第6話 殺してくれ
「ハァッ……ハァッ……!」
ベンチで汗を拭う蒼汰の肺が悲鳴を上げる。
全身の毛穴から吹き出した汗が目に入り、視界が滲む……呼吸が整わない、酸素が欲しい。
夜の恐怖に怯えるだけの日々……どうしようもない理不尽に押しつぶされそうな今、蒼汰にとってバスケだけが、自分が現世にいると自覚するための唯一の証明だった。
(この怪物みたいな先輩たちから、ポジションを奪わなきゃならないんだ……!)
蒼汰の目は死んでいなかった。
「堂本! 戻りが遅いぞ! ……蒼汰、息は整ったか! もう一回行けるか!」
堂島の鋭い視線がベンチの蒼汰に飛ぶ。
厳しい指導の中にも怪我には敏感で、蒼汰が顎に傷を負った際、誰よりも早く救急箱を持って走ってくれた恩師だ。
その期待に応えないわけにはいかない。
「行けます!!」
蒼汰は再びコートへ飛び出した。
新チームのオフェンス。
ポイントガードの内田涼から、右45度で構える蒼汰へ堅実なパスが飛ぶ。
すかさず、再びマッチアップした神谷が厳しいプレッシャーをかけてくる。
蒼汰はドリブルを突かず、ボールを額の前に掲げた。
――――シュートフェイク。
神谷の重心がほんの僅か、数ミリだけ浮く。
(今だ!)
蒼汰は地を蹴り、左へドライブを仕掛けた。
だが、神谷の反応は化け物じみていた。
すぐに進路を塞がれ、激しいボディコンタクト。
ドンッ! と鈍い音が響き、蒼汰の体勢が崩れる。
……こぼれ落ちるボール。
「もらった!」
神谷がルーズボールに手を伸ばす。
これが奪われれば、また速攻を喰らう。
その瞬間、蒼汰は躊躇なく床へ向かってダイブしていた。
「うおぉぉぉぉっ!!」
ザザーッ!! と摩擦で膝と肘の皮が焼け焦げるような痛みが走る。
だが蒼汰は構わず、床を転がりながら両手でボールを抱え込み、背中越しにカバーに走っていた2年生エースの真田圭介へボールを弾き飛ばした。
「真田先輩、走れぇっ!!」
パスを受け取った真田が、そのままレイアップを決める。
ピーッ!
「そこまで! 集合!」
堂島の鋭い笛の音が、体育館に響き渡った。
仰向けに倒れ、肩で息をする蒼汰の視界に、巨大な影が落ちる。
「……ナイスマッスルだ、蒼汰」
見上げると、副キャプテンの神谷が手を差し伸べていた。
神谷の好きな言葉……『マッスル』が出た。
凄まじい威圧感を放っていた先程までの顔とは違う、後輩を慈しむような穏やかな笑顔だった。
「あ、ありがとうございます……っ!」
蒼汰はその大きな手を掴み、引き起こされた。
膝からはうっすらと血が滲み、ユニフォームは汗でドロドロになっていたが、蒼汰の顔は誇らしげだった。
ギャラリーからは、息を呑むような試合展開に見入っていた女子たちからパラパラとした拍手が湧き起こっていた。
息の上がるような激しい練習が終わり、部員たちがコートの中央に集められた。
モップがけが終わり、静まり返る体育館。
夕暮れの赤い光が体育館を包む。
開け放たれた窓からは、霞ヶ浦から吹き付ける生臭い風と共に、ヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。
部員たちの前に立つ顧問の表情は、いつになく険しく、そして厳かだった。
「今日をもって、三年生は完全に第一線を退く。進路に向けての勉強に本腰を入れてもらうためだ」
その言葉に、体育館の空気がピンと張り詰めた。
三年生たちが築き上げてきた黄金時代。
それを引き継ぐプレッシャーが、一・二年生たちの肩に重くのしかかる。
「これより、秋の新人戦に向けた、新チームのレギュラーを発表する。呼ばれた者は一歩前へ出ろ」
ゴクリ、と誰かの喉が鳴る音が聞こえた。
蒼汰もまた、無意識にジャージの裾をきつく握りしめていた。
中学時代の実績は関係ない。
今日、あのコートでどれだけ自分を証明できたか。
鼓膜の奥で、自分の心臓の音がうるさいほどに鳴り響く。
「新キャプテン、SF、真田圭介」
「はいッ!」
力強い返事と共に、二年生の真田が一歩前へ出る。
誰もが納得するチームの精神的支柱だ。
「PG、内田涼」
「はいッ!」
冷静沈着な司令塔……誰もが納得の選出だった。
「C、相葉樹」
「はいッ!」
ゴール下の番人――黒人ハーフの190センチの巨躯が一歩前へ出た。
「PF、馬場勇気」
「はいッ!」
フィジカルの強さを買われた馬場。
これで残る枠は、たった一つ。
シューティングガード。
先程まで、あの絶対的エース、神谷が背負っていた、チームの得点源であり切り込み隊長のポジション。
顧問が、手元のバインダーから視線を上げ、部員たちを見渡した。
その視線が、泥だらけの膝で直立不動の姿勢をとる蒼汰で止まった。
「――SG、海老山蒼汰」
呼ばれた瞬間、蒼汰の頭の中が真っ白になった。
「…………っ!!」
声にならない息を呑み込み、蒼汰は弾かれたように一歩前へ出た。
