第11話 夏の名残り
蛍光灯の白い光が、室内を隅々まで容赦なく照らし出していた。
八月も下旬に入り、夏休みも残り十日となった夜。
蒼汰の部屋にあるダブルベッドの上は、今夜も物理的な容量の限界を迎えている。
「……この前はかっこよかったよ。ありがとう、ソータ」
蒼汰の右腕にすがりつくようにして密着していた月乃が、蚊の泣くような掠れた声で呟いた。
薄ピンクのパジャマ越しに伝わってくる柔らかな体温と、彼女の頬が朱に染まっている気配が、肌を通して柔らかく伝わってくる。
「……何回目だよ、その話」
蒼汰は少し黄ばんだ天井の蛍光灯を見つめたまま、ぶっきらぼうに息を吐き捨てた。
胸の奥から湧き上がる気恥ずかしさを覆い隠すように、少しだけ声を低く落とす。
「いいって。男が女助けるのなんて、フツーだろ」
「普通じゃないよ……」
反対側の左腕にギュッと抱きついていた姉の蒼翠が、深く溜息をつきながら言った。
「亡霊の中で、ツッキーを背負って逃げ切るなんて、絶対に普通の男の子にはできないよ。ソウクン、本当にすごいねぇ」
「そ、そうだよ!」
月乃がコクコクと何度も頭を揺らし、蒼汰のTシャツの袖をぎゅっと握りしめた。
「私、あの時はもうダメかと思ったもん。……あ、でもね、ソータ」
「ん?」
「今回出たやつって……いつもの『モンペの下半身』じゃなかったよね? あの旧体育館のやつ……」
月乃の問いに、蒼汰の背筋がわずかに凍りつく。
あの旧体育館の地獄絵図――床一面を埋め尽くす負傷兵たちの生々しい呻きと、咽せ返るような死臭が脳裏をよぎった。
「ああ……完全に別物だったな。なんであんなものが出たのか分からないけど」
「七不思議……なのかな」
月乃が不安そうに身を縮こまらせ、蒼汰の腕にさらに強くしがみついてきた。
「七不思議?ねえ、霞陵学園の七不思議って何があるの?」
蒼翠が興味があるとばかりに質問する。
「寝る前にそんな話すんの、やだなあ……」
月乃は心底嫌そうに眉をひそめ、天井へ視線を向けた。
「私も全部は知らないんだよ?なんか『七不思議を全部知ったら死ぬ』とか、そういう幼稚な噂もあるし。……っていうか、今となってはガチで怖いし!噂で聞いてた怖さと、実際に遭遇する本物の恐怖、全然違うもん!」
「まあ、知ってる分だけでいいから教えてくれよ」
蒼汰が促すと、月乃は溜息をつきながら、細い指を折ってぽつりぽつりと話し始めた。
「えっとね……一番有名なのは、旧体育館に兵隊さんの霊が出るってやつ。それから、旧体育館と新体育館の間の通路にも兵隊さんが出るとか。あとは……第一グラウンドに、兵隊さんの行進が見えるとか。ええと、私が知ってるのはこれくらいかな……」
「なんだ、兵隊ばっかりじゃん」
「だってそういう歴史がある土地なんでしょ?ローレンツ先生も言ってたじゃん」
月乃が不満そうに口を尖らせる。
蒼汰は記憶の糸を辿るように、天井の光を反射する瞳を細めた。
「いや、噂ならまだあるぞ。毎年必ず一人、人が死ぬとか、霞ヶ浦の湖面に手だけが伸びて出てくるとか……。俺は今まで『くだらねー』って鼻で笑ってたけどさ。前に七不思議好きのオタクに聞いたら、霞陵の七不思議は実際には十個以上あるって言ってた」
「えっ、十個以上もあるの!?」
蒼翠が驚きで目を見開く。
「ああ。『大川』とか『久保七海』とか、詳しかったはずだ」
その言葉を聞いた瞬間、月乃が急にフクレ面になり、蒼汰の頬をぐにゃりと引っ張る。
「ちょっと!なんで久保さんだけフルネームなのよ!大川くんは苗字だけなのに!」
「おいおい、引っかかるのそこかよ……」
蒼汰は呆れたように苦笑し、肩をすくめた。
「なんとなくだよ。あんまりクラスでも話したことないし、付き合いがないから他人行儀な呼び方になるんだろ。知らんけど」
「ふん……なんか嫌な感じ」
月乃はぶつぶつと文句を言いながらも、蒼汰の胸元に深々と顔を埋めた。
そんな他愛もない日常の会話を交わしているうちに、極限の緊張と疲労が限界に達していた三人の意識は、吸い込まれるように泥のような眠りへと落ちていった。
――そして。
不意に、全身の筋肉が何かで固められたかのように収縮し、悪夢のような金縛りが襲いかかる。
湿り気を帯びた鉄と魚の腐ったような強烈な腐敗臭が充満し始めた。
だが、今の彼らには過去の凄惨な恐怖を削り取って構築した「万全の防御態勢」が敷かれていた。
月乃と蒼翠は、最初から蒼汰の両脇に密着し、その顔を蒼汰の厚い胸板に深く押し付けて寝ている。
金縛りで身体が一切動かなくなろうとも、二人の視界に映るのは蒼汰のTシャツの生地と、その先にある肉体の厚みだけだ。
視覚の恐怖からは完全に遮断されていた。
さらに、三人とも「成人用おむつ」を着用している。
以前なら恐怖で生理現象が限界を迎え、悲鳴を上げながら暗い廊下を通ってトイレへ駆け込み、逃げ場のない密室の個室で怪異と鉢合わせるという最悪の地獄を味わっていた。
オムツがあればトイレに行く必要はない。
