第13話 想いを探す
深夜。
ねっとりとした生ぬるい空気が肌にまとわりつく、ひどく寝苦しい夜だった。
蒼汰の狭いベッドでは、右腕に月乃が、左腕に姉の蒼翠がしがみつくようにして眠っている。
二人は蒼汰の厚い胸板に顔を深く押し当て、視覚から流れ込んでくる絶対的な恐怖を完全にシャットアウトしていた。
そして、いつものように――唐突に『それ』はやってきた。
全身の筋肉が強制的に硬直する、鉛のように重苦しい金縛り。
鼻腔を容赦なく突くのは、鉄がひどく錆びたような強烈な血の匂いと、水辺の泥が腐乱したような生臭さだ。
(……来た)
蒼汰は身構え、瞬きすら許されない眼球をゆっくりと足元へ動かした。
ベッドの足元、暗闇がひと際濃く淀む空間に、ポタリ、ポタリと赤黒い粘液を滴らせながら、あのモンペ姿の『下半身だけの少女』が浮かんでいた。
いつも通りだ……腰から上がなく、焼け焦げたような無残な裾から、ドクドクと生々しい血が流れ落ちている。
だが、蒼汰の心に湧き上がってきたのは、いつものようなパニックに近い恐怖ではなかった。
(あれ……?)
蒼汰はじっと、その凄惨な姿を観察した。
見慣れた、というのがあるかもしれない……しかし、もっと根本的な『違和感』があった。
旧体育館で遭遇した負傷兵たちの亡霊は、生者である自分たちを視認するなり、泥の海から這い上がり、無数の手で蒼汰を……月乃を掴もうとし、明確な意志を持って『引き摺り込もう』としてきた。
あの時は凄まじい怨念……あるいは救いを求める暴力的なまでの執着が渦巻いていた。
だが、目の前に浮かぶこのモンペの少女はどうだ。
いつかの夜、トイレで月乃が遭遇した時は空間ごと個室に閉じ込められたが、それ以降はこうしてただ現れ、血を滴らせ、無言で佇んでいるだけだ。
物理的な危害を加える気配も、こちらを引きずり込もうとする悪意も感じられない。
(もしかして……こいつは、俺たちを怖がらせたいんじゃないのか……?)
蒼汰の脳裏に一つの仮説が閃いた。
(必死に……何かを伝えようとしてる?)
その考えに至った瞬間だった。
全身を何重にも縛り付けていた見えない鎖が、フッと解けた。
微かに指先が動く。
肺に空気が流れ込む。
しかし、霊は消えずにまだそこに留まっていた。
蒼汰は、左右で小刻みに震えている月乃と蒼翠を見ると、腹筋に力を入れてゆっくりと上体を起こした。
もはや恐怖の対象としてではなく、一人の『何かを訴えたい存在』として、まっすぐにその血まみれの下半身を見据える。
「……何か、伝えたいのか?」
掠れた声が、静寂に包まれた部屋に響いた。
霊は動かない。
蒼汰は机の上に置かれている、布に包まれた『焦げた木片』の方へ視線を向けた。
「それは……あの木片のことか?」
蒼汰がそう問いかけた瞬間。
まるで映像がプツリと途切れるように、モンペの霊は音もなくフッと虚空へ溶けて消え去った。
後には、生暖かい夏の夜気だけが残されていた。
翌朝。
開け放たれた窓から、朝日と共にけたたましい蝉時雨が流れ込んでくる。
食卓には、カリッと焼けたトーストの香ばしい匂いと、蒼翠が淹れたコーヒーの香りが漂い、昨夜の惨劇が嘘のような穏やかな日常を形作っていた。
「……なるほどね」
トーストの耳をかじりながら、月乃が真剣な顔で深く頷いた。
蒼汰が昨夜の出来事と、霊に対する推測を話したのだ。
「確かに……いや、目の前に出られたらめちゃくちゃ怖いんだけどね。言われてみればそうかも」
月乃はマグカップを両手で包み込みながら、記憶を探るように宙を見つめた。
「旧体育館の霊たちは、うちらに向かって露骨に手を伸ばしてきたでしょ。まるで一緒にどこかに連れて行こうとするみたいに。でも、この下半身の女の子は……ただそこに現れるだけ。トイレの時はパニックになって閉じ込められた気がしたけど、あれもただ『気づいてほしかった』だけなら……」
「うん。危害を加えるつもりはない気がするんだよな」
蒼汰が牛乳を飲み干して言うと、向かいの席で蒼翠が腕を組んで首を傾げた。
