5 ほんの少しだけ明日へ
公園のベンチに落ちた沈黙は、思っていたよりも長かった。
夕方の湿った風が、遊具の脇に伸びた雑草を頼りなく揺らしている。少し離れた道路からは、アスファルトをタイヤが擦っていく音が断続的に聞こえ、駅の方角では、電車が高架を渡るたびに低い振動音が空気を震わせた。
昼間に蓄えられた熱が、まだ地面の底に残っている。
陽は傾き始めているのに、空気はぬるい。首筋に張りつく髪が鬱陶しくて、茉白は片手でそれを払った。
そのついでのように、隣を見る。
正確には、凪の横顔を見た。
いつもの凪なら、こういう時でも何か言う。
―――バレた?
とか。
―――茉白、俺のこと見すぎじゃない?
とか。
そうやって笑って、何でもないことにしてしまう。
こちらが少しでも真面目な顔をすれば、「そんな顔しないでよ」とでも言うように目尻を下げて、冗談のひとつでも挟んで、するりと逃げる。
人との距離を縮めるのが上手いくせに、自分の奥へ他人を入れることだけは妙に上手く避ける男だ。
少なくとも、今の茉白には、そう見えた。
けれど今日は、何も言わない。
膝の上で組まれた凪の両手。その指だけが、いつもより少し強く絡んでいる。
爪の先が、反対の手の甲へ白く食い込む。
茉白はそこを見てから、もう一度凪の顔を見た。
「……違う?」
責めるつもりはなかった。
ただ、本当にそう見えた。
笑って誤魔化している。
何でもないような顔をして、大丈夫だと、先に自分で決めてしまっている。
そのやり方を、茉白は知っていた。
少し前まで、自分自身がずっとやっていたことだから。
進路を聞かれれば「知らん」。
将来を聞かれれば「まあ何とかなるっしょ」。
寂しくても「別に」。
不安でも「だる」。
何も考えていないふりをしていれば、考えなくて済む。
欲しくないふりをしていれば、手に入らなくても傷つかない。
だからこそ、分かってしまったのかもしれない。
凪はしばらく黙っていた。
やがて諦めたように肩から力を抜くと、短く息を吐く。
「……似てるかもね」
ようやく出てきた声は、茉白が知っている凪のそれよりも少し低く、思っていた以上に弱かった。
茉白は何も言わない。
続きを急かすこともしなかった。
凪は制服のポケットからスマホを取り出した。慣れた指でロックを解除し、何度か画面を操作する。差し出された画面には、細かな数字と文字がぎっしり並んでいた。
模試の結果らしい。
偏差値だとか順位だとか、茉白には細かいところまではよく分からない。
けれど、志望校の横に大きく表示されたアルファベットくらいなら読めた。
「……悪いの?」
「だいぶ」
凪はスマホを持ったまま、乾いた笑みを浮かべた。
「どれくらい」
「第一志望、D」
「Dって」
「現状だと厳しい」
「あー……」
さすがの茉白でも、それが良い判定でないことくらいは分かる。
なんとなく気まずくなって、画面から視線を外した。
「前は?」
「B」
「落ちてんじゃん」
「うん」
「かなり?」
「かなり」
容赦のない確認だった。
凪は一瞬ぽかんとしてから、ふっと笑った。
けれど、その笑い方は先ほどまでとは少し違う。
いつものように相手を安心させるための笑顔ではなく、もう隠しても仕方がないと観念した人間の、力の抜けた笑い方だった。
「最近ちょっと、うまくいかなくて」
「勉強?」
「それも」
「他も?」
「……うん」
そこで言葉が途切れた。
凪はスマホの画面を消し、膝の上へ伏せる。
いつもなら、言葉なんていくらでも出てくる男だ。
茉白が何を言っても、それより一枚上手い返しをしてくる。無言になったところなど、ほとんど見たことがない。
そんな凪が、今は言葉を選んでいる。
茉白は急かさなかった。
少し前、自分が言ったことを覚えている。
―――言いたくなったら言えば。
―――ウチ、たぶん聞くし。
なら、今は聞けばいい。それだけ。
蝉の声が耳につく。
茉白は足元の砂をスニーカーの先で軽く蹴った。
しばらく蝉の声を聞いている。うるさい。
「俺さ」
凪が口を開いた。
「理学療法士になりたいんだよね」
思ってもみなかった言葉に、茉白はゆっくり瞬きをした。
「……何する人だっけ」
「そこから?」
思わず、といったように凪が顔を上げる。
「名前は聞いたことある」
「俺、今かなり勇気出して夢語ったんだけど」
「だから聞いてるじゃん」
「そうだけどさ」