強いて言えば、蒼汰の太ももや腰にしっかり絡みついている二人の脚から、その……おむつのごわついた感触や、恥ずかしい熱がダイレクトに伝わってしまうことくらいだ。
だが、もはやそんな思春期ゆえの羞恥心など、三人の間からは吹き飛んでいた。
便座に座った瞬間、金縛りに遭い、目の前に血塗られた下半身がぬっと現れる絶望に比べれば、おむつの感触などいくらでも耐えられる小さな問題に過ぎなかった。
結果として、必然的に蒼汰だけが、その恐怖を一身に引き受けることになる。
――ポタリ……ポタリ……。
天井の隅から、赤黒い体液を床に滴らせながら漂い出てくる、モンペ姿の下半身。
蒼汰は二人の頭を両腕で強く抱え込みながら、ただ一人、その不気味な怪異と無言の睨めっこを続けた。
呼吸を極限まで殺し、じっと耐える。
朝の光が窓を白ませるまでの、果てしない時間を。
翌朝……蝉時雨が窓を揺らす眩しい日差しの中で、三人は重い体を起こした。
「今日で私の部活は終わり。最後の一週間は休みなんだー」
朝食のトーストをかじりながら、月乃がどこかホッとしたような、それでいて疲れの抜けない顔で言った。
「俺は明後日から部活再開だな。みんな、バスケの夏合宿から帰ってくるし」
蒼汰が牛乳を飲み干すと、向かいに座っていた蒼翠が手元のお皿をいじりながら口を開く。
「じゃあ、明日だけは二人とも休みだね。そういえば、明日お父さん仕事休みだって言ってたよ」
「へえ、父さんが……」
蒼汰は天井を仰ぎ、ぽつりと呟いた。
「こういうの、アニメとかドラマならさ、『せっかくの休みだしプールでも行こうぜ!』とか、『海で遊ぼう!』って展開になるんだろうけどな」
「無理無理、絶対無理!」
月乃が嫌そうに両腕で大きくバツ印を作った。
「まぁ……蒼汰と行きたくない訳じゃないけどさ……。プールとか海なんて行ったらさ……『女子更衣室の個室ロッカーの中にあの下半身が出たらどうしよう』とか、そんな恐怖しか浮かばないよ!水着になるどころじゃないっての!」
「だな……どこに行ってもあの霊がつきまとうと思うと、遊ぶ気にもなれないよ」
蒼汰は苦笑いした。
スマートフォンの画面を開くと、トークアプリ「ガストン」にはローレンツ先生からのメッセージが数件届いていた。
こまめに状況の連絡は来ているものの、怪異の正体や根本的な解決策についての決定的な進展はまだない。
ただ、先生が仕事の合間を縫って、精力的に戦災資料や遺族会などを調べてくれていることだけはひしひしと伝わってきた。
そんな中、ローレンツから「少し話があります」と通知が入る。
以前の「口止めの約束(パフェを奢る)」を果たすという意味も込めて、三人は土浦駅でローレンツと合流することになった。
八月の強烈な陽光が照りつける土浦駅前。
駅から少し歩いた人通りの少ない通り沿いに、レンガ造りの落ち着いた外観を持つヨーロッパスタイルのモダンなカフェがあった。
店内にはレトロなジャズが低く流れており、香ばしい焙煎豆の匂いとエアコンの快適な冷気が満ちている。
奥のボックス席に座ったローレンツは、相変わらず洗練された生成りの麻シャツを着こなし、大きな身体を少し丸めてパフェのグラスと向き合っていた。
「……なるほど。出る頻度が少なくなりましたか……確かに」
ローレンツは長い指で顎を擦りながら、静かに頷いた。
「はい。前みたいに毎晩欠かさずってわけじゃなくて……」
蒼汰が説明を続ける。
「俺たちだけじゃなくて、俺の両親や、月乃のお母さん(麗香)のところにも出るようになったんです。どうやら何らかの規則性があって、日替わりというか、ローテーションで誰か一人のところだけに出現してるみたいで」
「ターゲットが分散している、ということですね……条件は木片か、霊を視認した者……」
ローレンツは深い知性をたたえた青い瞳をわずかに細め、思索に耽った。
「あの、先生。頼まれていた木片、持ってきました」
蒼汰はポケットから、小さな布に包まれた例の木片を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
ローレンツはそれを取り上げると、カフェの温かみのある照明にかざし、あらゆる角度からじっくりと観察した。
「……もう一度見れば何か新しい発見があるかと思いましたが、やはり分かりませんね。画像解析にも引っかからず、目立った固有の刻印もない。ですが……これは大事に持っておくことです。これこそが、あの霊の謎を解く唯一の『手繰り寄せの糸』なのですから」
「はい……」
会話が一段落したところで、ローレンツが「失礼、少し席を外します」と立ち上がり、カフェの奥にあるトイレへと向かった。
「不気味なモンペをはいた下半身の霊……早く何とかしたいな」
月乃が呟くと、蒼翠も同意した。
「本当に……毎晩、誰かのところに必ず現れるでしょう?怨念がすごいのよ」
「これだけ続くと、本当に不気味だよな」
蒼汰も頷き、テーブルに残された三人がパフェのスプーンを動かしていた、その時だった。
――ガツンッ!
