4 それくらいなら、少しくらいは
六月の終わり。
梅雨の合間に顔を出した太陽は、朝から容赦がなかった。
昼を過ぎる頃には校舎の窓ガラスが白く光り、開け放った窓から入り込む風も、涼しいというより湿気を教室の中へ運んでくるだけになっている。
六時間目の数学が終わると同時に、茉白は机へ突っ伏した。
「無理」
頬を冷たい机の表面へ押しつける。
「何が?」
隣で日菜が教科書を鞄にしまいながら首を傾げる。
「夏」
「まだ六月だよ」
「じゃ六月が無理」
茉白の頭頂部を眺める。いやに形がいい。撫でたい気持ちを抑えて日菜が肩をすくめる。
「無理の範囲広がっただけじゃん」
「暑いの嫌い」
本当に無理なのだ。どちらも身体が動かない。いや普段から能動的に動くほうではないが、暑いとそれに拍車がかかる。
「冬も寒いって言ってたじゃん」
「そう。春と秋だけでいい」
「日本に喧嘩売ってる?」
「なんで四季あんのか問い詰めたい」
日菜が笑う。
去年までなら、ここで日菜から「コンビニでアイス買ってこ」と提案があるはず。期待している訳では無いがその言葉を自然と待っていた。
けれど今日は、日菜の机の端に英単語帳が置かれている。
ああ、そうだった、もう日菜は以前の日菜ではない。
以前のように胸の奥がざらつくことはなかった。
完全に何も感じないわけではない。
寂しいものは寂しい。
それを「寂しい」と認めてしまえば、不思議と少しだけ扱いやすくなったのは事実だ。茉白は身を起こす。
「今日も勉強?」
「うん。図書館」
「彼氏は?」
「今日は来ないよ。向こうは予備校」
実際興味があったわけではない。親友は好きだが親友の彼氏の動向なんてどうでもいい。
「へえ」
「何その顔」
日菜が面白そうに微笑んだ。たぶん茉白のことなどお見通しでからかおうとしている。
「別に」
先手を打って頬杖をついた。ぷいと窓の外を見れば、青葉が梅雨の名残を纏って煌めいている。
「出た」
ため息をついた日菜が口を尖らせる。
「最近その『別に』減ってたのに! 3日ぶりだよ今年度入って226回目!」
「数えてんの?」
「親友なんで」
「暇なん?」
親友だかストーカーだかわからん。しかし茉白も日菜の「出た」の回数を数えていた。茉白の「別に」より圧倒的に少ない。174回。52回は我慢していたのかもしれない。
「勉強するって言ってるでしょ! 図書館の自習スペース行くし!」
日菜は笑いながら茉白の肩を軽く叩く。
茉白も口元だけで笑った。
「じゃ、頑張って」
「茉白は?」
茉白は少しだけ考えた。以前なら即答だったけど、今は。
「帰る」
「まっすぐ?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
日菜のからかうような視線を無視して、茉白が適当に鞄を肩へ掛けた。その時だった。
机の上のスマホが震えた。
別に慌ててない。気がついたから今見るだけ。画面を見る。
『今日、駅前いる?』
差出人は、一ノ瀬凪。
茉白は数秒その画面を見つめた。
「どうかした?」
茉白が固まったのを見て、日菜がすかさず覗き込んでくる。口元がにやにやしている。
「見んな」
「凪くん?」
「距離近」
答えずに日菜と距離を置こうとするが、日菜は逃がすまいと覆い被さってくる。
「凪くんでしょ?」
「違う」
「名前出てるけど」
「じゃ聞くなし」
素直ではない茉白の横顔を、背後からわざと覗き込むように日菜が言う。
「会うの?」
「知らん」
「会えばいいじゃん」
「何で」
「最近よく連絡取ってるんでしょ?」
「……まあ」
「ほら!」
日菜の顔がぱっと明るくなる。
完全に何か面白いものを見つけた時の顔だ。
茉白は嫌な予感がして眉を寄せた。
