3―21 聖者の源流Ⅵ
どれくらい、そうしていたのかは分からない。
季節がいくつ巡ったのかも、もう曖昧だった。
小屋の外に出れば風の温度が違うことくらいは分かる。
雨の匂いも、陽の長さも変わっていく。
それでも、私の時間だけはあの日から動いていなかった。
おとーさんがいなくなっても、私はその場からほとんど動かなかった。
生命を繋ぐために必要なことだけはした。
水を汲んで、少しだけ食べて、眠る。
ただ、それだけだ。
それ以外のことには、何ひとつ意味を見いだせなかった。
待ってろ、と言われたから。
その言葉だけが、辛うじて私をこの世に繋いでいた。
待つために死なない。
ただ、それだけの毎日だった。
小屋の中には、まだおとーさんの気配が残っていた。
壁に立てかけた棒。
使いかけの薬。
ひびの入った器。
寝床の癖。
どれも、片づける気にはなれなかった。
少しでも動かしてしまったら、本当にいなくなってしまう気がしたからだ。
だから私は、ほとんど毎日同じ場所に座っていた。
おとーさんが最後に立っていた場所が見えるところ。
最後に私の頭を撫でた手の温度を、まだ思い出せる場所。
何をする気にもならない。
悲しいのかどうかさえ、途中から分からなくなった。
ただ、空っぽだった。
泣くのにも、力が要るらしい。
それを知ったのは、たぶんあの頃だ。
そんな日々の中で、ある日、私の不意に影が差した。
「……驚いた。もしかして、ずっとここにいたのかい?」
明るい声だった。
場違いなくらい軽くて、少しだけ笑っているようにも聞こえる。
私はゆっくり顔を上げた。
戸口の向こうから、ひとりの少女がこちらを覗き込んでいた。
年の頃は、私とそう変わらないように見える。
けれど、その目だけが妙に古びていた。
口元は笑っているのに、その目の奥に、ひどく疲れた色が沈んでいる。
「……だれ?」
久しぶりに声を出したせいか、喉が焼けるみたいに痛かった。
出てきたのは、自分でも驚くほど掠れた声だった。
「ああ、よかった。ちゃんと生きてた」
少女はそう言って、挨拶をするように右手を上げた。
軽い調子だったけれど、その仕草にはどこか張りつめたものが残っていた。
「ボクはスサナ・レイモンド。今じゃ大英雄なんて呼ばれてるんだけど、聞き覚えは?」
「ううん」
私が首を振ると、少女は少し残念そうな顔をした。
「君に伝えないといけないことがあってね。一号――いや、カーラ・ライヘンバッハを知ってるよね?」
その名前を聞いた瞬間、長いこと動かなかった感情が、胸の奥で軋んだ。
「知ってる……!」
思ったより強い声が出た。
それだけで息が上がる。
スサナは私の反応を見て、一度だけ目を細めた。
それから咳払いをひとつして、少しだけ背筋を伸ばす。
「えー、では」
さっきまでの軽さを少し引っ込めて、神妙な顔つきになる。
「先のオイケイン討滅戦において、カーラ・ライヘンバッハは行方不明。戦場の状況を鑑みて、我々は死亡と結論づけた」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
行方不明。
死亡。
そのどちらも現実感がなかった。
どこか遠い出来事。
「え……」
それしか出てこなかった。
しぼう。
シボウ。
死亡。
頭の中で何度も言葉が反響する。
けれど、意味にはならない。
行方が分からない。
だから、死んだことにする。
そんなふうに聞こえた。
スサナは黙って、私を見ていた。
観察しているような目つきだった。
「あ、あのおとーさんは……」
気づけば、そう口にしていた。
スサナがわざとらしく首を傾げる。
「おとーさん……?」
「あ……」
違う、と言おうとして言葉が詰まる。
違わない、とも言いきれない。
何度もそう呼んできた名前なのに、急に説明できなくなって、息が苦しくなった。
スサナはそんな私を見遣り、ふっと口元を緩めた。
「ああ、彼ね。こんなに大きな娘さんがいるようには見えなかったから、これまた驚いたな」
「い、いや、それは違ってて、その――」
「ごめんごめん、ちょっとからかっただけだよ」
スサナは軽く手を振った。
けれど、その笑い方は本当に楽しそうなものではなく、どこか乾いた笑いだった。