「はいッッ!!!」
体育館に響き渡る、今日一番の大きな返事。
一年生の中で、唯一のレギュラー選出。
周囲の二年生たちから「よろしくな」「頼むぞ」と背中を叩かれ、三年生たちからは「あのルーズボール、よく出来たな」「エースの座は譲ってやる」と温かい言葉が飛ぶ。
天才だから選ばれたのではない。
あの一球に命を懸けてダイブする泥臭さを、チーム全員が認めてくれたのだ。
「……っしゃ!」
整列が解かれた後、蒼汰は思わず、胸の低い位置で小さくガッツポーズを作った。
全身の筋肉が疲労で悲鳴を上げているのに、魂だけが重力から解き放たれたように軽い。
極限のプレッシャーと、夜の怪異による極度の睡眠不足……そのすべてを乗り越えて掴み取ったレギュラーの座は、蒼汰の精神を一時的な興奮状態へと押し上げていた。
ふと視線を感じて、中二階のギャラリーを見上げた。
そこには、手すりから身を乗り出し、自分のことのように満面の笑みを浮かべる月乃の姿があった。
彼女もまた、蒼汰に向かって力強くガッツポーズを返してくれている。
夜中の寝室で、オムツを履いて涙目で震えていたあの月乃ではない。
健康的な日焼けした肌を見せ、誰よりも蒼汰を応援してくれている『日常』の象徴。
その彼女の笑顔があまりにも可愛くて……眩しくて。
そして何より、今の蒼汰は極度の疲労と興奮のせいで、脳が完全にバカになっていた。
蒼汰は月乃とバッチリ目が合った状態のまま、右手の人差し指と中指を自分の唇に当てた。
チュッ。
そしてそのまま、月乃に向かって指先を弾く――『投げキッス』を放ってしまったのだ。
「…………あっ」
直後。
スーッと、潮が引くように自分の中からアドレナリンが消え失せ、代わりに致死量の『羞恥心』が猛烈な勢いで脳天を突き抜けた。
――――調子に乗りすぎた。
(俺は……今、数十人の前で、何を……!?)
蒼汰の顔は、一瞬にして沸騰したヤカンのように真っ赤に染まり、耳の先まで茹でダコ状態になった。
「うわっ、俺、何やって……!」
慌てて両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んで俯くが、時すでに遅し。
静寂は、一瞬だった。
「おい……お前、今ギャラリーの女子になんかやっただろ!!」
「投げキッス!?アイツ今、投げキッスしやがったぞ!!」
「一年でレギュラーだからって調子乗んなよコラァ!!」
「リア充爆発しろ!!ボールぶつけろ!!」
ギャラリーの女子たちが「きゃーっ!」と黄色い悲鳴と爆笑を上げる中、修羅と化したバスケ部の男たちが、一斉に蒼汰に群がった。
ギャラリーから聞こえるざわめきは収まらない。
「今のキス、ウチにじゃない?」
「ばか、私だよ。角度見たっしょ?」
月乃だけは誰に向けられたキスなのかを理解して、無言で顔をリンゴのように赤く沸騰させていた。
「違っ、誤解です! 今のテンションがおかしくて、無意識で……ぎゃあぁぁっ!」
同級生の一年生たちから首根っこを掴まれ、二年生からは頭をぐしゃぐしゃに撫で回され、主将からは愛のあるヘッドロックを極められる。
むせ返るような男たちの汗の匂いの中で、もみくちゃにされながら、蒼汰は別の意味で「殺してくれ」と叫びたくなった。
だが、その騒ぎの中心で押し潰されながらも、蒼汰の口元は自然と綻んでいた。
生温かい夕暮れの体育館。
……夜が来れば、またあの地獄のような恐怖が待っている。
それでも、この日常の輝きがある限り、俺は絶対に負けない。
もみくちゃにされながら、蒼汰は心の底からそう誓っていた。
帰路……時刻は午後六時半を回っていた。
西の空はすでに赤黒く染まり、徐々にあの忌まわしい『夜』が近づいている。
蒼汰のスマホが震えた。
トークアプリ『ガストン』の通知だ。
どうやら、月乃の母である麗香は、すでに海老山家に乗り込んで酒盛りの準備を始めているらしい。
自転車の鍵を開けていると、隣で月乃が嬉しそうに言った。
「レギュラー、やったじゃん」
「まぁな。俺、上手いからさ」
投げキッスの照れ隠しもあって、蒼汰はわざとぶっきらぼうに強がってみせた。
ペダルに足をかけ、月乃を振り返る。
「……お前、今日もウチに泊まるんだろ?」
月乃はジト目で蒼汰を睨みつけた。
「私があの状態で、今夜から一人で自宅で寝れると思う?」
好きだなんて言えない……しかし、むくれているその顔すらも、今の蒼汰には愛おしく、どうしようもなく可愛く見えた。
(俺…………月乃が好きかもしんない……)
蒼汰は何も言わずに力強く自転車を漕ぎ出した。
生温かい夜風が二人の頬を撫でる。
見上げた空には、鋭く金色に光る三日月が浮かんでいた。
虫の音が響く穏やかな夏の夜。
これから数時間後、家の中で血みどろの怪異が起きるなど微塵も感じさせないほど、静かで美しい夕暮れだった。