呆れたように笑いながらも、先ほどよりわずかに凪の肩から力が抜けた。
「怪我とか病気とかで身体を動かしにくくなった人の、リハビリを手伝ったりする人」
「ああ」
「歩く練習したり、筋力戻したり。その人がまた生活しやすくなるように、一緒にやってく感じ」
「へえ」
「真面目に聞いてる?」
「聞いてる」
「顔が薄い」
「元から」
「知ってる」
凪が小さく吹き出す。
ほんの少しだけいつもの彼に戻った気がして、茉白も知らず肩の力を抜いていた。
そのことに自分では気づかないまま、今度はこちらから尋ねる。
「何でそれになりたいの」
凪はすぐには答えなかった。
視線の先にあるのは、誰も使っていない滑り台だった。赤い塗装は夕日に照らされ、ところどころ白っぽく褪せている。
「中学の時」
「うん」
「俺、結構ちゃんとスポーツやってて」
「意外」
「また言った」
「何してたの」
「サッカー」
「あー」
茉白は凪の全身を一度眺めた。
長い脚。
細身ではあるが、制服越しにも分かる程度には身体が締まっている。人当たりがよくて、無駄に爽やかで、学校に一人くらいいそうな女子人気の高いサッカー部男子。
自分の中にある偏見じみた『サッカー部』のイメージを詰め込んだような男だった。
「似合う」
「初めてそれっぽい反応もらった」
「ポジションは」
「フォワード」
「もっと似合う。知らんけど」
「顔で判断してない?」
「してる」
「正直だなあ」
凪は笑った。
そのすぐ後に笑顔が消える。正確には、困った顔に張り付いた笑顔になる。
「でも、膝やった」
右手が、自分の膝へ落ちる。
無意識なのだろう。
制服のズボン越しに、そこを確かめるように掌が触れた。
茉白もつられるように、その手を見る。
「靭帯」
「……結構やばいやつ?」
「結構」
声は淡々としていた。
「手術して、リハビリして。復帰できなくはなかったんだけど、前みたいには動けなくなって」
「サッカーやめたの?」
「うん」
「自分で?」
「……最終的には」
その答えだけで、たぶん簡単ではなかったのだろうと分かった。
医者に言われたのか。
コーチに言われたのか。
親と話したのか。
それとも、実際にボールを蹴って、自分で悟ったのか。
茉白には分からない。
凪も詳しくは話さなかった。
ただ、右膝へ置かれた指先が一度だけ強く布を掴んだのを、茉白は見逃さなかった。
「最初、めちゃくちゃ荒れてた」
「想像つかない」
「でしょ」
「お前、怒るの?」
「怒るよ」
凪が苦笑する。
「見たい」
「そこ?」
あまりに真顔で言うものだから、凪は眉尻を下げた。
「レアそう」
「見せない」
「残念」
「人の黒歴史を珍獣みたいに言わないで」
「珍獣とは言ってない」
「目が言ってる」
そんな軽口を交わすと、一瞬だけいつもの二人に戻る。
けれど凪は、自分の右膝を一度撫でると、また静かに話し始めた。
「それで、その時担当だった理学療法士の人がさ」
声が少しだけ柔らかくなる。
茉白はそれを聞きながら、目元をわずかに緩めた。
「なんか、すげえ普通に接してくれたんだよね」
「普通?」
「俺が『もうサッカーできないかも』って勝手に絶望してても、“そうかもね”って」
「……それ言われたら嫌じゃない?」
「最初はね」
凪は笑いながら空を仰いだ。
つられるように、茉白も顔を上げる。
青は少しずつ薄くなり、雲の端だけが夕日に照らされて淡い橙色に染まり始めていた。
「でもその人、変に“大丈夫、絶対戻れる”とか言わなかったんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、茉白は何となく納得した
それが凪にはよかったんだ。
「無理なもんは、無理かもしれない。でも、今できることはあるって」
「……うん」
り
「もし競技に戻れなくても、歩けるとか、走れるとか、普通に生活できるとか。そういうのもちゃんと大事だって」
凪の声は穏やかだった。
穏やかに話せるようになるまでに、いったいどれくらい時間がかかったのだろう。
「俺さ、その時、サッカーできなくなるくらいなら全部終わりだって思ってたんだよね」
「……中学生だしね」
「うん」
それまで夢中になっていたものが、ある日突然できなくなる。
チームメイトが練習をしている間、自分だけリハビリをする。
昨日まで当たり前に動いていた身体が、言うことを聞かない。
凪は細かく語らなかった。
