3 親友が先に大人になっていく
第三幕 親友が先に大人になっていく
梅雨入り前の教室は、午後になると少しだけ空気が重い。
窓は開いているのに風は弱く、カーテンだけが気まぐれに揺れている。六時間目の現代文が終わったばかりの教室には、机を引く音や、鞄のファスナーを閉める音が重なっていた。
茉白は自分の机に頬杖をついたまま、前の席をぼんやり眺めていた。
正確には、前の席ではなく、その少し向こう。
日菜の背中だ。
いつもなら終礼が終わった瞬間、
「茉白、帰ろ!」
と振り返ってきていたはずなのに、今日は違う。
日菜は机の上に何枚もの紙を広げ、蛍光ペンで何かに線を引いている。資料の上には大学名。学部名。オープンキャンパスの日程。
その隣には、使い慣れていないのが丸分かりの分厚い英単語帳まで置かれていた。
「……何してんの」
茉白が声をかけると、日菜はぱっと顔を上げた。
「進路!」
「見れば分かる」
「じゃ聞かないでよ!」
「日菜が真面目に机向かってるの珍しいから」
「失礼!」
日菜は頬を膨らませる。
けれど、その手は資料から離れなかった。
「ここさ、幼児教育のコースあるんだって」
「へえ」
「あと保育実習も多いらしくて」
「へえ」
「さっきからへえしか言ってない」
「ちゃんと聞いてる」
「ほんとに?」
「保育実習多いとこでしょ」
「聞いてた!」
日菜はぱっと顔を輝かせて嬉しそうに笑った。
茉白はその笑顔を見ながら、少しだけ目を細める。
最近、日菜は変わった。
以前から明るかったし、何かに夢中になることもあった。
でも、それはたいてい新作コスメとか、限定スイーツとか、推している動画配信者とか、そういうの。それが今は。
「ね、茉白。こっちの学校とこっち、どっちがいいと思う?」
「何が違うの」
「こっちは家から近いけど、もう一個は資格取れる数が多いの」
「じゃ資格多い方」
「でも通学一時間半」
「遠」
「でしょー」
日菜は本気で悩んでいる。
何となくではない。
ちゃんと比較している。
ちゃんと、自分の先のことを考えている。
それが少し不思議だった。
少し前まで、二人とも似たようなものだったはずだ。
進路希望調査なんて面倒。
大学なんてよく分からない。
将来のことなんて、その時になってから考えればいい。
日菜もそんなふうに笑っていた。
なのに今は、自分よりずっと先を見ている。
「颯真くんと同じ大学行くの?」
何気なく聞く。
日菜の手が止まった。
「ううん」
「違うんだ」
「うん」
「意外」
茉白は正直に言った。
『颯真くんと同じとこ行きたい!』日菜ならそう言うと思っていた。
実際、最初の頃は言っていた気がする。
「最初はね、同じ大学がいいって思ってた」
日菜は蛍光ペンの蓋を閉じながら、少しだけ照れたように笑った。
「でも颯真くんに言われたの」
「何て」
「俺のために決めるのは違うって」
茉白は少しだけ眉を上げた。あの生真面目な顔を思い出す。
「言いそう」
「でしょ」
日菜は頬杖をつく。
「最初はさ、ちょっとムカついたんだけど」
「何で」
「だってウチ、颯真くんと一緒にいたいから言ってんのにさ」
「まあね」
「だから『一緒の大学嫌なの?』って聞いた」
「面倒くさ」
「ひど!」
「でも言ったんでしょ」
「言った」
日菜は自分でもおかしくなったのか、くすくす笑った。
「そしたら颯真くん、めっちゃ困った顔して」
その顔が何となく想像できる。
真面目な颯真が、眉間に皺を寄せて、一生懸命言葉を選んでいるところ。
「『違う。卒業してからも日菜と一緒にいたいから、自分の人生もちゃんと考えてほしい』って」
「……へえ」
「またへえ」
「いや」
茉白は少しだけ視線を逸らす。興味が無いように聞こえただろうか。少し考える。
「いい彼氏じゃん」
「でしょ?」
日菜ははにかんで嬉しそうに笑う。指を組んでせわしなく動かしている。
完全に惚気だ。
けれど不思議と嫌ではなかった。
「でさ、考えたの。ウチ、何がしたいんだろうって」