「あの木片に執着してるのは間違いないよね。でも、何を伝えたいんだろう。木片……だよね?これを誰かに渡してほしいとか?」
「それが分かれば、こんな苦労はしないんだけどな……」
蒼汰は大きくため息をつき、制服のネクタイをキュッと締め直した。
今日から授業も本格的に始まり、放課後にはバスケ部の厳しい練習も待っている。
日常と非日常が、奇妙なバランスで混ざり合い始めていた。
霞陵学園、一年E組。
昼休みの教室は、夏休みの思い出を語り合う生徒たちの熱気と、唐揚げや卵焼きといった多彩な弁当の匂いが入り混じり、特有のむせ返るような活気に満ちていた。
蒼汰と月乃は、クラスメイトの輪を縫うようにして、さりげなく心霊現象や『焦げた木片』に関する聞き込みを開始した。
蒼汰が向かったのは、教室の後ろで分厚い戦史関係の専門書を読んでいる神代圭吾の席だ。
剣道部で異常なほど軍事知識に明るい彼なら、何か知っているかもしれない。
「なあ神代、ちょっと聞きたいんだけどさ。ただの木片……文字とか何も彫られてないやつなんだけど、戦時中の兵隊がそういうのをお守り代わりに持つことってあったのか?」
蒼汰の問いに、神代は本からスッと鋭い視線を上げた。端正な顔立ちに微かな思案の色が浮かぶ。
「……文字の無い木片だと? 故郷の神社の木や、自身が乗っていた被弾機の破片を肌身離さず持っていたという記録はある。だが機体の破片ならともかく、木片など特定は不可能に近い。誰の遺品かも分からんものを、面白半分で探っているならやめておけ」
「いや、面白半分じゃないんだ。……サンキュ、参考になった」
蒼汰は足早に立ち去った。
やはり、遺品としての特定は難しい。
一方、月乃はオカルト好きの鈴木愛莉や、アニメ好きの石井花音たちが集まる陽キャ女子グループに弁当箱を持って合流していた。
「えーっ、ただの木切れぇ?しかも漆が塗ってあって何の形かわからない?なにそれ、呪いのアイテムじゃん!ヤバ!」
愛莉がストローを噛みながら目を丸くする。
「うちのおばあちゃんが言ってたけど、そういうのって念がこもるらしいよ。でも霞陵の七不思議に『呪いの木片』なんて聞いたことないなぁ」
「ダメだな……木片に関する手がかりはゼロだ」
自席に戻った蒼汰が、隣の席の月乃にこっそりと耳打ちする。
「やっぱり、学校の外部……それこそ郷土資料館とかに行って、当時の遺留品リストでも漁らないとダメかな」
「そんなリストある?戦争中だよ?」
そう話し合っているうちに予鈴チャイムが鳴り、六時間目のホームルームが始まった。
天井で回る扇風機の規則的な音と、昼食後の気怠い空気が教室を包み込む中、教壇に立ったのは担任のヴィクトル・ローレンツだ。
相変わらずヨレヨレの白衣を着ている。
その青い瞳は、書類仕事への嫌悪感で完全に死んでいた。
「えー……九月のお楽しみ、文化祭に関する重要なお知らせです」
ローレンツが黒板に向かい、キーッという甲高いチョークの音を響かせながら文字を走らせた。
『九月十九日(土)・二十日(日) 文化祭及び開校八十周年記念企画委員の選出』
「今年の文化祭は、開校八十周年の節目にあたります。そのため、通常の文化祭実行委員とは別に、『開校八十周年企画委員』を各クラスから男女一名ずつ、計二名選出することになりました。過去の資料をまとめたり、展示物を作ったりする、非常にやり甲斐のある委員です。……はい、自らこの崇高な任務に身を投じたい生徒はいますか?部活動との両立も可能です。空いている時間を使って作業してください」」
クラス中が、見事なまでにシーンと静まり返った。
先程までの喧騒が嘘のように、全員が一斉に視線を伏せる。
「うわ、だっる」「俺、部活の大会前だし絶対パス」「誰か犠牲になってくんねーかな……」というヒソヒソ声が教室のあちこちから漏れ聞こえる。
目を合わせたら負けだと言わんばかりに、全員が消しゴムの角や机の傷を真剣に見つめ始めた。
しかし、蒼汰の脳裏には、その時、劇的な閃きが走っていた。
(開校八十周年……? 学校の創立は一九四六年……。終戦の翌年だ!)
