4-2. 生地探し
「実は母が倒れてから、自宅の方に工房を移していたんです」
男性はそう言うと、三人を温かく手招きして工房内へと招き入れた。
「ああ、自己紹介が遅れましたね。僕はハンネス。今は主に僕が裁断と仕立てを行なっています」
三人が順に自己紹介し、ハンネスは作業場の奥にあるリビングへと案内してくれた。
「あの……事前のご連絡もなく、突然押し押しかけてしまって申し訳ありません」
マガレットが深々と頭を下げて平謝りすると、ハンネスは気にした様子もなく「いいえ」と手を振った。
「むしろ、今の移転先をお知らせしていなかったのに、よくここまで辿り着けましたね。そちらの方が驚きですよ」
ハンネスの感心したような言葉に、マガレットは隣のフェリシアへ「本当にありがとうね」と感謝の言葉を囁いた。
「母が倒れた際、足腰を痛めてしまって……今はデザインの発案や、座ってできる縫い付け、刺繍などを手伝ってもらっているんです。……母さん、今いいかい?」
ハンネスが奥の部屋に向かって声をかけると、杖をついた中年ほどの女性がゆっくりと姿を現した。
「ハンネス、お客様……?」
「ああ、以前母さんが話していた文通相手の方だよ。王都から遠ばるばる来られて……」
「あっ……マガレット・ランカスターと申します。昔は手紙越しに、裁縫の技術や知識をたくさん教えてくださり、本当にありがとうございました」
マガレットはその場で深く腰を折った。
「……貴女が、あのマガレットさん? ええ、覚えているわ。とても熱心に針仕事の質問を寄せてくださっていたもの。今も裁縫は続けていらっしゃるの?」
シルヴィアはマガレットの双方の手をそっと包み込み、懐かしむように優しく目を細めた。
「……実は、結婚を機に一度やめてしまって……。その結婚も、立ち消えになってしまったのですけれどね」
ぽつりと寂しげに打ち明けたマガレットの手に、シルヴィアは「そうだったのね……」と温かな力を込め直した。
「つらい思いをなさったのね……。けれど、こうしてまた遠くから私を訪ねてきてくれた。それだけで、貴女の針への想いが途切れていない証拠よ。よくいらっしゃいましたね」
シルヴィアの慈愛に満ちた言葉と手のぬくもりに、マガレットの瞳がじわりと熱く潤んだ。
◇
「本当はゆっくり昔話でもしたいところなのですが、実は今、オペラの衣装納品に追われていまして……。母さん、頼んでいた分の刺繍はできそうかい?」
「それがね、今日はどうにも手が震えてしまって、なかなか進まないのよ……」
申し訳なさそうに俯くシルヴィアの姿を見て、マガレットがすっと一歩前に出た。
「あの……よろしければ、私が少しお手伝いしてもよろしいでしょうか? どこまでお役に立てるかは分かりませんが……」
その申し出に、シルヴィアの表情が一気に明るくなった。
二人はすぐに工房へと移動し、依頼されている衣装の刺繍を互いに並んで楽しそうに刺し始めた。
「ここの近くに大きな劇場があるのはご存知ですか? あそこで近々、新作オペラの上演があるんです。その衣装仕立てをずっと任されていましてね。母が現役だった頃は納期にも余裕があったのですが、僕一人になってからはどうしても手が回らなくて……」
ハンネスが苦笑いを浮かべながら説明する。そして、ふと立ち尽くしていたエーリヒの体格に視線を留めた。
「……そちらのお二人にも、ひとつお願いをしても良いでしょうか? エーリヒ殿とおっしゃいましたか。もしよろしければ、このオペラ衣装のトルソー(型取り)役を引き受けていただけないでしょうか。ちょうど、君とほとんど同じ身丈と体幅の演者さんでして……」
応じたエーリヒの全身に、ハンネスが手際よくメジャーを当てていく。時折「すみません、そこの先端を押さえていてもらえますか」と頼まれたフェリシアが、採寸を手伝いながら数値を手帳へとスラスラ書き留めていった。
作業の途中、フェリシアの指先が、布越しにエーリヒの胸元や肩にそっと触れる。
息を呑むような彼女の小さな呼吸が、すぐ間近から聞こえていた。
(……トルソー役というのは、想像以上に理性を試されるな……)
湧き上がる動揺を必死に押し殺しながら、エーリヒは思わず顔を伏せてそっぽを向いた。
「仕立てというものは、本当に緻密で大変な作業ですのね……」
計測のメモをハンネスに渡し終えたフェリシアは、まるで一仕事終えた後のように息を吐き、ぽつりと呟いた。
その直後、奥の作業場からシルヴィアの感嘆の声が響いた。
「マガレットさん、見事だわ! 長いブランクがあるだなんて信じられないほど、なんて美しく繊細な針運びでしょう!」
シルヴィアの言葉を聞いてハンネスも手元を覗き込むと、その迷いのない素早い手裁きと完璧な仕上がりに、思わず息を呑んだ。
「素晴らしい……! 正式に報酬をお支払いして手伝っていただきたいくらいだ。……なんて、観光でお越しになった方にそんな失礼なことは言えませんね」
ハンネスが半ば本気混じりの冗談として笑うと、褒められたマガレットは頬を染めながらも、凛とした声で口を開いた。
「もしフェリシアさんとエーリヒさんが許してくださるなら……アウグスリンゲンに滞在している間、私、ここで作業をお手伝いしたいです!」
「私たちはマガレット様の付き人と護衛ですので、マガレット様のご意向にどこまでもお供いたしますわ」