「何その顔」
「別にぃ?」
「うざ」
「ウチ何も言ってないし!」
反論しながらも目は活き活きと輝いている。
「言う顔してる」
「めっちゃ人の顔読むじゃん」
「日菜は分かりやすい」
茉白は再びスマホへ目を落として送信。何となく日菜に隠すようにしてしまう。
『いるかも』
すぐに既読がつく。
『今、駅前のカフェの前いる』
「……」
「早っ」
日菜がまた覗き込んだ。
「こいつ、もういるんだけど」
「待ってたんじゃない?」
「勝手に?」
「会いたかったんじゃない?」
茉白は眉を寄せる。日菜に言われて余計に意地になる。
「帰ろ」
「何で!?」
「面倒だから」
「絶対行ってきなよ!」
日菜に背中を押される。物理的に。なんかムカつく。
「押すな」
「いってらっしゃーい!」
明るい笑顔は心底嬉しそうに緩んでいる。茉白は押されながらも振り返って日菜の額を突いた。
「お前は勉強しろ」
「はーい! するよ!」
教室の出口まで追い出される。
振り返ると、日菜がにやにやしながら手を振っていた。
茉白は中指を立てかけて、教師が近くにいることに気づき、普通に手を振り返した。
*
駅前のカフェは、平日の夕方らしく制服姿の学生で混んでいた。
道路から熱を含んだ風が上がり、信号待ちの人々の間をすり抜けていく。
店の前、凪はすぐに見つかった。
背が高い。
それだけで人混みの中でも目立つ。
青陵高校の夏服らしい白いシャツに、濃色のパンツ。ネクタイは緩めていて、肩には黒いリュックを掛けている。
こちらに気づいた瞬間、凪がふわりと笑った。
「来た」
「来たけど」
「……うん」
「何」
ささいな間を読み取って茉白が目をすがめる。凪は気にすることなく茉白の横に並ぶ。
「いや、来てくれたなって」
「来るって言ってない」
「でも来た」
「駅使うから」
カフェは、茉白の学校からは駅の入口を越えた場所にある。でも言い訳じゃない。そう、あっちのビルに用事があったはず。用事? ……ぱっと思いつかないけど、きっとある。
「じゃ偶然ってことにしとく?」
「そう偶然」
凪は笑う。
相変わらずだ。
何を言っても楽しそうに返してくる。
以前ならそれだけで腹が立っていたのに、最近は少し慣れてしまった。
それも、なんとなく悔しい。
「で、何」
「何が?」
「呼んだ理由」
呼ばれたから来たと自白したようなものだが、茉白は気づいていない。
「暇だったから」
「帰る」
「待って」
踵を返そうとすると、凪が笑いながら横へ回り込む。
ただし、腕は掴まない。
進路を塞ぐほど近くにも来ない。
ただ、茉白の視界へ入る位置に立つ。
「アイス奢る」
「……」
「迷った?」
「暑いから」
「うん、暑いね」
「……アイスが必要なだけ」
「うんうん」
馬鹿にするでもない、軽く微笑んで、茉白の話を否定しない。
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「全部分かってますみたいな」
「分かってないよ」
眩しいものを直視する時のように、凪は少しだけ目を細める。
「だから知りたい」
またこういうことを平気な顔で言う。
茉白は数秒黙ったあと、凪の顔も見ずにカフェの入口へ向かう。
「アイス」
「はい」
「高いやつ」
「いいよ」
「二個」
「お腹壊すよ」
「急に保護者」
「心配してるだけ」
むっとして茉白が唇を横に引く。まったく腹立たしかった。何心配って。
「メロ男」
「今ちゃんと言ったね?」
「聞こえたならよかったじゃん」
凪が声を上げて笑う。
その笑顔を見ながら、茉白は思う。
最初に会った時から、こいつはよく笑う。
でも、いつも同じ笑い方ではないことに、今日は気づいた。
誰にでも向ける、柔らかい笑顔。
