第7話 夜が来る
真夏の厳しい練習が終わり、熱気の残る体育館を後にした蒼汰は、月乃と並んで自転車のペダルを漕いでいた。
すっかり傾いた西の空は、まるで熟し切った柿のように赤黒く染まり、アスファルトの上に二人の長く伸びた影を落としている。
自転車道の脇に広がる水田からは、けたたましいカエルの鳴き声と、真夏特有の蒸せ返るような泥と、刈ったばかりの青草の匂いが波のように押し寄せていた。
蒼汰のハンドルの中央に取り付けられたスマホのホルダーからは、ラヂオ阿見の音声が小さく流れている。
ニュースキャスターが、街頭における自転車の並走やイヤホン着用、一時不停止といった交通違反に対する警察の取り締まり強化を厳烈に報道していた。
だが、そんなものはこの田舎町においてはどこか遠い異国の出来事にしか思えなかった。
パトカーどころか、交番勤務の警察官の姿を見かけることすら滅多にないこの地域において、そんなニュースを真面目に気に留める者など誰一人としていない。
並んで走る二人の自転車の車輪が乾いた音を立てて、舗装されていない通学路の小石を弾くだけだった。
「……昨日、出なかったね」
前方の赤く染まる一本道を見つめたまま、月乃がポツリと呟いた。
その声は蝉の合唱にかき消されそうなほど小さかったが、真横を走る蒼汰の耳にははっきりと、そして重く届いた。
「ああ……」
蒼汰はゆっくりとペダルを漕ぎながら、月乃の横顔に視線をやった。
部活上がりの濡れたような汗は引いているものの、その肌は心なしか白く、夕陽の赤を弾いているように見える。
「そういえば、月乃のお母さん……夏休みどころか、この件が解決するまでずっと海老山家にいて良いって言ってくれたんだろ? すごいよな、太っ腹というか、なんというか……」
蒼汰が雰囲気を和らげようと少しお道化た調子で言うと、月乃は複雑そうに細い眉をひそめ、薄い唇をキュッと噛みしめた。
「ん……なんかね。うちのママ、お化けとか幽霊とか、そういう非科学的なこと全然信じてないのよ。私がちょっと思春期のストレスで精神的に不安定になってて、パニックを起こしてるんだって本気で心配してるみたいで……。だから、蒼汰が私の『安定剤』になってくれてるって思ってるっぽい……そんな事ないんだけどね」
「ふーん……まあ、本気で信じて一緒にオムツ履いて怯えてるうちの母親のほうが、普通に考えたらどうにかしてるけどな」
自嘲気味に蒼汰が鼻で笑うと、月乃も「それもそうね」と小さく吹き出した。
わずかに和らいだ空気。
しかし、二人の胸の奥底には、いつあの「下半身だけのモンペの怪異」が目の前に現れるかもしれないという、消えることのない冷たい緊張感が針のように突き刺さっていた。
やがて、見慣れた海老山家の青い屋根が見えてきた。
ガラガラと音を立てて引き戸を開け、玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、キンと冷えたエアコンの冷気と共に、ツンと鼻を突くような強いアルコールと麦芽の匂いが蒼汰の鼻腔を直撃した。
「ただいまー……って、うわっ!?酒くさっ」
靴を脱ぎ、リビングの扉を開けた蒼汰と月乃は、思わずその場に立ち尽くした。
大きな無垢材のダイニングテーブルの上には、すでに何本もの空き缶が転がり、缶から垂れた泡がテーブルを濡らしていた。
その中央で顔を紙のように真っ白にさせた月乃の母、麗香が大容量のビール缶を煽るようにガブ飲みしている。
「マ……ママ!? どうしたの? また飲み会に来たの? あ、私を連れ戻しに来たの?」
月乃が驚愕して声を張り上げると、麗香は空になった1L缶をドスンとテーブルに叩きつけた。
その手は目に見えて小さく震えており、血走った目で娘を見上げる。
「違う……出たのよ……。出たの……下半身だけの……あの、モンペの……っ!」
普段は大雑把で、女豪傑を気取っている麗香が身をすくませ、喘ぐように呟いた。
その表情にはいつもの余裕など微塵もなく、ただの怯えた一人の女性へと成り果てていた。
「えっ……! 麗香さんのところに出たの!?」
蒼汰が目を見開くと、ソファーでぐったりと横になっていた母の月子が、重い口を開いた。
「そうなのよ……。まさか……よりによって麗香ちゃんのところに行くなんて……」
「ごめんなさいママ……、そう言えばあの木片の画像送っちゃってたよね」
「ねえ、もしかしてだけど」
冷蔵庫から冷たいルイボス茶のピッチャーを取り出していた姉の蒼翠が、氷の浮かんだグラスを傾けながら、顎に手を当てて首を傾げた。