視線をほんの少しだけ日菜の顔へ戻す。
「そしたら、小さい子好きだなって思って」
「ああ」
「親戚の子とか、ウチめっちゃ遊ぶじゃん」
「遊んでるっていうか、一緒に騒いでる」
「一緒!?」
「子ども二人」
「茉白!」
背中をばんと叩かれる。笑い声が教室に響く。
茉白も口元を少しだけ緩めた。
けれど、何かが引っかかった。
日菜は、自分の中にあるものをちゃんと見つけた。
昔から好きだったこと。自分に向いているかもしれないこと。これからやってみたいこと。
それを言葉にしている。
一方で自分は、何が好きなのかすらよく分からない。
「……いいじゃん」
それでも、茉白はそう言った。
「日菜なら向いてそう」
「ほんと?」
「うん」
「子どもに舐められそうじゃない?」
「それはありそう」
真顔で頷くと、日菜が机に突っ伏す。
「えー!」
「でも好かれそう」
言うと、日菜は少しだけ目を丸くした。
それから目元を細め、静かに笑った。
「……ありがと」
その笑顔は、颯真の話をしている時の恋をしている顔とも違う。
何かを自分で決め始めた人の顔だった。
茉白はそれを見て、少し眩しそうに目を伏せた。
*
その日から日菜は放課後に残ることが増えた。
図書室、自習室。時々、颯真と駅前の図書館。
以前ならチャイムが鳴った瞬間に騒いでいたのに。
「茉白、コンビニ!」
今は鞄から参考書を取り出す。
「今日も勉強?」
「うん!」
マーカーと付箋だらけの参考書。
「偉」
「もっと褒めて」
「すごい」
「棒読み!」
「天才」
「軽!」
日菜は文句を言いながらも嬉しそうだった。
茉白はそれを見て笑う。
笑って、応援する。
それでいいはずだった。
「じゃ、ウチ先帰る」
「ごめんね」
「何で謝るの」
「最近一緒に帰れてないし」
「別に」
気にしているのだろうか。それでいいような、良くないような気がして茉白が上から告げる。
「勉強しなよ」
「うん」
日菜の瞳には何かを得た光が瞬いている。
「落ちたら笑う」
「ひど!」
「冗談」
「絶対受かるから!」
「はいはい」
手を振って教室を出る。
茉白一人。
その瞬間、さっきまで何ともなかったはずの空間が、少しだけ広く感じる。
廊下を歩き、階段を降りる。昇降口で靴を履き替える。
全部、いつもと同じ。
横に日菜がいないだけで妙に静かだ。
校門を出る。
夕方の街は明るい。
部活帰りの生徒が自転車で通り過ぎ、信号待ちの向こうには小学生が何人か集まっている。
茉白はスマホを取り出す。
通知一件。一ノ瀬凪。
『今日暇?』
茉白は画面を見つめた。
『暇じゃない』
送信すぐ既読。
『何してる?』
『帰ってる』
『暇じゃん』
『帰るっていう予定』
『じゃあ帰宅業務終わったら暇?』
『だる』
『その返事、元気そうで安心した』
「……何なん」
小さく呟く。
最近、凪からこういう連絡が来る。
大した用事はない。
今日何食べたとか、授業眠かったとか、颯真がまた真面目すぎるとか。
そういうどうでもいい話。
最初は面倒だった。いや、今も少し面倒だ。
でも返信しないほどではない。
『日菜は?』
凪から次のメッセージ。
『勉強』
『偉いね』
『最近ずっと』
『寂しい?』
指が止まる。
前にも聞かれた。
日菜を取られて寂しいか。
その時も、すぐ否定した。
『別に』
即答入力。フリックがいつもより早いかもしれない。
送ろうとして止める。
画面上の二文字。
少しだけ、眺めてから消去、打ち直した。
『ちょっと静か』
送信。またすぐ既読。
少し間が空く。
『じゃあ今度うるさくしに行く』
「……いらんし」
口ではそう言う。返信はしない。
画面を消す時、少しだけ口元が緩んだ。
*
数日後。
四人は放課後、駅前のファミリーレストランに集まっていた。
日菜の『みんなで勉強しよ!』という提案。
正確には日菜と颯真が勉強。
凪もノートを開いて教科書と照会しながらポイントをまとめている。
茉白だけほぼ何もしていない。視線はおおまかに教科書に向いているが、開きもしていない。頬杖をついて他三人を眺めている。