颯真をからかう時の、子供っぽい笑い。
自分が何か言った時、不意に本当に面白そうに笑う顔。
違いなんて、知ろうとしなければ気づかなかったのに。
「何?」
凪が首を傾げる。慌てて視線をずらす。
「今俺のこと見てた?」
「見てない」
「絶対見てた」
「自意識過剰」
「茉白に見られるのは嬉しいよ」
「はいはい」
また軽口。
茉白はもう、全部が同じ軽さではないことを少しずつ知り始めていた。
*
カフェを出る頃には、空が少し曇っていた。
雨の匂いがする。
「降りそう」
凪が空を見る。茉白がぽつりと呟く。
「傘ない」
「俺あるよ」
「男子高校生が折り畳み持ってんの偉」
「褒められた」
嬉しそうに笑うその無駄なイケメン顔に、実際本当に感心したことなど口に出せない。軽く誤魔化す。
「そこだけ」
「嬉しい」
ほころぶ顔に、茉白は言葉につまる。
「……安いなあ」
「茉白の評価、基本厳しいから」
話しながら二人で駅へ向かう。
帰宅ラッシュにはまだ少し早く、歩道には制服姿の学生や買い物帰りの人がまばらに行き交っている。
凪は自然に車道側を歩く。
茉白はそれに気づいたけど、何も言わなかった。
前にもそうだった。
人混みでは庇う。
寒ければストールを貸す。
でも恩着せがましく言わない。何も、言わない。
「……お前さ」
「ん?」
何となく我慢できなくなった。呆れたように茉白が言う。
「女全員にこれやってんの?」
「何を?」
「車道側」
凪は足元を見るように少し視線を落とした。まったく自覚はなさそうだ。
「ああ」
「癖?」
「まあ、そうかも」
「ほらやっぱり」
「でも」
凪は茉白の言葉を優しく遮るように続けた。
「茉白の時は、ちょっと意識してる」
「何で」
「茉白が轢かれたら嫌だから」
「他の女はいいんだ」
「そういう意味じゃない」
「雑」
「言い方間違えた」
凪が苦笑する。少し珍しい。
完璧に返してくると思ったのに。
「茉白って……」
「何」
茉白の片眉が上がる。凪は困ったように笑った。
「俺のこと、すげえ女慣れしてると思ってるでしょ」
「違うの」
「違わない部分もあるけど」
「ほら」
やっぱりな、と茉白が肩をすくめる。どうでもいい、どうでもいいけどなんかざらつく。
「でも彼女そんな作らないよ」
「興味ない」
「聞いて」
視線も向けずに歩く。
「好きじゃない子と付き合ってもしょうがなくない?」
あまりにも普通の口調だった。
茉白は少しだけ凪を見る。横目で。視線だけ。
「……意外」
「また言った」
「だって意外」
誠実さとは程遠いようにしか見えない。いや、最初はそう思っていたけれど、少し違うと今の茉白は知っている。知っていてわからないふりをする。
「俺どんな人間だと思われてるの」
「毎月彼女変わる」
「酷くない?」
「毎週?」
「悪化した」
凪は笑う。
その横顔には特に嘘をついている感じはない。
「告られたら?」
「断る」
「何で」
「好きじゃないから」
「付き合ってから好きになるかもじゃん」
「それはあるかもだけど」
凪は少し考える。
「なんか相手に失礼な気がする」
「……真面目じゃん」
茉白が肩の力を抜いたように軽く息をついた。
「俺、結構ちゃんとしてるよ」
「自分で言う?」
「茉白が全然気づいてくれないから」
「気づいてる」
口に出してしまって、茉白自身が少し驚いた。
凪も同じだったらしい。
歩きながら、ほんの少し目を見開く。
「……気づいてるんだ」
「まあ」
言ってしまったものは仕方ない。茉白は開き直った。
「どの辺?」
「嫌って言ったことはやめるし」
「うん」
「勝手に触らないし」
「うん」
「……案外、ちゃんとしてる」
最後は少し言いにくかった。
褒めるのが照れ臭いわけではない。