「事情はだいたい知ってるから。あの女が珍しく感傷的になっていたものだからねぇ」
カーラのことを思い出して、胸の奥がまた嫌なふうに軋む。
感傷的。
あの女が。
そんな言葉と結びつくようには思えなかった。
「だからまあ、一体どんな子なのか、顔を見に来たってわけさ」
そう言ってスサナは、戸口から一歩だけ中へ入った。
私は咄嗟に身を強ばらせる。
その反応を見て、スサナはすぐに足を止めた。
「おっと。そんなに警戒しなくてもいいよ。今日はいい話を持ってきたんだから」
スサナは興味深そうに室内を眺め回している。
カーラの方がまだ常識があったかもしれない。
でも、怒る気力も残っていなかった。
「……おとーさんは」
私はそれだけを繰り返した。
カーラのことなんて、もうどうでもよかった。
「おとーさんは、どうなったの」
「あー……」
スサナは少しだけ視線を逸らして、それからまた私を見た。
「分からない」
その答えは、思ったよりずっと鋭く胸に刺さった。
「え……」
「カーラが消えた戦場で、彼もまた消えた。少なくとも、ボクたちは見つけられていない」
見つけられていない。
死んだ、ではない。
見つかっていないだけだ。
けれど、そのわずかな希望を見透かしたみたいに、スサナは続けた。
「生きている保証もない」
持ち上がったものが、またすぐ落ちる。
私は俯いた。
床が見える。
汚れた床板。
土の跡。
乾いた木屑。
何ひとつ変わらないのに、床が抜けてしまったような心地がした。
「そんな……」
声が、自分のものじゃないみたいに弱かった。
「戻るまで待ってろって、言ったのに」
その言葉を口にした瞬間、喉の奥がひりついた。
ずっと待っていた。
帰ってくると言われたから。
それだけを信じて、生きていた。
なのに今、目の前の知らない少女は、分からないと言う。
見つからないと言う。
生きている保証はないと言う。
そんなことを、どうやって受け入れればいいのか分からなかった。
スサナはしばらく黙っていた。
気遣ってそうしているようには見えない。
私は顔を上げた。
「探して」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声だった。
「まだ見つかってないなら、探してよ」
スサナは答えない。
「大英雄なんでしょ」
言いながら、自分が何を言っているのか半分も分かっていなかった。
ただ、何かに縋らないと、ここで本当に何もかも終わってしまう気がした。
「見つけてよ。おとーさんを」
その言葉は懇願というより、もう命令に近かったかもしれない。
けれどスサナは怒らなかった。
ただ、疲れた目のまま私を見つめていた。
「……探してどうする?」
思ってもいなかった返事に、私は言葉を失った。
「どうするって……」
「もし見つけたら、どうするんだい?」
声音はやわらかかった。
責めているようには聞こえない。
なのに、その問いは妙に鋭く胸に刺さった。
私は口をつぐんだ。
見つけた後。
おとーさんを見つけた後、自分はどうするのか。
どうしたいのか。
考えたことがなかった。
ただ戻ってきてほしかった。
帰ってきてくれれば、それでいいと思っていた。
ずっと、それだけを願っていた。
スサナはそんな私を見て、小さく息を吐いた。
「待っているだけで、取り返せるものばかりならよかったんだけどね」
軽い口調だった。
でも、その言葉は少しも軽くなかった。
「君は、ただ待ってただけだよ」
「それの何が悪いの」
気づけば、噛みつくみたいに言い返していた。
「待ってろって言われたから、待ってたの」
「うん」
「帰ってくるって言ったから、信じてたの」
「うん」
「それで、何が悪いの」
最後の方は、自分でも情けないくらい震えていた。
スサナはすぐには答えなかった。
戸口の外へ一度だけ目をやって、それからまた私を見る。
「悪くないよ。ただ、それじゃ欲しいモノは手に入らない」
欲しいモノ。
そうか、わたしは──。
「君は、取り戻したいんだろう?」
私は答えなかった。
答えるまでもなかった。
「だったら、待つだけじゃ駄目だ」
スサナは一歩だけ、こちらに近づいた。
私は反射的に身を強ばらせる。