「黒瀬さん」
「ん」
「教科書開こうか」
向かいの颯真が言った。日菜は問題に向き合って頭を抱えている。
茉白は息を呑んでゆっくり教科書を開いた。数学III 猪瀬 明 編。文字を見る。誰だよ猪瀬。ただ見るだけ。
「開いてる」
「今開いたよね。表紙だけだろ」
「開いてはいる」
「屁理屈」
なんかに似てると思ったら世話焼きの担任だった。
「先生みたい」
「最近よく言われる」
颯真はため息をつく。
隣の日菜が楽しそうに笑った。
「颯真くん教師向いてるよね!」
「まだなってない」
「でもなるんでしょ?」
「そのつもり」
颯真はそう言いながら、日菜のノートへ目を落とす。
「ここ、さっきと同じところ間違えてる」
「えっ」
「この文法」
「……ほんとだ」
「一回整理しよう」
「はーい」
その声は優しい。
教える側も教わる側も自然だった。
いい先生になりそう。関係ないけど。
茉白はその様子を見ながら、ストローでアイスティーの氷をつつく。
「仲いいね」
「今さら?」
日菜が笑う。つきあって数ヶ月。しかしその空気は完成されているように思う。
「茉白も凪くんに教えてもらえば?」
「何を」
「英語!」
「いらん」
茉白の即答に日菜が被せて返す様式美。
「何で」
「何か負けた感じする」
「何に?」
「知らん」
すると隣に座っていた凪が、小さく笑った。
「俺、教えるの上手いよ」
「意外」
つい呆れたような口調で言ってしまう。教科書の紙の端は弄びすぎて少し丸まった。ため息をつく。
「自分で言うな」
「颯真より優しい」
「……一ノ瀬」
向かい側から颯真がこちらを見ている。凪が肩を竦めた。
仲良いのか悪いのかわからん。それが日菜と自分の関係とは違って、男の子って変とちょっと思う。
「ほら怖い」
「聞き捨てならないだけだ」
「教師になったら厳しそう」
「お前みたいな生徒にはな」
思わず声をあげて笑いそうになった。
凪と颯真のやり取りは、茉白には見ていて面白い。
凪が適当なことを言い、颯真が真面目に突っ込み、日菜が笑う。そこに自分が時々口を挟む。
四人でいることにも、少しずつ慣れてきていた。
「じゃ、茉白」
凪が茉白の教科書を自分の方へ少し引く。
「ここ分かる?」
「分からん」
「どこから?」
これ習ったか? 見覚えがまったくない。しかし茉白は悪びれない。
「全部分からん」
「潔いなあ」
「褒めてる?」
「半分」
凪はシャープペンを持ち、余白に簡単な例文を書きだす。思っていたより字が綺麗だった。
茉白は少しだけ目を留める。
「……字きれい」
「そう?」
「意外」
「今日それ何回目?」
「何が」
茉白が視線を上げる。目は合わせない。凪の言葉の続きを待つ。
「俺に意外って言うの」
「そんな言ってる?」
「結構」
「じゃ意外なとこ多いんじゃん」
凪は一瞬だけ笑ってくるりとシャーペンを指先で回した。
「まだあるよ」
「何が」
「茉白が知らない俺」
またいちいちこの男は。顔がいいのを自覚しているに違いない。その自然でこちらに挑むような包み込むような微笑み。
「メロい」
「今言った?」
茉白は眉を寄せた。心底嫌そうに。
「言ってない」
「言ったよね」
「聞き間違い」
凪の口元が緩む。その横で颯真が真顔で言った。
「一ノ瀬」
「何」
「勉強しろ」
「してる」
けろりと凪がノートを指さしている。茉白はまた目を細める。
「口説いてるようにしか見えない」
「両立してる」
「やめろ」
日菜が机に突っ伏して笑っている。茉白は額を押さえて唸った。
「……帰っていい?」
「だめ!」
日菜が即答する。
その声も笑い方も以前とまったく変わらない。
それでもまったく状況が違っていた。
テーブルの上には四人分の参考書。
日菜の進路資料。
颯真の模試結果。
凪の大学案内。
茉白の、ほとんど何も書かれていないノート。
胸の奥が、少しだけざわついた。
*
帰り道。