ただ、凪に言うと面倒くさい。絶対に面倒くさい。
「嬉しい」
案の定、すごく嬉しそうな顔をした。
「やっぱ言わなきゃよかった」
「遅い」
「忘れて」
「無理。今日の日記に書く」
「日記書いてんの?」
「書いてない」
「じゃ言うな」
茉白は呆れながらも少し笑った。変なやつ。
その瞬間。
ぽつ、と頬に冷たいものが当たる。
「あ」
思わず空を見上げてぽかんと口を開ける。次の瞬間には、雨粒が一気に増えた。
「うわ」
「こっち」
凪がすぐ近くの商店街の軒下へ走る。手は繋がない。ぽんと茉白の肩を叩いていくだけ。
茉白も続く。
アスファルトに雨が弾け、乾いていた道路の色がみるみる濃く変わっていく。
六月らしい、突然の雨。
凪はリュックから折り畳み傘を取り出す。
「入る?」
「駅近いし走る」
「滑るよ」
「子どもじゃない」
「知ってる」
凪が笑う。傘が開く。なんか絵になる。茉白は凪が傘に目を落とした瞬間を、スマホでカメラに収めた。雨音でシャッター音もかき消され、凪は気づかない。
「俺が一緒に入りたい」
「そういう言い方すんな」
「何で」
「メロいから」
「褒め言葉?」
「悪口」
「最近ちょっと嬉しくなってきた」
「末期」
結局、同じ傘へ入る。
折りたたみにしては大きめとはいえ、二人で入れば距離は近い。
茉白は少し端へ寄る。
すると凪が傘を茉白側へ傾けた。
「そっちが濡れるよ」
「俺はいい」
「よくないでしょ」
「じゃもうちょいこっち来る?」
「……」
「冗談」
凪がすぐ笑う。押してこない。
だからこそ、茉白は少し迷ってから、自分からほんの半歩だけ内側へ寄った。
肩と肩が時々触れる。
凪が一瞬、何か言いかけた。
「何」
「いや」
「言えよ」
「自分から来てくれたなって」
「濡れるから」
「うん」
「それだけ」
「分かってる」
分かっていると言いながら、凪は少し嬉しそうだった。
その顔を見た茉白は、なぜかそれ以上何も言えなくなって目を逸らした。
*
凪との放課後は、少しずつ増えていった。
約束するほどでもない。
デートと呼ぶほどでもない。
ただ、たまたま駅が近く。
たまたま連絡が来て。
たまたま一緒に帰る。
その「たまたま」が、週に一度になり、二度になり。
いつの間にか茉白の日常へ自然に入り込んでいた。
『暇?』
不意に来るメッセージも今は不思議に思わない。
ただ送られてくるから返す。
『暇じゃない』
『何してる?』
『今ベッド』
『暇じゃん』
『忙しい』
『何に』
『横になるのに』
『高度な業務だね』
『邪魔すんな』
返信がぴたりと止む。それでも数分後。
『アイス食べたくない?』
『買ってきてくれたら食べる』
『住所知らない』
『じゃ無理』
『教えてくれたら行くけど』
『怖』
『冗談』
『半分本気だったでしょ』
『よく分かってきたね』
そんな、どうでもいいやり取りを毎日。
返信する必要なんてない。
既読無視しても、凪は怒らない。
数時間後に返せば普通に続きを話す。
その距離感が、茉白には楽だった。
何かを要求されない。
好きと言われても、同じ気持ちを返せとは言われない。
楽しい時は話して。
面倒な時は放っておく。
そういう関係。
ある日の放課後。
二人は駅前の本屋にいた。
凪が参考書を見たいと言うので、茉白が何となく付き合っただけだった。
「これとこれ、どっちがいいと思う?」
「知らん」
「表紙で」
「こっち」
適当に指をさすと、凪は面白そうに笑った。
「理由」
「色」
適当に選んだので適当に答える。
「参考にならない」
「聞いたのそっち」
凪は笑いながら二冊を見比べる。
茉白はその横で暇そうに棚を眺める。
大学受験。資格。専門学校。就職。
どこを見ても「未来」が並んでいる。
