3−23〈白氷〉Ⅱ
「それにしても、殿下自らお越しになられるとはね」
「大事なモノを奪われれば、持ち主が取り返しに来る。当然のことだ」
「そうか、君は取り戻しに来たんだね。それにしても、この転移を実現するために一体どれほどのスクロールを使い込んでいるのか、他人事ながら想像もしたくないよ。たかだか喪失者ひとり、マリアンネ王妃も剛毅なことだね」
「母が知っているわけないだろう。もっとも、もう気づかれているだろうがな」
悪びれる様子もなく、ユリアーネは即答した。
「それに、〈聖域〉のなかで転移を維持するための莫大な魔力も── 」
スサナはユリアーネの後方に控えている黒いローブで全身を覆った魔術師に目を留めた。
〈聖域〉にあっても、濃密な力がはっきりと感じ取れる。
「マリアンネ王妃が、やけにあっさりとシノ・グウェンを引き渡した理由が分かったよ……。なるほど、恐ろしく力の強い魔術師だ。君のせいで〈聖域〉が完全に開かない。もしかして、カーラ・ライヘンバッハ、なんて名乗ってたりしない? まぁ、助けにやってきたところを見ると、違うみたいだけど」
「……どういう意味だ」
返ってきた声からは、なんの感情も見いだせない。
「おや、分からないのかい? それとも知らないふりをしているのかな。だって彼女にとってシノ・グウェンは自分の過ち、恥部そのものだもの。消したいと思いこそすれ、助けたいなんて思うはずがないだろうから」
「黙っていたほうがいい、と思う。よく回る舌ごと、頭を吹き飛ばされたくなければ」
物騒な言葉に反して、相変わらず声には抑揚がない。
「カーラ・ライヘンバッハは私の師だ。そこの魔術師がそうなら、私はすぐに気付く」
ユリアーネの言葉にスサナが目を丸くした。
「へぇ、カーラの弟子なんだ。びっくりだね。じゃあ、やっぱり生きてたんだ。なら知ってると思うけど、彼女は人を謀るのを生き甲斐にしてるような人格破綻者だった。弟子の目を欺くなんてこと、嬉々としてすると思うけどね」
「今はどうでもいいことだ。こちらもあまり時間がない。今すぐに返すモノを返してくれたらこのままおとなしく帰ると、我が魔力にかけて誓う」
「すぐにはできないよ。あの子との約束なんだ」
「ならば私は、シノとメルヴィを取り戻すために、すべきことをする」
既にユリアーネの中で渦を巻いていた力が励起する。
「いいよ。対魔即応特殊機動群第十六号召喚体、スサナ・レイモンドがその意義を証すことにしよう」
ユリアーネが目を見開いた。
「やはり……大英雄レイモンドは貴女でしたか」
「なんだ、知ってたの? もっと驚く顔が見たかったのに」
「母が頭を下げる人間は、そう多くはありません。かつて、『大災厄』に巻き込まれた民を救うために、オイケインの戦場を放棄した裏切りの大英雄……。一度お目にかかってみたかった」
「名乗るのは本当に久しぶりだ。どう? 恐れをなして逃げ出したくなってくれてるといいんだけど」
「私はアイン・スソーラ王国第一王女、ユリアーネ・ローゼンベルク」
ユリアーネが高々と右手を突き上げる。
相手は『大災厄』を戦った大英雄。
魔術の精度、出力は及ぶべくもない。
長く戦いが続けば、倒れるのはこちらだ。
ナツィオの魔術師たちが素早く詠唱を開始した。
「無駄だよ。〈聖域〉の中では、君たちの魔術は届かない」
ほどなくして、彼らの詠唱は完了した。
ごく短い期間とはいえ、アイン・スソーラで魔術を学んだスサナには、それが魔力による障壁だとすぐに分かった。
障壁とは、外部からの直接的な干渉を阻害するものだ。
〈聖域〉は既に開いている。
攻めようしている側が守りを固める意味は薄い。
「まさか、ね」
理由はすぐに理解した。
周囲の温度が急激に下がったからだ。
すぐに息苦しさが後から追ってくる。
魔力を練り上げただけの状態で、これほどの環境変化をもたらす。
魔術の前触れは、そのまま魔術師としての技量を示している。
ナツィオたちの行動は、切実な自衛行動だった。