日菜と颯真は途中の駅で降りた。それはそう、恋人同士、勉強だけじゃなくてちょっとは甘い時間を過ごしたいんだろう。茉白は思う。あの生真面目な颯真でも、やっぱりいちゃいちゃしたいんだろうか、どんな顔でするのか想像できない。
残ったのは茉白と凪。
夕方の電車は混んでいて、二人はドア脇に並んで立っている。
茉白は窓に映る自分を見た。
いつもと同じ眠そうな顔。自覚してる。
凪はスマホを見ている。
その画面に、大学名が見えた。
「……何見てんの」
「進路」
「また?」
「またって」
「今日もファミレスで見てたじゃん」
「見るよ」
凪は画面を閉じて茉白に向かい合う。
「まだ決めきれてないし」
「そうなん?」
凪のその言葉が、少し意外だった。
「うん」
「何か全部決まってそうなのに」
「俺そんな完璧に見える?」
なんとなく図星を突かれた気がして少し腹が立つ。いや、ちょっと違うよくわからない気持ち。
「別に」
「今ちょっと褒められた?」
「ない」
茉白の変わらない一刀両断に凪は笑う。
「大学行くんでしょ」
「行きたい」
「何するの」
茉白の言葉に凪は曖昧に微笑んだ。顔がいい。むかつく。
「それはまた今度」
「何で」
「ちゃんと話すと長いから」
付き合いの浅い自分にちゃんと話すと言う凪に戸惑うけれど、それに気付かないふりをして窓の外を見る。
「別に今暇だけど」
「帰宅業務中じゃなかった?」
「うざ」
前に送ったメッセージを覚えている。
そういうところも、妙に細かい。そう、いちいち茉白のことを覚えている。言葉も、行動も。
「じゃあ今度話す」
「今度の言葉は言わないと同じ」
「俺が覚えてる、話すの」
「何それ」
大体が『今度』がある前提で話している。まったくもってむかつく。満更でもないなんて思ってない、絶対。
「約束」
凪が小指をたてて片目を瞑って微笑んだ。
その顔はいつも通り。
「…………」
小指を無視する。凪がスマホの画面を閉じる前、茉白は一瞬だけ見てしまっていた。
大学の資料の横に、奨学金、学費、国家資格。
そんな文字が並んでいたことを。
今はまだ、聞かない。こんなメロ男興味無い。
*
週末。
日菜に誘われて、茉白はオープンキャンパスについて行くことになった。
「何でウチまで」
「一人不安だから!」
いつものように日菜が茉白の腕に絡みつく。重いけど嫌じゃない。許す。
「颯真くんは?」
「別の大学の説明会」
「じゃ一人で行けば」
突き放すように言う茉白の声には日菜の甘えに対する甘さが滲んでいる。
「茉白冷たい!」
「行くけど」
茉白の即答に日菜の表情がぱっと明るくなった。
「好き!」
「はいはい」
そんなやり取りを越えてやってきた大学のキャンパスは、茉白にとって少し不思議な場所だった。
高校より広い。
建物も大きい。
学生たちは制服を着ていない。
自分と数歳しか変わらないのに、随分大人に見える。
案内係の学生が明るい声で説明している。
日菜は真剣に聞きながらメモまで取っている。まじだ、日菜は真剣に向かい合おうとしている。
「ここ実習施設あるって」
「うん」
「見に行こ!」
「はいはい」
子どもの発達や保育についての展示。
模擬保育室。小さな椅子に絵本。色紙。
日菜は一つひとつを楽しそうに見て回る。
「かわいい」
「日菜、普通に楽しそう」
実際向いていると思った。好きを見つけた日菜の横顔は輝いているみたいに見える。
「楽しい!」
「へえ」
「ここ来たいかも」
何気ないその言葉。
茉白の胸を少しだけ引っ掻く。
ここに来たい。
そんなふうに言える場所がある。
自分にはない。
「茉白は?」
日菜が振り返る。
「何」
「大学とか興味ない?」
「んー」
茉白は周囲を見る。
ポスター、資料、学生、広いキャンパス。
どれも自分には無縁に見える。まるでドラマを見ているような、自分の人生とは関係ないストーリーが刻まれている。
「別に」
いつもの答え。
日菜は少しだけ黙った。じっと大きな目で茉白の表情を確認するように見ている。
「そっか」
しばしの沈黙のあと、それ以上は言わなかった。
