7ー2 ③
「会いにきたのよ! あなたに!」
レジーヌと呼ばれた女性は、ルネとアニーがそれぞれに言葉を失くしている間につかつかと近寄って、そう告げる。
「こないだ聞いたら、今は銀の風車亭には来てないって。ここが行き付けの一つらしいって。それで近くを通ったから覗いて! ね、今日はステージはやるのっ? いつ?」
歌、ステージ。それは本当に誰からも聞いたことのない組み合わせで、ルネはアニーに目を凝らしてしまう。
当のアニーはその注目も面倒そうに、頬杖を突いてそっぽを向いた。
「やんないよ、そんなの。もうやめたんだから」
つっけんどんに言われた言葉に、あからさまにたじろぐレジーヌ。
「や、やめた……? 嘘――」
「嘘じゃない」
「嘘。前に、歌ってたって聞いた」
「……一度だけ、穴埋めにね。知ってる曲を喉で鳴らしただけだ」
追求を受けるアニーの反応は、どこまでもすげない。
「見せびらかすような代物じゃない。まして、帝都の歌姫様に聞かせるなんてね」
「でも、でもアニーの歌だわ」
意固地に食い下がられて、アニーはレジーヌと目を合わせる。始末が悪そうにただ眉をひそめて、答えを返さない。
しばらくしてまた視線を逸らすと、口を開いた。
「……なんでまた、会いになんて。今まで全然そんなことなかったじゃないか」
「だって、迷惑かもって。だけど、この前の百貨店の演奏会、見に来てくれてたでしょ? 客席にあなたの姿を見つけて、それで私たまらなくなった。後のパーティで探したけどいなくて、だからもう、探して会いに行こうって。それで、それで……」
「あー、わかった。よーく、わかった」
わかりやすく浮付いたレジーヌの説明をアニーは念入りに遮って、続ける。
「だけどそもそも、あれはサプライズだったろ。あんたが出るなんて知らなかった」
「えっ!」
と、声が上がる。本当に考えになかった様子で動揺するレジーヌは、見開いた眼を不安そうに泳がせた。
「そ、じゃ、じゃあアニーは。私とまだやれない? 一緒に踊ったり……、まだ、できないの?」
「ステップくらいなら踏んでやるけど?」
「そうじゃなくって! 公演ッ! 舞台よ! 昔みたいに!」
じれったく叫んで、けれどもアニーの顔はそっけない。
「昔みたいに、って。カンカンでも演ろうっての?」
いかにも夢物語のように言う。熱も情も感じさせない声音には普段彼女から伝わる生命力が微塵もなくて、ルネは驚く。
「相応しくないよ、今のあんたにゃ。私と一緒にってのもね」
「――っ」
色気の欠片もなく言われて、レジーヌは一つも納得いかなさそうに唇を噛む。悔しがる子供みたいな剣幕で、ただただアニーを見つめる。
異様な沈黙を前にルネが身をこわばらせていると、一つ、男の声が差し挟まれた。
「レジーヌ。時間だ」
三人、一様に注目する。レジーヌの登場で気が付けなかったが、店の戸口には若い男が立っている。濡羽色のハットにベスト、ステッキといった服装の一つ一つが上等に見えて、格好の整った二人の様相は見るからに場違いだ。
「――でも、ヴィクトル」
「早くしろ。夜会に遅れる。マダム・ルイーズのサロンなんだぞ」
容赦なく促した声には、抗弁を許すような寛容さはなさそうだった。レジーヌはでもなおも名残惜しそうに、彼とアニーとをきょろきょろと見比べる。そんなふうにまごつく様子には一瞥もくれないで、アニーは手に持つグラスの中の緑色に目を落としている。
「行きなよ、早く」
さっきと同じに、突き放すように言う。無感情な物言いに、ルネは自分が言われたわけでもないのに胸に縮こまるものを感じてしまう。
縋る視線を文字通りに捨て置かれても、レジーヌはじっと、路傍の子犬のように佇んでいた。
膠着した雰囲気の中で、やがてアニーが一つ、ため息を落とす。
「レジーヌ」
と、呟くように、俯いたまま声をかけた。
「歌、良かったよ。……すごかった。あんたはやっぱりできる子だ」
「……! アニー」
「だから、行きな。彼、困らせちゃ良くないでしょ」
「うん……」
相変わらず目を合わせないアニーに、懸命に視線を注ぐレジーヌ。ふと、状況を見守るルネと目が合った。発言すべきか迷っている内に、彼女が声をかけてくる。
「あの。お食事中だったのに、ごめんなさい。それじゃアニー、またね」
呼びかけに、応答はない。けれども初めにあった光を幾らか瞳に取り戻したレジーヌは、踵を返して、とたとたと小走りに店を出ていく。
彼女が去ってもその場の居た堪れなさは消えずに残って、ルネは言うべき言葉を思い付けないまま、ただ背筋を伸ばして肩を強張らせる。
少しの時間そのままでいて、気だるそうに薬草酒に口をつけていたアニーが、ふと口を開いた。
「ルネ」
「?」
「それ、もう食っていいよ。食べたら出よう」
「あ、うん」
顎で卓上を示して言われた言葉に従って、ルネは皿の一つを自分の前に引き寄せる。フォークを持って、それからなるべく何気なく、訊ねる。
「さっきの人、って」
「友達だよ。昔の」
「昔の」
「そう」
かろうじて繰り返した言葉には、淡々とした肯定が返ってくる。今は? とルネの頭に疑問が浮かんだものの、声には出せない。皿の上へフォークをかざしつつ、ちらりと向かいへ目をやった。
椅子の背にもたれかかって、アニーは卓に置いた手の甲を見るともなく見ている。
「ただの、友達」
そう唱える。




