3―20 聖者の源流Ⅴ
それから、すぐに何かが起こることはなかった。
カーラは居座っていたけど、小屋の中を荒らすことはしなかった。
戸口の近く、寝床が見える位置に腰を下ろして、まるで最初からそこにいるのが当然みたいな顔をしていた。
私は短剣を手放さなかった。
正直、意味があるとは思えない。
飛びかかっても勝てないことは、もう分かってる。
それでも、何も持たずにいるよりはましだった。
小屋の中は静かだった。
おとーさんは相変わらず目を覚まさない。
寝息だけが、そこにいることを教えてくれる。
私は何度もそちらを見た。
ちゃんと息をしているか、さっきより顔色が悪くなっていないか、そればかりが気になった。
カーラは一度だけ、そんな私の視線を追うように寝床の方を見た。
けれど近づこうとはしなかった。
そのことに少しだけ驚いて、私はすぐに嫌な気分になる。
気遣われたのが、気に食わなかった。
「見張っているつもりか」
不意にカーラが言った。
「何をするか分からないから」
そう返すと、カーラは口元だけでわずかに笑った。
なんだか腹が立つ。
「そうか」
私の敵意に対する答えは、それだけだった。
気に入らない。
何を考えているのか分からない顔も、言葉の少なさも、全部気に入らなかった。
何より、おとーさんのことを知っているみたいに振る舞うのが嫌だった。
私は壁際に寄ったまま、短剣の柄を握り直す。
またしばらくして、カーラが小屋の中を見回すように視線を動かした。
水桶、使いかけの薬、壁に立てかけた棒、乱雑な寝床、食べかけの器。
狭くて、みすぼらしくて、それでも私たちの暮らしが詰まっている場所を、ひとつずつ確かめるように見ていく。
私はその視線さえ腹立たしかった。
「勝手に見ないで」
「見えているのだから、仕方がないだろう?」
「目を閉じてて」
カーラは返事をしなかった。
代わりに、少しだけ眉を寄せた。
それがどういう感情によるものなのか、私には分からない。
分かりたくもなかった。
また沈黙が落ちる。
外では風が鳴っていた。
戸板の隙間から入る空気が冷たくて、足元からじわじわ熱を奪っていく。
「なぜおとーさんと呼ぶ?」
あまりにも唐突に聞かれて、私はすぐに答えられなかった。
カーラは、ただまっすぐこちらを見ていた。
「……え?」
「いや」
カーラは一度言葉を切って、少しだけ困ったような顔をした。
「まさかと思うが、本当に娘なのではないだろうな……?」
何を言い出すのかと思った。
「違うけど」
「そうか……。そうだろうな。馬鹿なことを訊いた」
「どうしてそんなこと言うの?」
「いや、あまりにも自然に呼ぶものだからな」
所詮は他人だと言いたいのか。
私は短剣を握ったまま、わざと大きい声を出した。
「関係ないでしょッ」
「関係はある」
即答だった。
私は眉を寄せる。
カーラはそこで初めて、少しだけ言いにくそうに視線を外した。
「……あいつは、誰かにそう呼ばせるようなやつではないと思っていた」
胸の奥がざわつく。
その言い方だけで十分だった。
認めよう。
この女は、おとーさんのことを知っている。
私の知らないところで、もっと前から、ずっと。
まったくもって気に入らないけど。
「知ったようなこと言わないで」
気づけば、そう言っていた。
カーラの視線が戻る。
「少なくとも、お前よりはよく知っている」
静かな声だった。
怒っているわけでも、張り合っているわけでもない。
淡々と事実を告げる様は、ただ私とこの女との差を自覚させられる。
「……あんたが?」
「そうだ」
「じゃあ何で、こんなところに今さら来たの」
答えを期待していたわけじゃない。
ただ、責めたかっただけ。
けれどカーラは少し考えるように黙ってから、微笑んだ。
「親と喧嘩をしたことはあるか?」
「ある、けど」
「そんなようなものだ」
カーラが言っていることはよく分からなかったけど、私はそれ以上、何も言わなかった。
この女と長く喋れば喋るほど、おとーさんの知らない部分が増えていく気がしたからだ。
「お前たちは、どこで──」
「話さない」
カーラは一瞬だけ目を瞬かせる。
「まだ最後まで言っていない」
「言わなくても分かる」
私は寝床の方へ身体を寄せた。
守るみたいに、その前に立つ。
「何も話したくない。あんたには」
カーラはしばらく黙っていた。
怒るかと思った。
呆れるかとも思った。
けれど、返ってきたのは、そんなものではなかった。
「……これでも私にしてはずいぶんと行儀がいい。本当だぞ」
意味が分からなくて、私は眉を寄せた。
「知らない」
「私も何をやっているんだろうな……」
カーラは小さく息を吐いた。
「普段の私なら、今ごろお前を叩きのめして喋らせている」
