第10話 命をかける1クォーター
心が壊れる……このままでは、月乃の精神がこの異界の狂気に耐えきれず、完全に崩壊してしまう。
(動け……動けよ、俺の体……!!)
月乃を励ますため、せめて自分が盾になるため、月乃の腕を掴む自分の指先に、己の魂を削るような全身全霊の気迫を込めた。
(ふざけんな、触るな!!俺の……大切な月乃に触るなッ!!)
――その瞬間。
バチンッ、と、頭の中で張り詰めた強靭な金属の糸が切れるような音がした。
不可視の拘束が――――気合いで粉々に砕け散る感覚。
血流が爆発的に再開し、体に自由が戻った。
月乃はまだ、恐怖の泥沼に深く沈んだままだ。
蒼汰は咄嗟に月乃を強く抱き寄せ、彼女の顔を自分の胸に力強く押し付け、その凄惨な視界を完全に塞いだ。
ぐるりと周囲を見渡す。
床一面を埋め尽くす百を超える負傷兵たちは、地獄の苦しみを訴えるように呻き声を上げ、骨の剥き出しになった血濡れた手を伸ばしてきている。
だが、どうやら蒼汰たちに向かって俊敏に襲いかかってくる様子はない。
あくまで「その場でもがき苦しんでいる」という状態に近い。
蒼汰の脳内に、冷徹なバスケットプレイヤーとしての思考が蘇る。
(変則的なゾーンディフェンス……これを突破するルート……)
蒼汰は、床を這う兵隊たちの隙間――ディフェンスのわずかな隙間を縫って、最も近い鉄扉へと肉薄する最短ルートを、コート全体を俯瞰する「空間把握能力」で瞬時に選定した。
「月乃! しっかりしろ、俺を見ろ!」
亡霊たちの怨嗟の声と、肺をドロドロに溶かすような死臭の只中で、蒼汰は張り裂けんばかりの声を上げた。
崩れ落ちそうになる月乃の膝裏と背中に腕を回し、お姫様抱っこの要領で一気にこの場から離脱しようと全身の筋力をバネにする。
――――ズルッ。
しかし、蒼汰の腕の中から、月乃の身体は呆気なくずり落ちてしまった。
金縛りの後遺症か、あるいは極限の恐怖による完全な脱力か。
今の彼女の身体には芯というものが一切なく、まるでたっぷりと水が満ちた巨大なゴミ袋を持ち上げようとした時のように、重心が定まらないズルズルとした不気味な重さしか感じられなかった。
冷たく血生臭い床にへたり込んだ月乃の顔は、完全な絶望の底に沈みきっていた。
半ば開いたままの血の気のない唇はヒクヒクと痙攣し、焦点の合わない瞳孔が限界まで開いたまま、虚無の宙を彷徨っている。
異界の狂気に当てられ、精神が完全に決壊する一歩手前なのは誰の目にも明らかだった。
「くそっ、まだ金縛りが……!」
焦燥に駆られて吐き捨てた自分の声が、やけに鼓膜に響いた。
(声が、出た……?)
