8ー1 ① (4分割します)
「なるほどなあ。また、ややこしいことに取り組んでるわけだ」
アンリエッタがここ数週間の近況を話してみせれば、向かいに座るフランツから返ってきたのは、そんな台詞だ。
事務所二階、居住フロア。レームとルウィヒが外出して不在にするリビングは、普段のけたたましさもなく静かなものだ。
「いつものおチビ達がいないのも、その流れってわけか。どうだい、一人の時間が増えて。寂しいんじゃないか」
軽々しく訊ねられたのにアンリエッタは少し笑って、言う。
「大袈裟ですよ。大体、朝も晩も顔を合わせてるんですから」
「そのうち泊まりをねだるようになる」
にやけて言ってのけるフランツは、まるでそれが自然の摂理だとでも言うように自信たっぷりだ。
「ガキってのはそんなもんさ。長い時間つるみたくなるんだ。夜も朝も一人だと気分は変わるぜ。相手が部下でもそうなるくらいなんだから……」
からかうふうに言葉を連ねていたのをはたと止めて、付け加える。
「あ、いや。別に変な意味はないぞ?」
「何も、悪いふうには取りませんよ」
少し膨らませた声で、アンリエッタは懸念を否定してやる。急に瞳を真面目なものにして心配してきたのが、少しおかしかった。
「品行方正というと違いますけど、私はフランツさんのことは、誠実な人だと思ってるんです」
「お、おう」
「フォンさんは私から見てもとても綺麗な方だと思いますけど、それであなたが立場を利用して迫るような人だとは、思えません。変な意味になんて取りませんよ」
「……ああ、まあ。まあそうだな」
歯切れ悪く呟きながら、フランツは頭を掻く。普段は余裕ある安定した姿勢で物事に接する彼が、落ち着きをなくして言葉に詰まる姿を見るのは何となく微笑ましくて、アンリエッタは子供たちといる時みたく笑ってしまう。
(それにしても)
外泊。
確かに、そのうちに言い出す予感はある。寂しくなるというのも、そうかもしれない。遊びに出ている……というと彼らは機嫌を損ねるかもしれないが、でも段々と満足ができなくなって、要求が我儘に増していくことを想像する。それくらいになった方がきっと良いはずだ、とも。
「あ」
と思い出して声を上げる。
近況の報告の他に、一つ用事があるのだった。椅子から腰を上げ、居間の隅の戸棚を開ける。そこに置いてあったはずのものを探す。
「ない」
「どうしたんだ」
挙動を不思議そうにしたフランツから声がかかったが、アンリエッタはそちらへ顔を向けないまま、棚の周囲に目を配った。
「返さないといけないものがあって」
「返す?」
「扇子を。ルウィヒがフォンさんから借りっぱなしに」
けれども、ない。
他の棚にも、抽斗にも。
アンリエッタは、かの壮麗な逸品を娘が度々眺めていたことを思い出す。
つい、前日も。何か考える様子で手に取っていたことを。
事象がかちりと、頭の中で繋がる。
「ルーウィッヒ……」
たまに同僚がするのと同じ呼び方で、呟く。普段少女には向けない低い声が出て、「おお?」と後ろから、フランツの戸惑った反応が届いた。
「ごめんなさい」
彼の方へ振り返り、頭を下げた。怒りの余波が伝わらないか心配する様子で肩をこわばらせたフランツには、努めて平静な口調を作る。
「どうも、どこかに、やってしまったみたいで。今日は母の家に相談に行くと言っていたので、持ち出したんだと思うんですけど」
「そ、そうか」
声音に緊張したものを残しつつ、フランツは言う。
「まあ……まあ、仕方ないさ。ああいうのを持つ機会もそうないだろ。フォンからは何も言われちゃいないし、そもそもアイツの私物でもない。困ってないと思うから、すぐじゃなくて大丈夫だよ。遊ばせてやったらいい」
「すみません、本当に。失礼を致します」
顔を伏せて謝罪を送る。見えない頭の上で、何とも言い難いような雰囲気で漏れる彼の息遣いを聞いた。それからあからさまに空気を変えようという調子で、フランツは一つ咳払いをしてみせる。
「あー。にしても、だ。ボン・リシェス絡みの話が続いてるな」
そう切り出し、フランツは続ける。
「そのルネって女の子の件とか、商業組合の件とか。ルイーズからの依頼だって受けてるんだろ?」
「それは……」
フランツには、ボン・リシェスからの依頼の件までは話していない。とすると既に別口で、本件の動向についてはある程度把握しているのだと思うのだが、といってなんでも口にして良いものか、悩ましかった。
言い淀んだアンリエッタのことをどう捉えたのか、フランツはこちらへ身を乗り出し、わざとらしく声を潜める。
「なあ、ここは、情報交換といかないか」
「ルイーズさんについて、お互いの知ることを話すと?」
おうとも、とフランツは肯定する。
「ルイーズ・ユエの動向は、俺の観察対象の一つなんだ。嬢ちゃんにしても仕事や交渉をする相手のことを頭に入れておきたいのは、そうだろ?」
「……」
即答しかねたアンリエッタは、一度考えを巡らせる。
フランツの言うことは、確かにそうだった。
ルイーズからの依頼に関して言えば、深く事情を把握することにそれほどの重要性はない。アンリエッタ個人に引っ掛かる所はあるにしても、ボン・イスタに提示する契約内容はルイーズ次第のものだし、ロランもそこに沿って粛々と取り組む方針でいる。
けれどもルネの件は、そうではない。ルネ、組合、百貨店の三方にとって利のある形で物事を進めるためには、やはりルイーズの嗜好や方針について少しでも知っておきたい。もちろんベルナールから教わったことも参考にできるものの、より多く情報を得て困ることはないはずだった。
と、考えている内に一つ、新たな疑問が浮かぶ。