そして、スサナにとっては戦場での勝利とともに幾度となく目にしてきた懐かしい光景だった。
「……〈白氷〉、か。そりゃあ、防御が必要なはずだ」
「〈マイム・シフト・レド・ブライニクル〉」
天から引きずり降ろされるようにして顕れた、極低温の真っ白な魔力の柱は地表に触れた瞬間、全てを停止させた。
時間さえも止まったような一瞬の静寂の後、戦場は聖騎士たちの動揺であふれかえった。
ある者は地に凍り付いた脚を引きはがそうと無駄な努力に腐心し、ある者は発動しない奇跡に絶望の声をあげた。
人的被害など副次的なものだ。
この魔術の真価は、〈聖域〉すらも一時的に塗りつぶす迅速な局地制圧力にこそある。
スサナが防御策を構じる暇もない。
〈聖域〉の強度を高め、自身の周囲への影響を抑えることで精一杯だった。
文字通りの一瞬で、〈詠隊〉の聖堂騎士達が無力化されてしまった。
そしてもう一つ、障壁の意味を思い出す。
苛烈に過ぎる〈白氷〉の魔術の影響を、標的以外には及ぼさせないために、だ。
「確かに、君は師の魔術を受け継いでいるようだね。こんなの、ほとんど再現じゃないか」
「私の目的はあくまで、あの二人だけだ。戦いは望まない。どうか理解してほしい」
「ここまで乗り込んできておいて、そうはいかないよ。それに、ボクは別にどっちでもいいんだ。ただ、あの子が満足するまで付き合ってくれればね」
「もう十分に待った。これ以上、ふたりが私の手を離れるのは耐えられない」
「気が短いんだ」
「人生は短い。永く生きる大英雄と一緒にしないでもらいたい」
「キミももうすぐ分かるだろうけどさ、あまり女性に歳のことを言うものではないよ。ま、いやだと言われても相手をしてもらうんだけどね」
スサナの力が増大し、氷結した魔力を力任せに削り取っていく。
「……!」
「〈白氷〉の魔術は〈聖域〉とよく似てる。けど、君に勝ち目なんかない。時間がないのはそっちなんだから、ボクはただ守ってさえいればいい」
「私はあなたの敵になりましたか?」
「そうだな」
「あの女を、殺そうとしているからですか?」
「あぁ」
「次にメルヴィナ・ウォールズを目にすれば殺す、と警告をしました。貴方もそれを了承したはずですよ」
「殺すのはお前の勝手だ。好きにすればいい。ただ、俺のやることは変わらねぇ」
「あの女がいなくなれば、貴方を解放してあげられる。なのにどうして、私の前に立つのです」
「……お前も理由を訊くのかよ」
「答えてください」
「俺はその質問が嫌いだ。何のためだとか、誰のためだとか、そんなに大事なことか? 正直に言って、特に理由なんかねぇよ。金髪を帰すことが、今の目的だからな」
「目的のための目的……。戦っている者は皆、何かのために戦っているのです。あなたのように、ただ戦っている者などいません」
「らしいな」
それが当然であり、自然であり、必然。
そうだろうとも。
だからこそ、その問いに対して明確な答えを持たない自分が、ひどく歪なモノだと思い知らされるのだ。
「そんなことを言ってるとッ! 貴方はまた泣くことになるんですよ……」
だが、答えがないこともない。
メルヴィナに助力を求められ、応えた。
シェイラ・オドリオソラを捜さなければならないし、何よりも。
「約束したからな。だから、俺はお前と戦わないといけない」
「……戦わないといけない」
レティシアは噛み締めるように言葉を繰り返す。
よかった。
戦いたいのではなく、戦わないといけない。
だったら、戦う理由をなくしてやればいい。
とっても簡単なこと。
「安心しました」
「あ?」
「なら私は、あなたに勝ってみせます。メルヴィナ・ウォールズも、あの王女も、私にとっては邪魔でしかない存在です。消えてしまえば、あなたが約束を果たす必要もなくなるでしょう?」
レティシアが虚空を掴むと、手には銀色の槍が握られていた。
(あっきれた女ね)
「おお、生きてたのか? ずっと黙ってるから死んだのかと思ったぞ」
(私なりに配慮していたの。それに、死にそうなのは貴方に見えるけど?)
