終-3場:花壇の下には……
4つ目の花壇を掘る。協力者は計6名。文化祭のあとに、改めて漫画花壇を作った組の一部(女子たち)と、今でも俺と連絡を取り合っているノリの良い連中(男ども)だ。
「ザック、ザック」
スコップを1時間半動かしつづけた。俺だけで1000回は振るったと思う。
「ザック、ザック」
自分の作る音だ。記憶にあるような不自然な響きではない。
こうして、4つ目の花壇全体を1メートルほど掘った。場所によっては、より深く掘っている。
埋め立て地の癖に、ガラスの破片やら、腐りかけた木片やら、錆びた金属やら、ゴミの残骸らしきものがいろいろ出て来た。
予め聞き知っていた事なので、意外ではない。
もっとも、多重記憶の鍵となるものは未だに出ていないが。
それでも、昔、ここで真空管を掘り出したかも知れないという可能性は十分に感じた。
「ガキッ」
諦めかけた時、スコップが固い何かを掘り当てた。スコップの先端をみると、そこには金属の箱らしきものの先端が見える。
感触ではかなり大きい。
「大物っぽい」
という俺の声に、全員が集まって来た。
「掘り出そうぜ」
『時間、足りるの? 埋め戻すんでしょ?』
そこは、どうにかなるだろう。
掘り当てた以上、穴の他の部分は埋め戻し始めても良い。
新たに深く掘った土は、穴の中で移動させるだけのことだ。
『とりあえず写真よね』
「動画だろ?」
「今夜の同窓会で自慢出来るぞ」
女は撮影と、がらくたの整理、男はひたすら掘る、と分担が決まった。
少し掘ると、完全に掘り出すのが困難なことが分かった。斜めに埋まっていている上に、サイズもありそうだったから。
見当をつけるために、角の所をもう少し掘るも、一辺が50センチ以上現れても終わりそうにない。
残りの2辺も最低で20センチ以上はありそうだ。
そのうちの一辺は蓋らしい段差となって、蓋の部分だけでも5センチ以上ある。
そして、蓋部分だけでなく、素材そのものが、厚みのある金属となっていた。
どうやら、かなり古いものらしい。
叩いてみると、厚みのある金属の中に空気が残っているらしい音がする。
「宝箱だぜ!」
とはいえ、今日中に掘り出すのは難しそうだ。
冬の晴天で、向こう3日間ぐらいは雨が降らないらしいから、埋め戻しせずに済む許可が欲しい所だ。
そう思って校長に直接電話した。写真を送った上でだ。
校長は用務員と共に直ぐにやってきた。
どうやら、俺の前交渉で気になっていたいて、校長室で用務員と一緒に待機していたらしい。
というか、呼ばなくとも、10分後には「発掘の視察」に来るつもりだったとか。
後は話が早かった。回りにテープを張り巡らせて、立ち入り禁止にした上で、後日、きちんと「発掘」することになった。
発掘の件は学校側に任せるとして、次は夜の同窓会だ。
情報集めに丁度良い。
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同窓会では文化祭の思い出話をして回ったが、反応はイマイチだった。あれだけ閑散としていては仕方ないかも知れない。
有力な手がかりといえば、漫画の話ぐらいだろうか。
どの漫画が好きと言われて、漫画花壇に使ったネタの、原作者の別の作品が挙げられたからだ。
それは、当時、俺の家で全巻を大判で揃えていた唯一の漫画だった。
そういえば、と思い出しかけるが、何かが引っかかっているのか、そこで止まる。
こういうのは、後日ゆっくりと同窓会での話を思い出して、新たに記憶を書き起こし、多重記憶と比べるのが吉だろう。
時間が限られてるので、考えるのは後回しだ。
今は、それよりも発掘物だ。幸い、同窓会には郷土の地理史に詳しい理史君や、近くの神社の氏子をやっている方も居て、発掘中の金属箱の写真を見せると、直ぐに関心を寄せてくれた。
「長持じゃね?」(理)
「そういえば、たしかに」(氏)
同級生の「プロ」2人の話によると、件の金属は、恐らくは長持らしい。
長持(長櫃)とは、俗な言い方をすれば、大型収納箱だ。俺も子供の頃に見た事がある。
中身を触る事は大人達から禁じられたので、近くで見ただけだった。
俺が見たのは長さ1メートル超のやつで、棺桶のようで不気味だったのを覚えている。
詳しい事は知らないが、小型・中型の櫃と違って、引っ越し向けに一個の荷物に済ませられる利点があるらしい。
今で言えば、超大型の旅行カバンとか、超小型のコンテナといったところだろうか。
伝統的には木製だが、20世紀には金属製にとって代わられた。
その利点は耐火性で、当時としては高級品だ。
極めて貴重なものや、珍しい書画・反物を、運びやすい形で保存するのに便利だったらしい。
昔の貴重品は大きさも嵩んだのだ。
そのくらい大切なものとなると、捨てたという線は非常に薄い。
