6ー3 ①
出入りの拍子に、弾かれたように少女が立ち上がる。
明くる日、まだ朝と言っても良い時間だった。
アンリエッタに先導されてロラン公書士事務所に訪れた祖父を前に、孫娘はじっとその場に立ち尽くした。
「……」
何も言えないまま、唇が曖昧に動く。結局、顔を背けてしまう。所在なさげに自身の二の腕を掴んで、そんな孫娘との対面に、アンドレは言葉や思いをそこに溜め込んだみたいに肩を膨らませ、けれども静かに下ろした。
「……ルネ」
引き結んでいた口を開き、呟く。名前の他に言葉は続かないで、それから気を取り直したふうに目を瞬かせた。ルネの向かいや執務椅子に着席していたアニーとロランにようやく意識がいった様子で、帽子を取り、名乗りと謝罪を寄越す。
「アンドレさん」
めいめい挨拶を交わして場が静まったところで、アンリエッタが声を掛けた。
「道すがらでもお伝えしましたが、今日は、今後のことについてお話ししたいと思ってお呼びしました。ルネさんは、こちらでの生活を希望されています。そのために我々ができることについて、これからご説明致します」
――家業を存続させること。
それがまずもってルネの第一目標であるわけだが、このまま生家で過ごすだけではその達成が困難なことは、今までのデュボワ家の状況を顧みれば明らかなことだろう。だから都会へ出て来て、どうにか再起のチャンスを掴みたいというのがルネの希望になるが、それには当面の活動を支える、生活基盤を用意する必要がある。
「そこで一つ、ルネさんには仕事を受諾して頂きます」
即ち、ルネとアニーで契約を結ぶ。
それは端的に言えば、請負と報酬に特定の条件を備えた業務委託だ。アニーは現在、ロランの所有する不動産物件の管理業務を請け負っているが、その内、建物の劣化・損傷に対する管理及び修繕を、今後はルネが物件に常駐して代行する。駐在先はアニーの部屋とし、アニーはルネの滞在中、業務及び生活の指示・監督を実施する。ルネへの報酬は、月々の管理手数料と業務の都度の工賃により支払われるが、前者については居住に関わる費用と相殺することとする。
そして無論のことだが、管理業務と適切に兼ね合える限りにおいて、副業の制限はない。ルネは何か別の副収入の宛てを探してもいいし、家業の存続のためにできることを試してみても良い。
「……いかがでしょうか」
一通りの説明を終えて、問いかける。
応接机に広げた書類にじっと目を落としているアンドレが、口を開く。
「正直言って願ってもない話だ。が」
膝に腕を置いて手を組み、覗き込むようにこちらを見た。
「しかしこれは、我々が頂き過ぎてやしないかね。都合が良すぎるというか」
言われて、少し考える。確かにアンドレにしてみれば、降って湧いた話を疑わしく思うことは自然だ。組んだ自身の手の甲を撫でて、アンリエッタは言葉を探す。
「そう、ですね。信用における話かどうか迷われるのも無理のないことかと思います。ですが」
「いや――アンちゃんアンちゃん」
小さく手を振り、返答にアニーが口を挟んだ。
「それ、たぶん違う」
「違う?」
「立場ひっくり返して考えてみなよ。おじいちゃんは単にこれ、遠慮してんの」
「遠慮?」
ぱちくりと繰り返し、解説を求める心地で周囲を見やる。いかにも不調法さを非難するような仕草で、ロランが息をつく。
「君の方がわかりそうなものだがね。仮に恩恵を受けるとしても、不公平と思う取引に尻込みをしないとは限らん」
「そーそー。ま、そう仰るなら家賃は三割増に」
「アニー」
「別に、払えない時はちゃんと相談乗るって。なんかタダで作ってもらったり、ね」
片目をつぶって隣へ合図を送れば、一歩遅れて、ぶんぶんと首を縦に振るルネがいる。反応に、アニーはにやりと唇に笑みを作って、それからアンドレの方を見た。
「ね、アンドレさん。間借りさせるのは私だし言わせてもらうけどさ。別に、ホントに気にしてないよ」
多少打ち解けたルネの親族に対してだからか、アニーは普段の来客の時には繕っている口調を早々に崩したものにしている。
「誰かと共同生活ってのも悪くないかもって、アンちゃんのこと見てて思ってたトコだから。ルネは素直で可愛い妹分になりそうだし、それで恩を売ったような気持ちになれるのならむしろ万々歳。夢を応援してやってるなんてもう、気分アガっちゃうね」
軽く踊るみたいに左右の肩を揺らしてそう語ると、打って変わって真面目な顔を作った。
「それともお祖父ちゃんとしてはまだこれが、ただの孫のワガママだって思う? 気まぐれみたいに言い出したことだって。やったことは考えなしだったかもしれないけど、ルネの気持ち、私はそんな軽いものでもないと思うんだけど」
アンドレが、確かめるようにルネに目を向ける。目を丸くして隣のアニーを見ていた少女の視線が祖父のものと交わって、おずおずと逸らされる。
下を向いた口の先が、それでも声を出した。
「わたし、ね、工房を閉めるって聞いた時は、全部なくなっちゃうんだどうしようって、……嫌で、怖くて泣いちゃったんだけど……」
まるで結び目の中に答えでもあるみたいに、指先を組んでは解いて言葉を辿る。
「でも、でもね。それ以上に、悔しかったの。お爺ちゃんが作るものの何から何まで、私の憧れだったのに。世の中に通じないんだ残せないんだって思ったら、悔しくて悔しくてしょうがなかった」
顔を上げる。
憧れを宿した少女の瞳が、祖父に向けられる。
「だから私が、道を探したい」
片時も逸らさないで、アンドレがルネを見つめている。
「これまでお爺ちゃんが繋いできた技術の先を、私が見つけたいの。だから……お願い。そのための時間を私に下さい」
頭を下げる。
ただ曖昧に俯くのでなく確かな決心を備えて、懇願する。
誰も何も言わないで、時間が流れる。
祈るように顔を伏した孫の姿に、アンドレがじっと目を落としている。




