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第8話 かわいそうな父さん

 この家で、一人で平然と湯船に浸かれるメンタルを持っているのは義明だけだった。

 そして――ここに、最も悲惨なジレンマに直面した男が一人……蒼汰である。


 さすがに年頃の男子高校生として、女性陣と一緒に入るわけにはいかない。

 かといって、月乃の視線がある手前、妙なプライドと羞恥心が邪魔をして親と一緒に入る選択肢も選べなかった。

 ここで「パパと一緒に入る」などと言おうものなら、一生月乃にからかわれかねない。

 結局、蒼汰には何一つ逃げ道など残されていなかった。

 脱衣所の前で生唾を飲み込み、心臓を嫌な音で鳴らしながら、ただ一人、怯えきった様子で湯気の立つ浴室へと足を踏み入れる羽目になるのだった。

 天井の水滴が気になり、シャンプーが目に入る事も厭わず目を見開き続けた。


 翌朝。

 遮光カーテンの隙間から、眩しい夏の太陽が鋭い筋となって部屋の中に差し込んでいた。


(……出なかった……)

 蒼汰は重い瞼をゆっくりと開けた。

 昨夜、この二階の自室には、あの不気味なモンペの怪異は現れなかった。


 部屋のエアコンはガンガンに効いており、設定温度は二十二度になっているはずだったが、蒼汰の体感温度はかなり高かった。

 それもそのはず、ダブルベッドの上で、左右からすっぽりと密着されて抱擁されていたからだ。


 右側には、無防備な寝顔で蒼汰の右腕を抱きかかえ、すやすやと息を立てている姉の蒼翠。

 左側には、蒼汰の胸元にしっかりと顔をうずめ、細いしなやかな脚を蒼汰の太ももに複雑に絡めつけている幼馴染の月乃。


 二人の体温が肌を通して直接伝わって来る。

 さらに、洗いたての髪から漂う甘いシャンプーの香りと思春期の女性特有の柔らかい匂いが、狭い空間に満ちて蒼汰の感覚を麻痺させていた。


 それは蒼汰にとって天国などではない――――とにかく暑い……暑すぎる。

 月乃の密着は嬉しいが、姉の抱擁など「重い」以外の感情が生まれるはずもなかった。

 さらに正直に言えば両腕が腕枕に使われ、体重がかかっている両脚も併せて痺れて痛いくらいだった。

 だが、蒼汰の胸の奥は、それ以上の満ち足りた、どこか浮世離れした感情で満たされていた。


 今日から、バスケ部はしばらく練習が休みに入る。

 本来であれば、群馬県での数日間に及ぶ夏合宿が始まるのだ。

 今日が準備休みで、明日は朝早くから大きなダッフルバッグを抱えて遠征バスに乗り込んでいるはずだった。


 蒼汰は昨日、顧問の堂島監督に「親類の急な体調不良」と偽りの理由を告げ、あれほど楽しみにしていた夏合宿を欠席していたのだ。


 こんな常軌を逸した状況で、部活の合宿に合流できるはずがなかった。

 もし合宿先の宿舎にあのモンペの怪異がついてくれば、チームメイトや部員たちに呪いが感染してしまうかもしれない……。

 あるいは合宿中に霊が出れば、蒼汰は取り乱さない自信などなかった。

 よって、夜中に蒼汰自身が耐え切れずに奇声をあげ、仲間たちから完全に狂人扱いされるか――どちらにせよ、まともな結果にならないことなど容易に想像がついた。


 そして――何より。

 口が裂けても他人には言えないが、こうして毎夜、月乃と一緒にベッドの中で密着して眠るということ。

 『怪異の恐怖』という極限状態が生み出した、歪で異常な日常ではあるが、これが今の蒼汰にとって、何物にも代えがたい「特別」になっていたのだ。


 他のどんな魅惑的な夏のイベントであっても、現在の蒼汰にとっては月乃の温もりと、まるで同居しているかのような、息が詰まるほどの密度の濃い時間に勝るものはなかった。


 月乃の柔らかいサラサラとした髪にそっと指先で触れながら、蒼汰は満足気な息を吐き出した。

(いい匂いだな……。でも寝てる月乃の髪を触るのって……卑怯だよな。告白すれば自然に触れる?いや、断られたら、幼馴染じゃいられなくなるかもしれないよな……)