少し前なら、それだけで目を逸らしていた。
今は、少しだけ見る。見るだけ。
「茉白は何か見る?」
「別に」
「写真の本とかあるよ」
「……何で写真」
「好きでしょ」
「別に好きって言ってない」
「でもよく撮ってる」
よく見ている。どこまでわかっているのか。
「スマホだし」
「機材じゃなくて、撮るのが好きなんじゃない?」
さらっと言われる。
茉白は黙った。
「日菜ちゃんも言ってた」
「何を」
「茉白、昔から写真めっちゃ撮るって」
「余計なこと言うなあいつ」
「文化祭とか体育祭とか、日菜ちゃんの写真ほぼ茉白が撮ったやつだって」
「たまたま」
茉白のフォルダには日菜の笑顔がたくさん切り取られて収められている。それは事実だった。
「また」
「何」
「茉白って、好きなこと全部たまたまで済ませるよね」
少しだけ胸がざらつく。
凪は責めるような言い方をしていない。
むしろ何でもない口調だった。
だからこそ、引っかかった。
「好きってほどじゃないし」
「うん」
「仕事とかにしたいわけでもない」
「うん」
「だから別に」
「別にでいいんじゃない?」
言い訳じみていると自分でも思っていたのに、予想していた反応と違う。
茉白は凪を見た。なにを言いたいのかわからない。
「何」
思わず声が漏れる。
「いや」
凪は棚へ視線を戻した。いつもと違う。いつもならここでまっすぐ茉白を見るはずだ。凪は棚を見ながら続ける。
「好きなら仕事にしなきゃいけないわけじゃないし」
「……」
「ただ、好きかもって思うくらいは自由じゃん」
茉白は黙った。
好きかも。
それくらいでいい。
その言葉がなんとなくすとんと胸に落ちる。
将来を考えるとなると、いつも大げさだった。
夢。目標。志望校。職業。
何になりたい。
何を成し遂げたい。
全部、自分には大きすぎる。
『好きかも』。それなら。
それくらいなら、少しくらいは。
「……見てくる」
「何を?」
「写真のとこ」
凪が踵を返す茉白を振り返る。
茉白はその顔を見て、先回りする。
「笑ったら帰る」
「笑わない」
「メロいこと言っても帰る」
「何も言わない」
「ほんとに?」
「頑張る」
「信用ない」
凪が困ったように、戸惑ったように、珍しく笑顔ではない柔らかい表情を浮かべて頷く。
「行っておいで」
本当に、それ以上何も言わなかった。
茉白は写真集やカメラの入門書が並ぶ棚へ向かう。
手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
街角の写真。
人物。
夕暮れ。
何でもない日常。
自分のスマホに入っているものと、少し似ている。
ただ、そこには名前がついている。
スナップ。
ポートレート。
構図。
光。
知らない言葉がいくつもある。
気づけば夢中で眺めていた。
「……」
少し離れた場所で凪はまだ参考書を見ている。
急かさない。
こちらを見て笑わない。
呼ばない。
ただ茉白を待っている。
そのことが妙に嬉しかった。
*
「なあ」
二人で駅のホームに座り、茉白が言った。
「何?」
「お前、何でウチに絡むの」
凪が缶コーヒーを持ったまま、少し目を瞬く。
「急だね」
「前から気になってた」
「俺が?」
「理由が」
「俺じゃなくて?」
「帰るよ」
電車はまだ来ない。実際帰りようもないのに凪が笑いながら手を上げる。
「ごめん」
電車が通過し、ホームへ風が吹き込む。
少し離れた線路の向こうで、夕日が建物の隙間へ沈みかけていた。
「最初は」
話し始めたその横顔に茉白が視線を向ける。
「顔」
「最低」
「だってかわいかったし」
「はいはい」
真面目に聞こうとして損をした。茉白はすっかり力を抜いて背もたれにもたれる。