痛かったとも、悔しかったとも、泣いたとも言わない。
それでも茉白の頭の中には、知らないはずの中学生の凪がぼんやり浮かんだ。
自分だけが止まっている。
周りだけが先へ行く。
その感覚なら―――少しだけ知っている。
「でも、その人がずっと付き合ってくれて」
凪は続ける。
「最後に言ったんだよね」
「何て?」
「『サッカー以外にも、お前がまたやりたいって思うこと、そのうち出てくるよ』って」
そこで初めて、凪の横顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
普段の、人をからかうような笑顔とは違う。
もっと幼くて、ずっと大切にしてきたものへ触れているような顔だった。
茉白はその表情を眺めてから、ぽつりと尋ねる。
「出たんだ、やりたいこと」
「うん」
「理学療法士?」
「そう」
凪は少し照れたように鼻の下を指で擦った。
「今度は俺が、もう一回やりたいって思ってる人を手伝えたらいいなって」
「……」
茉白は、すぐには何も言えなかった。
思っていたより、ずっとちゃんとしている。
いや。
凪がちゃんとしていること自体は、もう知っていた。
日菜と颯真を見ている時も。
茉白に進路の話をした時も。
ふざけながら、相手が本当に嫌がるところまでは決して踏み込まないことも。
軽そうに見えて、実際には人の顔をよく見ていることも。
少しずつ知っていた、でも。
こんなふうに昔から抱えてきた理由があって、その経験を自分の未来へ繋げて、そのために今も勉強している。
そこまでは知らなかった。
「……お前」
「何」
「普通に夢あるじゃん」
「普通にって何」
「いや」
茉白は正面へ顔を戻した。
妙に真正面から褒めるのは気恥ずかしい。
だから、ほとんど独り言みたいに落とす。
「……すご」
凪の気配が止まった。
横を見ると、本気で驚いたように目を見開いている。
「……褒められた」
「そこだけ拾うな」
「だって嬉しいし」
すぐにいつもの笑顔へ戻ろうとする。
それを見た瞬間、茉白の胸に小さな引っかかりが生まれた。
「そういうとこ」
「何?」
「いちいち軽くすんの」
凪の笑みが止まる。
「別に軽くしなくてよくない?」
「……」
「今、ちゃんと話してたじゃん」
「うん」
「なら、そのままでいいのに」
口にしてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
けれど、凪は怒らなかった。
しばらく茉白を見たあと、困ったように笑った。
「……癖なんだよね」
「何が」
「重くしたくない」
「何を」
ほんの少しだけ間があった。
「自分のこと」
その答えは短かった。
だからこそ、茉白は何も返せなかった。
「昔からさ」
凪は両肘を膝へ置き、少し前屈みになる。
「明るくしてた方が楽だったから」
「周りが?」
「自分も」
言葉にしてから、凪自身も確かめるように少し考えた。
「周りに心配されると、余計しんどい時あるじゃん」
「あー……」
「大丈夫? って何回も聞かれると、大丈夫って言わなきゃいけなくなるし」
「分かる」
それだけは、驚くほどよく分かった。
心配されることが嫌なわけではない。
でも、大丈夫ではない時に「大丈夫?」と聞かれると、なぜか「大丈夫」と答えなければならない気がする。
そのうち、自分まで騙せるようになる。
「だから笑うの?」
「たぶん」
茉白はしばらく凪を見た。
そして、気づく。
「……ウチと一緒じゃん」
「だから似てるって言った」
凪が笑った。
けれど今度の笑顔には、どこか諦めのような色が混じっていた。
それを見た瞬間、茉白の胸の奥が微かにざらつく。
いつも余裕そうに見えていた。
何でも知っていて。
人のことばかりよく見ていて。
自分だけは傷つかないような顔で笑っている。
でも、本当は違う。
この男も、不安になる。
怖くなる。
失敗したらどうしようと思う。
十八歳なのだ。
自分と同じ。
まだ何者でもない、ただの高校生だ。
「で」
茉白はベンチへ座り直した。
「D判定だけ?」
「だけって言い方酷くない?」
「他にもあるって言ってたじゃん」
「ああ……」
凪の視線が落ちる。
今度は先ほどとは違う種類の躊躇いが見えた。
「学費」
「……高いの?」
「まあ、それなりに」
凪はスマホを操作し、大学の資料を開いた。
「理学療法士になるなら、大学か専門行って、国家試験受けるんだけど」