 狭くなったダブルベッドの中で繰り広げられた身動きの取れない「密着」からどうにか抜け出し、ギシギシと軋む木製階段を静かに下りていく。


 一階へ近づくにつれ、冷房の冷気と共に、昨夜の残骸である仄かなアルコールの匂い、そして台所から漂う出汁の香りと少し焦げたトーストの香ばしさが鼻腔をくすぐった。


「あら、蒼汰。もう起きてたの?」

 リビングに足を踏み入れると、アイランドキッチンでフライパンを握っていた母の月子が振り返った。

 その顔はまるで幽鬼のように青白く、目の下にはくっきりと色濃い隈が刻まれている。

 普段なら欠かさない朝の化粧もすっかり抜け落ち、髪も乱雑にまとめられているだけだった。


「おはよ……母さん。すごい顔してるぞ」


「言わないでちょうだい……。生きてる心地がしないわ……」

 月子は大きな溜息をつき、弱々しく首を振った。

 聞けば、昨夜の恐怖劇の舞台となったのは、月子と麗香が二人で使っていた一階の客間だったらしい。


 深夜二時過ぎ。

 静まり返った部屋の闇の中から、バッチリと例の『下半身だけのモンペの怪異』が滲み出てきたのだという。

 金縛りが二時間続いた後、麗香の放った屋根を突き破らんばかりの絶叫が家中に響き渡った。


 二階にいた蒼汰たちは部活の深い疲労で気づかなかったが、二階の寝室で寝ていた父の義明が、ただならぬ悲鳴を聞きつけて弾かれたように客間へ突入。

 義明が来たときはすでに怪異は消え去った後だった。


 しかし、本当の地獄はそこからだった。

 怪異は消えたものの、恐怖のどん底に突き落とされた月子と麗香は、すっかり正気を失っていた。

 「また出たらどうするの!」「お願いだからどこにも行かないで!」と、現役の警察官である義明の腕や裾にしがみつき、半狂乱で泣きついたのだ。


 結果として、義明は早朝からの厳しい夜勤を控えた貴重な睡眠時間をすべて奪われるハメになった。

 ソファーで朝まで一睡もできぬまま「寝ずの番」をさせられたのだという。


「父さん……大丈夫なのかな。今日、夜勤だろ?」

 蒼汰が心底心配そうに尋ねると、月子はフライパンの目玉焼きをお皿に移しながら、半ば呆れたように肩をすくめた。

「さあね……当の本人は『まあ、誰も怪我はないからいいさ』なんてケロッと言ってたけど……でも朝5時半の電車で出勤していったわよ。それより、今日夜勤休んでくれなかったのよね。今夜出たらどうしてくれるのかしら。明日はちゃんと見張ってもらわないと困るわ」


 母も霊に参っているとはいえ、夫の体力が無限だと信じきっているその言葉に戦慄を覚える。

 蒼汰はテーブルのピッチャーが空なことに気がつき、冷蔵庫から出したペットボトルの麦茶を一気に飲み干した。

「可哀想な父さん……。夜勤前に朝まで寝ずの見張りさせられて、そのまま朝から仕事行って、睡眠ゼロで当直やって、明日寝ないで帰ってきて、また夜に見張りかよ。完全に拷問だろそれ……」


「ホントだよ、ママ。パパが過労死しちゃうよ!」

 いつの間にか階段を下りてきていた姉の蒼翠が、寝癖のついた頭を押さえながらリビングに入ってくるなり憤慨した。


 すると、ダイニングテーブルの端で二日酔いの頭を押さえて白目をむいていた麗香が、身を乗り出して抗議の声を上げた。

「だめよ!義明さんがいないと、今夜私たちが恐怖で寝不足になっちゃうじゃない!」


「いやいや、麗香さん、無茶振りが過ぎるって!」

 蒼汰が思わず突っ込むと、続いて起きてきた月乃が、寝起きでぼんやりとした目を擦りながら母を咎めた。

「ママ……。いくらなんでも義明さん可哀想すぎるよ。義明さんだからって何でも耐えられるわけじゃないんだからね?」

 娘から正論を突きつけられた麗香は、ぐぬぬと口を噤んだが、次の瞬間、何を思い立ったのかパッと目を輝かせて蒼汰を指差した。


「じゃあ、代わりにソウクン貸して!」


「はい!?」

 唐突に飛び出したターゲットの変更に、蒼汰は持っていた麦茶のペットボトルを落としそうになった。

 「いいわね、二人で抱いて寝ましょう!」と月子の提案に蒼汰は気絶しそうになる。

 この年で母親のハグなど、拷問以外の何物でもない。

 「勘弁してくれ!」と本気で叫びかけた、その矢先。


「「ダメ!!」」

 蒼翠と月乃の声が、見事なまでにシンクロしてリビングに響き渡った。

 二人同時に麗香の前に立ち塞がり、バツ印を作るように腕を交差させている。

 寸分の狂いもない見事な連携だった。


「な、なんでよ二人とも!義明さんがいない今日くらいいいじゃない!」

 不満げに唇を尖らせる麗香に対し、蒼翠が仁王立ちで言い放つ。


「ダメなものはダメ! ソウクンは私とツッキーの『守護騎士』なんだから、一階に渡すわけにはいきません!」

「そうだよ、ママ! ソータは渡さないよ!」

 月乃も真っ赤な顔で小さく拳を握りしめ、力強く頷いている。


「な、なによ……二人して仲間外れにして……。ソウクンを独占する気ね……じゃあ、お小遣いあげるわ」

「いりません。大人気ない!」

 いじけたように指を弄ぶ麗香と、絶対に譲らない構えの女子二人。

 

 その間で、完全に「所有物」のような扱いを受けた蒼汰は、深く深呼吸をして天井を見上げた。

(……父さん、早く帰ってきてくれ。俺の身も、精神も、いろんな意味で持ちそうにない……)


 セミの鳴き声が日増しに強くなっていく夏の朝。

 海老山家のリビングには、怪異の恐怖と大人たちの理不尽、そして年頃の少女たちの妙な熱量が入り混じった、混沌とした日常が広がっていた。

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