圧倒的な怨念の圧力に喉を締め上げられているような錯覚に陥っていたが、声帯が震えたことに蒼汰自身が一番驚いていた。
声が出せる――身体が動く――なら、やるしかない。
蒼汰は即座にお姫様抱っこでの運搬を諦めた。
体液と汚泥で滑る床に片膝を突くほど深くしゃがみ込み、月乃に背中を向ける。
「ごめん月乃、ちょっと乱暴にするぞ」
力なく垂れ下がっていた彼女の細い両腕を引き寄せ、無理やり自分の首に強く回させる。
そして、太ももを下から力強く持ち上げ、一気に立ち上がって背負い上げた。
ズン、と背中に月乃の全体重がのしかかる。
月乃は蒼汰の体を掴めない……このまま走ればバランスを崩す。
ずり落ちないよう、蒼汰は月乃の膝裏からさらに深く手を差し入れ、バウンドさせるようにして彼女の身体を自分の背中の上部へとしっかりと背負い直した。
――その際だった。
不意に、蒼汰の両手が月乃の柔らかい尻を、下からガッチリと鷲掴む形になってしまったのだ。
指先を通して、布越しに否応なく伝わってくるリアルで柔らかな弾力……好きな女子の尻を触った後悔……。
そして、死者の冷気に満ちた絶望の空間にあって、彼女だけが生きている……生きて脈打っている……汗ばんだ生々しい体温。
(やばっ……)
網膜に焼き付く凄惨な地獄絵図……鼻腔を犯す凄まじい死臭と肉の焦げる匂い……這いずり回る蟲……。
今まさに異形の者たちに命を刈り取られようとしている、絶望の淵。
そんな極限状態の只中においてすら、ほんの一秒手のひらに伝わった「月乃の尻の感触」に、一瞬だけ脳の処理がショートし、ドギマギと心拍数を跳ね上げてしまう。
いかなる絶望下でも機能してしまう、男という生き物の……あるいは思春期男子特有の抗う(あらがう)事の出来ない性。
蒼汰は、こんな状況で場違いにも指先に意識を集中させてしまった自分自身のバカさ加減に、心の中で思い切り渾身の往復ビンタを見舞った。
「よし、速攻だ!」
蒼汰は、血と体液、そして散乱する臓物と蟲で最悪に滑りやすくなった床を強く蹴った。
相手(亡霊)のガードは密だ。
亡霊が一斉に二人に向けて手を伸ばし始めた……やはり『害意』がある……。
前方に三体、右に二体が這いずり、蜘蛛のような動きで道を塞ぎにくる。
左へ重心を傾け、肩を大きく揺らしてステップを踏むフェイントをかける。
黒焦げになった兵士が、熱で溶けた腕を左へ伸ばしてきた瞬間――コンマ何秒のタイミングで、ボールを股下で通すかのように鋭く右へクロスオーバー。
「どけッ!!」
フェイントに引っかかった亡霊たちの、怨念のこもった冷たい指先をミリ単位で躱す。
前方に立ちはだかる下半身のない霊には、スピードを緩めずに突っ込み、相手が反応する直前にチェンジオブペースで一気に加速。
半壊した頭部をハードル走のように飛び越え、最短距離で鉄扉へと突き進む。
背中の月乃を落とさないよう、強靭な体幹でボディバランスを保ちながら、右へ左へと強引なユーロステップを刻み続ける。
亡霊の群れを置き去りにし、ついに扉の前に辿り着いた。
背中の月乃の重みに耐えながら、冷たい重厚な鉄のノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。
あんなに重い音を立てて閉まったはずの扉は、あっけないほど抵抗なく開いた。
外の眩しい光が差し込んだ瞬間、背後の月乃の首筋に向かって、黒焦げの腕が一本、死角から音もなく迫っていた。
「させねえよ!」
蒼汰は背後の気配を肌で感じ取り、月乃を背負ったまま、コンマ何秒の反射神経で身体を捻る。
迫る蟲の湧いた指を間一髪で躱し、遠心力を利用して外へ飛び出しながら――律儀に、そしてありったけの力を込めて、鉄扉を引き寄せた。
ガチャンッ!!!
