第5話 熱い現実
「きゃあああああああああああっ!!」
深夜の静寂を切り裂くような、母・月子の悲鳴が家中に響き渡った。
隣家との距離が離れている田舎だからこそ警察沙汰にはならなかったものの、都会であれば間違いなく数分後にはパトカーのサイレンが鳴り響いていたに違いない、鼓膜を劈くような絶叫だった。
二階の自室で跳ね起きた蒼汰は、一瞬にして血の気が引くのを感じた。
「やべ……リビングのテーブルに、あの木片、出しっぱなしだった」
青ざめる蒼汰の横で、姉の蒼翠が深い溜息をつく。
「ソウクン……ママ、絶対見たんだよアレを。でもまぁ、これでややこしい説明を手っ取り早く省けるね……よしよし、お姉ちゃんが庇ってあげよう」
三人は重い足取りで一階へと向かうことにした。
月乃は絶望的な顔をしていた。
ただでさえ恐怖で足がすくむのに、今の自分は「大人用オムツ」を履いているのだ……階段を降りるたびに、カサカサ、モソモソと情けない音が鳴るのが恥ずかしくてたまらない。
顔を真っ赤にして、蒼汰の背中に隠れるようにモジモジとリビングへ足を踏み入れた。
リビングには煌々と明かりが灯っていた。
「すまんな……起こしてしまったか。ああ……聞いてるよ、ツキちゃんもいらっしゃい」
父の義明は、パジャマ姿のまま腕を組み、驚くほど冷静な声で出迎えた。
その横、ソファーの上では、母の月子が限界まで目を見開き、酸素を求める魚のように口をパクパクとさせている。
「ああ……ちょっとな……出たんだよ。信じられないだろうが……下半身だけの、霊が。まぁ、気にすることじゃない」
焦点の合わない目でブツブツと虚空に向けて呟く母を見て、蒼汰はたまらなくなり、父に向かって頭を下げた。
「父さん、実は……」
「何だ?」
蒼汰は、すべてを包み隠さず打ち明けた。
部活のランニング中に土に埋もれた不気味な木片が視界に入ったこと。
放置してはいけないと直感し、翌日持ち帰ってしまったこと。
その夜から、モンペを履いた女の下半身の怪異が毎晩現れるようになったこと。
蒼翠や月乃の前にも現れ、トイレに行こうとすれば扉を塞がれ、個室の中にまで執拗に現れること。
恐怖と不眠から、今は情けないながらもオムツを履いて夜を耐え忍び、太陽が昇っている時間帯にしか眠れないこと。
そして、担任であるローレンツ先生が力になってくれており、この学園の土地がかつて『予科練』の施設であったこと、当時の凄惨な爆撃がこの霊に関係している可能性が高いこと――。
静かに耳を傾けていた義明は、深く頷いた。
「そうか……大変だったな。まぁ蒼汰、お前は悪くない。よく耐え、頑張った。……ただ、その原因をリビングの机に放置するのだけは、いただけなかったな」
「ごめんなさい……。疲労がすごくて……頭が回らなくて、仕舞うのを忘れちゃったんだ……」
項垂れる蒼汰に、義明はポンと大きな手を置いた。
「まぁ、仕方がない。それに、言葉で説明されたところで、我々だって実際に見なきゃ絶対に信じなかっただろうしな」
その言葉に、ようやく我に返った月子が気勢を上げた。
「ああ……ちょっと蒼汰!親を呪わせて、あんたって子は……!」
「よせ、月子」
義明が低く、しかし力強い声で妻を制した。
「さっきのアレを、この子たちは連日、逃げ場のない密室で見続けたんだ。夜も眠れず、オムツまで履いてな。……責めることなんて、出来るわけがないだろ?」
その毅然とした態度に、蒼翠が不思議そうに首を傾げた。
「あれ?パパ。ずいぶん落ち着いてるね。霊なんて非科学的なもの、そんなに簡単に信じるの?」
義明は現役の警察官である。
長年、証拠と論理を重んじる厳しい世界で生きてきたはずの男だ。
「まぁ、俺は大丈夫だ。前の……コロシ(殺人事件)の特捜本部に入った時にも、何度か『見た』しな。この世には理屈で割り切れないものが確かにある」
そう言って苦笑すると、義明は月乃へと視線を移した。