突然、通路を歩いてきた見知らぬ老人が、椅子に座っていた月乃の肩に激しく体当たりするようにぶつかった。
「痛っ……!」
月乃が短く悲鳴を上げ、肩を押さえる。
老人は九十代後半ほどに見える男で、ギラついた不機嫌そうな目を吊り上げ、開口一番に怒鳴り散らした。
「いててっ! おい、どこ見てんだお前は! どこの学校の生徒だ! 礼儀ってものを知らんのか!」
「えっ……!? 私、ずっと椅子から動いてませんけど……!」
濡れ衣を着せられた月乃は、恐怖と理不尽さで目に涙を溜め、泣きそうになりながら反論した。
「うるさい! 年上に対する態度かそれが! 最近の若いやつは……!」
老人がさらに嵩にかかって月乃に迫ろうとした瞬間――。
ガタッと音を立てて蒼汰が立ち上がり、月乃を背中に庇うようにして老人の前に立ちはだかった。
その鋭い眼光と、バスケットボールで鍛え上げられた身幅の広さに、老人が一瞬気圧される。
「おじさん、いい加減にしなよ」
蒼汰は低く、毅然とした声で言い放った。
「彼女はずっと席から動いていませんでした。あんたが勝手にぶつかってきたんだろ。彼女が謝罪する必要なんて一切ありません」
「な……なんじゃとッ!小僧、親の顔が見たいわ!」
老人はプルプルと震えながら怒鳴ったが、蒼汰のあまりに堂々とした態度と背後の蒼翠の冷ややかな視線に押され、それ以上手を出せないと悟ったらしい。
老人はポケットから一枚の名刺を強引にテーブルへ叩きつけた。
「ふんっ!これがワシの名刺だ!後で親と一緒に謝罪の電話をかけてこい! 逃げられると思うなよ!」
吐き捨てるように叫ぶと、老人は肩を怒らせてカフェのドアを荒々しく開け、去っていった。
「なんなんだよ、あのジジイ……胸糞悪い」
蒼汰は吐き気を催すような不快感に眉をひそめ、テーブルの上の名刺を握りつぶそうとした。
足元のゴミ箱へ叩き込もうとする。
「待ちなさい、エビヤマ」
トイレから戻ってきたローレンツが、静かな声で蒼汰の手を制した。
「先生……聞いてました?あのジジイ、月乃に言いがかりつけてきて……こんなゴミ名刺、捨てるだけで十分ですよ」
「まあ、落ち着きなさい」
ローレンツは蒼汰の手から丸められかけた名刺を優しく受け取ると、丁寧にしわを伸ばして表面をじっと見つめた。
その瞳の奥に鋭い知性の光が宿る。
「少し、気になりますね……」
「え? 何がですか?」
「いえ、予感がするだけです……ぶつかったのはわざとですよ。君と繋がりが欲しかったのでは?そして彼は木片を見ていた。何か知っているのかも知れません」
ローレンツは名刺を自分の胸ポケットに仕舞い込むと、ニッコリと微笑んだ。
「この件は私に預けなさい。私が彼と連絡を取り、話をしてみましょう」
蒼汰たちは首をかしげたが、頼れるローレンツ先生がそう言うのであればと、それ以上追及するのをやめた。
やがて、厳しい暑さのピークが過ぎ、二学期の始業式の日を迎えた。
夏休みの後半戦も、状況が劇的に好転することはなかった。
月乃と母親の麗香さんは、相変わらず海老山家に泊まり込みを続け、夜になるとあのモンペ姿の下半身の霊が、家族の誰かの前へとランダムに出現し続ける。
出ない日も稀にあるのは、ローレンツの元に現れていたのであろう。
蒼汰は再開した部活で泥のように汗を流し、疲れ果てて帰宅しては、夜になると狭いベッドで暑苦しい姉と可愛い幼馴染に左右から挟まれて横になる。
そして、運悪く自分の番が巡ってきた夜には、金縛りの中で血を流す下半身と無言の睨めっこを交わす――。
そんな、恐怖と異常が完全に「日常」へと組み込まれてしまった、歪で忘れられない夏休みが、静かに終わりを告げようとしていた。




