へえ!」
「その『へえ』何」
母親は少し笑う。
「いや。茉白っぽいなと思って」
「何で」
「昔から写真ばっか撮ってたじゃん」
茉白が止まる。
「……そう?」
「そうだよ」
母親はあまりに簡単に答えた。
「小学校の時も旅行行ったら、景色より人撮ってたし」
「覚えてない」
「お父さんが変な顔してる写真ばっかり残ってる」
「ウケる」
「あと私が寝てる写真」
「それは知らん」
「消して」
「残ってたらね」
母娘のやり取りを聞いていた篠原が小さく笑った。
「本人以外は、分かっていたのかもしれないな」
「何が」
「好きなこと」
茉白は黙った。
日菜、凪、母親。
みんな似たようなことを言う。
自分だけ気づかなかった。
「……先生」
「何だ」
「好きだからって」
考え込むように天井の蛍光灯を見て、少し言葉を探す。
「仕事にしなきゃ駄目?」
篠原が目を細めた。
「誰がそんなこと言った」
「誰も」
「じゃあ何でそう思った」
「何となく」
未来を考える。
進路を考える。
すると好きなものを職業や収入、安定、資格、就職率。
そういうものへ変換しなければいけない気がしていた。
だから好きと認めること自体が重かった。
それが将来への契約みたいで。
篠原は少し考える。
「仕事にする選択肢もある」
「うん」
「趣味にする選択肢もある」
「うん」
「途中で変わってもいい」
茉白は顔を上げた。
「……いいの?」
「当たり前だろ」
篠原はあっさり言った。
「十八で人生全部決められるなら、教師はいらん」
「先生、それでいいの」
「いいんだよ」
篠原は笑う。
それから少しだけ教師らしい目をする。
「今の黒瀬には、将来を決めるより……」
茉白と母親、両方をまっすぐ見て頷いた。
「自分が何を好きか、もう少し知る方が先かもしれないな」
自分を知る。
その言葉を茉白はゆっくり噛みしめる。
今まで自分のことは自分がちゃんと知っていると思っていた。
面倒くさがり。
無気力。
別に何もしたくない。
夢もない。
将来も分からない。
それが黒瀬茉白。
でも最近少し違う。
写真を見るのは楽しい。
撮るのも楽しい。
人を見るのが好き。
日菜が笑っていると嬉しい。
凪が弱っていたら少し気になる。
凪が笑っていたら、前より、少しだけ嬉しい。
知らなかった自分には思っていたより好きなものがある。
※
夏休みが始まると、四人の時間は、それまでより少しずつ別々の方向へ流れ始めた。
日菜は受験勉強に本腰を入れ、颯真は予備校へ通う日が増えた。凪も、前回の模試で落とした判定を取り戻すため、以前より勉強時間を増やしているらしい。
つい数か月前までなら、そんな話を聞いても茉白は「へえ」で終わっていた。
みんな頑張ってるな、自分には関係ないけど。
その程度だった。
けれど今。
茉白の自室の机には、数冊の学校案内と、印刷した資料と、開きっぱなしのノートパソコンが広がっていた。
窓の外では、夏の夕方らしい白っぽい光が近所の家々の屋根を照らしている。エアコンの送風音に混じって、遠くで蝉がまだしぶとく鳴いていた。
机の上へ肘をつきながら、茉白はしばらく無言で資料を眺める。
写真系の専門学校。
映像制作を学べる大学。
グラフィック。
広告。
撮影。
編集。
学費。
就職実績。
授業内容。
作品例。
以前の自分なら、タイトルだけ見て閉じていたであろうページが、いまはブラウザのタブにいくつも残っている。
「……誰」
思わず独り言が漏れた。
誰だ、こいつ。
昔の自分が今の自分を見たら、たぶん普通に引く。
進路資料を並べ、学費を比較し、卒業後の就職先まで確認している。
意味が分からない。
茉白はノートパソコンの画面をスクロールした。
読んでも、よく分からない。
学科名は違う。
授業内容も似ているようで違う。
就職率は数字だけ見ても、どこまで信用していいか分からない。
一度、ブラウザを閉じる。
「……だる」
