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3―17 聖者の源流Ⅱ

 翌朝、目が覚めると、師匠(せんせい)の姿はなかった。

 薄汚れた天井を見上げたまま、一瞬だけ胸の奥が冷たくなる。

 けれどすぐ外から、薪の割れる鈍い音が聞こえた。


 私は小さく息を吐いた。

 戸板の隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。

 その向こうにいるのだと思うだけで、なんだか嬉しかった。

 昨日までとは何か違う気がする。


「起きたなら水を汲め」


 外から声がした。

 あっちはいつも通りの、愛想のない声だった。

 私は返事の代わりに小さく唸って、身体を起こした。


 師匠(せんせい)と暮らすようになってから、朝と夜の生活の形ができた。

 起きたら水を汲む。

 食事の用意をする師匠を手伝う。

 出来上がった料理を分けて食べて、空いた時間には棒を振るう。

 怪我をすれば薬を塗られて、日が落ちれば小屋に戻る。

 壁は薄いし、隙間風も入る。

 雨の日は音がうるさくて雨漏りするし、床だって硬い。


 それでも、私には十分だった。

 帰る場所があるというだけで、前とは全然違った。

 外へ出ると、師匠(せんせい)は小屋の脇で薪を割っていた。 陽がまだ低くて、斧を振るうたびに影が長く揺れる。

 私が桶を持って水場の方へ向かうと、一度だけこちらを見た。


「寝癖」


「ほっといて」


 反射的に返したら、鼻で笑われた。

 腹が立つ。

 でも、そういうやり取りをする程度には、もう馴れ合っていた。


 水を汲んで戻ると、鍋が火に掛けられていた。

 中身を詳しく確かめたことはない。

 匂いも、正直おいしそうではない。

 それでも黙って器によそって食べる。

 文句を言えば、なら食うな、で終わるのは分かっていた。

 いつか、私が料理を覚えてみてもいいかもしれない。


「おい、やるぞ」


 そんなことを考えながら食べ終える頃、師匠(せんせい)が言った。

 私は器を置いて、壁に立てかけてあった木の棒を手に取る。


「今日は当てるから」


「毎回言ってるな」


「今日は本当」


 言い返しながら外へ出る。

 痛いし、きついし、悔しい。

 それでも嫌だと思ったことはなかった。

 強くなれれば、師匠(せんせい)の邪魔にはならなくなる。

 せめて、自分の身は自分で守れるようになりたかった。

 小屋の裏手は少しだけ開けていて、棒を振るうにはちょうどよかった。


「来い」


 言われて踏み込む。

 木の棒はあっさりいなされる。

 次の瞬間には足を払われて、私は地面に転がっていた。


「……いた」


「立て」


「ちゃんと教えてよ」


 鍛錬といっても、師匠(せんせい)はろくに教えてくれない。

「来い」、そして「立て」、それ以外の言葉をほとんど聞いたことがなかった。


「その棒切れを俺に当てればいい。簡単だろ? それくらいできないと、戦ったって死ぬだけだからな」


 冷たい言い方だった。

 でも、私が立ち上がるのを待っている。

 棒を構え直せば、また相手をしてくれる。

 それだけで十分だった。


 構えると、師匠(せんせい)の背後を見つめてみる。

 思うに、目線で動きを読まれている気がする。

 いつまでたっても打ち込まない私に、師匠(せんせい)が怪訝な顔をして視線の先に目をやる──。


「今ッ」


 打ち込みは鋭い風切り音と共に空振りし、いつの間にか背後にいた師匠(せんせい)に背中を小突かれて、私はまた地面を転がることになった。


「ちゃんと後ろにも注意を払わないとな。でも、今のは少しだけ良かった」


 思わず泥のついた顔を上げる。

 でも師匠(せんせい)はもう次の構えを取っていた。


「もう一度」


 私は慌てて棒を握り直した。

 さっきまで痛かった腕が、少しだけ軽くなった気がする。

 鍛錬が終わる頃には、腕も足も鈍く熱を持っていた。

 膝は擦りむいているし、手のひらもじんじんする。

 でも悪い気分じゃなかった。

 “少しだけ良かった”、その言葉が頭の中で何度も繰り返されていたからだ。


 小屋へ戻ると、師匠(せんせい)は何も言わずに私の腕を取った。

 傷を診るためだと分かっていても、不意に触れられると少しだけ落ち着かない。

 顔が熱を持っていた。

 いつもの変な匂いの薬を指に取って、擦り傷へ塗り込んでいく。


「しみる」


「そうか」


「もっと優しくしてほしい」


「してるだろ」


「うそ」


 言いながら見上げると、師匠(せんせい)は困った顔をしながら、手を動かしていた。

 本当に少しだけ手加減しようとしていた。

 たぶん、これでも。

 塗り終えると、今度は水の入った器を寄越された。

 私はそれを受け取って飲んだ。

 ぬるい。

 ぬるいけれど、文句を言ったら次から自分でやれと言われる。

 だから黙って飲む。


 飲み終えたあと、桶を師匠(せんせい)に返そうとしたが、差し出したはずの桶は床に落下し、大きな音を立てた。

 床が傾いたのかと思った。

 でも違う。

