第12話 怪談
照りつけるような夏の陽射しは、九月に入っても衰えることを知らなかった。
校庭のアスファルトからは揺らめく陽炎が立ち上り、開け放たれた窓からは、暑気を撒き散らすようなけたたましい蝉時雨が教室へ雪崩れ込んでいる。
夏休み明けの始業式。
久しぶりに顔を合わせた一年E組の生徒たちは、日に焼けた肌を見せ合いながらどこか浮き足立っていた。
「はいはい、今日はこれで解散な。事故んなよ。あと暑さで倒れんな」
副担任の菅原がサイズの合っていないスーツの襟ぐりをパタパタと煽りながら、気怠げにホームルームの終わりを告げた。
その瞬間、教室のボルテージが一気に跳ね上がる。
「マジで!?オマエ、今日部活ねえの!?カラオケ行くべ、カラオケ!」
「待てよ伊藤、俺このあとバイトだって!」
サッカー部の青木や伊藤、加藤たちが机を叩いて騒いでいるのを横目に、海老山蒼汰はそっと席を立った。
右足の傷――旧体育館で怨霊から逃れようとし、縫う羽目になった傷痕が、汗ばんでわずかにチリチリと痛む。
逃げ延びた後になって気がついたこの傷は、あの夜の出来事が紛れもない現実であったという証左になっていた。
怨霊に斬られた……?
視線を送ると、同じように素早く帰り支度を整えた額賀月乃と目が合った。
カチューシャで留めた毛先が少し内巻きの黒髪が、窓からの熱風にふわりと揺れる。
二人は示し合わせたかのように、自然な動作でクラスメイトたちの輪の中へ散っていった。
目的はただ一つ……この霞陵学園に伝わる『七不思議』の情報収集だ。
昨夜、蒼汰の部屋で月乃や姉の蒼翠と語り合った疑問。
そして夏休みに体験した、旧体育館でのあの吐き気を催すような地獄絵図。
あれは本当に単なる学校の怪談なのか? ……それを確かめるべく、二人は手分けしてクラス内の「噂のソース」に揺さぶりをかけることにしたのだ。
蒼汰が向かったのは、教室の最前列の隅、分厚い医学部受験用の参考書を食い入るように見つめている野口麻衣の席だった。
本来ならばもっと高レベルの高校に行きたかった彼女……第三希望まで落ちて妥協の末に入った学校だった。
享楽的なクラスメイトを激しく嫌悪し、常に冷たい壁を築いている彼女だが、蒼汰はある『弱点』を知っていた。
「なあ、野口。ちょっといいか」
「……何?くだらない雑談なら他を当たって。私、忙しいの」
案の定、氷のように冷たい声が返ってくる。
だが、蒼汰が周囲に聞こえないよう身を乗り出し、「学校の七不思議について教えてほしい」と低く囁いた瞬間――野口の肩がビクッと跳ねた。
「ひっ……!」
野口の顔から血の気が引いていく。
彼女は血走った目でギョロリと教室を見回すと、蒼汰の制服の袖を狂暴な力で引っ張った。
指先が氷のように冷たい。
「あ、あんた……アレを調べようとしてるの……!?やめなさいよ! ただの噂なんかじゃないんだから!」
「野口、お前やっぱり知ってるのか?というか……見たんだろ?」
「……見たわよ!!」
野口は参考書をバンッと叩きつけるように閉じ、取り憑かれたような早口で爆発的に語り始めた。
声が恐怖で微かに裏返っている。
「図書室の奥!郷土史の棚の裏よ!夕方、過去の文献を探してたら……棚の隙間から、あり得ない角度で首が折れた女の子が覗き込んでたの!瞳孔が開いてて、口からドス黒い水みたいなのをポタポタ垂らしながら……『熱い……助けて……』って、頭の中に直接響くような嫌な声で……!私、あれ以来……一人で部屋で寝られなくなったのよ……っ!」