「目なんかついてねぇだろ」
「何を独り言を言っているのですッ」
「そういや、ここに来る前にあいつにも
訊かれた。なんのために戦うのか、ってな」
「何と答えたのですか?」
「自分のためだって言った」
「嘘ですね。今だって、あなたはあの女に求められたから戦っているだけです。そんなことで、これからどうやって生きていくのですかッ」
「俺を殺そうとしているお前には関係ねぇ。俺は目的を果たすために全力を尽くす。それだけだ」
鞘に納まったままの剣をレティシアへ突きつける。
「本当に、仕方のない人……」
「分かってくれるか」
「はい。あなたをねじ伏せて、欲しいモノを手に入れるしかないということが、よく分かりました。……これはあなたに勝つためだけの、そのためだけの私の聖域」
レティシアも手にした銀槍で、大地を小突く。
顔に浮かんだ微かな笑みは、高揚によるものか。
「〈沈黙の内に、願いを刻む── 」
白銀色の光がレティシアの足元から走り、石畳に細密な聖紋を刻んだ。
それは祈りを受け入れるための光ではない。
ただ一人の人間を奪い取るためだけに編まれた、歪で聖浄な輪郭だった。
壁も、床も、空気までもが白く縁取られ、その場の法則が静かに書き換えられていく。
シノの傍へと銀色の直線が描かれ、その先にレティシアの姿が現れた。
「── そして括る、私が勝利を得るために〉」
そのまま、槍を振りかぶる。
シノがレティシアを視界に収めた時には、既に初撃は始動している。
棒を振るうように横薙ぎに叩きつけられた銀槍は、無造作に突き出された鞘に納まったままの剣に防がれた。
「……っ」
衝撃か、槍を受け止めたシノの顔が苦悶に歪んだ。
漏れ出た動揺と苦悶の表情を目にして、レティシアの笑みがより深くなる。
機先を制したはずの一撃を防がれたことに対する狼狽など、微塵も見られない。
すぐさま槍先を返し、第二撃を横腹へ。
今度は防ぐ暇もなく、強かに打ち据えられたシノは体内の空気を絞り出されたような、声にもならない声を残して叩き飛ばされた。
「いってぇな、クソッ」
起き上がり、呼吸を整えようとすると、口の中で鉄臭い血の味が広がった。
「力が抜ける……これも〈聖域〉とかいうやつのせいか」
(精気の巡りを阻害する効果でもあるのかしら……。あなたとの戦い方も、しっかりとお勉強したみたいね。身体を少し強化しただけじゃ、勝負にならないわ。力比べをしたいのなら、やめておきなさい。あの下品な蜥蜴もどきが使っていたような魔術ではないわ)
「冷静な分析どうも。ついでにどうすれば勝てるのかを教えて欲しいところだな。そうすりゃ痛い思いをしなくてすむからさ」
(ここでは不可能ね。諦めなさい)
「お前がいてくれて心強いよ」
(それで、本当にどうするつもりなの? 何か勝算があるから、戦っているのでしょう?)
答えず、シノは身の内に流れる精気を外側へと反転させる。
「貴方が私に勝つ可能性なんて、そもそもありません。今、この〈聖域〉は私が貴方に勝つためだけに開いているのですから」
レティシアの握る銀の槍は飴細工のように自在に形を変える。
槍先が鏃のような形をとった。
「そうか。でもな、俺とお前とじゃ、勝つことの意味が違うんだよ」
レティシアは内心、首をひねった。
虚勢ではない。
だが、〈聖域〉において、彼我の戦力差は歴然だ。
「どうして……」
── いや、勝ち目のない戦いに臨んでいる理由があるのだ。
離れたところからこちらを見つめているメルヴィナが、レティシアの目に入った。
手助けをしようとするでもなく、ただ立ち尽くしている。
ただ一心に、戦いを見つめていた。
── 傲慢な女。
自分は安全な場所にいて、また彼だけを戦わせている。
「あんな女の……ため」
メルヴィナから視線を外し、レティシアが手にした銀槍を宙に放った。
放り出された槍は初速を遥かに上回る速度での加速を開始する。
高速であろうとも、周囲に展開させた精気による知覚範囲において把握できないものはない。
銀槍の狙いの先を、シノは正確無比に把捉する。
── やはり、お前は俺を殺してはくれない。
右脚を狙って飛来した槍を踏み落とし、同時に地を蹴った。
ほぼ一挙動にて獲得した強烈な推進力は、一瞬のうちにシノをレティシアの背後へと移動させた。
身体に触れ、精気を乱し、意識を奪う。
〈聖域〉が絶対的な局地制圧術だといっても、発動者の意識がなければ瓦解は必定。
伸ばした手はしかし、レティシアに届く前に地中から突き出した銀槍によって空中に浅く縫い止められていた。
「……本当に速い。目で追うこともできない。ここは〈聖域〉で、貴方は力を十全に発揮できないはずなのに。剣を抜かせず、意義も証させず、ここまで場を整えても詰めきれない」
レティシアは振り向きもせず、落ち着き払っている。
それは、人間離れした速さで背後を取られたことが、予測の域を出ていないことを意味していた。
「お前だって似たようなもんだろが」
「違います。単に貴方の戦い方をよく見知っていただけのこと……。しかし、私は強くなりました。片腕を失っているとはいえ、貴方に手心を加えることができるほどに」
レティシアが持つ銀槍の先が、シノの胸へと狙いを定めた。