「うん」
「俺が行きたいところ、私立だから結構かかる」
「奨学金?」
「使うつもり」
茉白は、以前電車でちらりと見えた画面を思い出した。
奨学金。
学費。
国家資格。
あの時はただ、意外と真面目なものを見ているなと思っただけだった。
今になって、それらの文字が全部一本の線で繋がる。
「親、反対してんの?」
「反対ってほどじゃない」
凪は画面を消した。
「でも、もっと学費かからない道でもいいんじゃないかって」
「そりゃ言うか」
「うん」
「お前んち、金ないの?」
「ストレートに聞くなあ」
「あ」
さすがに直接的すぎたことに気づき、茉白はわずかに眉を下げた。
「……ごめん」
その素直な謝罪が意外だったのか、凪は少し目を丸くしてから笑った。
「いや、いいけど。普通だよ。困ってるってほどじゃない。でも、余裕あるわけでもない」
「兄弟は?」
「妹いる」
「水城も妹いるって日菜が言ってた」
「颯真んとこは一個下。俺んとこは中一」
「へえ」
「だから、妹のこともあるし」
そこで言葉が止まった。
でも、続きは聞かなくても分かった。
自分一人に大金を使わせることへの後ろめたさ。
自分が夢を選ぶことで、家族の誰かに負担がかかるかもしれないという不安。
「親に迷惑かけたくない?」
「……まあ」
「でも行きたい」
「うん」
「だから勉強してる」
「うん」
「それで模試落ちた」
凪がこちらを見る。
「まとめると最悪だね」
「まーそうじゃん」
力なく笑う凪を見て。
茉白はようやく分かった気がした。
今日、なぜ凪が、自分へ『会える?』と送ってきたのか。
結果が悪かった。
家へ帰る前に、誰かに話したかった。
けれど、頑張れとも、大丈夫とも言われたくなかった。
ただ、大丈夫ではない自分のまま座っていられる相手が欲しかった。
それが自分だった。
「……何でウチ」
確認したくなった。
同時に、ふくらはぎが妙にかゆい。
視線を落とす。
赤い点。
蚊に刺されている。最悪。
「え?」
「今日」
「何が?」
「会いたいって言ったじゃん」
「うん」
「何で」
茉白は蚊に刺された箇所を爪で掻きながら聞く。
凪は少し驚いたような顔をしたあと、正面へ視線を戻した。
「言ったでしょ」
「何を」
「茉白なら、笑わなそうだから」
「それだけ?」
「あと」
ほんの少しだけ、凪が笑った。
「大丈夫って言わなそう」
「言わんね」
根拠もないのに、大丈夫だと言う意味が分からない。
それが茉白の本音だった。
「でしょ」
「だって大丈夫じゃないんでしょ」
凪の顔から、笑みが消えた。
「……うん」
その一言が、少しだけ震えて聞こえた。
そこでようやく、茉白は気づいた。
たぶん、この男はずっと言いたかったんだ。
『大丈夫じゃない』
誰かに話せば、励まされる。
頑張れと言われる。
お前なら大丈夫だと言われる。
善意なのだろう。
今の凪には、それが苦しかったのかもしれない。
「怖い?」
茉白は聞いた。
以前、茉白が未来について尋ねられた時、何も答えられなかった。
今度は凪の番だった。
凪は俯いた。
蝉が鳴いている。
車が一台、公園の向こうを通り過ぎる。
子どもを呼ぶ母親の声が遠くで聞こえ、それもすぐに消えた。
「……怖いよ」
やっと、その言葉が出る。
「普通に」
膝の上で、両手がもう一度組まれる。
「頑張っても受からなかったらどうしようって思うし」
「うん」
「受かっても、学費のことあるし」
「うん」
「そもそも国家試験までちゃんと行けるのかも分かんないし」
「うん」
「なった後、向いてなかったらどうしようとか」
ひとつ言葉が出るたびに次が続く。
堰を切った、というほど激しくはない。
凪らしく、声は静かだった。
けれど、それまで胸の奥に押し込めていたものを、ひとつずつ外へ置いていくようだった。
「俺さ」
凪は一度、笑おうとして途中でやめた。
「結構考えてるんだよね」
「知ってる」
「……意外でしょ」
「最初は」
茉白はさらりと答える。
凪がこちらを見た。
「今は?」
「……普通」
「普通?」
「お前なら考えてそう」
ほんの一瞬。
凪の瞳が揺れた。
「何その顔」
「いや」
「何」
「……ちょっと嬉しかった」
「何が」
凪はすぐには答えなかった。
夕日に照らされた横顔は、いつもよりずっと年相応に見える。
「ちゃんと俺を見てもらえてる感じして」
「……」
また、そういうことを言う。
いつもなら。
メロい。