椅子の背へ身体を預け、天井を見る。
もういい、明日でいい。
そう思う。
けれど五分もしないうちに、またパソコンを開いていた。
分からないまま放っておくことの方が、今は少し気持ち悪い。
そんな自分の変化が、一番気持ち悪い。
「ほんと誰」
もう一度呟きながら、スマホを手に取る。
画面を眺めていると、広告が表示された。
『あなたに向いている職業は?』
適職診断。
「……絶対胡散臭い」
そう言いながら、指はもう画面をタップしていた。
設問が並ぶ。
人と関わることが好きか。
計画を立てるのが得意か。
新しい環境にすぐ馴染めるか。
感情移入しやすいか。
「知らん」
呟きつつ適当に答えていく。
『あなたは、人の気持ちに寄り添うことのできる――』
「そこまでじゃない」
茉白は真顔で否定し、すぐ閉じた。
別のサイト。今度は少し質問数が多いので適当に進める。
『あなたは協調性が高く――』
「ない」
即座に切る。
さらに別。
『計画性を持って物事を進めることが得意で――』
「もっとない」
とうとう、茉白は声を出して笑った。
「使えん」
スマホを机へ放る。
その瞬間、ブブ、と短く震えた。
日菜からのビデオ通話。
「……」
嫌な予感しかしない。
けれど拒否してもすぐかけ直してくるのは分かっている。
茉白は通話ボタンを押した。
「何」
『茉白ぉぉぉぉぉ』
画面いっぱいに、死にかけた日菜の顔が現れた。
いつもなら綺麗に整っている前髪も、今日は少し崩れている。机に突っ伏したままスマホを持っているらしく、頬がノートへ押しつけられて変な形になっていた。
「うるさ」
『英語無理ぃぃぃ』
「知らん」
『もうほんと無理。長文読んでる途中で最初の文忘れる』
「頑張れ」
『その言い方絶対応援してない!』
茉白は少し考えたあと、机の上へ視線を落とした。
「さっきのウチ適職診断したけど、協調性高いらしいよ」
画面の向こうで日菜が止まった。
泣きそうな顔のまま数秒静止。
『……嘘じゃん』
「だよね」
お互い目を合わせて一瞬だけ無言になった。
それからほぼ同時に笑う。
さっきまで「英語無理」と死にかけていた日菜は、しばらく肩を揺らして笑ったあと、ふとこちらを見た。
『で、何してたの?』
「進路」
その瞬間本当に日菜が完全に止まった。
目だけが大きくなる。
『……もう一回』
「進路」
『茉白が?』
「うん」
『こないだの? 自分から?』
「切るよ」
『待って待って待って!』
日菜が慌てて身体を起こした。
画面の向こうで、参考書らしいものが派手に床へ落ちる。
「落ちたよ」
『今それどころじゃない!』
「勉強しろ」
『いやだって茉白が進路調べてるんだよ!?』
「そんな事件みたいに言う?」
『事件だよ!』
失礼極まりない。
茉白が半眼で睨むと、日菜は笑った。
その笑顔は少しずつさっきまでとは違うものになっていった。
勢いで笑っている顔ではなく、ほっとしたような、安心したような、そんな顔。
『なんかさ』
「何」
日菜が少し視線を下げる。
『嬉しい』
「最近みんなそれ言うね」
茉白は机の上に散らばる資料を適当に重ねながら返した。
『だって』
日菜は一度、唇を閉じた。
いつもなら考える前に喋る日菜が、珍しく言葉を選んでいる。
茉白は手を止めた。
『茉白だけ、止まってるみたいで嫌だったから』
「……何それ」
『前の話』
日菜は少し照れたように笑った。
『ウチが進路考え始めた時』
「うん」
『茉白、置いてかれる感じするって言ったじゃん』
茉白はその時のことを思い出す。
日菜が少しずつ勉強を始め、颯真と進路の話をするようになって、自分だけが同じ場所に残されている気がした。
あの時冗談っぽく軽く、でも本当は少し寂しくて放った言葉。
「……言ったね」
『でもウチもさ』
日菜は画面越しに髪を耳へかけた視線が少し落ちる。
『茉白が、何にもしたくないまま卒業しちゃったらどうしようって心配で』
