3ー22 〈白氷〉Ⅰ
大聖堂は、日常の顔をしていた。
奇跡を授かるために集まった人々が、静かな熱を帯びて行き交う。
祈りの列の合間を聖堂騎士が抜け、香の匂いが衣の端にまとわりつく。
メルヴィナは呼吸を整え、群衆の背に紛れたまま奥を探った。
本来、『風』の魔術を完全に防ぐことはとても難しい。
どんなに壁を作ったところで、風はわずかな綻びを拾って奥へ入り、声や匂い、熱の名残を連れ帰る。
こと偵察においては、その特性を存分に発揮できるはずだった。
風が奥へ入った途端、束ねた風がほどけてしまう。
何度試しても同じだった。
奥へ届かない。
大聖堂の奥に、シノがいる確信はある。
けれど、その先が見えない。
焦りが喉の奥に残り、硬い塊みたいに引っかかる。
メルヴィナはさらに魔力を込め、『風』を練り上げた。
より強く押し込んだ風が、何か膜のようなものに触れた途端、魔術を操る身体に耐え難い苦痛が走った。
── 聖域。
痛みに歯を食いしばりながら、メルヴィナはここに確かに“守り”があると確信する。
遠くで、靴音が揃う。
甲冑が擦れる金属音が近づいてくる。
「さすがに気づかれましたか……」
ほどなく、大聖堂の“日常”が剥がれた。
祈りの場に、銀色の甲冑を着込んだ聖堂騎士達が流れ込んできた。
「下がれ!」
「通路を空けろ!」
「出口へ誘導しろ!」
人波が割られ、教国民が外へ押し出されていくが、メルヴィナの周囲だけ、壁があるかのように、それ以上前に進むことができなかった。
「これは……」
既に周囲を〈詠隊〉に取り囲まれていた。
「祈りを持たない者は、この〈聖域〉からは出られませんよ」
声を発したのは、一際輝く白銀の甲冑に身を包んだ聖堂騎士。
「レティシア・グレスロード……」
「……あぁ、なんということでしょう」
レティシアの声が、喜びに上ずった。
この場の緊張感には似つかわしくない。
「一体何をしに来られたのですか?」
「忘れ物を取りに来ました」
「……忘れ物?」
「人の気持ちなんて少しも考えない、仕方のない人です」
「その意見には少なからず同意します。が、あなたが忘れているのは身の程、というものだと思いますよ」
レティシアの戦意とともに甲冑の白銀が淡く冴え、その手にも銀色の長槍が握られる。
メルヴィナは大きく息を吸った。
── 特別なことは、必要ないはずです。
目を閉じ、自分の意志を『風』に乗せる。
魔術の初歩とも呼べないような、簡単なこと。
「グウェンさん……」
普段なら無意識にやっているそれを、今は全身全霊で。
「私は、助けを必要としています」
「無駄なことを。ここで魔術など許すはずもないでしょう。それに、シノも今は〈聖域〉で眠らせています。邪魔者を殺すまで、目を覚ますことはありません」
メルヴィナは答えず、ただ祈るように目を閉じていた。
その姿を見ていると、レティシアの中に苛立ちが募ってくる。
「……まだ、戦わせるつもりですかッ!?」
レティシアの殺意が濃くなる。
槍先が、メルヴィナの喉元へと向けられた。
「ダメだよ。殺すのは今じゃないでしょ」
スサナが後ろから制するが、槍先はメルヴィナを捉えたままだった。
メルヴィナが目を開ける。
その目は挑発的な光を湛えていた。
「えぇ、もちろん。グウェンさんには私たちの、いえ、私のために戦っていただきます」
アイン・スソーラの魔術師である以上、その言葉に偽りはないのだろう。
「……虫けらが。今ここで殺せば、その必要はなくなるはずですね?」
冷えきった蔑みとともに、レティシアは構えた銀槍を突きこんだ。
しかし── 。
「……〈聖域〉では押しとどめられませんか。次に、その女を目にしたら殺すと言いました。貴方も聞いていたはずですよ」
メルヴィナを貫くはずだった銀槍の一刺しは、シノの手に掴み取られていた。
「好きにしろ。でも、俺の目的は変わらねぇ」
「〈聖域〉での存在の上書き、自己の再定義といったところかな。そんなこともできたんだねぇ」
目を輝かせるスサナとは対照的に、レティシアは苦い表情で掴まれた槍を引いた。
「私が、グウェンさんの介入がなければ命を落とす状況になれば、必ず来ると思いました。だって、私が死んだら役目を果たせませんから」
「金髪、お前何で戻ってきた」