「アレって、黒船みたいに流れるんだよなあ」(理)
「やっぱ、そうか。あそこに集まるよなあ」(氏)
ふたりの言う通り、一番あり得るのは洪水での流出だろう。なんせ、三日月湖跡で見つかったのだ。
そこは洪水の通り道にして、水の勢いが一旦弱まる場所だ。
しかもこの地は洪水常襲地帯。
「我々の生まれる前って、洪水がそうとうに凄かったみたいだし」(理)
「いや、僕が生まれた後だって、近くの家が浸水してたよ」(氏)
1970年頃までは毎年数回起こり、余りの多さに、公的記録にすら載っていない【脚注】。
では、その長持はどこからやって来たか。
長持ほどに大きいものとなると、洪水であっても旧河道沿いでないと流れ出さないだろう。
「神社の池、知ってるよね」(理)
俺が小さい頃によく遊びに行った場所だ。
この神社の裏参道が、俺の多重記憶で出てくる、あの商店街だ。
理史君の話によると、そこと母校の前身の三日月湖は川というか沼で繋がっていたそうだ。
「あそこ、池になっているけど、水面が学校よりも2メートルほど高いんだ」(理)
当然、候補に挙がるが、氏子さんは
「よく知ってるね。まあ、候補ではあるかな」
と歯切れが悪い。
神社の池から先、三の鳥居と本殿にかけては、神社を建てるだけあって、更に2〜3メートルほど盛り上がっている。
他は元々は氾濫源の沼地だった。
「まあ、確かに神社の宝物殿は池のほとりにあるけどね」(氏)
「あそこ、昔は船の発着場だったんだって?」(理)
「何百年前の話をしてるんだよ?」(氏)
「明治時代だったか江戸時代だったか、その頃」(理)
当然、輸送には荷車よりも小舟が便利で、その発着場として神社の池は便利だったらしい。
その名残で、神社の宝物殿は池のほとりにある。
いかに宝物殿が浸水しにくい高さに作られていても、階下に置かれたであろう長持ちが流れ出た可能性はあるとのことだ。
もっとも、氏子さんは
「流れ出たのが100年前ならわかるけどね。金属製の長持だよ。それが作られる頃は、あそこはあまり氾濫しなくなったし、河道も狭くなったから、宝物殿ってのは、ちょっとねえ」
それよりは、神社の回りにある旧家から流れ出した可能性のほうが高いらしい。
「神社の回りの農家だろうな。あの辺りは自作農が多かったし」(氏)
この辺りの旧家は、どこも田んぼ持ちの農家で、神社の氏子だ。
「それもそうか。じゃあ、田んぼの側に土蔵があった家とか」(理)
「そうそう、それが一番あり得る」(氏)
考えて見れば、神社は、遊水池になるどころか、洪水を迂回させて、水の勢いを強める。
神社内にも池に流れ込む小川があるが、焼け石に水の筈だ。
「特に神社の回りは、北側を除いて、市内でも一番洪水が凄かったって、お袋たちが言っていたよ」(氏)
ということは、流出元として一番あり得るのは、神社の回りの農家の土蔵。
もっとも、この辺りは高度成長期の市の拡大で、田畑は完全に消えているので、今から探すのは無理だ。
そのあたりは氏子さんが調べてくれるだろう。
これ以上は、長持の中身を見ないと分からない。
もちろん、見つけたのが長持だったとは限らない。もっと小さな櫃だったかもしない。
でも、「プロ」のふたりは、長持だと確信して、その中身と由来に興味を示した。
神社か、神社の回りの旧家か。
いずれにしても神社がらみだ。
それは俺の多重記憶の、神秘めいた部分に似合っていた。
【脚注】洪水の記録について
気象庁が浸水についてきちんと統計を取るようになったのは20世紀の終盤になってから。
1970年代までは、県庁所在地ですら、地方都市の浸水は、床下浸水はおろか床上浸水まで全部無視されていた。
豪雨地帯あるあるの話だ。
記録は県や市町村単位でもほとんど残っていないし、地方気象台の降雨記録でも推測がつかない事が多い。
だから、もしも浸水の記録が欲しかったら、各家庭に残っている古い日記を探すしかないが、これは非常に希望が薄いだろう。
一方、どこで洪水が起ったかについては、ある程度推定できる。
第一に、旧河道は沿いということだ。
一番簡単なのは、昔の水路の位置を示す地図だが、それは戦争で焼けてしまったのか、この町にはない。
だが、田んぼ、畑、家の分布で分かる。公的な一番古い土地利用図でも、かなりのことがが分かる。
水路が無くとも、洪水のさいは田んぼから田んぼへと流れが出来るからだ。
最近は人工衛星を使ったの1メートル単位の標高図もあるらしいが、標高図だけ水の流れは分からない。
その点、田畑の分布は決定的だ。なんせ、1m単位の違いで畑(家も)と田んぼは棲み分けさえているのだから。
こうして、学校の前身の三日月湖に向かう流域と、その中でも洪水時に太い流れになりそうな場所が概ね分かった。
そこは確かに多くの旧家があったようだ。