「下らねぇ言葉を並べ立ててる暇があるのか。俺がもう少し手を伸ばせば、お前に届くぞ」
「それ以上進むと、残った腕と命を失うことになりますよ。さぁ、あの女は諦めて、私の手を取りなさい」
「断る」
構わず、シノは大きく足を踏み出した。
突きつけられたままの槍先が、ズブズブと皮膚の奥深くへ潜り込み、シノの胸を貫く感触がレティシアを襲った。
身体は痛みという形で退避を求めてくるが、黙殺し、さらに前へ。
“お前が与えてきた痛みに比べれば、こんなモノは痛みとも呼べない”。
そんな声が背中を押してくる。
流れた血が槍を伝い、レティシアの輝く白銀の甲冑を赤黒く汚した。
「なッ……! 死ぬ気ですかッ」
慌てふためき、槍を引いたのはレティシアの方だった。
「お前を無力化できれば、目的を果たせそうだからな。あとは王女さんがうまくやるだろ」
シノは左胸から血をこぼしながら、スサナと対峙しているユリアーネを見やった。
その目に迷いはなかった。
行動の前提には、ユリアーネが大英雄を退ける、という確信が透けて見える。
高くない可能性だが、それに賭けているということだろうか。
── いいえ。
物事の利を問わず、善悪を問わず、彼は『求められた』目的を必ず達成しようとする。
してしまう。
手段は関係ない。
保身はあり得ない。
哀れな利他の怪物、その成れの果て。
シノ・グウェンからすれば、ユリアーネ・ローゼンヴェルクがスサナ・レイモンドを退けることを確信しているのだ。
それは信頼、とでも呼ぶべきものなのか。
そこまで思い至った時、怒りとも、悲しみとも、憤りとも違う何かが、レティシアの感情を揺さぶった。
「貴方がそこまでする必要がありますか!? 考えてもみてください。貴方の望みを叶えるくらい、今の私ならできるはずですッ! もう一度言います。シノ・グウェン、私の手を取りなさい!」
差し出された手をよそに、シノの手は腰に佩いた剣の柄を握った。
期待した拍動は返ってこない。
「……ダメなのか。あいつは火種にならないか?」
(貴方が一番分かっているでしょう? あれは人だわ)
「そりゃ、人は人だろうけどな」
(好きにしなさい。私は貴方の剣。たとえその手に握られなくとも、それは変わらない)
伸ばした手に何も掴めなかったレティシアの掌が、力一杯握り込まれた。
「俺は、前にここで何かを諦めてしまった気がする。何かは思い出せないけど、きっと後悔したんだろう。それだけは解る。だから、もう諦めない。金髪は絶対に帰す」
レティシアは俯き、肩を震わせた。
「諦めない……。よりにもよってそれを私に言うのかッ! お前が諦めたせいで、おとーさんはいなくなったッ。それだけじゃない、たくさんの人を、お前はッ」
声を濡らしながら、レティシアが槍先をシノへと向ける。
激情のままに歪んだ顔を見た瞬間、
── ああ、そうか。
今までも、ここに来てからもずっと感じていた心の収まりの悪さは、罪悪感だ。
一体何をしたのか、してしまったのか、まったく思い出せないけど、淀んだとてつもなく重たい感情だけが心の底に居座っている。
── でも。
今じゃない。
罪悪感にとらわれるのも、贖罪をするのも、今じゃない。
今はただ。
「俺は目的を果たすぞ」
レティシアに告げられたのは、紛れもない戦意。
── 私は何を期待したのでしょう。
多少痛めつけたくらいで。
絶望的な戦力差を思い知らせたくらいで。
泣き叫んでみせたくらいで。
私の言う事なんて、聞き入れてくれるはずなかった。
そんなことは、身をもって分かっていたのに。
「……いいでしょう。なら、私も目的を果たすために最大限の努力をします。〈我は乞い願う〉」
レティシアの手にした槍が再び形を変え、七つに分割される。
それぞれが尖頭の形を為し、レティシアの周りへと配された。
レティシアが右腕を前へと突き出す。
「聖別、装填── 」
七つの弾のうち、一つが右腕へと吸い込まれるようにして消えた。
掌を広げ、人差し指と中指、両指の間にシノの姿を捉える。
「捕捉、固定、射出」
淀みなく流れ出た始動の言葉によって、弾丸がシノへと発射された。
速度は先刻の槍とは比較にならないが、取るべき対処に変化はない。
レティシアとの間の空間は、すべて知覚範囲の中だ。
弾丸の軌道の外に身を置きながら距離を詰め、攻撃を加える。
弾道は直線的なものだった。
上体を捻って最低限の動作で躱し、次弾への備えをしつつ前進する。
すれ違う弾丸を横目に回避を確信した瞬間、
「なんだ……!」
頬には固く、冷たく、湿り気がある感触。
さっきまで踏みしめていたはずの地面が間近に見える。
右膝からは焼けつくような痛みが遅れて届いた。
── 撃たれたのか。
(後ろからだわッ。〈聖域〉の中では、あの女の思い通りに世界の法則すら歪められてしまうみたいね。ここじゃ勝ち目がないわ。すぐに離れなさい。次が来るわよッ)
── ここは「世界を望む形に書き換える」ために開かれた箱庭だ。
「だめだ。こんな機会はもうない」
(退きなさい、死ぬ気なの⁉)
「言っただろ。俺と首教とじゃ、勝利の意味が違う」
(どういうつもりッ! ちゃんと説明して!)