分厚い鉄扉が完全に閉ざされた瞬間、鼓膜を劈くような怨嗟の声も、肺を焼く死臭も、嘘のようにパタリと途絶えた。
時刻は16時を少し回ったところ。
夏の強烈な西日が、無情なほど明るく、そして暖かく二人を照らし出している。
遠くからはグラウンドで練習する野球部の元気な掛け声と、サッカー部の怒号……そして、けたたましいほどの蝉時雨が聞こえてくる。
ここは、生者の世界だ。
背中で、月乃がヒック、ヒックと、声にならない声で啜り泣いているのがわかった。
彼女の熱い涙が、蒼汰の肩口のTシャツを濡らしていく。
自分にも月乃にも血や蟲は付いていない。
「……終わった。出られたぞ」
駐輪場までおんぶしたまま歩き、蒼汰はそっと月乃を地面に下ろした。
「歩けるか?」
「……うん」
月乃はこくりと頷き、自力で立とうとした。
だが、足をついた瞬間、生まれたての子鹿のように膝がガクガクと震え、そのままアスファルトにへたり込んでしまった。
完全に腰が抜けている……当然だ。
あんな常軌を逸した地獄絵図を至近距離で見せられたのだから。
蒼汰は短く息を吐き、ポケットからスマホを取り出すと、迷わず自分の母である月子に電話をかけた。
――――十五分後。
猛スピードで学校のロータリーに乗り付けてきた海老山家のファミリーカー。
その後部座席には、蒼汰の姉である蒼翠の姿があった。
ドアが開くや否や、月乃は泣きじゃくりながら蒼翠の胸に飛び込んで抱きついた。
運転席からは、母の月子が心配そうな顔を出して声をかけている。
「じゃあ、月乃の自転車は俺が乗って帰るから。二人を頼むよ」
蒼汰は自分の自転車を学校の駐輪場に置き去りにし、月乃のママチャリに跨って帰路に就いた。
明日、自分は歩いて登校すればいいだけだ。
部活は休みだが、どうせ月乃のバドミントン部に付き合わなければならないのだから。
一時間後。
すっかり日の落ちかけた海老山家に帰り着き、リビングの扉を開けた蒼汰は、我が目を疑う光景を目の当たりにして完全に硬直した。
「それでねっ!私がもうダメだってピンチになった瞬間、ソータが私を『月乃に手を出すなー』って、叫びながら、お姫様抱っこで軽々と抱き上げてくれたの!そのまま、すっごい数の亡霊たちをすっごい勢いで殴って!蹴り飛ばして!まるで王子様みたいに私を守って、強行突破してくれたんだから!」
つい先ほどまで腰を抜かして号泣していたはずの月乃が、シャワーを浴びて薄ピンク色の可愛らしいパジャマ姿に着替え、ソファーのど真ん中に陣取っていた。
しかも、ショートケーキを美味しそうに頬張りながら、身振り手振りを交えて大仰な熱弁を振るっているではないか。
「へぇ!ソウクン、そんなに強かったの!?」
夕飯前だというのにすでにビール缶をプシュッと開けている月乃の母・麗香が、ほんのり頬を赤らめて感嘆の声を上げる。
「すごいわソウクン。義明さん譲りの腕力ねぇ。頼もしいわ」
蒼汰の母、月子が疑うことを知らない天然の相槌を打ち、
「ソウクン、まさにナイト!ツッキーをかっこよく守るなんて……もう結婚しちゃいなよ!」
姉の蒼翠までが、目をキラキラさせて拍手喝采を送っている。
「…………」
蒼汰は玄関口に立ったまま、完全に呆気にとられていた。
たしかにお姫様抱っこは試みた。
だが、重くてあっけなくずり落ちただけだ。
亡霊を殴る蹴るなんて物理攻撃を一発もやっていないし、そもそも触れたくもない――亡霊は血に濡れて蟲が湧いているのだ。
ひたすらバスケのフェイント技術を駆使して逃げ回っただけである。
(月乃……どんだけ話盛ってんだよ……。俺……「月乃に手を出すな」とか言ってねぇし……つーか、恥ずくて言えねーし……)
嘘八百の武勇伝をドヤ顔で語る月乃と、それを一切の疑いもなく鵜呑みにする、ポンコツ天然トリオの三人。
先ほどの旧体育館での、血も凍るような怪異の恐怖などすっかり消え去った、平和すぎるリビングの惨状。
蒼汰は足が深く切り裂かれていることにまだ気が付かない……ただ深く、ただひたすらに深い溜息をついて、リビングの天井を仰いだのだった。