「怒っているんですか? それは私もです。自分の約束だけ果たそうとして、私との約束はどうなるんですッ」
「お前はちゃんと帰れたからよかっただろ」
メルヴィナが大きくため息をついた。
「な、何だよ」
「グウェンさんは私をどう思っていますか?」
「何を言って── 」
「いいから答えてください」
「急にそんなこと言われても── 」
「もう結構!! これ以上は聞くに堪えません。シノ、貴方は利用されているのです。今すぐその女を排除して── 」
「ちょっと待ってレティ。何か来るよ」
スサナが大聖堂の一角に目をやる。
するとそこにあった空間が捻じれ、縫い目がほどけるように漆黒が口を開けた。
焦げ跡のような円が広がり、内側から白光が溢れかえった。
レティシアの瞳が見開かれた。
「まさか……」
「リアン様ッ」
メルヴィナが歓喜の声を上げた。
白光は一度脈打つように膨らみ、その奥から人影が雪崩れ出た。
着地と同時に、現れた魔術師たちは散開する。
詠唱が重なり、魔術の杖先がこちらへ定まった。
転移してきたばかりとは思えない早さで、すでに臨戦態勢は整っている。
その中心には御空色の髪の魔術師。
「一体、どうやって……」
レティシアが呆然と呟いた。
メルヴィナ・ウォールズからスクロールは取り上げたはず。
「まぁ、来るとは思ってたけど、まさか直接〈聖域〉の中に転移してくるなんて。君も大概に無茶をするね」
スサナの問いに、ユリアーネは微笑みを向けた。
「そうでもない。わざわざ道しるべを置いてくれていたからな」
「道しるべ……。じゃあ、レティが焼き捨てたあのスクロールは空間制御術式ではなかったのかな」
「あれは転移先を固定するためのものだ。まさか焼き捨てているとは思わなかったが、〈聖域〉を越えた時点で役割は果たしている」
「でも分からないなぁ。レティは『空間制御術式の』スクロールを全て差し出せと言い、ウォールズはそれに従ったんだ。君たちは嘘をつけないはずだろ?」
「メルヴィはそう思っていただけだ」
「そうか……だからボクの目の前でウォールズに渡してみせたのか。コソコソしてみたりして、大した役者じゃないか」
「いかがしましょう? 私ならば、まとめて蹴散らすことができますが」
黙って聞いているだけだったレティシアが問う。
スサナは首を横に振った。
「いいや、キミは彼の相手を。どうやら今の〈聖域〉じゃ、押し止められないみたいだ。〈聖域〉を絞り、出力を上げれば拘束くらいはできるかもしれないけど、その場合──」
〈聖域〉の守りがなくなれば、目の前の魔術師達は、すぐにでも魔術を放つに違いない。
「言わなくても分かるよね」
スサナは楽しげに笑った。
── お見事。
心中からメルヴィナへ賛辞を送る。
シノ・グウェンが敵意でないとはいえ、戦意を得た時点で一方的な勝利は望めなくなった。
有利な盤面だったはずだが、〈聖域〉に綻びをもたらしたメルヴィナ・ウォールズこそが、この〈聖域〉の征者だ。
「ちょっと見ない間に、随分と彼の扱い方が上達したね……。誰かに教わったのかな」
シノ・グウェンと敵対している現状は、レティシアが望んでいたものではない。
しかし、レティシアの心中に広がっているものは落胆ではなく、歓喜だ。
〈聖域〉の中で相対してなお、勝利を確信できない。
そんな相手は、シノ・グウェンをおいて他にいなかった。
「やっぱり私の『特別』……!」
「レティ、どうする?」
「力を受け取った時から、答えは変わっていません」
「そう。なら、しっかり喧嘩しておいで。大丈夫、誰にも邪魔はさせないから」
「あれだけの数を相手にできるのですか?」
「別に勝つ必要はないさ。弱まっているとはいえ、〈聖域〉内での転移は一時的なものだろうからね。伊達に大英雄なんて持て囃されていたわけじゃないよ。キミに押しつけた力なんて後付けのものだ」
「それでは……?」
「あぁ、ボクは約束を果たすよ。行っておいで」
「はいっ」
「これは贖罪のつもりなの? 本当にこれが望みだったのかい? ……いや、過去に囚われてるのはボクもおんなじか」
スサナが思考を振り払う。
そして、対峙している魔術師達を見回した。
その中心に立つ、御空色の髪の魔術師を正面に見据える。