背筋が冷えた。
冗談には聞こえなかった。
「だが、今はそうしない」
なぜそうしないのか、私は訊かなかった。
短剣の柄を握る指先に、引きかけていた汗が滲む。
カーラはそれ以上、何も言わなかった。
問いただしもしないし、脅しもしない。
ただ、そこにいた。
その静けさが、さっきまでの敵意より、ずっと落ち着かなかった。
寝床を見る。
おとーさんはまだ起きない。
起きたらどうなるのか、考えたくもないことばかり頭に浮かぶ。
「……おとーさん」
聞こえないと分かっていて、私は小さく呼んだ。
カーラは何も言わなかった。
ほんの少しだけ目を伏せただけだった。
どれくらいそうしていたのか分からない。
風の音と、おとーさんの寝息だけが小屋の中にあった。
不意に、その寝息が少しだけ乱れた。
私は顔を上げる。
気のせいかと思った。
でも違う。
さっきまで閉じたままだった瞼が、ほんのわずかに動いた。
「……おとーさん?」
今度ははっきり呼ぶ。
返事はない。
それでも、指先がわずかに動いたのが見えた。
胸の奥が熱くなる。
やっと起きるのだと思って、私は反射的に一歩、寝床の方へ踏み出した。
おとーさんはゆっくりと目を開けた。
焦点の合わない目が、天井を見て、それから少しずつ動く。
私はもう一歩だけ近づこうとした。
けれど、その視線は私ではなく、先にカーラの方へ向いた。
それだけで、胸の内側がすうっと冷えた。
カーラは座ったまま、おとーさんを見返した。
声をかけたのは、私より後だった。
「私が来ているのにいつまで寝てるんだ、馬鹿者」
叱っているようにも聞こえるのに、そこに本当の苛立ちは混じっていない。
おとーさんは一度だけ瞬きをして、掠れた声で言葉を返す。
「遅かったな」
その答えにも驚いた。
カーラがここにいることを、おとーさんは少しも不思議に思っていない。
まるで、来ると分かっていたみたいだった。
「こんな辺鄙なところにいるからだ。探すのに苦労したぞ」
カーラがそう言う。
「……らしくないな、そんなわけないだろ」
「何か言ったか?」
カーラには聞こえなかったみたいだけど、私の耳にははっきりと届いた。
「いや、何でもねぇ」
さっきまで、おとーさんが起きてくれたらそれでいいと思っていたはずなのに、今はそれだけで足りなかった。
おとーさんは、ちゃんと目を開けた。
それなのに、胸の奥に広がるのは安堵より、もっと別の、冷たい何かだった。
「もう満足したか?」
カーラに問われて、おとーさんは少しだけ黙る。
「……」
その沈黙が妙に重い。
私は何も言えずに、二人の顔を見比べる。
何かがおかしい。
ただ再会しただけじゃない。
そんなことくらい、私にだって分かった。
「身体、良くないようだな。時が来たということだ。分かるな?」
カーラの声は低かった。
さっきまでの、私に向けていた声とは違う。
遠慮がなくて、曖昧さもない。
おとーさんは少しだけ目を閉じて、それから頷いた。
「……あぁ」
その顔を見た瞬間、胸がざわついた。
――また、あの目だ。
初めて会った時に見た、母の亡骸の前で泣き崩れていたあの時の、可哀想な目。
誰かを見ているようで、何も見ていないみたいな空虚さ。
嫌な予感が、胸の奥で形を持ち始める。
「ちょ、ちょっと待って。何の話をしてるの?」
気づけば、口を挟んでいた。
そのまま黙っていることなんてできなかった。
カーラが私を見る。
「こちらの話だ」
「だって、おとーさんはわたしの――」
そこから先が、言葉にならなかった。
家族、と言い切っていいのか分からない。
でも違うとも思えない。
喉の奥につかえて、息が苦しくなる。
カーラはそんな私を見て、ひどく静かな声で言った。
「お前は被害者だ」
一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
間の抜けた声が出る。
カーラは私ではなく、半分くらいおとーさんに向けて言うみたいに続けた。
「お前の様子を見れば、この馬鹿が何をしたのかはだいたい察しがつく」
その言葉は、まるで刃物みたいだった。
おとーさんが何をしたというのか。
何を察したというのか。
この女は解っているのに、私は解らないという事実が、身を裂くような苦痛をもたらした。
「まったく……似てほしくない所ばかり似てしまうな」
カーラが唸るように言葉をこぼした。
意味は分からない。
でも、その声を聞いた時だけはっきりと思った。
この二人のあいだには、私の知らないものがある。
どれだけ一緒に暮らしても、どれだけ“おとーさん”と呼んでも、そこには入れない。
そのことが、たまらなく悔しかった。