けれどスサナは、それ以上は踏み込んでこなかった。
「力が欲しいかい?」
その問いは、あまりにも突然だった。
なのに、私の中では妙にまっすぐ落ちてきた。
力。
何度も欲しいと思った。
おとーさんといた頃も。
カーラに負けた時も。
置いていかれたあの日も。
ずっと、足りないものの名前はそれだったのかもしれない。
「……あれば」
喉が渇いていた。
それでも、言葉は止まらなかった。
「会えるの?」
「会うだけなら、今のままでもできるかもしれない」
その言い方が気に入らなくて、私は睨み返した。
「取り戻せるのかって言ってるの」
スサナは、そこで初めて本当に笑った。
楽しそうな笑みではなかった。
ひどく疲れた人間が浮かべる、乾いた笑みだった。
「いい目になった」
何を言われたのか分からなくて、私は眉を寄せる。
「なら、やっぱり君でよさそうだ。待つだけでは届かない。誰かが返してくれるのを願うだけじゃ、奪われたモノは戻らない」
スサナの声は静かだった。
でも、その静けさの奥に、どうしようもなくすり減ったものが滲んでいた。
「だったら今度は、君が奪い返しに行けばいい」
その言葉が、小屋の中の空気を変えた気がした。
奪い返す。
その言葉は、なんだかとてもしっくりきた。
「……できるの」
「それは君次第さ。ボクは君の願いを実現するための力だけを、与えることができるんだ」
スサナはそう言って、私をまっすぐ見た。
「もう一度聞くよ。力が欲しいかい、レティシア」
迷いはなかった。
おとーさんを取り戻したい。
もう二度と、泣かせない。
もう二度と、手の中からこぼしたくない。
そのために必要なら、何でもよかった。
「欲しい」
声は、思ったよりはっきり出た。
「欲しい。待つだけじゃ嫌」
「うん」
「今度は、わたしがおとーさんを守る」
言い切った瞬間、胸の奥で長いこと沈んでいた何かが、ゆっくりと熱を持ちはじめた。
小屋の中を見る。
壁に立てかけた棒。
使いかけの薬。
ひびの入った器。
おとーさんが最後に立っていた場所。
最後に私の頭を撫でた手の温度を覚えている、この場所。
ここは、ただの小屋じゃない。
おとーさんと過ごした時間が積み重なった、私だけの聖域だった。
踏み込まれた時、腹の底から怒りが湧いた。
奪われた時、何もできなかった。
もうあんな思いはしたくない。
おとーさんを取り戻す。
そう願った瞬間――。
空気が、不意に変わった気がした。
私から見える景色に、なんの変化もない。
なのに、何かがはっきりと変わったという確信があった。
息を吸う。
いつもと同じ空気のはずなのに、肺の奥へ入ってくる感触が妙に重い。
胸の内側に熱を持ち始めていたものが、そのまま外へ滲み出していくみたいだった。
私は思わず、辺りを見回した。
壁に立てかけた棒。
使いかけの薬。
ひびの入った器。
おとーさんが最後に立っていた場所。
その全部が、急にただの物ではなくなったように見える。
世界が、私の願いを知っているみたいだった。
全能感というものを、初めて感じた。
ここで過ごした時間。
ここで交わした言葉。
ここで失ったもの。
何ひとつ、誰にも踏み荒らさせない。
何ひとつ、奪わせない。
足元から、ぞわりと何かが這い上がってくる。
それは、感覚的には熱いものではあったが、その程度の苦痛など、願いが叶ったという夢想に比べれば、毛ほどの痛みも感じない。
「……おや」
スサナが、小さく声を漏らした。
その声で、自分だけがおかしいわけではないのだと分かった。
私はゆっくり視線を向ける。
スサナはもう笑っていなかった。
疲れたような目をわずかに見開いて、私を見ている。
値踏みするような目とも違う。
何かを探していた人間が、ようやくそれを見つけた時の顔だった。
「なるほどなるほど」
静かな声だった。
私は何も言えない。
胸の奥の熱はまだ消えない。
それどころか、広がっていく。
ここは、ただの小屋じゃない。
おとーさんと過ごした時間が積み重なった場所。
誰にも奪わせない、私だけの場所。
聖域だ、と私は思った。
その瞬間、世界の輪郭がわずかに変わる。
戸口の向こうから吹き込む風の流れ。
床板の軋み。
小屋の中の、ほんの僅かな温度差。
