6ー3 ②
「……十年、か」
ようやく絞り出したといった具合の声が、ふと、静けさを破ってそこに響いた。口にした老夫は、どこか遠くの景色でも眺めるみたいに、曖昧に目を細める。
「あの時――今でも、よく憶えている。まだ小さいのに親を亡くしたお前とどう接したらいいものかわからなくて、それで出入りを禁じていた工房に連れて入って、仕事をする横に置いた。溶けたガラスと同じに赤くしたほっぺで、ボーッと、食べる前のご馳走でも眺めるみたいに私の仕事を見ていた――なんでだかね。こんなに忘れっぽくなっちまってるのに、忘れないんだ」
不可思議そうに……でも同時にそれが当然でもあるみたいに実感の込められた声音で、アンドレは述べる。微笑むように、それでいて何か思い耽るように頬の輪郭を柔らかく崩して、ルネのことを見つめた。
「ひょっとすると私は、あの時からずうっと、お前にそんなふうに言って欲しいと思っていたのかもしれないね」
語りかけて、途端、真剣な顔つきを孫娘へと向けた。
「ルネ」
「っ、はい」
姿勢を正して応答した少女の声は滴りくぐもったが、けれども、まっすぐに通る。
「お前はなんでも、やり通せる子だと思っている。だから仕事ぶりの心配はしていないけれど、そのぶん根を詰めすぎることがあって、心配だ。ちゃんと周りに相談して、よくよく言うことを聞くようにしなさい」
「はい……、親方」
眉根を強張らせてルネがそう返したのを聞き届けると、「みなさん」と、アンドレは周囲を見渡した。
「孫は、生活のことはともかく、世間のことをよく知らない娘です。何かとご面倒をお掛けするかと思いますが、危険な目に遭わぬよう取り計らって頂ければと思います。ご厚意にひたすらに甘える形となるのは忍びないが、どうか、よろしくお願い致します」
頭を下げてそう言って、アンドレは念を押すようにまた各々を見つめた。アンリエッタは努めて背筋を伸ばして視線を返すと、はっきりと深く頷く。
「はい。精一杯、務めさせて頂きます」
そう告げる。
アンドレもまた意志を確かめるように眼差しを返していて、それがふいに、崩される。傍らのルネが椅子から飛び出し、アンドレに抱きついている。
「おい、しっかりしなさい。まだ話の途中だ」
唐突にしがみついたルネの肩を掴んで剥がそうとするが、いやいやと拒否される。その内に諦めて、老人は仕方なさそうに息をついた。
「全く……」
少し引っかかった声でそれだけ呟いて、孫の後ろ肩を繰り返し撫でた。
淡くなりゆく秋の陽射しが、それでも昼に近付き熱を増し、板張りの床を跳ね返って光っている。
西向きの窓の外の影に、アンリエッタはふと気が付いた。子供たちの頭が同じ高さに並んで、こちらを覗いているのを目にする。たぶん、古い木箱を踏み台にして覗き込むだけの高さを得ているルウィヒが、こちらに向けて手を振った。以前危ないからと禁じたはずなのになと小さく思いつつも、アンリエッタは改めて作った微笑みを二人へ向ける。
それから何かを察知した様子で、レームが通りへ目を向けた。窓から消えて、壁の向こうで何事か話し声が聞こえたかと思うと、玄関の扉が開く。
「お昼が来たよ! さ、入って!」
「くちぶえ!」
逆光の中現れたレームとルウィヒが軽快に声を上げて、いっぱいに開いた戸口の外に立つ配達人を案内する。スパイスと脂とソースの匂いが、瞬く間に中まで漂った。事前に注文しておいた昼食の出前が、ちょうど届いたらしかった。
アンドレにも是非にと会食を呼び掛けて、各々手分けし昼食の準備を始める。
「――やるよ、おじいちゃん、私は」