野口の浅い呼吸と、必死に恐怖を抑え込もうとする異常な熱量に、蒼汰の背筋を冷や汗が伝う。
極度の心霊トーク嫌いでありながら、一度見た恐怖を吐き出さずにはいられないのだ。
「でも野口、その女の子って……七不思議で噂の図書室で自殺した生徒の霊、とかじゃないのか?」
「違うわよ!」
野口は吐き捨てるように叫んだ。
「あんな服、今の制服じゃない!全体的に黒っぽくて……もんぺ?みたいなのを穿いてて、体が焼けたみたいにドロドロだった……!金属の破片が……体中に刺さってて……肉が……皮膚がその金属片にベッタリと焼き付いてて……」
早口で捲し立てる野口の記憶の解像度は、女子高生の妄想でできるものではなかった……。
そして、「もんぺ」……その単語に蒼汰の心臓がどくりと跳ねた。
一方、月乃は教室の中央で、バレー部の小貫美咲やダンス部の鈴木愛莉、軽音部の石井花音たちが集まる華やかな女子グループに混ざり込んでいた。
「えーっ!月乃ちゃんが心霊話とか興味あるの!?意外ー!」
「ほんとほんと、深窓の御令嬢……全男子憧れの月乃ちゃんがねぇ」
鈴木が目を輝かせ、スマホのメモ帳を開く。
「うちら今度、心霊スポット行こうって話してたの!霞陵の七不思議なら私めっちゃ知ってるよ!音楽室の『夜中に目が動くベートーヴェン』でしょ、それから『旧校舎の三番目のトイレの開かずの扉』、あと『雨の日に現れる誰もいない階段の足音』!」
「え?ウチ、階段の段数が増えるって聞いたよ」
「ねえ、愛莉」と、バレー部の小貫美咲が自身の二の腕を強くさすりながら、引きつった声で割り込んだ。
「そういう定番のやつはいいから……。私、本当に見てヤバかったやつがあるの」
月乃はゴクリと唾を飲み込み、小貫の顔を見つめた。
「放課後……すごい雨の日……部活の帰りに裏庭の古い焼却炉の横を通った時……。軍服みたいな、泥と血で汚れた服を着た男の人が立ってたの。空に向かって、ずっとピシッと敬礼してて……。足元が透けてて、それになにより……焦げた肉と、臭い油……灯油みたいな……とにかくクサイ油が混ざったような……酷い匂いがしたの……」
小貫の震える声に、周りの女子たちも「それやば……やだ、マジなやつじゃん」と青ざめる。
月乃はその生々しい描写を頭の中で急速に整理していた。
二人は合流し、他にもクラス内で噂を拾い集めた。
剣道部の神代圭吾の元へ行った蒼汰は、「霊の話を面白半分にするな」と一蹴されかけたが、真剣な目で見つめ返すと、神代は苦々しい顔で口を開いた。
「……第一グラウンドの靴箱付近だ。早朝、誰もいないグラウンドから『足音』が聴こえる。ザッ、ザッ、と整調された靴音だ。あれは遊興の霊などではない。かつてこの地にあった海軍航空隊の亡霊たちだ。気安く触れるな」
またしても、旧日本軍。
さらに、ミリタリー好きの飯島健吾や戸祭たちからは「旧体育館と新体育館の連絡通路で、夜中に担架を運ぶ影が見える」「裏庭の防空壕跡付近で、水を求めて呻く声が聞こえる」という噂が飛び出した。
二人が集めた噂を精査すると、明確な『違和感』が浮かび上がった。
音楽室のベートーヴェンの目が光る(ネタ)
三番目のトイレの開かずの扉(ただの故障)
図書室で自殺した生徒の霊(学校創立以来、図書室での自殺者はゼロ)
誰もいない階段の足音(校舎の建具の軋み)
屋上の階段の段数が増える(気のせい)
これらはすべて、どこにでもある学校の怪談、いわゆる『創作された七不思議』だ。