 何も考えられないし、頭が割れるように痛かった。


「……?」


 身体が支えられ、額に手を当てられる。

 師匠(せんせい)の手だった。

 大きくて、硬い手だった。

 熱のある額には、その温かさが曖昧に感じたのは、何だか損をした気がした。


「熱いな」


 短く言われる。

 私は眉を寄せた。

 さっきから顔が熱いと思っていたけど、どうやら発熱のせいだったみたい。

 これじゃあ、本当に足手まといだ。


「熱くない」


「子どもならよくあることらしい」


「熱くないッ」


「そうか。じゃあ立ってろ」


 立っていたかった。

 でも身体が妙に重い。

 言い返そうとして口を開いたのに、その前に膝から力が抜けた。


 次に気づいた時には、私は寝床の上にいた。

 薄い布がかけられていて、戸口は半分だけ開いている。


 師匠(せんせい)の姿は見えない。

 胸の奥がひやりとする。

 さっきまでいたのに、と思う。

 出ていくことくらいあると分かっているのに、熱のせいか、それだけで息が詰まりそうになった。


 けれど、すぐ外で水の跳ねる音がした。

 続いて、足音。

 私はそれだけで安心して、また瞼を閉じた。

 戸が軋んで、師匠(せんせい)が戻ってくる。

 薄目を開けて確認すると、 器と布を持っていた。

 私が起きていることに気づくと、何も言わずにそばへ来て膝をつく。

 絞った布が額に乗る。

 ひやりとして、気持ちよかった。


「……つめたい」


「そうだろ。熱があるときはこうするといいらしい」


 いつも通りの声だった。

 でも、ちゃんと冷たい水を汲んできてくれたのだと思うと、それだけで胸の奥があたたかくなる。


「飲め」


 差し出された器から、苦い匂いがした。

 私は露骨に顔をしかめる。


「嫌ならいい」


「飲む……」


 少しだけ口に含んだ瞬間、顔が歪んだ。

 思った以上に苦い。

 師匠(せんせい)はそんな私を見て、呆れたように息を吐いた。


「子どもか」


「子どもだもん……」


 そう返したら、師匠(せんせい)は何も言わなかった。

 代わりに、器を持つ手が少しだけこちらへ寄せられて、飲みやすいように傾けられた。

 喉を通るたびに苦くて泣きそうになる。

 それでも飲み終わるまで、師匠(せんせい)は器を引かなかった。


「……えらい」


 ぽつりと落ちた言葉に、私は目を瞬いた。


「……子ども扱い」


「子どもだろ」


 さっき自分で言ったくせに、そう返されると悔しい。

 でも、その悔しさは嫌なものじゃなかった。

 熱のせいか、昔のことを少しだけ思い出した。

 母が生きていた頃のこと。

 身体を寄せ合って眠ったこととか、頭を撫でられたこととか、そういう細切れの記憶だ。

 それより前のことは、もうほとんど覚えていない。


 私は、また薄く目を開けた。

 目の前には師匠(せんせい)がいる。

 どこにも行かないで、そこにいた。


「……師匠(せんせい)


「なんだ」


 すぐに返事が返ってくる。 それが嬉しくて、少しだけ笑いそうになった。


「ひとつ、聞いてもいい?」


「話せ。そしてさっさと寝ろ」


 熱を出している相手にもそう言うのかと思ったけれど、たぶんこれが師匠(せんせい)なのだ。

 私は身体に掛かっている布を顎まで引き上げて、少しだけ息を整えた。


「……おとーさん、って呼んでもいい?」


 言った途端、急に恥ずかしくなった。

 熱のせいだと思われるかもしれない。

 変なことを言ったと思われるかもしれない。

 嫌だと言われたらどうしよう、と遅れて怖くなる。


 師匠(せんせい)は何も言わなかった。

 その沈黙が、今度は少しだけ長く感じた。

 私は耐えきれなくなって、ぎゅっと目を閉じた。

 けれど返ってきた声は、いつも通りだった。 


「好きにしろ」


 拍子抜けするくらい、あっさりした言い方だった。

 もっと驚かれると思っていた。

 呆れられるか、聞き返されるか、何かあると思っていたのに、師匠(せんせい)は額の布の位置を直しながら、それだけ言って終わりにしてしまった。

 でも、私にはそれで十分だった。


「……おとーさん」


 試すように、そっと呼ぶ。

 師匠(おとーさん)は一度だけこちらを見た。

 その目が少しだけ細くなった気がしたけれど、熱のせいでよく分からなかった。


「なんだ」


 胸の奥が、きゅっと縮む。

 苦い薬を飲んだばかりなのに、変に甘いものを口にしたみたいだった。


「ううん。呼んでみただけ」


「そうか」


 それだけ言って、師匠(おとーさん)は壁にもたれた。

 私が眠るまでそこにいるつもりなのだと分かる。

 それが分かった瞬間、急に安心して、重たかった瞼が下りてきた。


「おやすみ……おとーさん」


 今度は少しだけ間があった。


「早く寝ろ」


 ぶっきらぼうな声だった。

 でも、追い払うような響きじゃなかった。

 私は目を閉じた。

 額の布はまだ冷たくて、呼んだばかりのその名前だけが、熱の残る頭の中で何度も静かに響いていた。

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