ルネが瞳を沸々と滾らせながらそんなことを言ったのが、七人賑やかに食事を囲む最中のことである。まさに獲物を仕留めるがごとく、切り分けた丸鶏のローストにフォークを突き刺す。
「仕事の話かね?」
温め直したバゲットにマリネを乗せてオープンサンドに仕立てていたアンドレが訊ねると、「そう!」とルネは、力に満ちた声音で肯定する。
「名工デュボワここにあり、ってさ。街中に名声を轟かせてやるの。ウチのを持ってない方が恥ずかしい! って、それくらいにね」
「そりゃあすごい夢だ」
アンドレはルネの言葉の一つ一つにうんうんと頷きそう述べるのだが、当のルネは、不満げに唇を尖らせた。
「もうっ。参るよね、当事者意識が欠けちゃってんだから」
呆れた調子で言い放って、「あのねえ」と、フォークを振り振り語り始める。
「おじいちゃんだって他人事じゃないの。いっぱい仕事が来たら製作のメインはどうしたってウチの工房になるんだし、ホント、まだまだ頑張ってもらわないと。今からやり切った気持ちになられちゃ困るんですよ! 親方!」
そんなふうに次々と、生意気に文句を垂れる。
アンドレは、一口齧っただけのバゲットを口に運ばないまま、俯き加減にした眦を眩そうに細めた。
「そう、だな。そりゃあ、……そりゃあ大変だ」
しんみりと口にする。しわがれた祖父の声の湿り気に気づかないでいるらしいルネは、「うー」といっそう興奮して唸ってみせた。
「なんだか、ホントに燃えてきた! まずはこっちでの他の仕事と、製作環境の整備ね! 持ってきたものじゃできることは限られてるから……せめて、一から試作できるくらいにはしたいとこ!」
思い付いたそばからといったふうに考えを繰り出す。言ったように火が付いたみたいに……さる日の様相を取り戻したルネの勢いを目にして、アンリエッタはちらりと隣を盗み見た。「また始まった」とでも言いたげなレームとルウィヒは趣味悪くにやにやと唇を歪めて、呆れた表情はでも、晴々と明るい。
「デザインも! 今の内にたっくさん考えとかなきゃ! デパートに来る御婦人たちがこぞって欲しがるやつ、作んないとね!」
言って、ルネは、さらに一つ野望を口にする。
「そんで、後は、中央市場!」
「ん? あ、ああ……」
祖父の応答の歯切れが悪くなったのに気付かずに、ルネは瞬く間に言葉を繋いでいく。
「おじいちゃんから聞いてはいたけど、こんなに盛況なんて! ウチもあそこに乗り出して、どんどん、どんどん売って……! 作品、街のみんなに知ってもらって! ね!」
「ああ――いや、ルネ」
一斉に花を咲かせるみたいに希望を口にしたのに、アンドレは遠慮がちに待ったをかけた。
輝かしい展望へ差し挟まれた声に、ルネは首を傾げる。
「ん?」
「……できんぞ、それは。なあ?」
「んん?」
答えに、ルネは首をいっそう深く傾げる。アンドレが同意を呼びかけたのに従って、笑みを作ったまま固まった顔をアンリエッタへと向けた。同様に、ロランを除いた他の面々も不可思議そうにこちらへ目を向ける。
一同の注目を集めたアンリエッタは一抹の気まずさを抱えながら、しかしはっきりと頷いてみせた。
「はい。……できません」
驚愕して叫びかけるルネが目と口をまん丸に開くのを、見る。
そう――そうなのである。
お知らせ
毎度お読み頂きありがとうございます。作者です。
信じがたいことかもしれませんが書き溜めが追いついてきております。あと2話分しか余裕がない。
ので、割とキリも良いタイミングだし、ひと月ほど更新をお休みします。
じゃあその二話を今出せって? →うるせえ!
もっと早く書けって? →うるせえ!
すまないですが、来月、よろしく頼むぜ。