うざい。
帰れ。
それで終わる。
でも今日は、なぜかそう思えなかった。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
凪は人をよく見ている。
日菜のこと。
颯真のこと。
茉白のこと。
自分はどれくらい、この男を見ていたのだろう。
メロ男。
軽い。
女慣れしてそう。
余裕がある。
いつもへらへら笑っている。
そんな表面ばかりだった。
「……ごめん」
気づけば、口から出ていた。
凪が瞬きをする。
「何が?」
「ウチ、お前のこと」
「うん」
「結構適当に見てた」
真面目に言ったのに、凪が吹き出した。
「そこ謝る?」
「笑うな」
「ごめんごめん」
「一生女口説いてそうとか思ってたし」
「それは酷い」
「毎月彼女変わりそうとか」
「聞いた」
「将来とかも」
そこで茉白は言葉を探した。
「何となく……全部うまくやる人かと思ってた」
凪の笑顔が静かになる。
「……そっか」
「でも違うんだね」
「幻滅した?」
「何で」
「格好悪いじゃん」
その言葉に茉白は眉を寄せた。
本気で意味が分からなかった。
「どこが」
「え?」
「怖いの普通じゃん」
凪が黙る。
「やりたいことあって」
真正面から言うのは照れ臭い。
茉白は視線を前へ逃がし、指先でベンチの端をいじった。
「そのために勉強して」
「……うん」
「ちゃんと金とか、その先のことも考えて」
「うん」
「それでも怖いんでしょ」
「……うん」
「別に格好悪くないじゃん」
返事がない。
気になって横を見る。
凪は笑っていなかった。
俯いて、ほんの少しだけ唇を噛んでいる。
夕方の光が長めの前髪の隙間から入り込み、前髪が頬へ影を落としていた。
茉白は少し迷う。
「……泣く?」
「泣かない」
即答だった。
「ならいいけど」
「茉白」
「何」
「そういう時さ」
「うん」
「もうちょい優しいこと言わない?」
茉白は眉を寄せる。
「言ったじゃん」
「十分優しかったけど」
「じゃいいじゃん」
「そうなんだけど」
凪が小さく笑った。
今度のそれは、本当に弱っている人の笑い方だった。
茉白は、なぜか目を逸らせなかった。
凪に「かわいい」と何度も言われた。
人混みではさりげなく背中へ手を添えられた。
雨の日には傘へ入れられた。
ぬいぐるみを取ってもらった。
さらっと好きだと言われた。
メロい。
胡散臭い。
こいつ絶対誰にでもやってる。
そう思っていた。
でも、今。
弱った顔で、それでも笑おうとする凪を見て初めて、茉白はこの男をかっこいいと思った。
顔じゃない。
言葉でもない。
怖いのに、逃げたくなることもあるのに。
それでも、自分がなりたいものを諦めずに追いかけようとしている、その姿が。
「……なれば?」
茉白は言った。
凪が顔を上げる。
「何に」
「理学療法士」
「簡単に言うね」
「だって、なりたいんでしょ」
「……うん」
「じゃ、なればいいじゃん」
凪は少し困ったように笑った。
「落ちたら?」
「知らん」
「ひど」
「そん時考えればよくね?」
「茉白っぽい」
「悪い?」
「いや」
凪は首を振った。
「ちょっと救われる」
「ならよかった」
「でも、落ちたら普通に凹むよ」
「そりゃそうでしょ」
「めちゃくちゃ暗くなるかも」
「見てみたい」
「面白がらないで」
「冗談だし」
茉白はそこで口を閉じた。
何となく、このまま終わるのは違う気がした。
だからほとんど独り言のように言う。
「……まあ、落ちたら飯くらい付き合うけど」
凪の動きが止まった。
人気の少なくなった公園に、夏の少し乾いた風が抜けていく。額に滲んでいた汗がわずかに冷えた。
蝉がうるさい。
ふくらはぎがかゆい。
やっぱり蚊に刺されている。
こんなに恥ずかしいことを言ったんだから、何か言え。
そう思って、茉白は不服そうに凪を睨んだ。
「何」
「今……」
「何」
「慰めてくれる?」
「飯食うだけ」
「隣にいてくれる?」
ずるい聞き方だった。
いつもの凪ならきっと笑って言う。
そうすれば茉白も、「知らん」で逃げられる。
でも、今の凪は真面目な顔でこちらを見ていた。
だから茉白も、いつもの言葉では逃げられなかった。
「……多分」
声が小さくなる。
目も合わせられない。
行き場を失った指先で、意味もなくベンチの木目を引っ掻いた。
凪は数秒、本当に何も言わなかった。
「……そっか」