しかし、残りの噂――――。
旧体育館の床一面に広がる悲鳴と負傷兵たち。
裏庭の焼却炉近くに立つ、焦げた匂いを纏った軍服の敬礼男。
図書室の奥に現れた、もんぺ姿のドロドロの少女。
第一グラウンドに響く、軍靴の整調された行進音
体育館連絡通路を往復する担架の影。
これらはすべて、「かつてこの場所が第二次世界大戦下の土浦航空隊と予科練の跡地であり、空襲の惨劇があった」という歴史的事実と完璧に合致していた。
信憑性のある怪異は、例外なく戦災の記憶に結びついていたのだ。
「やっぱり……単なる学校の噂話なんかじゃない」
二人は確信を深め、職員室へ向かった。
担任であり、この手のオカルトに目のないヴィクトル・ローレンツにこの分析を報告するためだ。
しかし、すりガラス越しに覗き込んだ職員室で、無精髭を生やしたローレンツはヨレヨレの白衣姿でデスクに突っ伏し、大量の新学期の書類と格闘していた。
青い瞳は完全に死んでおり、「面倒くさいですねぇ……」という重いボヤキが漏れ聞こえてくる。
「……今日は無理そうだね」
「ああ、あの状態の先生に話しかけたらトドメを刺しそうだ」
二人は苦笑いしながら静かに職員室をあとにした。
校門を出ると、ジリジリと肌を焼く刺すような陽射しが二人を包み込んだ。
部活は休み……蒼汰の姉の蒼翠は他校の友達と遊ぶ約束があると言っていた。
そして、蒼汰の両親も、月乃の母親である麗香も、今日は仕事で夕方まで家にいないはずだった。
「とりあえず……今日集めた情報を一回整理しよう」
「うん。じゃあ、うちに来てくれない?ノートとか新学期に必要なものも取りに行きたいから」
月乃の軽い提案に、蒼汰の心臓が跳ねた。
親のいない家……月乃の部屋……二人きり。
幼馴染として腐れ縁のように出入りしてきた場所のはずなのに、お互いの好意をうっすらと自覚し始めた今の二人にとって、そのシチュエーションはあまりにも甘く、酷く危険な毒を含んでいた。
「……おう。じゃあ、お邪魔します」
月乃の家の玄関鍵を開け、静まり返った廊下に足を踏み入れる。
ひんやりとしたエアコンの冷気が、汗ばんだ肌を心地よく撫でた。
靴を脱ぐわずかな音が、誰もいない家の中で不自然なほど大きく響く。
「適当に座ってて。冷たい麦茶持ってくるから」
通された月乃の部屋は、彼女がいつも使っている柔軟剤の甘い香りと、微かに漂うシャンプーの匂いで満ちていた。
綺麗に整頓されたベッド、デスクの上に置かれた可愛いカチューシャ。
蒼汰はどこかソワソワとした心地で、ローテーブルの前に胡座をかいた。
やがて、ペットボトルを二つ乗せたトレイを手にして月乃が戻ってきた。
「あはは……二人してしばらく海老山家に泊まってるから、冷蔵庫の中スカスカだったよ」
麦茶が置かれ、月乃は当たり前のように蒼汰のすぐ隣――互いの太ももが触れ合いそうなほど至近距離にストンと腰を下ろした。
どうしよう……近くに座っちゃった――。
真横から伝わってくる蒼汰の体温。
逞しい首筋から立ち上る優しい匂いに、月乃は頭がクラクラしそうになるのを必死で耐え、目の前に広げられたノートへ意識を集中させた。
蒼汰はこの距離感を気にしていないかのように話し始めた。
「……よし。整理しよう」
蒼汰は咳払いをして、ノートの文字を指で辿った。
「全部で……十二、十三個あるのか?七不思議なのに」
「ふふ、全然『七』じゃないよね」
月乃は困ったように眉を下げて笑った。