日菜は少しだけ口角を上げる。
『だからオープンキャンパス行くって聞いた時も嬉しかったけど』
茉白は何も言わなかった。
日菜はいつも明るい。
何でもすぐ口にする。
茉白のことも、遠慮なく引っ張り回す。
だからこんなふうに自分のことで静かに心配していたなんてあまり考えたことがなかった。
『ウチだけ先行きたいわけじゃないし』
「うん」
『一緒の道じゃなくてもいいけど』
日菜の声がほんの少しだけ震えた。
『茉白にも、行きたいとこあったらいいなって思ってた』
茉白はしばらく答えられなかった。
画面の向こう日菜は笑っている。
でも、少しだけ泣きそうでもある。
恋人ができて、受験勉強を始めて、自分自身も不安なはずなのに、それでも親友の未来をちゃんと心配していた。
茉白は視線を机へ落とす。
資料。
学校案内。
開きっぱなしのブラウザ。
以前なら触ろうともしなかったもの。
今は自分で調べて自分で広げている。
「……日菜」
『何』
「多分」
茉白は指先で資料の端をなぞった。
「行きたいとこ、あるかも」
画面の向こうで日菜が固まる。
「まだ分かんないけど」
それでも言葉は続いた。
「やっぱ写真とか映像とか」
自分で言うとまだ少し恥ずかしい。
まるで本当に茉白の夢みたいに聞こえる。
「でも」
茉白はほんの少しだけ笑った。
「前よりは……」
その瞬間日菜の目にみるみる涙が溜まった。
「泣くな」
『泣いてない!』
「泣いてる」
『暑いだけ! 暑い暑い! 汗めっちゃ出る!』
「目から?」
『うるさい!』
日菜が泣きながら笑うから、茉白もつられて笑った。
画面越し。
前みたいに毎日一緒に帰るわけではない。
日菜には颯真がいる。
茉白にも以前とは違う人間関係が増えた。
これから進む道もたぶん同じではない。
でも、違う道へ進むことと離れることは、きっと同じではない。
そんなことを今なら少しだけ信じられた。
*
夜。
部屋の灯りを落として茉白はベッドへ寝転がっていた。
エアコンの風が、足元の薄いタオルケットをわずかに揺らしている。
今日調べた学校の資料はまだ机の上へ広げたままだった。
片づけるのが面倒だった。
―――だけではなく、何となくまだ見えるところに置いておきたかった。
スマホが震える。
『勉強終わった』
凪からだった。茉白は枕へ頬をつけたまま返信する。
『偉』
すぐ既読。
『今日も褒められた』
『明日雨降るね』
『なにそれ』
茉白の口元がほんの少し緩む。
『模試どう』
少し迷って送る。
返事はすぐ来なかった。
茉白はスマホを胸の上へ置き天井を見る。
『上がった』
間を空けて送られてきた返信に、茉白は身体を起こした。
『どれくらい』
『C』
「おお」
思わず声が出る。
『おお』
同じ文字を送る。
『一個だけど』
『上がってんじゃん』
『うん』
茉白は少し考えてから返事する。
『すご』
送った。既読。でも返事が来ない。
凪は本当に嬉しい時だけ、妙に返信が遅くなる。
茉白は画面を見つめて待つ。
『茉白に褒められると普通に効く』
やっと返ってきた。茉白は鼻で笑う。
『チョロ』
『チョロいよ』
『だからもっと言って』
『調子乗んな』
『じゃ写真送って』
『何で』
『最近撮ったやつ』
茉白は写真フォルダを開く。
夏空。
日菜。
学校帰りに見つけた猫。
コンビニの駐車場。
夕方の駅。
指がこの前公園で撮った凪の写真で止まった。
夕方の光の中、ベンチへ座ってこちらを見ている。
少しだけ照れたように笑っている。
もう本人には送った写真。
茉白は画面を拡大した。
柔らかい目と口元。
夕方の光。
自分を見ている顔。
―――悪くない。
やっぱりそう思う。
『茉白?』
少しびくっとする。
『今選んでる』
『俺の写真見てた?』
「……」
本当に腹立つ。
どうしてこういう時だけ無駄に勘がいい。
『死ね』
『当たり?』
『写真送らん』
『ごめんごめん』