やがて憑き物が落ちたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、なぜか茉白の鼓動が少しだけ、速くなった。
*
日が沈み始める頃には、公園の街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
蝉の声も少しずつ遠のき、代わりに草むらから細い虫の音が混ざり始める。
「帰る?」
茉白が立ち上がりながら聞く。
「うん」
凪も続いた。
模試の判定は変わっていない。
学費の問題も消えていない。
不安がなくなったわけでもない。
何ひとつ、解決していない。
それでも来た時より凪の歩幅は少しだけ軽く見えた。
たぶん抱えていたものを、ほんの少しだけ誰かへ渡せたからだ。茉白に。
駅へ向かう歩道を、二人並んで歩く。
昼間より涼しくなった風が、茉白の髪を揺らした。
「そういえば」
「何?」
「水城は知ってんの?」
「進路?」
「全部」
「だいたい」
茉白は首を傾げて凪を見上げる。
「相談しないの」
「するよ」
「じゃ今日あいつでよくない?」
「ひど」
凪が笑う。茉白は納得しない。
「だって長い付き合いなんでしょ」
「そうだけど」
「じゃ何」
凪は少し考えるように空を見上げた。
「颯真には、頑張ってるとこ見られすぎてんだよね」
「意味分かんない」
「分かんなくていい」
茉白の温度を愛おしむように凪が目を細める。
「教えろ」
「横暴だなあ」
少し笑って、歩きながら前を向いた。
「茉白の方が」
言葉が止まる。
茉白が横を見る。
「何」
「……弱いとこ見せてもいいかなって思った」
歩く速度が、ほんの少しだけ遅くなった。
「何で」
「知らない」
「知らんの」
「うん」
凪の少しすっきりしたような、そんな表情にかかる夕日は、少しずつ色を濃くしている。
「でも最初から、茉白にはちょっとそうだった」
「何が」
「俺がふざけても、必要以上に乗ってこないじゃん」
茉白は前を向いたまま真面目に頷いた。
「面倒だから」
「落ち込んでても、変に励まさないし」
「やり方分かんないから」
「あと」
「まだある?」
「人のこと見てる」
茉白は黙った。凪の方が見てるじゃないか。思うけど言わない。
「今日も……分かってくれたし」
「……」
「嬉しかった」
また胸の奥が変な動きをする。
いつもなら、何とも思わない言葉なのに。
「……そ」
それしか返せない。
凪もそれ以上何も言わなかった。
珍しくからかってこない。
だから余計に意識してしまう。
「茉白」
「何」
「今日来てくれてありがと」
「別に」
いつものように答えて数歩進んだところで、茉白は少し考えて付け加える。
「……うん」
隣の足音が止まりかける。
見ると、凪が驚いた顔をしていた。
「何」
「いや」
「言えよ」
「素直だなって」
「やっぱ帰る」
「今帰ってるって」
「一人で帰る」
「ごめんって」
凪が笑う。
つられて茉白もほんの少しだけ笑った。
夕闇の中、その顔を見た凪が一瞬だけ何も言えなくなったことには、茉白は気づかなかった。
*
その夜。
自室のベッドに仰向けになった茉白は、ぼんやりと天井を眺めていた。
風呂には入った。
髪も乾かした。
明日の準備はしていない。
それはいつものことなので問題ない。
スマホを胸の上へ置いたまま、今日の会話だけが何度も頭の中を巡っていた。
理学療法士。
サッカー。
怪我。
リハビリ。
学費。
奨学金。
模試。
不安。
そして、『怖いよ』と呟いた凪の声。
普段の軽い調子ではなかった。
「……あいつも怖いんだ」
ぽつりと呟く。
考えてみれば当たり前のことだった。
今まで何となく、凪はそういうものとは無縁なのだと思っていた。
未来も、恋愛も、友達も、全部上手にやる。
器用で軽くて余裕があって、どんな状況でも笑っている。
でも違った。
凪は余裕があるのではなく、余裕があるように見せるのが上手かっただけなのだ。
その事実を知ってしまった。
知る前の自分にはもう戻れない。
不意に、胸の上でスマホが震える。
持ち上げてメッセージを確認。
『今日はありがと』
凪からだった。茉白は少しだけ眉を寄せる。
『二回目』
送信。
すぐに既読がついた。
『何が』
『さっきも言ってた』
『何回でも言う』
『いらん』
『でもほんと助かった』
そこで少し間が空く。
『明日からまた頑張る』
茉白は、その一文をしばらく見つめた。