「それよりツキちゃん。あれからずっとウチに泊まってるんだって?これは流石に、親御さんにちゃんと説明した方がいいな。日が昇ったら、俺から麗香さんに連絡しよう」
翌朝。
義明が月乃の母、麗香に事情(の表面的な部分)をメッセージで送ったところ、どういう風の吹き回しか、「今日の夜、お酒を持って飲みに行くわ」という展開になっていた。
いつも通りではあるが……大人たちの図太さには恐れ入る。
一方、昨夜のショックから立ち直った母、月子は、恐怖を知識で上書きする防衛本能が働いたのか、狂ったようにノートパソコンに向かっていた。
「絶対に正体を突き止めてやる……!」と血走った目で郷土の戦史や資料を検索しまくり、蒼翠が横でそのサポートに回っている。
昼下がり――蒼汰は部活へ行く準備を整えた。
玄関を出ると、なぜか少しオシャレをした月乃が待っていた。
淡い水色のサマードレスに、薄くリップまで引いている。
「お前……なんでついて来るんだよ。恥ずかしいから家で待ってろ。付き合ってるとか、変な噂が出るだろ」
蒼汰が文句を言うと、月乃は呆れたように息を吐いた。
「アンタ、自分のバスケ部のこと全然分かってないね……。私一人が行ったところで目立たないって。まぁ、行けばわかるよ」
体育館の分厚く重い鉄扉を引き開けた瞬間、蒼汰は月乃が言っていた言葉の真意を理解した。
真夏の密閉された空間特有の、暴力的なまでの熱気が全身にまとわりついてくる。
むせ返るような汗の匂い。
すり減ったゴムが焦げるような匂い……夏の大会を終えたばかりの時に塗り直されたフロアワックスの匂い。
それらの不快なはずの空気が、今の蒼汰にとっては酷く愛おしかった。
キュッ、キュキュッ!と、蒼汰の真新しいライムグリーンのラインが入ったバッシュが床を激しく摩擦する甲高いスキール音。
ダムッ、ダムッ、と心臓の鼓動に直接響くような、重く硬いドリブルの音。
そして、部員たちの野太い声出し。
ここは『現実』だ――――。
得体の知れない女の下半身も、理不尽な呪いも、深夜の底知れぬ恐怖も入り込めない、物理法則と努力だけが支配する聖域。
ふと視線を上げると、二階のギャラリースペースには、バスケ部の練習を見に来ている女子生徒が十人近くも陣取っていた。
この猛暑の中、わざわざ部活の見学に来るなど、よほどの物好きか、あるいは明確な「推し」がいる女子たちだ――つまりは常連だけである。
月乃がカンカンと鉄階段を上がっていくと、すでに陣取っていた数人の女子と親しげに手を振り合っている。
どうやら常連同士のネットワークができあがっているらしい。
(あいつ、いつも来てた……?なんで?)
オムツを履いて震えていた昨夜の情けない月乃の可愛い姿を思い出し、蒼汰は小さく頭を振った。
コートに立つ以上、甘えは許されない……女のことなど考える余地はないのだ。
蒼汰はバチン!と両手で自分の頬を張り手し、気合いと共にコートへと駆け出していった。
今日の練習のメインは、すでに引退したはずの三年生チームと、新チームの主力候補たちによる5対5のゲーム形式だった。
秋の新人戦に向けた、事実上の『新レギュラー選考会』でもある。
一年生ながらその実力を買われ、Aチームのエース候補の一人としてコートに立った蒼汰は、対面するマッチアップの相手を見据え、ゴクリと唾を飲み込んだ。
――三年生、副キャプテンの神谷亮。
県南No.1のシューティングガードとして名を馳せ、冷静沈着で美しいシュートフォームを持つ、蒼汰が密かに目標としている絶対的エースだ。
「どうした一年坊主。顔色が悪いぞ。夜更かしでもしたか?」
神谷が、余裕の笑みを浮かべてボールを腰の高さで保持する。
身長は蒼汰と同じ179センチだが、骨格の厚み、筋肉の密度、何より修羅場を潜り抜けてきた『凄み』が桁違いだった。
「いえ……絶好調ッスよ!」
蒼汰が腰を深く落とし、ディフェンスのステップを踏んだ瞬間だった。
――消えた。
そう錯覚するほどの、爆発的なファーストステップ。
(速――っ!)