茉白は結局夏空の写真を一枚選んだ。真っ青な空に、大きな雲が光っている。ひこうき雲の名残が散っている。
『夏だ』
送ってすぐ既読がついた。
『見れば分かる』
返事はいつも通りだった。
茉白はベッドでスマートフォンを眺める。画面には、夏の夕方に撮った写真。
そこへ凪から届いた。
『好き』
たった二文字なのに、今夜は妙に引っかかった。
写真が好き。
それとも、茉白が。
迷った末、指が動く。
『どっち』
送信した瞬間、茉白は後悔した。
既読はすぐについたが、返事は来ない。
しばしの間、やがて届いたのは。
『両方』
「……あいつ、まじで……」
耳まで熱くなる。いつものように『きも』とは返せなかった。
しばらくして、茉白は別の言葉を打つ。
『凪』
『ん』
『ウチさ』
少し迷ってから送る。
『写真とか映像』
『うん』
『そっち、ちょっとやってみたいかも』
『そっか』
反応の薄さに、茉白は眉を寄せた。
『反応薄』
するとすぐに返事が来る。
『いや』
『今すげえ嬉しい』
『でも俺が大騒ぎしたら茉白引くかなって』
茉白は少し笑った。
『学習してんじゃん』
『成長した』
『えら』
『また褒められた』
『チョロ』
いつもの調子に戻ったところで、凪から届く。
『茉白』
『何』
『夢って言わなくていいと思うよ』
『やってみたい、で十分』
茉白はその言葉を何度も読んだ。
夢は大きすぎる。
将来も遠すぎる。
けれど、『やってみたい』なら言える。
写真を撮るのが好きかもしれない。
映像に興味がある。
少しだけ、やってみたい。
それなら、手を伸ばせる。
茉白は短く返した。
『うん』
それから少し考える。
『凪も』
『何』
『理学療法士』
『うん』
茉白は、以前聞いた凪の話を思い出した。膝を壊し、理学療法士に支えてもらったこと。模試の判定に落ち込んでも、笑っていたこと。
だから今度は、自分が言う。
『なれたらいいね』
返事は、しばらく来なかった。
やがて届いたのはひと言。
『うん』
たったそれだけだった。
きっと、本当に嬉しいのだろう。
また通知が来る。
『茉白』
『何』
『受かったら』
『デートはしない』
『まだ言ってない』
『どうせそれ』
『当たり』
『却下』
少し間が空く。
『写真撮って』
『何を』
『俺』
『何で』
『理学療法士になれた日の俺』
茉白は画面を見つめた。
凪が理学療法士になる未来。
自分がカメラを構える未来。
まだ何も決まっていない。けれど、その景色を少し見てみたいと思った。
『覚えてたら』
『絶対覚えてる』
『お前が?』
『二人とも』
茉白は笑った。
凪は時々、未来を勝手に二人分にする。
でも、今は嫌じゃなかった。
『撮る』
『約束』
その二文字を、茉白は長いあいだ見つめた。
未来なんて分からない。
夢は変わる。
人も、関係も変わるかもしれない。
それでも、少し想像してみる。
日菜が子どもたちに囲まれて笑っている。
颯真が教壇に立っている。
凪が誰かの身体を支えている。
そして自分が、カメラ越しに三人を見ている。
「……悪くないかも」
机の上には、開きっぱなしの学校案内と進路資料、カメラ。
写真フォルダには、空や教室、夕暮れ、笑う友人たち。
撮りたいもの。
残したい瞬間。
好きな人たち。
それは【夢】と呼ぶには小さく、【将来】と呼ぶには曖昧だった。
でも、好きかも、でいい。
やってみたい、でいい。
その気持ちは、ちゃんと自分の中にある。
茉白はその夏、未来を決めたわけではなかった。
ただ、何もないと思っていた自分の中に、好きなものがあると初めて気づいた。
夢を決めなくてもいい。
将来を選ばなくてもいい。
分からないからこそ、少し近づいてみればいい。
その未来のどこかに、日菜がいて、颯真がいて、凪がいて、自分がカメラを持っている。
そんな景色を、見てみたいと思った。
それは曖昧で頼りなくても、自分で選んだ最初の一歩だった。




