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3―18 聖者の源流Ⅲ

 それからしばらくのあいだ、私は満たされていた。

 毎朝、起きればおとーさんがいた。

 戸口の向こうで薪を割っていたり、水場のそばで水を汲んでいたり、たまに何もせず座っていたりしたけれど、とにかく、そこにいた。

 それだけでよかった。


 朝の冷たい水で顔を洗って、戸口の前を掃く。

 鍋の中身は相変わらずよく分からなかったし、おいしいとも言いがたかったけれど、二人で食べるなら何でもよかった。 


 食べ終われば棒を握る。

 当たらなくても、転ばされても、少しずつ昨日よりましになっていく気がした。

 そうして日が落ちれば、小屋に帰る。


 前は、明日のことなんて考えなかった。

 考えたところで、何も変わらなかったからだ。

 でも、あの頃の私は、明日も同じように朝が来るのだと思っていた。

 そんなふうに思える日が、自分に来るなんて知らなかった。


 おかしいと気づいたのは、たぶん、ほんの小さなことからだった。

 最初は、朝起きるのが遅くなった。

 前なら私より先に起きていたはずのおとーさんが、寝床に横になったまま目を閉じていることが増えた。

 具合でも悪いのかと聞いても、「別に」としか返ってこない。

 その「別に」は、母がよく言っていた「大丈夫」とは違った。

 嘘をついているというより、本当にどうでもよさそうな言い方だった。

 だから余計に不安が募った。


「起きないの」


 布を引っ張ると、ようやく薄く目が開く。

 ぼんやりした目がこちらを流し見て、それから天井の方へ流れた。


「……起きてる」


「目を瞑ってたら、起きてないのと同じだよ」


 そう言うと、おとーさんは面倒そうに息を吐いて、のろのろと身体を起こした。

 それでも立ち上がるまでに、前よりずっと時間がかかる。

 その様子を見るたびに、胸の奥が落ち着かなくなった。


 鍛錬の時間も短くなった。

 立ち会えば強い。

 攻撃が当たらないのは変わらない。

 それでも前より長く立っていられるのが、嬉しいより先に、怖かった。


「おとーさん?」


 呼ぶと、そこでようやく視線が合う。


「……何だ」


 返事はいつも通りなのに、その一瞬の空白だけが妙に気味悪かった。

 ある日は、棒を受け止めたまま動かなくなった。

 せっかく攻撃を入れられる絶好の機会だったのに、私の方が先に戸惑って、思わず力を抜く。

 追撃もなかった。


「どうしたの」


「……何が」


「止まってた」


 そう言うと、おとーさんは自分の手元を見るみたいに少し目を落としてから、何でもないことのように棒を離した。


「考え事だ」


 そんなことを鍛錬の最中にする人じゃない、と思った。

 でも口にするのも不安で、私は黙った。

 眠る時間も増えた。

 日が高いうちから横になることがあったし、食べ終わったあと、そのまま壁にもたれて目を閉じていることもあった。 


 最初は疲れているんだと思った。

 おとーさんは私の知らないところで何かをしているのかもしれないし、私と暮らす前のことだってほとんど話さない。

 だから、私が知らないだけで、そういう日もあるのだろうと考えた。

 けれど、何日経っても戻らなかった。

 むしろ、少しずつ悪くなっている気がした。


「食べないの」


 器を差し出しても、おとーさんは手を伸ばさない。

 じっと見ているだけで、まるでそれが何なのか考えているみたいだった。


「おとーさん?」


 二度呼ぶと、ようやく焦点が合う。

 それから遅れて、器を受け取った。


「……ああ」


 声が掠れていた。


「寝すぎだよ」


「そうかもな」


 否定しないことが、かえって怖かった。

 ある朝は、目を覚ましたおとーさんが、戸口の方を見たまましばらく動かなかった。

 私はいつものように水桶を持って立っていたけれど、何を見ているのか分からなくて、だんだん不安になってくる。


「どうしたの」


 問いかけると、おとーさんはゆっくり瞬きをした。

 それから、少しだけ眉を寄せる。


「……お前、誰だ」


 息が止まった。

 今、何を言われたのか、すぐには分からなかった。


「……は?」


 声がひっくり返る。

 おとーさんは私を見ている。

 でも、その目には何もなかった。