反応した時には、すでに神谷の肩が蒼汰の胸の横をすり抜けていた。
慌てて体幹を捻り、足をクロスさせて追いすがるが、神谷は蒼汰の密着をものともせず、空中でふわりとダブルクラッチを見せ、リングにボールを沈めた。
「甘いぞ蒼汰! 抜かれた後のリカバリーが遅い!」
「すんません!!」
「『ピーッ!』 動きが固いぞ! メンバー交代!」
体育館に、顧問である堂島剛の野太い怒声が響き渡る。
体育科教諭である堂島の練習は厳しく、このゲームでも容赦なくレギュラー争いを煽るように、新チームのメンバーは次々と入れ替えられていった。
「滝沢! 蒼汰と代われ!」
「しゃす!」
息を切らせてベンチへ下がった蒼汰と交代し、2年生の滝沢悠人がコートへ飛び込む。
自称・部内No.4のSGである滝沢は、蒼汰の直接のライバルだ。
持ち前のシュート確率の高さを見せつけ鮮やかなミドルを沈めるが、スタミナに難があり、数分後には肩で息をして足が止まってしまう。
「滝沢、もう足が止まってるぞ! 森田、行け!」
「はいっ!」
すぐさま、ルーズボールに誰よりも早く飛び込むガッツマン、2年の森田健がコートへ走る。
目まぐるしく選手が入れ替わる中、インサイドでは190センチの長身を誇る2年生センターの相葉樹が、中二階のギャラリーにいる月乃の姿をチラリと確認し、不自然なほど気合いを入れてポジション取りをしていた。
(月乃ちゃんが見てる……! ここでいい所を見せれば……!)
だが、その未完の大器の前に立ちはだかるのは、チームの大黒柱――188センチの3年生キャプテン、赤城大地だ。
「よそ見してる暇があるのか、相葉!」
「ぐっ……お、重い……っ!」
通称『茨城の重戦車』――――赤城の圧倒的なフィジカルと熟練のボックスアウトの前に、相葉は全くリバウンドに飛べない。
チームの精神的支柱でもある屈強な番人は、後輩の甘えを一切許さなかった。
アウトサイドでは、PGの五十嵐蓮がシックスマンとしての持ち味であるスピードで切り込もうとするが、3年生PGの伊達誠の広い視野に完全に読まれ、的確なパスカットを食らう。
1年生たちも必死だった。PFの岩崎隼人が熱血漢らしく泥臭くリバウンドに飛び込み、『司令官』と呼ばれる冷徹な性格の3年の須藤剛に弾き飛ばされながらも食らいつく。
SFの高橋陸斗も、持ち前の負けず嫌いを爆発させ、オールラウンダーの長谷川駿を相手に強気のドライブを仕掛けていった。
明るいムードメーカーの加藤健太は、ベンチから誰よりも大きな声でコートの仲間を鼓舞している。
次々と選手が入れ替わる新チームに対し、3年生チームは誰一人としてベンチに下がらない。
全国大会出場を果たしたものの二回戦で敗退し、すでに引退しているはずの彼ら。
だが、「ただバスケが好きすぎる」という理由だけで7名全員が練習に顔を出し、底なしのスタミナと完成された連携で、後輩たちに巨大な壁として立ち塞がっていた。
中学時代、全国大会に出場し「霞ヶ浦の天才」と持て囃された蒼汰のプライドなど、ここでは取るに足らないものだった。
高校バスケの県内トップ層は、これほどまでに分厚く――――高い。