「あの霊ってさ、どこかで出たら、他の人のところには出ないんじゃない? 一夜につき、一か所限定のターゲット制というか……」
「あ……それなら!」
蒼汰はポンと自身の掌を叩いた。
「みんなで同じ部屋に集まらないで、できるだけ家の中のバラバラの部屋に分散して寝たら、ターゲットにされた一人以外は全員熟睡できるんじゃないか……?」
「ばか!!」
即座に月乃が鋭い悲鳴のような声を上げた。
顔を真っ赤にして蒼汰に詰め寄り、その華奢な拳で蒼汰の胸元をポカポカと叩く。
「もし、一人でいる時にあの霊が急に凶暴化して、奥の闇の中に引き摺り込むようなことしたらどうするの!? 少なくとも……私なんて、トイレに閉じ込められて逃げられなくなったんだよ、覚えてるでしょ!」
当時の底知れぬ恐怖を思い出したらしく、月乃の大きな瞳にじわりと涙が浮かぶ。
蒼汰は「悪かったよ、ごめん……」と首をすくめて縮こまるしかなかった。
「まあ、俺は一人で寝ても構わないけどな」
それまでローテーブルでスマホを見ながら緑茶ハイを傾けていた父の義明が、至極あっさりと、まるで明日の天気を予想するかのような軽い調子で言った。
「義明さん、正気!? あんな恐ろしいものと一人で対峙できるわけ……」
麗香が絶句して目を丸くする中、義明はスマホを置くと緑茶ハイを一口飲む。
「いや、昨日な。夜中にふと目が覚めてトイレに行こうと廊下に出たら、目の前にあの下半身が出たんだよ。だがまあ……特に襲ってくる気配もなくて無害そうだったんでな。邪魔だから『退け』って手で振り払ったら、そのままふっと煙みたいに消えたし」
「「「「……は?」」」」
リビングにいた全員の動きが完璧に止まった。
あの、見ているだけで人間の正気をガリガリと削り取っていくような怨念の塊を、ただの虫でも払うかのような手払いで消し去ったというのか。
「父さん……そんなことできるはずないだろ!?」
蒼汰はたまらず身を乗り出した。
「だって、あの金縛りはどうするんだよ! 身体が鉛みたいに重くなって、呼吸すらできなくなるんだぞ! 手なんて動かせるわけが……」
「ん? 金縛り?」
義明は不思議そうに太い眉を寄せ、首をかしげた。
「金縛りにはならないぞ? なんというか……奴が出始める直前に、ふっと周りの雰囲気が重くなって、空気が冷たくなる感じがするだろ。あれが来た時にだな、お腹にぐっと力を入れて『ふんっ』と気合いを入れると、その重い雰囲気がパッと消え去るんだ。だから……多分……もしかしたら、最初のあの嫌な空気に自分の精神が飲まれてしまうと、脳が錯覚して金縛りになるのかもしれんな」
「「「「…………ムリ」」」」
深々とした静寂がリビングを支配した。
『ふんっ』という一言の気合いで怨霊の放つ圧迫感を打ち消す男。
現役の警察官であり、過去に数々の血生臭い事件現場や修羅場を潜り抜けてきた義明の、規格外すぎる精神力と腕力に、全員が言葉を失い、ただ唖然と口を開けて彼を見つめることしかできなかった。
『霊に対する、こいつの言う事は参考にならない』……その認識だけは共有された。
「で……ママ、どうするの?」
月乃が呆れたように大きな溜息をつき、ソファーの横で体育座りをしている母を見下ろした。
「私と一緒に家に帰って、二人で寝る?」
「バカ言わないで……!」
麗香は空の1Lビール缶を大事そうに抱え込むようにして、首を猛烈な勢いで横に振った。
「月乃が添い寝したところで、恐怖の何の足しにもならないの! 私は今夜、絶対一人じゃ寝られないわ! ここにいる!」
「まあまあ。ここにしばらく泊まるなら、着替えとか洗面道具が必要だぞ、麗香さん」
義明がクスクスと楽しそうに笑いながら指摘すると、麗香はフンと鼻を鳴らし、自分の足元に置かれていた大きめの高級レザーのトートバッグを軽く叩いた。
「もう……今日の分はあるわよ!」
「準備良すぎるでしょ……」
蒼汰と蒼翠は顔を見合わせ、大人たちの図太さと、それでいて情けないまでの保身の早さに深く呆れ返るのだった。
「さて。風呂は早めに入らないと、夜が深まるとまた出ちゃうかもしれないからな。俺は最後でいいぞ」
義明がそう言った瞬間、リビングにビリビリとした激しい緊張感が走った。
「私が先!」
「いや、私よ!」
麗香と月子、そして月乃と蒼翠が、争うようにして脱衣所へと駆け出していく。
結局、一人で風呂に入るという無防備な状態での恐怖に耐えられない女性陣は、二人ずつペアになって脱衣所へと消えていった。
どちらのペアが先に入るかで揉めている声だけが、大きく廊下に響いていた。