 知らないものを見る目だった。

 私は立ち尽くした。


 怒ればいいのか、笑えばいいのかも分からない。

 冗談にしては、出来が悪すぎた。

 どれくらいそうしていたのか分からない。

 やがて、おとーさんはひどく疲れたみたいに目元を押さえた。


「……いや」


 低い声だった。


「違う。分かってる」


 その言い方が、分かっていない人のものに聞こえて、私は余計に何も言えなくなった。

 その日は一日、まともに言葉を交わせなかった。

 怒っていたわけじゃない。

 悲しかったのとも少し違う。


 ただ、どうしていいか分からなかった。

 私を見ても、ちゃんと私だと分からないことがある。

 そんなことが起きるのだと知ってしまった。

 夜になって、小屋の外で一人で座っていると、戸が軋んだ。

 振り向くと、おとーさんが立っていた。


「冷えるぞ」


 いつも通りの言い方だった。

 私は返事をしなかった。

 おとーさんは少しだけ黙って、それから私のそばに座った。

 しばらく、どちらも何も言わない。

 風の音だけがしていた。


「……朝のこと、覚えてる?」


 ようやくそう聞くと、おとーさんはすぐには答えなかった。


「少し」


 それだけだった。

 少し、の中身がどこまでなのか、私には分からない。


「私のこと、分からなかった」


 責めるつもりで言ったわけじゃない。

 でも、口にした途端、思ったよりずっと幼い言い方になってしまった。

 おとーさんは私を見なかった。

 暗い方を向いたまま、ぽつりと答える。


「悪い」


 謝られるとも思っていなかった。

 それで許せるほど簡単なことでもないはずなのに、その一言で何も続けられなくなる。


「……次はちゃんとして」


 我ながら変な言い方だと思った。

 でも、それしか言えなかった。

 おとーさんは少しだけ間を置いてから、「努力する」と言った。

 その言葉を信じたかった。

 だから私は頷いた。

 けれど、そのあとも、おかしなことは続いた。

 鍛錬の途中で、私の構えを見たまま黙り込むことがあった。

 食べかけの器を持ったまま、眠ってしまうこともあった。

 夜中に目を覚ますと、起きているのに焦点の合わない目で壁を見ている時もあった。


 怖かった。

 何が起きているのか分からないのが怖かったし、分からないまま、少しずつおとーさんが遠くなっていくように見えるのがもっと怖かった。

 それでも、いなくなるよりはましだった。

 目の前にいてくれるなら、それでいい。

 眠っているだけなら、起きるまで待てばいい。

 そう思おうとした。

 そうでもしないと、平気な顔をしていられなかった。

 その日の朝も、おとーさんは起きなかった。

 何度呼んでも、肩を揺すっても、薄く目を開けることすらしない。

 死んでいるのかと思って、胸に耳を当てた。

 ちゃんと音はしていた。

 息もある。

 体温もある。

 でも、起きない。


「……おとーさん」


 呼んでも返事はない。

 昨日までの眠り方とも違った。

 ただ寝ているというより、意識がどこか深いところへ沈んでしまったみたいだった。

 私は何度も名前を呼んだ。

 布を剥いで、肩を揺らして、手を握ってみた。

 それでも何も変わらない。


 どうしよう。

 そう思った瞬間、胸の奥が急に冷えた。

 誰かに見つかったら。

 今ここへ、知らない誰かが来たら。

 考えただけで、指先が震える。

 私は立ち上がった。

 小屋の中を見回す。

 いつも壁に立てかけてある棒。

 水桶。

 使いかけの薬。

 片づいているとは言えない寝床。

 見慣れたものばかりなのに、その日は何もかもが頼りなく見えた。

 それでも、守るしかなかった。

 おとーさんが起きるまで私が守る。


 そう決めた時、小屋の外で微かな音がした。

 足音だった。

 私は反射的に息を止めた。

 風の音ではない。

 獣でもない。

 重すぎず、軽すぎず、ためらいもなく近づいてくる、人の足音。


 私はそっと短剣を掴んだ。

 おとーさんが、まだ触るなと言っていたものだ。

 柄には、大きくて赤い石がはめ込まれている。

 短剣を手に、音がした方へ向かった。


 

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