「やっぱり、半分以上は眉唾の嘘っぽい話だよ。音楽室のベートーヴェンとか、どこにでもある怪談だし。それに、図書室で自殺した女の子の霊っていうのも……学校の記録上、自殺した生徒なんていないんでしょ?」
「ああ。野口が見たっていう『首の折れた女の子』は生々しかったけど……自殺って部分は後から誰かが面白おかしく付け足した創作だな」
蒼汰はポケットからスマートフォンを取り出し、トークアプリ・ガストンを開いた。
「ローレンツ先生に送ってみるわ。書類仕事で死にかけてたけど、オカルトのメッセージなら爆速で返してくるだろ」
『今日クラスで集めた七不思議、全十三個のリストと、旧体育館の件のメモです。参考になりますか?』
送信ボタンを押して、わずか十秒。
既読がつき、猛烈な勢いで長文の返信が滑り込んできた。
事務作業に追われ、死んでいたはずの元軍人教師の、恐ろしいほどのタイピング速度が目に浮かぶ。
『非常に興味深いデータです。参考になりますので、また何かわかったら教えてください。なお、あなたの推測通り、本校の過去の記録において図書室で自殺した生徒はただの一人も存在しません。野口さんが遭遇した怪異は、爆撃等による焼死ではないでしょうか。いずれにしても興味深い……野口さんには私からも聞いてみましょう』
「やっぱり……自殺の噂は嘘だったか」
蒼汰が呟く間に、さらにローレンツからの連続メッセージが通知音を鳴らした。
『それから、先日のカフェで遭遇した例の頑固な老人の件ですが。彼と連絡が取れたものの、本人が極めて頑固で話になりません。「あの小僧(蒼汰君のことです)と直接話をさせろ」の一点張りで、らちがあかない状態です。非常に厄介ですね』
「俺と直接……?」
蒼汰が眉をひそめると、画面にはさらに続きが表示された。
『そして、あなたがたが察した通り――この学校の怪異の真偽を分かつ鍵は、本校に隣接する自衛隊基地にあります。あそこはかつて海軍の予科練であり、土浦航空隊の敷地そのものでした。終戦間際の空襲で、この地は地獄と化したのです』
「……土浦航空隊跡地」
月乃がその文字を、震える声で静かに読み上げた。
部屋の中の空気が、ふっと氷点下まで冷え込んだような錯覚に襲われる。
小貫が裏庭で見た、焦げた肉の匂いを纏って敬礼する軍服の男。
野口が見た、もんぺ姿でドロドロに溶けた少女。
神代が早朝に聞くという、整調された軍靴の足音。
そして自分たちが旧体育館で体験した、床一面を埋め尽くす負傷兵たちの呻き声。
すべてが、一本の太い線で繋がった。
これは、子供騙しの学校の怪談などではない。
かつてこの土地で炎に包まれ、無念のまま死んでいった者たちの、刻み込まれた血と涙の記憶なのだ。
「ただの学校の七不思議じゃない……。これは……本物の、戦争の痕跡だ」
蒼汰がポツリと呟くと、月乃は不安に耐かねたように、蒼汰の制服の裾をぎゅっと強く握りしめてきた。
「ねえ、蒼汰……。私たち、思っている以上に……すごく深い事件に、足を踏み入れようとしてるんじゃないかな……」
「……ああ。でも、もう引き返せないよ。あのモンペの下半身の霊も、この過去と絶対に繋がってる」
窓の外では相変わらず、夏の終わりを告げるけたたましい蝉時雨と、霞ヶ浦名物『うるさい蛙の鳴き声』が鳴り響いていた。
しかし、エアコンの風が吹き抜ける月乃の部屋には、重く冷たい歴史の影と、触れ合う肩から伝わる互いの激しい鼓動だけが、静かに刻まれていた。