無理に勧めない。
そのことに茉白は少しだけ救われた。
*
オープンキャンパスでもらった紙袋を日菜が抱えながら、駅まで歩く。
夕暮れの赤が道路を染める。
長く伸びた二人の影を茉白はカメラに収めようか少し迷っている。
「ねえ、茉白」
「ん」
日菜に呼ばれて反射的に背筋が伸びる。
「最近さ」
「何」
「ウチ、ちょっと変わった?」
日菜を見つめる。このところ感じていた違和感、でもそれを口にすると認めたようで嫌だった。
「急に何」
「いや」
日菜が少し照れくさそうに笑う。
「勉強とか、進路とか、前ぜんぜん考えてなかったじゃん」
「うん」
「だから」
日菜の眉が下がった。瞳が揺れる。緊張したかのように強ばる頬は、夕日の赤で紅潮しているようにも見えた。いや、実際赤いのかもしれない。
「変じゃないかなって」
茉白は足を止めなかった。少し考えて答える。
「別に」
「ほんと?」
「変わったけど」
「え」
「……いい方じゃん」
声が少し震えたかもしれない。日菜が黙る。それでも続ける。
「やりたいこと見つけたんでしょ」
「……うん」
「じゃいいじゃん」
「茉白」
いつもの日菜。感極まったように、歌うように茉白を呼ぶ。
「何」
「好き」
知ってる。でももっと大切な人がいるのも知ってる。
「彼氏に言え」
「親友にも言う!」
日菜が腕に抱きついてくる。茉白は早々に振り払う。
「重」
「ひどい!」
「資料が」
「あ、そっち?」
ほっとした日菜に首を傾げて口の端を上げる。
「半分そっち」
「半分は!?」
いつも通りに二人で笑う。このまま変わらない。
そのはずだった。
*
数日後。
些細なことだった。その日は雨だった。
放課後、窓に細い水滴が流れ、教室には湿った空気がこもっている。
日菜はまた参考書を広げていた。
「茉白、今日ごめんね」
「何が」
「颯真くんと勉強する」
「また?」
思ったより自分の声が、冷たく出た。
日菜が少しだけ目を瞬く。
「うん」
「最近彼氏ばっかじゃん」
言った瞬間、茉白自身が、一番驚いた。
冗談のつもりだった。
軽く、いつもみたいに。
日菜は笑わなかった。
「……それ、本気?」
「いや」
「茉白」
「冗談」
「じゃあ、そういうの言わないで」
日菜の声が少しだけ震えた。
これはだめなやつだ、茉白は黙る。何も言えない。
「ウチ、颯真くんがいるから茉白いらないとか、一回も思ったことない」
「分かってる」
「分かってない」
珍しく日菜が強い声を出す。
机の上で、綺麗に桜色にネイルした指がぎゅっと参考書の端を握っている。
「だって茉白、何も言わないじゃん」
「何を」
「寂しいとか」
その言葉が茉白の胸に刺さる。
「別に寂しく―――」
「ほら!」
日菜の目に涙が滲む。
「またそれ!」
茉白は言葉を失った。泣かせるなんて想定外だ。いや、泣くべきは自分じゃない? なんで日菜が泣くの。
「茉白いつも『別に』って言うじゃん。大丈夫とか、どうでもいいとか、何でも」
「……」
「ウチだって寂しいよ」
「え」
「前みたいに毎日一緒に帰れないの」
日菜は泣きそうな顔で笑う。
「でも進路も頑張りたいし、颯真くんとも会いたいし、茉白とも遊びたいし」
「……」
「全部大事なの!」
雨音が急に大きく聞こえた。うるさい、日菜の声が聞こえない。……聞こえなくて、いいのかも。
「なのに茉白が勝手に『ウチは平気』みたいな顔して、何も言ってくれないんじゃん」
それでも日菜はまっすぐ茉白を見ている。
茉白は何も返せなかった。
日菜が寂しいと思っているなんて考えたことがなかった。
変わっていくのは日菜で、置いていかれるのは自分だと勝手に思っていた。
でも違った。
日菜も同じように、変わることを怖がっていた。
「……ごめん」
言葉が出る。
小さいけれど、ちゃんと。
「ウチ」
茉白は机の端を見る。言葉を尽くさないとという焦燥感が口を軽くする。
「ちょっと寂しかった」
初めて口にする。
「日菜が先行く感じして」
茉白の言葉を聞いて、日菜の目から一雫涙が落ちた。