フェリシアが温かく微笑みかける。
ハンネスは驚きのあまりしばし言葉を失っていたが、やがて力強く頷くと、「ぜひ、お願いします!」とマガレットの手をしっかりと握り返した。
「まあ、嬉しいわ! マガレットさんと一緒にまた服が作れるなんて」
シルヴィアも嬉しそうに胸の前で手を合わせた。
その日は夜が更けるまで全員で工房の作業に没頭し、三人は予約していた旅籠屋へと満足感とともに足を運んだ。
◇
「そういえば、この衣装を使用するオペラはどのような演目なのですか?」
翌朝、再び工房に詰めて忙しなく手を動かしていた際、マガレットがふと尋ねた。
「ああ、そういえばまだお伝えしていませんでしたね。今回は『椿姫』という演目なんです。ご存知ですか?」
「まあ……! あの華やかなオペラですのね! 嬉しいわ、まさかあんな素晴らしい作品の衣装作りに携われるなんて」
マガレットの表情が一層晴れやかに華やぐ。彼女は思い出したように、自身の鞄から一冊の革押し帳を取り出した。
「私、昔裁縫に没頭していた頃、気に入った生地の端切れをこうしてスクラップにして集めていたのですの。この中に、『椿姫』に絶対似合うと思った生地があったはず……これですわ!」
マガレットが取り出したのは、深紅の光沢を纏った、吸い付くように滑らかな生地の見本だった。
「舞台の照明を浴びれば、間違いなく美しく映えるはずですわ。この生地を衣装に使用するのはいかがでしょうか?」
「確かに……目を見張るほど素晴らしい肌触りと滑らかさだ。真っ赤なドレスなら『椿姫』の舞台に完璧に映えると思う。……けれど、これほど上質な生地を扱っている工房は極めて限られているはずだ。僕たちのような小さな工房に卸してもらえるかどうか……」
ハンネスの顔に影が落ちる。
「そうですのね……」
マガレットがしょんぼりと肩を落とすと、見せておくれとシルヴィアがその生地を手に取った。
「なるほどね……この独特の艶と繊細な織りは、間違いなくウェバーの工房の品だわ。昔、取引したことがあるの。ただ……どこに工房を構えていたかしらねぇ……」
シルヴィアが腕を組んで記憶を辿ろうと首をひねる。
「……なぁフェリシア、君の地理の知識で、その工房の場所が分かったりしないか?」
エーリヒがフェリシアの耳元へ身を寄せ、密やかに囁いた。
「……いくら私でも、生地工房の場所までは把握しかねますわ……」
眉をひそめて考え込んでいたフェリシアだったが、やがて工房内に置かれていた複数の生地を見比べながら、ハンネスたちへ問いを投げかけた。
「生地の質感や染色の発色というのは、使用する『水』の水質によって変化するものなのでしょうか?」
「ええ、劇的に変わりますよ! 軟水か硬水か、鉄分の含有量、あるいはアルカリ性か酸性か……それらの条件の違いで、色合いも肌触りもまったく別物になるんです」
「そんなにも変わるものなのか……」
専門的な職人の話に、エーリヒが感心したように呟く。
「では、この見本の生地の場合、軟水と硬水のどちらを用いて作られたものだと思われますか?」
「これほど鮮やかで濁りのない澄んだ発色なら、間違いなく軟水でしょうね。あっ……なるほど!」
フェリシアの質問の真意に気づき、ハンネスがハッと目を見開いた。
「フェリシア、水質から何が分かるんだ?」
疑問を口にするエーリヒに、フェリシアは論理立てて説明を始める。
「アウグスリンゲンを流れるレヒ川は、アルプス山脈の石灰岩層を通って流れてくるため、カルシウムを多く含んだ硬水なのですわ。したがって、川沿いに立ち並ぶ一般的な染色工房では、この極上の発色を生み出すことは不可能です」
「……なるほど。では、その軟水はどうやって確保しているんだ?」
「ひとつは砂利層を天然のフィルターとした良質な湧き水。そしてもうひとつは……雨水ですわ」
「雨?」
「ええ。大気中の二酸化炭素をほどよく含んだ雨水は、弱酸性の素直な軟水なのです。これを広大な湖や溜め池で集め、染色に利用しているはずですわ」
フェリシアのロジックを聞いたハンネスは深く考え込み、やがてポンと手を打った。
「……確か、下流の城壁の近くに、川とは独立した小さな湖があったはずだ……! 敷地の裏手で雨水を溜めていると聞く。もしかすると、そこにウェバーさんの工房があるかもしれません!」
マガレットの瞳にパッと希望の光が灯った。
「私……! 行ってまいりますわ! 今からそこへ伺ってもよろしいでしょうか!?」
「……ただ、下流は染色の独特の匂いや廃液の処理で、あまり衛生環境が良い場所ではありません。そのような場所に君を行かせるには…」
「大丈夫ですわ! 自分のこの目で確かめて、心から納得できる生地を選び抜きたいのです……!」
マガレットの瞳に宿る揺るぎない意志に打たれ、ハンネスも力強く頷いた。
「見せていただいた生地は、間違いなく今回の『椿姫』を最高のものにしてくれます。どうか、仕入れてきてはいただけないでしょうか!」
「まあ……! フェリシアさん、エーリヒさん、よろしければ生地探しの道中にお付き合いいただけないでしょうか?」
フェリシアとエーリヒが温かく微笑んで頷くと、三人はすぐさま工房を後にした。
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