感情を窺い知ることはできなかったけど、カーラはしばらくおとーさんを見ていた。
「自分で始末をつけられるか?」
どこか遠慮がちな声だった。
気遣いすら感じられて、私は余計に気味が悪くなる。
おとーさんは答えなかった。
虚ろな目を伏せたまま、何も言わない。
「……分かった。なら、私がやろう」
カーラが立ち上がる。
そのまま、今度は私の方へ近づいてきた。
「一応、訊いておく。今からこいつを連れて帰るが、大人しく受け入れる気はあるか?」
何を言われたのか、最初は分からなかった。
分からなかったけど、身体だけが先に動いた。
私は短剣を突きつける。
「訊きたいことはそれだけ?」
手が震えていた。
でも、下げる気にはなれなかった。
相手の方が強いとか、戦ったら殺されるかもしれないとか、そんなことはもうどうでもよかった。
おとーさんを連れていくのなら、結局は全部同じことだ。
カーラは刃先を見て、それから私の顔を見た。
「いい覚悟だ。だが、奪わせてもらう」
静かな声だった。
「そう怒るな。近いうち、私も同じ痛みを味わうことになる」
何を言っているのか、まるで分からない。
分からないまま、言葉だけが胸のどこかに引っかかった。
その時だった。
「……俺がやる」
掠れた声がして、私は息を止めた。
おとーさんが立ち上がっていた。
さっきまでまともに起き上がることもできなかったはずなのに、今は自分の足で立っている。
それが嬉しいはずなのに、胸の奥は少しも軽くならなかった。
おとーさんは私とカーラの間に入った。
庇うみたいに。
けれど、その背中は私を守るためではなく、私をそこに留めるためのものに見えた。
「おとーさん」
呼ぶと、おとーさんは一度だけ振り返った。
その目があまりに静かで、私は急に怖くなる。
「そばにいて」
気づけば、そう言っていた。
みっともない声だった。
でも、取り繕う余裕なんてなかった。
子供だと思われてもいい。
「行かないで」
おとーさんはすぐには答えなかった。
「そばにいてよ……」
私は短剣を落とした。
もう拾う気にはなれなかった。
そんなものを持っていても、どうにもならないことくらい分かっていた。
それでも何かに縋りたくて、私はおとーさんの服を掴んだ。
離したら、そのまま届かないところへ行ってしまう気がした。
「きっとまた、会える」
静かな声だった。
その言葉を聞いた瞬間、心が震えた。
「うそ」
自分でも驚くくらい、小さい声だった。
「うそ……」
おとーさんは何も言わない。
否定しない。
言い直しもしない。
それが、何より残酷だった。
「だって、分かるもん……」
息をうまく吸えない。
「おかーさんのときだって、そうだった」
戻るって言った。
大丈夫だって言った。
でも、消えてしまった。
大事なものは、いつだって手の中からこぼれ落ちていく。
抱きしめたつもりでも、気づけばなくなっている。
待っていれば帰ってくるなんて、そんな言葉はもう信じられなかった。
「本当だ」
おとーさんは、そう言った。
「終わったら、また帰ってくる。だから待ってろ、レティシア」
その言葉のあと、私の頭に手が乗った。
大きくて、少し硬くて、でも不思議なくらい優しい手だった。
乱暴に撫でられ、髪が乱れた。
それでも、その不器用さがいつもと同じで、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
こんな時まで同じ手つきをしないでほしかった。
期待してしまうから。
信じてしまいそうになるから。
「……やだ」
喉の奥からようやく出た声は、ひどく濡れていた。
「待たない。待てない。だから――」
そこから先が続かなかった。
何を言っても、この人は行くのだと、どこかでもう分かっていたからだ。
その時、ふっと身体の芯が緩んだ。
何が起きたのか分からない。
足元が急に覚束なくなる。
視界の端から、色が滲むみたいに薄れていく。
眠いわけじゃない。
眠るわけにはいかない。
このまま目を閉じたら、本当に最後になる気がした。
「おとーさん……」
呼んだつもりだった。
でも、ちゃんと声になったか分からない。
おとーさんの手はまだ頭にあった。
その温かさだけが、やけにはっきりしていた。
離したくなかった。
せめて、この手だけでも掴んでいたかった。
けれど指先にはもう力が入らない。
「いいのか、そんな約束をして」
遠くでカーラの声がした。
最後に聞く声が、この生活を壊してくれたやつの声だなんて、私は少しだけおとーさんを恨んだ。
でも、その恨みも、悲しみも、全部まとめて、深いところへ沈んでいく。
まぶたが落ちる、ほんの手前まで。
私はまだ、おとーさんの手の温かさだけを探していた。




