3-4. 夜の散歩
長かった一日が、ようやく静かな幕を閉じようとしていた。
ストラスブルクに到着してからというもの、画廊での情報収集に始まり、絵画が描かれたロケーション探し、そしてセドリックの部屋での借金取りとの予期せぬ戦闘――。怒濤のように押し寄せた出来事に、流石のエーリヒも肉体的な疲労を隠せずにいた。
旅籠の部屋で上衣を脱ぎ、ベッドの縁に腰掛けて深く息を吐き出していた、その時だった。
トントン、と遠慮がちなノックの音が静かな室内に響いた。
扉を開けると、そこには身支度を整えたフェリシアが立っていた。日中の疲れなど微塵も感じさせないほど、その瞳は好奇心に満ちたようにキラキラと輝いている。
「……エーリヒ様、夜分遅くに申し訳ありません。その……ストラスブルク大聖堂を見に行きませんこと?」
「大聖堂かい? この時間から?」
「ええ。月明かりに照らされる大聖堂の姿を、ぜひこの目に焼き付けたいのですわ。……流石に、昼間のような騒ぎの後はご迷惑でしょうか?」
申し訳なさそうに小首をかしげるものの、溢れ出る期待を隠しきれていない。普段は知的で冷静な彼女が時折見せる、この素直な好奇心に、エーリヒはいつも毒気を抜かれてしまう。
夜の異国で令嬢を一人歩きさせるわけにはいかない。エーリヒは脱ぎかけた上衣を再び羽織ると、苦笑交じりに頷いた。
「いや、構わないよ。夜道は危険だから一緒に行こう。フロントで明かりを借りてくるから、少し待っていてくれ」
旅籠屋のフロントから真鍮製のランプを借り受け、二人は静まり返った夜の街へと踏み出した。
ストラスブルクの街並みは月や家々の明かりで照らされて情緒あふれる輝きを放っていた。昼間の賑やかさが嘘のように失われたストラスブルクの街並みは、月光と家々の窓から漏れる淡い灯火に包まれ、まるで絵画の中の世界のような幻想的な情景を醸し出している。足元で規則正しく鳴る二人の靴音だけが、静寂な石畳の通りに響き渡っていた。
「綺麗ですわね……。昼間とは全く表情が違いますのね」
嬉しそうに周囲の意匠や木組みの影を見渡すフェリシア。
(…やっぱり純粋に建物や風景が好きなのだろうな)
エーリヒは月明りに照らされたフェリシアの横顔を見つめる。
「……こうして落ち着いて街を歩けるのも、彼のおかげかもしれないな 」
「彼、ですか?」
「ああ。レオンのことさ。強引なところはあるけれど、あの行動力と決断の速さには感心させられるよ。……頼もしい商人だ」
エーリヒは自嘲気味に小さく笑うと、ランプの灯りを少し強くした。その淡い光に照らされるフェリシアの表情を確かめるように、視線を落とす。
「彼とは……昔から、あのように気兼ねなく話す間柄だったのかい?」
「ええ、幼馴染ですから。……でも、昔はよく喧嘩をいたしましたわ」
フェリシアはふっと遠くを見るような、どこか寂しげな瞳で小さく息を吐いた。
「昔から私が各地の地理や歴史、文化の本ばかり読んでおりますと、レオンを含め周りの誰もが笑いましたの。『令嬢がそんなものを覚えて何になるんだ』『刺繍や茶会の作法でも覚えていればいいのに、変な子だ』と……。レオンも『そんなマニアックな知識、何の役にも立たないぞ』と、いつも呆れておりましたわ」
夜風が彼女の柔らかな髪を揺らす。フェリシアは自嘲気味に目を伏せた。
大好きな地理知識を「無駄」「令嬢らしくない」と決めつけられ、誰にも理解されず、周囲から浮いてしまっていた幼少期の孤独。
二人の間に、しばしの静寂が訪れる。
エーリヒはフェリシアをフォローしようと何か言いかけたときーー。
彼女は不意にエーリヒを覗き込むようにしてはにかむように微笑んだ。
「エーリヒ様は最初、私の地理知識を疑いつつも、その後ずっと感心してくださり、私に頼ってくれたじゃありませんか。それはちょっと……嬉しかったですわ。私の知識は間違いではなかったのだと思えましたの」
「――っ」
その瞬間、エーリヒの胸の奥で、ドクンと大きな脈打ちが弾けた。
彼女はただ己の探究心と興味だけで動いているのだとばかり思っていた。まさか、自分に頼られたことそのものを、そんな愛おしそうな顔で「嬉しかった」と思ってくれていたなんて――。
急激に熱を帯びていく頬と、早鐘を打つ心臓。
護衛としての冷静さを保てなくなるほどの動揺に、エーリヒは必死で前を見据えた。幸いにも、ランプの淡い光と夜の深闇が、赤くなった自分の顔を覆い隠してくれていた。
「ふふっ! 見えてまいりましたわ! あれがストラスブルク大聖堂です!」
動揺を隠しきれないエーリヒの隣で、フェリシアが弾んだ声を上げた。
夜空を突き刺すように聳え立つその威容は、圧倒的な存在感を放っていた。
「見てくださいませ! ヴォージュ山脈から切り出された赤砂岩で造られた、このほんのりとしたピンク色の外壁! 月光を浴びて、まるで生きているかのように彫刻が浮かび上がっていますわ! 月明かりで照らされているとはいえ昼間にも見に来たかったですわ!!」
フェリシアは興奮冷めやらぬ様子で周囲を見渡していた。中にはいることができなかったため二人は大聖堂の周りを歩き回り、繊細なレリーフを見上げては彼女は歓声を上げている。
そんな彼女の全身から溢れ出る喜びを見つめているうちに、エーリヒの胸の奥にあった動揺は、じんわりとした温かい愛おしさへと変わっていった。
「やはりストラスブルク大聖堂は素敵ですわ!来れて満足です」
夜風に揺れる髪をそっと手で押さえながら、満面の笑顔を向けてくるフェリシア。
「……ああ、そうだね。連れてきて良かったよ」
エーリヒは優しく目を細め、彼女の小さな肩に寄り添うようにして、温かな余韻の残る旅籠への帰り道を歩み始めたのだった。
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