「そんな時間はなさそうだ」
シノはゆっくりと立ち上がった。
おぼつかない足取りで、しかし確実に前進していく。
策もなく、ただ愚直に前に進むだけの相手に対して、レティシアのすることは変わらない。
「装填、捕捉、射出」
撃ち出された二つ目の弾丸は、左肩を貫通した。
「……!」
少し身体をよろめかせただけで、シノの前進は終わらない。
(状況が分からないの!?)
魔剣の叫びにも、シノはただ愚直に前へと進む。
一方のレティシアは困り果てていた。
全力で向かってくる敵をねじ伏せることは容易くとも、殺されることを望んでいるとしか思えない、無謀な前進を続ける相手を止めるにはどうすればいいのか。
「どういう、つもりですか……!」
まるで自分が撃たれているかのように、レティシアは苦痛に歯を食いしばる。
「お前の思い通りになるこの場所なら、いつでも俺を殺せるはずだ。ここを撃ち抜けばいい」
そう言って、シノは血が滴っている左胸を指し示した。
「いや、思い通りというのは違ったか。思いというよりは願い、だろ?」
「貴方、自分を人質に……」
「このままお前を捕まえる。俺の戦い方をよく知っていると言ったな? 俺がそっちにたどり着いたら、お前の負けだぜ」
── この〈聖域〉は、レティシア・グレスロードが願うままに世界を形作る箱庭だ。
その支配者が「撃てない」「殺せない」と認めた時点で、ここはもう彼女だけの世界ではない。
「……本当に殺せないと思っているなら、来なさい。私はもう、昔の私じゃない。背負っているもの、護るべきものがあります」
「あいにく、俺は『昔の私』とやらを知らねぇ。いくぞ、そこで待ってろ」
「……装填、捕捉、……射出」
放たれた弾丸は、レティシアの意図通りにシノの右肩を貫いた。
シノには、躱そうとする素振りすらない。
「……止まりなさい」
「あと4つ……」
流れる血で太く紅い筋を地面に書きなぐりながら、シノはそれだけを呟いた。
その筋が長くなるほど、命の残量が少なくなっていくことを意味している。
「装填、捕捉……。射出……!」
絞り出した攻撃命令により放たれた4つ目の弾丸は、力ない前進を続ける左側の脚を撃ち抜いた。
鈍い音とともに、ついにシノの身体がくずおれる。
人体の構造として、もう立ち上がることは叶わない。
レティシアは深く息をついた。
「これで分かったでしょう。すぐに治療を── 」
「あと3つ……」
ずるずる、と這いつくばったままシノの身体は、地面を血で汚しながら前進を再開した。
一心にこちらに向けられた眼差しには、一点の陰りもない。
宿る戦意はさらに猛っている。
「……そうでした。あなたは止まらないし、止まれない。……私はそれを、よくよく知っていた」
歩みは著しく遅くなっているが、レティシアとの距離は確実に縮まっていた。
「どのような形であれ、あなたが生きてさえいればそれでいい。手足など、ない方がいいのかもしれません。……装填」
射出対象は、遅々とした前進を支えている一本の腕。
いかに強い意志があろうとも、人の形をしている以上、肉体の限界を超えることはできない。
動きを止め、早急に治療を施す。
今なら、できるはず。
「捕捉、射出」
勢いよく撃ち出された銀色の弾丸は、シノの周囲で突如巻き上がった真紅の炎にのみ込まれた。
「魔術……!?」
そんなはずはない、とレティシアは自分の考えを否定する。
シノ・グウェンは魔力を持たない喪失者だ。