頑張る。
たった四文字。
誰でも言える。
でも、今日、あれだけ不安を聞いたから。
凪がどれくらい本気でその言葉を打ったのか、今は少しだけ分かる。
目の前にスマホを持ち上げたまま指を動かす。
『頑張れ』
―――違う。
全部消す。
『無理すんな』
―――これも違う。
また消す。
「……だる」
茉白は眉間へ皺を寄せた。
人を励ますのは難しい。
しばらく画面と睨み合う。
『次悪かったらアイス奢る』
送信。結局こういうことしか自分は言えない。返事はすぐに来た。
『悪くてもいい気してきた』
『じゃなくて』
『嘘』
『絶対上げる』
連投に茉白の口元が少しだけ緩む。続いてもうひと言。
『だから受かったらデートして』
「……は?」
思わず声が出た。
さっきまでの感傷を返せ。
『何でそうなる』
『ご褒美』
『アイス自分で買え』
『茉白がいい』
『知らん』
『じゃ保留で』
『勝手に決めんな』
『おやすみ』
『逃げた』
指が痛くなるほどの即レス合戦。既読。
茉白の言葉を最後にぴたりと止まる。
しばらく画面を眺めていると、不意に追撃が入った。
『好きだよ』
「……」
茉白は無言でスマートフォンを伏せた。天井を見る。
「……こいつほんと」
メロい。
いちいち、本当にメロい。
ただ今日は、その言葉を吐く男が、ただの『メロ男』ではないことを知ってしまった。
笑っている顔の向こう。
弱いところと怖がっているところ。
それでも、ちゃんと先へ進もうとしているところ。
以前なら、凪から「好き」と送られてきても、はいはいと流せた。
それだけで終われた。
今はほんの少し、その言葉の重さが違って聞こえる。
茉白は胸の上へ手を置いた。
心臓、普通。
―――たぶん、普通。
「……知らんし」
誰に言うでもなく呟く。
数秒迷ってもう一度画面を開く。
『おやすみ』
それだけ送った。
『おやすみ、茉白』
すぐに返ってくる。
名前、たったそれだけなのに、何となく画面を閉じられない。
茉白はしばらくその文字を眺めて、自分でも意識せずほんの少しだけ、口元を緩めていた。
*
翌日の昼休み。
教室にはお弁当やパンなどの混じった香りと、机を寄せて喋る生徒たちの声が溢れていた。
茉白が菓子パンの袋を開けたところで、向かいから日菜が身を乗り出してくる。
「茉白」
「何」
「昨日、凪くんと会った?」
「会ったけど」
「やっぱり!」
日菜の顔がぱっと明るくなる。
「颯真くんがね、昨日凪くんちょっと落ちてたって―――」
「日菜」
思っていたより早く言葉が出た。
「はい」
日菜が止まる。
茉白自身も、一瞬遅れて自分が遮ったことに気づいた。自分で戸惑ったが表には出さない。
「……本人いないとこで言わない方がいい」
日菜が目を丸くした。
「……あ」
「本人から聞いたことならいいけど」
「うん」
「違うなら、まあ」
茉白は視線を落とし、パンの袋を少しだけ折る。
「本人に任せた方がよくない」
日菜はしばらく何も言わなかった。
じっと茉白を見つめて素直に頷く。
「……分かった」
「うん」
「ごめん」
「別に」
茉白はパンを一口齧る。
日菜も自分の弁当へ手を伸ばした。
―――はずだった。
視線を感じる。
「何」
「ううん」
「言え」
「いやあ」
日菜の口元が、みるみる上がっていく。
嫌な予感しかしない。
「茉白、凪くんのこと結構大事なんだなーって」
「は?」
茉白の眉間へ皺が寄る。
「いやいや、何でもなーい」
「日菜」
「パン食べよっと」
茉白のパンに手を伸ばす。
「おい」
日菜は完全に逃げた。
わざとらしくパンへ齧りつきながら、こちらを見ようともしない。
ムカつくので日菜のお弁当からからあげをふたつ奪う。メインディッシュ。ざまあみろ。
「……大事とか」
油のついた指をなめながら、茉白は小さく呟く。
たぶん違う。
まだ、そういうのではない。
ただ昨日凪が自分に見せた顔を、勝手に誰かへ話したくなかった。
あの「怖い」は、凪が自分で誰かへ話すものだと思った。それだけだ。
その「それだけ」が今までとは違う意味を持ち始めていること。
茉白はまだ、それに名前をつけられなかった。
*
放課後。
日菜は図書室へ行った。
受験勉強を始めてからというもの、彼女は本当に変わった。以前なら「図書室とか寝るとこじゃん」と笑っていたのに、今では自分から参考書を抱えて向かう。
一人になった教室で、茉白は窓際の自分の席へ座っていた。
