第9話 学園七不思議
私立・霞陵学園高等学校。
この地域の中堅の進学校として名高い同校の敷地内には、対照的な二つの体育館が鎮座している。
一つは冷暖房を完備し、床のコーティングも真新しい『新体育館』。
主にバスケットボール部やバレーボール部といった室内球技部が拠点とする、活気に満ちた空間だ。
そしてもう一つが、敷地の外れにひっそりと建つ『旧体育館』である。
外壁は黒ずみ、ツタが這うその建物は、主に剣道部や柔道部などの武道系が使用する年季の入った代物だった。
新体育館の鍵は各部の顧問が厳格に管理し、最終下校時刻には鉄壁の施錠がなされる。
対して、旧体育館の分厚い鉄扉に鍵がかかっているのを、いまだかつて誰も見たことがないのだ。
管理がずさんなのだ。
鍵が存在しないという噂すらある。
夏休み真っ只中、うだるような暑さの午後。
この日、バスケ部の練習はオフだったが、蒼汰は新体育館の二階ギャラリーに腰を下ろしていた。
眼下では、幼馴染の月乃が所属する女子バドミントン部が練習に励んでいる。
それをただ、手持ち無沙汰に眺めていたのだ。
しかし、冷静に考えれば、それは完全な悪手であった。
女子バドミントン部の部員は、月乃を含めてわずか五名。
そんな少数精鋭(弱小部)の女子高生たちの聖域とも言える練習空間に、一年生ながらバスケ部の次期エースと目され、身長一七九センチという恵まれた体躯を持ち、顔も良い蒼汰が一人、無言で居座っているのだ。
「……ねえ、海老山くんずっとこっち見てない?」
「えー、やっぱり月乃の彼氏?」
「ちょっと、シャトルそっち飛んでったよ! 集中して!」
コートからは、クスクスという押し殺した笑い声や、あからさまに蒼汰を意識した黄色いざわめきが、シャトルの打撃音よりも大きく響いてくる。
(……あー、気まずい。死ぬほど気まずい)
針のむしろとはまさにこのことだ。
女子特有の好奇の視線に耐えきれなくなった蒼汰は、逃げるように新体育館のギャラリーを後にし、逃避先として、誰もいない旧体育館へと足を向けた。
旧体育館の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
内部は、古い木材が極限まで乾燥した匂いと、長年床に塗り重ねられた武道用のワックスの匂い、それに染み付いた剣道部の防具の酸味が強い匂いが渾然一体となって漂っている。
誰もいない静寂の空間。
だが、ここにはバスケ用のリングが備え付けられている。
蒼汰は薄暗い体育準備室から、古びたバスケットボールを一つ引っ張り出すと、一人黙々とシュート練習を始めた。
ダム、ダム、というドリブルの重い音が、ドーム状の薄暗い天井に反響しては落ちてくる。
ギュムッ、と上履きが床を鳴らす摩擦音だけが、今の蒼汰の話し相手だった。
ディフェンスは誰もいない。
一人きりだからこそ、実戦ではリスクが高くて試せない動きに挑戦できる。
蒼汰はトップの位置から一気に加速し、フリースローラインの少し先で力強く踏み切った。
全身のバネを解放し、高く跳躍する。
ボールを掴んだ右腕を空中で大きく引き絞り、リングに向かって力強く振り下ろした。
――ガツンッ!!
リングが激しい金属音を立てて大きく揺れ、ボールが勢いよくネットを通過して床に弾んだ。
一七九センチという身長と並外れた身体能力をもってしても、実際の試合中にダンクを決められたのは中三の時の一度きりだ。
しかし、この誰もいない、プレッシャーの欠片もない空間では、見事な軌道を描いて成功した。
「さすが次期エース。かっこいいね」
不意に、背後から澄んだ声が響いた。
驚いて振り返ると、入り口の引き戸の前に、練習を終えたらしい月乃が立っていた。
白いポロシャツに紺色のショートパンツというバドミントン部のユニフォーム姿。
首には水色のスポーツタオルを巻き、頬は汗でほんのりと桜色に上気している。
ほのかに、風に乗って制汗剤のシトラスの香りが漂ってきた。
「終わったのか?」
蒼汰が尋ねながら壁の丸時計を見上げると時刻は『15:30』を指していた。
「うん、これで終わり」
月乃は軽い足取りで、コートの真ん中あたりまで歩み寄ってきた。
西日が体育館の高い窓から斜めに差し込み、磨き上げられた床に長い光の筋を作っている。
他に人はいない……平和で穏やかな夏の午後――そのはずだった。
「じゃあ、帰るか。ボール片付けるからちょっと待ってて」
蒼汰が足元に転がってきたボールを拾い上げ、体育準備室へ向かおうと背を向けた――その瞬間だった。
(……っ!?)