「あと、日菜ちゃんから話聞いてたから興味あった」
「何て」
「無気力で、何にも興味なさそうで、でも実はめっちゃ優しい親友がいるって」
「盛られてる」
「今は」
凪が茉白を見る。
「何」
「今の俺が絡む理由」
茉白は黙る。
凪も少し黙った。
いつものように、すぐ軽口を返さない。
「一緒にいると楽しい」
やがてそう言った。あまりに普通な答え。
「それだけ? 今の間、なんだったん」
「それって結構大きくない?」
「……まあ」
茉白の視線の中で凪が缶コーヒーを口に含む。
その理由は、まあ悪くない。
「あと」
「まだあんの」
「茉白って、何も見てないふりしてめっちゃ見てるから」
心臓が少しだけ嫌な音を立てた。
「何それ。何が」
「人のこと」
凪は缶コーヒーへ視線を落とす。
「日菜ちゃんの変化とか。颯真の顔とか。俺が何嫌がってるかとか……たぶんいろいろ剥がしていく」
「お前、嫌がってることあんの」
「あるよ」
「見たことない」
「隠してるから」
さらりと。でも、少しだけ声が違った。
茉白は改めて凪を見る。
横顔。
笑っている。
いつもの笑顔より、少し薄い。
「……何」
「何が?」
「今の顔」
「普通」
「嘘」
言った瞬間、凪の笑みが止まった。
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど、茉白は見ていた。
凪はすぐにいつもの表情へ戻る。
「怖いなあ」
「何が」
「茉白が」
「意味分かんない」
「そういうとこ。だから好き」
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
凪が立ち上がる。
「ほら、来た」
こいつ話を終わらせた。
茉白にも分かった。
だから、追わなかった。
聞けば答えるかもしれない。
でも今は、聞いてほしくないのだと思ったから。
凪がいつも、自分が本当に嫌がった時に引いてくれるように、茉白も何も言わず立ち上がる。
電車へ乗る。いつものように扉の横。
隣に立つ。
それだけ。
数駅が過ぎる。茉白は無言で外を見ていたが、時おりそのガラス戸に映る凪を見ていた。
凪がぽつりと言う。
「ありがと」
「何が」
「聞かないでくれて」
「……」
茉白はふたたび窓の外を見る。
「別に」
いつもの言葉。
今度の「別に」は、逃げるためではなかった。
「言いたくなったら言えば」
凪の気配が止まる。
「ウチ、たぶん聞くし」
話だけ。自分が聞いたところで何が出来るわけでもないけど、何となく、凪は誰かに話したいのではないかと思った。
「笑わない?」
「内容による」
「ひど」
「冗談」
「茉白が冗談言った」
「うざ」
凪が笑う。
今度はさっきより少しだけ、本当の笑い方のように見えた。
*
七月に入った頃、茉白は日菜と放課後の教室にいた。
日菜は問題集。
茉白はスマホ。
以前なら日菜が勉強している横で、ただ時間を潰していた。
今、スマホに表示されているのは、写真・映像系の専門学校のサイト。
別に受けると決めたわけではない。
ただ見ているだけ。
「……」
「茉白」
「何」
「何見てるの?」
問題の合間に顔を上げた日菜が不思議そうな顔で茉白を見ている。日菜はいつもそうだ。茉白の小さな変化。見逃さない。
「何でもない」
「見せて」
「やだ」
日菜が身を乗り出して強引に茉白のスマホを覗き込む。
「あ!」
「声でか」
「写真の学校じゃん!」
「検索しただけ」
「えっ、興味あるの!?」
「興味あるってほどじゃない」
「でも見てる!」
「うるさ」
日菜の顔がみるみる嬉しそうになる。明るく花が咲くように。いつだってこの親友は、茉白のことも自分ごとのように扱う。
「凪くん?」