蒼汰は隣の席の月乃の足を、机の下でトン、と小突いた。
「月乃。開校八十周年企画委員、やらないか」
「えっ?」
月乃が目を丸くして振り返る。
「あんた、バカ言わないでよ! 部活どうするの? 秋の大会に向けて、レギュラーになったばっかりでしょ!?」
「ローレンツ先生が今、言ってたろ?部活優先で手が空いた時でもいいって。委員をやって遅れて部活に参加すれば……ちょうど虫ロード走る時間だけスルーできるってことだし。それより……考えてみろよ」
蒼汰は身を乗り出し、周囲に聞こえないギリギリのトーンで、しかし熱っぽく囁いた。
「うちの学校、元は土浦航空隊の予科練跡地だろ?終戦の翌年に創立したってことは……企画委員になれば、『学校の歴史資料』や『過去の記録』を調べることができるんだぞ。もしかしたら、霊に関する個人的な記録だってあるかもしれない」
「あ……!」
月乃の表情が、パッと明るくなった。点と点が線で繋がった顔だ。
「つまり、企画委員の権限を使えば……あの下半身の女の子のことや、六月十日の空襲の日の詳細、あの木片が誰のものだったのかも、調べられるかもしれないってこと!?」
「そういうことだ。これ以上の役目はない!」
二人がコソコソと、しかし熱烈な作戦会議を繰り広げていると――不意に、フワリと煙草と微かなコーヒーの匂いが漂ってきた。
いつの間にか、教室の後方へ向かって机の横を通り過ぎようとしていたローレンツが、歩みを一切止めず、すれ違いざまに蒼汰の耳元でボソッと呟いた。
『――良い考えです。私がその開校八十周年企画の責任者教諭ですよ。ぜひ、立候補してください』
振り返った時には、ローレンツはすでに死んだ目のまま、何事もなかったかのように教室の後ろで窓の外を眺めていた。
元軍人の歩法は完全に足音を殺している。
この男、生徒の面倒事は心底嫌うくせに、心霊絡みとなると行動が恐ろしいほど早い。
蒼汰と月乃は顔を見合わせた。
月乃の瞳には、もう霊への恐れではなく、真実を突き止め、あの少女の想いを遂げさせてやりたいという強い決意が宿っていた。
蒼汰も同じ気持ちだった。
「先生! 俺と額賀でやります!」
蒼汰が勢いよく挙手をして立ち上がると、教室の張り詰めていた空気が、風船が割れたように一気に弛緩した。
「マジで!? 海老山お前、額賀とできてるのかよ!!」
「うおおおお! 額賀ちゃんもありがとー!天使!!」
「何その夫婦発言!」
サッカー部の伊藤や加藤、バスケ部の岩崎たちが机を叩いて歓声を上げ、教室中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
誰もやりたがらない「各クラス二名」の面倒な役回り……ライバルなど最初からいるはずもなかったのだ。
しかし、「二人でやります」というアピールは完全に裏目に出た。
「お熱いねぇ」「お幸せに」と冷やかしのヤジが止まらない。
その喧騒を制するように、ローレンツが口を開いた。
「……はい、では決定ですね。一年E組は海老山と額賀。今日、放課後に第四準備室で全体の打ち合わせを行います。絶対に忘れないように」
ローレンツは黒板に二人の名前を書き込みながら、教壇に背を向けたまま、誰にも見えないように口角をわずかに吊り上げた。
真実へと繋がる埃まみれの扉が、今、開かれようとしていた。