そんなことまで、知ろうと思えば手に取るみたいに分かった。
「いい」
スサナが言う。
「とてもいい」
その言葉は褒めているというよりも、安堵しているように聞こえた。
「君はちゃんと、この世界に執着している」
執着。
その言葉は、普通なら嫌な響きのはずだった。
でも、その時の私には、少しも否定に聞こえなかった。
執着していた。
おとーさんに。
この場所に。
失ったものに。
取り返したいと願うことに。
それがあるから、私はまだここにいる。
「力には名が必要だ。〈聖域〉、といったところかな。君にも名前が必要だね」
スサナはそう言って、ゆっくりと私の前にしゃがんだ。
「グレスロード、それが君の名前だ。そして、いま手にした〈聖域〉は、君の願いそのものだ」
まだ胸の奥は熱い。
でも、ただ苦しいだけではなかった。
その熱に、確かな形が生まれつつあるのが分かったからだ。
「覚えておくといい、レティシア・グレスロード」
スサナの目が、まっすぐ私を見た。
「待つだけでは、何も守れない」
その言葉は、刃みたいに鋭かった。
私は頷いた。
もう待つだけではいられない。
おとーさんを取り戻す。
二度と泣かせない。
今度は、私が守る。
その願いがわたしの全てだった。
あの日、小さな小屋で生まれた願いは、やがて形を持った。
最初は、ただこの場所を守るためのものだった。
誰にも踏み荒らさせないために。
誰にも奪わせないために。
おとーさんを取り戻す、その時まで。
けれど、守りを求めるのは私だけではなかった。
大災厄で故郷を焼かれた者。
帰る家を失った者。
守るものを奪われ、祈るしかなくなった者。
そんな人間たちが、少しずつ、あの小屋の周りに集まるようになった。
最初は一晩、風をしのぐためだけに。
次は数日、魔の手から逃れるために。
やがて、その場に留まりたいと願う者が現れた。
私は彼らを拒まなかった。
拒めなかった、の方が近いかもしれない。
あの時の私にはもう、失う痛みが骨の髄まで染みついていた。
だから、失った人間の顔を見れば、そのまま追い返すことなどできなかった。
そうして、守るべきものは増えていった。
小さな小屋を囲むように、人が住みつき、祈り、寄り添い合い、傷を舐め合う。
やがて粗末な住処は石造りに変わり、祈りの場は広がり、道ができ、壁が築かれた。
あの場所を中心に、人の営みが根を張っていった。
それが、後に大聖堂となる。
そして、大災厄によって行き場をなくした人々を呑み込みながら、その土地は国になった。
祈りを軸に人を導き、救いと規律を与える場所――〈教導国〉へと。
……もっとも。
そこに至るまでには、ずいぶん長い時間がかかった。
「最初はおとーさんさえ手に入れられればよかったのですが。私には守るべきモノが増えすぎました……」
私がそう言うと、レイモンド様は笑みを浮かべた。
「喜ばしいことだよ。君に執着するモノが増えれば増えるほど、ボクは楽ができるんだし」
相変わらず、どこまで本気なのか分からない言い方だった。
けれど、そこに含まれる期待だけは分かる。
「でも、本当に欲しいモノは絶対に手に入れられません」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
国を得た。
居場所を得た。
存在理由も、守るべきものも得た。
〈聖域〉の力も、この手にある。
それでも、いちばん欲しかったモノだけは、まだ手の中にない。
スサナは肩をすくめる。
「もっと欲を持つべきだって、言ってるでしょ」
「はい。今度こそ手に入れます」
「その意気だよ」
――いいえ。
欲が深すぎるのです。
だから、自分が満足できるだけのモノが手に入りません。
でも、自分を満足させる為に他者の人生を狂わせ、狂わせた人間すらも救おうとするほど善良な大英雄 様には、きっと理解できないでしょうね。
そう思った、その時だった。
大きすぎる違和感を、大きな歓喜とともに受け取った。
何か、とてつもなく異質な何かが入り込んでいる。
私の〈聖域〉に、あってはならないものが触れた。
これでようやく、決着をつけることができる。
「おっと、来たみたいだよ」
レイモンド様が、ひどく楽しそうに言った。