ぞくりと、全身の皮膚が泡立った。
それは、自宅で何度も遭遇した、あの『下半身だけの怪異』が出現する直前に肌で感じた感覚に、酷似していた。
いや、違う……濃度が……不快感の純度が全く違う。
空気が急激に質量を持ったかのようにのしかかり、耳の奥で「キィィィン……」という不快な高周波の耳鳴りが脳髄を直接突き刺してくる。
まるで、人肌の泥水の中に全身を沈められたような、息苦しいほどの圧倒的な「不自然な圧力」。
ミシリ……ミシリ……。
旧体育館全体が、見えない巨大な水圧のような圧力に外側からギリギリと握りつぶされているかのように、建材の軋む不気味な悲鳴を上げ始めた。
「蒼汰……、早く行こう……!」
コートの中央に取り残された月乃も、ただならぬ異界の空気に気づき、顔から血の気を完全に失わせて叫んだ。
すぐさまボールを放り出し、月乃の手を引いて全速力で逃げるべきだった。
しかし、スポーツマンとしての「使った道具は所定の位置に戻さなければ次の人が困る」という骨の髄まで染み付いた習性が、一瞬だけ、ほんの数秒だけ蒼汰の判断を遅らせたのだ。
蒼汰は咄嗟にボールを体育準備室の暗がりへ向かって雑に投げ入れると、踵を返し、全速力で月乃の方へダッシュした。
まだ、目に見える「何か」は現れていない。
ただ、耐え難いほどの重い空気が、足元から這い上がるように澱んでいるだけだ。
15時半の旧体育館……高い窓からは明るい夏の日差しが間違いなく差し込んでいるというのに、その光すらも『闇』に食われ、視界全体が急速にセピア色へと色褪せていくような錯覚に陥る。
蒼汰が月乃の目の前に辿り着き、その震える細い手首をガシッと掴んだ、その時だった。
――バァァァァァーーン!!!
鼓膜を物理的に破るかのような轟音。
換気のために開け放たれていた三箇所の重厚な鉄扉が、まるで一斉に見えない誰かに蹴り飛ばされたかのように、同時に、そして暴力的な速度で閉まった。
「――っ!」
蒼汰は月乃の腕を強く引き寄せ、最も近い出口へ向かって走り出そうとした。
だが、足が床に縫い付けられたように動かない。
足だけではない……腕も……首も……指先すらも。
全身がピクリとも動かなくなってしまった。
(金縛り……!)
隣に立つ月乃も、全く同じ状態のようだった。
見開かれた目は極限の恐怖に染まり、声すら出せずに微かに唇をヒクヒクと震わせている。
蒼汰は、昨夜の父・義明の言葉をフラッシュバックさせた。
『あれが来た時にだな、お腹にぐっと力を入れて「ふんっ」と気合いを入れると、その重い雰囲気がパッと消え去るんだ』
蒼汰は丹田にすべての意識を集中させ、心の中で絶叫した。
(フンッ!! ふざけんな、動けッ!!)
しかし――現実は残酷なまでに何も変わらない。
(父さん……いや、オヤジ……気合いで金縛り解除なんて出来ねぇよ!!)
――――刹那。
二人の周囲、旧体育館の広大な木張りの床一面に、突如として『それら』が泥水のように湧き出した。
それは夥しい数の、旧日本軍の負傷兵たちだった。
軍服は泥と赤黒い血で汚れきり、原形を留めていない。
右腕が肩の根元から引きちぎられ、不揃いな肉の断面からどす黒い血が脈打つように溢れ出ている者。
下顎が完全に吹き飛び、舌だけが喉の奥からだらりと垂れ下がって、いくつかの歯がプラプラとぶら下がっている者。
首が異常な角度で折れ曲がり、千切れた頸動脈と皮一枚で繋がった頭部を、胸元にぶら下げ、破れた頸部から、ピューピューと血を吹き出している者。
全身が炭のように黒焦げになり、今なお肉の爆ぜる「パチッ、パチッ」という音と共に、チロチロと青白い炎と焦熱の煙を燻らせている者。
ざっと見積もっても、百はくだらない。
その無数の亡霊たちが、床を埋め尽くすように這いずり、虫が蠢き溢れ……ズルズル、ベチャア……と、肉と血が床に擦れるおぞましい音を立てながら、こちらへ向かってじりじりと距離を詰めてくる。
『……ォ……ォォ……』
『……イタイ……イタイ……ハハァ……ハァ……』
『……クルシイ……ミズ……クダサイ……オカア……』
怨嗟……絶望……呪詛……そして狂気。
蒼汰と月乃の脳裏に、学園で囁かれる噂話が同時にフラッシュバックしていた――『七不思議・旧体育館に出る兵隊の霊』。
だが、目の前で蠢くそれは、友人たちが面白半分に語るような浮世離れした馬鹿馬鹿しい怪談などでは断じてない。
圧倒的な死の気配を伴った、まごうことなき本物の地獄絵図であった。
鉄錆のような強烈な血の臭いと、肉が焦げる甘ったるい異臭、そして鼻の奥にこびりつくような凄まじい腐敗臭……生魚を夏場に放置したあの匂いを数倍に濃縮した液体に近い濃度の臭気……呼吸をするだけで、勝手に喉がえずいてしまう。
ピタッ、ペタ、ピタッ
天井から、何か生温かく、粘着質な液体が落ちてきた。
上を向くことはできない。
恐怖で固まった目玉だけを限界まで動かして視線をやると、月乃の腕を掴んでいる自分の手首に、粘り気のあるドス黒い血液がべっとりとこびりついているのが見えた。
いや、血液だけではない。
そこには、少し青みがかった親指大の肉の破片が混ざっていた。
フライドチキンを食べると、たまに肉の端についていたような……青がかったグレーのそれ……おそらくはちぎれた内臓の一部だ。
それが、蒼汰の体温でじゅわりと嫌な熱を帯びる。
さらに最悪なことに、その肉塊の表面には、半透明の白い米粒のようなものが数十個、びっしりと付着している。
よく見れば、それは少しずつピクピク、ウネウネと蠢き始め――それが孵化したばかりの無数のウジ虫であると、脳が否応なしに理解してしまった。
「――ヒュウッ、ァ……」
隣で、限界を超えた月乃の喉から、悲鳴すらならない、引きつった風切り音が漏れた。
――――逃げられない。
蒼汰と月乃は絶望の中、立ち尽くすしかなかった。