「バカ」
「うん」
「早く言ってよ」
「言い方分かんないし」
「普通に言えばいいじゃん」
眉を寄せる。簡単にできたらこんな苛立ちは感じていない。いや、苛立ちですらない。凪が言うには―
――認めたくない。言葉を絞り出した。
「難しい」
「めんどくさいなあ」
「お互いじゃん」
日菜が泣きながら笑う。
茉白も少しだけ笑う。
次の瞬間、日菜が抱きついてくる。
「茉白ぉ」
「重い」
「今それ言う!?」
「重いもん」
「泣いてるのに!」
「知ってる」
茉白は押し返さなかった。
日菜の背中に、そっと手を置く。
窓の外では雨が降っている。
放課後の教室で二人だけ。
「卒業してもマブだからね」
日菜独特の柔らかな言い回し。
「まだ早くない」
「今言っとくの!」
「はいはい」
「絶対ね」
「分かったって」
茉白のその声はいつもより少しだけ優しかった。
*
その夜。
茉白はベッドに寝転がりながら、スマートフォンを見ていた。
『今日ごめん』
『でも好き』
『今度絶対クレープ』
日菜からのメッセージに茉白は少し笑う。
『こっちもごめん』
送信して数秒後。
『え』
『茉白が謝った』
『スクショした』
三連続メッセージ。
『消せ』
誰も見ていないのに肩をすくめる。親友は変わっていない。
画面を閉じる。
写真フォルダを開く。
オープンキャンパスで撮った日菜。
資料を持って少し眩しそうに笑っている。
その写真を見ながら茉白は考える。
日菜は変わった。
でも、いなくなるわけではない。
自分が置いていかれるわけでもない。
ただそれぞれが自分の未来へ進み始めているだけ。
「……ウチは何すんだろ」
初めてその言葉を洩らす。
誰かに言われたからではなく、自分から考えた。
答えはない。
何も浮かばない。
以前ならそこで終わっていた。
今は、少しだけ知りたいと思っている。
自分が何を好きで、何をしたくて、どこへ行きたいのか。
―――’誰と?
スマートフォンが震える。
画面にあの夕焼け、一ノ瀬凪。
『生きてる?』
『何』
『日菜ちゃんから喧嘩したって聞いた』
『情報早』
『颯真経由』
あの堅物が日菜を守るよう動いたのだろう。とりあえず凪を追い返す位置に立ち塞がる。
『仲直りしたから』
『よかった』
少し間。
『茉白、泣いた?』
『泣いてない』
『強い』
『日菜は泣いた』
『日菜ちゃんは泣きそうだね』
『偏見』
『茉白は泣くの我慢しそう』
指が止まる。
『知らん』
返事はやや躊躇してから送信した。
『じゃ、いつか見せて』
「……何を」
『弱いとこ』
茉白は画面を見つめる。
いつもの甘い言葉、冗談か嘘かわからない。なのに少しだけ違って聞こえた。
『やだ』
『残念』
『でも俺は見せるかも』
茉白は文面を見て眉を寄せる。
『何で』
思わず即レスをして画面を見つめる。さっきまで打てば響くように返ってきていた返事が止まる。茉白は画面を見つめていた。待ってない。待ってはいないけど気になる。しばらく経ってからようやく返信がくる。
『茉白なら、笑わなそうだから』
その一文。
茉白は思わずただその言葉の意味を捉えかねて見つめていた。
凪はいつも笑っている。
余裕そうで、軽くて、何でも簡単にできそうで。でも。
大学の資料、奨学金、学費、国家資格。
あの日、画面に見えた文字を思い出す。
もしかしたら自分が思っているよりあいつも色々考えているのかもしれない。
『知らんけど』
そう打って、少し考える。
『笑わないと思う』
追加して送った。
すぐに既読。
返事はなかった。小さなリアクションひとつ。
その沈黙の向こうで凪がどんな顔をしているのか少しだけ気になった。そう、あくまでも少しだけ。しかしそれは茉白にとって
日菜が先へ進み始めたことで、自分だけが置いていかれると思っていた。
でも、そうではないのかもしれない。
みんな怖いまま迷いながら、それでも少しずつ先へ進もうとしている。
そしてその輪の中に自分ももう片足くらいは、入っているのかもしれなかった。