「何が」
「凪くんが言った?」
「何であいつ」
「最近よく一緒にいるじゃん」
茉白は口を尖らせて横を向いた。日菜がにやにやしているのがわかる。
「関係ない」
「えー?」
「日菜」
「はい」
「うざい」
「ひどい!」
茉白はスマホを伏せる。
少し考えてから、話す。視線は斜め下。まっすぐ見るのは恥ずかしい。
「……本屋で」
「うん」
「写真の本あって」
「うんうん」
「ちょっと見ただけ」
「うん!」
「それだけ」
日菜はすぐに何か言おうとして止めた。
視線の合わない親友。その頬がわずかに赤くなっているのに気がつけるのは、たぶん日菜だけ。いや、日菜だけだったはずが、今は。
「そっか」
日菜が笑うと、やっと茉白がこっちを見た。
「何」
「ううん」
「言えよ」
「茉白が自分からそういうの見るの、初めてだなって」
「……」
「いいじゃん」
それだけ。
日菜も押さない。ただ肯定。
茉白は不満そうにふたたび勉強を始めた日菜のおでこを眺め、手元で画面を開く。
また、続きを見る。
授業内容。
写真。
映像。
デザイン。
就職先。
分からないことばかり。
以前のような「知らないからどうでもいい」ではない。
知らないから、少し見てみたい。
そう思う。
*
校門を出たところで、スマホが震えた。
『今日、会える?』
凪からのメッセージ。
茉白は立ち止まる。
いつもと少し違う。
『暇?』ではない。
会える?
その短い一文。
なぜか胸の奥に引っかかった。
『どこ』
返すもなかなか返信がない。いつもならすぐに返ってくるのに。
少しして『駅裏の公園』とだけ返事がきた。
いつもの待ち合わせ場所ではない。
茉白はそのまま駅へ向かった。
夕方の空は薄曇り。
青葉が茂り、蝉が鳴き始めている。うるさい。
駅裏の小さな公園には、子どもたちの姿もほとんどなかった。
木陰のベンチ。
そこに凪がいる。
制服姿で肘を膝へ置き、いつものようにスマホを見ている。
近づく前から分かった。
何か違う。
「凪」
名前を呼ぶ。
初めて、名字ではなく。
自然に口から漏れ出た。茉白は自分で気づいていない。
凪が顔を上げる。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ。
その顔に余裕がなかった。
すぐ笑う。へらりと、軽く、チャラく。
「来てくれた」
「……うん」
「珍しい。素直」
「帰るわ」
「帰らないで」
反射みたいに返ってきた。いつものやり取りだが、まるで録音された音声ファイルのような抑揚。
茉白は少しだけ目を細める。
何も聞かず凪の隣へ座った。
少しだけ間を空ける。肩は触れないけれど、よく表情の見える距離。
蝉の声。
遠くを走る電車。
風が木の葉を揺らす音。
しばらくどちらも話さなかった。
茉白は聞かない。
凪が言うまでただ隣にいる。
やがて凪が口を開く。
「今日さ、模試返ってきた」
声がいつもより少し低かった。
茉白は視線だけ向ける。
「……そっか」
「うん」
凪が笑う。
その笑顔はこれまで何度か見た、何か隠している時の笑顔だった。
「まあ……次頑張ればいいんだけどね」
その瞬間、茉白は思った。
あ、こいつ今、自分と同じことしてる。
何でもないふり。
大丈夫なふり。
先に笑って、誰にも触れさせない。
少し前までの、自分と同じ。
「……凪」
「ん?」
「それ」
凪が首を傾げる。
「何?」
「ウチの真似?」
凪が笑ったまま止まった。
茉白はその横顔を見る。
「笑って誤魔化すやつ」
蝉の声だけが。
やけに大きく響いた。
凪は何も返さない。
その沈黙を茉白は急かさなかった。
初めて、いつも余裕のあるメロ男の向こう側にあるものが、ほんの少しだけ見え始めていた。