机の上にはスマホ。
画面には、以前から何度か開いては閉じている、写真・映像系の学校のページが表示されていた。
卒業後の進路。
授業内容。
学生作品。
写真、映像、グラフィック、広告。
ページを下へ送るたびに、知らない世界が現れる。
自分には、凪みたいな明確な理由はない。
怪我をして、救ってくれた人がいて、だから自分も同じ仕事をしたい。
そんな物語はない。
日菜みたいに、子どもが好きだから保育の仕事がしたい。
そう迷わず言えるほどのものもない。
それでも写真は少し好きなのかもしれない。
凪が以前言った言葉を思い出す。
―――好きかもって思うくらいは自由じゃん。
その時は簡単に言うなと思った。
今なら少しだけ分かる。
夢なんて、最初から『これです』と完成した形で現れるものではないのかもしれない。
何となく好き。
ちょっと気になる。
もう少しやってみたい。
そんな曖昧なものから始まってもいいのかもしれない。
茉白は指先で画面を滑らせる。
オープンキャンパス。
日程を見る。七月、空いている日がある。
「……」
親指を予約ボタンへ近づける。
あと数センチ押せばいいだけ。
なのに、指が止まる。
それを押した瞬間、自分が『進路』というものを本当に考え始めてしまう気がした。
「……今日はいいや」
画面を閉じる。
逃げた。
自分でも分かる。
でも、それでいい気がした。
少なくとも以前の自分ならこのページに辿り着くことすらなかった。
興味を持つことも、日程を調べることも、予約ボタンへ指を置くこともなかった。
なら、今日はここまででも昨日より少し先だ。
顔を上げる。
窓の外では、夏の夕暮れが校舎を包み始めていた。
西へ傾いた太陽が、雲の隙間から細長い光を落としている。
白かった校舎の壁が橙色に染まり、グラウンドの端に立つ木々の影が長く伸びていた。
「……」
綺麗。
そう思った。
だから。
茉白は何となくスマホのカメラを開いた。
椅子へ座ったまま、窓越しに一枚。
シャッターを切る。
画面に残った夕焼けを見る。
完璧かどうかなんて分からない。
構図とか光とか、写真の専門的なことなど何も知らない。
でも、自分はこの写真が少し好きだ。
現実の風景とスマホの画像を並べて見ていると、通知が届いた。
『今、勉強してる』
凪から送られてきたのは、机の写真だった。
参考書の横に広げたノート、大量の付箋。
隅には飲みかけのペットボトル。
昨日怖いと言った男が、今日もちゃんと机へ向かっている。
茉白は少しだけ笑った。
『偉』
すぐに既読。
『褒められた』
『調子乗るな』
『茉白は何してる?』
茉白の指が止まる。
以前なら、そっけなく別にと返していた。
何をしているのか説明するほどでもないし。
わざわざ自分のことを教える意味も分からなかったから。
でも、今日は。
メッセージからカメラロールを開いた。
たった今撮った夕焼けを選ぶ。
『これ』
送信。既読がつく。
『いいね』
それだけでも何となく嬉しかった。
『茉白の写真、やっぱ好き』
指が止まる。
画面を見つめる。
自分の写真。
ただ、何となく撮っているだけのもの。
誰かに見せるためでもなかった。
凪は前にも褒めた。
そして今日も好きだと言う。
なら自分も、言っていいのかもしれない。
茉白はゆっくり文字を打つ。
『ウチもちょっと好きかも』
写真のこと。
そのつもりだった。
『え』
一文字。焦った犬のスタンプ。茉白は眉を寄せる。
『何』
『俺?』
「……」
無言で机へ突っ伏す。
額を打ちつけて、ゴン、と小さな音がした。
『写真』
単語で返す。一文字より勝ってる。
『ああなるほど。残念』
『死ね』
『でもいつか俺って言わせる』
『無理』
『頑張る』
その文字を見て、茉白は小さく笑った。
今日、凪は勉強している。
また頑張ると言っている。
怖くなくなったわけではない。
未来が約束されたわけでもない。
それでも自分が選んだ方向へ進もうとしている。
そんな凪を見たことで、茉白もほんの少しだけ自分の未来へ顔を向け始めていた。
まだ、夢なんて呼べない。
答えでもない。
将来やりたい仕事を聞かれたら、きっと今でも「知らん」と答える。
でもらそれでいい。
今まで『何もない』と思っていた場所にひとつだけ、小さなものが生まれている。
好きかも。
まだそれだけ。
でも何もなかった昨日より、ほんの少しだけ明日の方へ、茉白は進んでいた。




