第4話 ローレンツ先生
八月十五日。
明日でお盆休みも最後となる、終戦記念日の朝。
ジリジリと肌を焦がすような夏の強い日差しは容赦なくアスファルトを照りつけ、足元からは白く揺らめく陽炎が立ち上っていた。
まとわりつくような熱気の中、耳をつんざくような蝉時雨が、三人の重苦しい沈黙をさらに際立たせている。
待ち合わせ場所である霞陵学園の校門前。
そこに立っていたローレンツ先生は、学校で見せる気難しい教師の顔とは打って変わり、リゾート感のある生成りの麻シャツにパナマハットを合わせた、いかにも外国人らしい洗練されたラフな装いだった。
「すいません、先生……せっかくのお休みなのに……」
蒼汰がひどく申し訳なさそうに頭を下げる。
ローレンツは少しだけ目を細め、蒼汰の背後にぴったりと身を寄せている二人の少女へと視線を移した。
蒼汰と蒼翠、月乃の顔色は抜けるように青白い。
目の下にはくっきりと濃い隈が刻まれ、立っていることすら辛そうに身をよじらせている。
「エビヤマのお姉さん……三年生ですね。それと額賀さんも。……まさか、お二人も『見た』のですか?」
「はい……毎晩……蒼汰と一緒に、見てしまいます」
蒼翠がぎこちなく頷く。
その声には重度の寝不足によるかすれと、隠しきれない震えが混じっていた。
「先生……夜、トイレにも出るんです……もう、怖くて全然寝れなくて……」
月乃が涙ぐみながら、すがるような視線をローレンツの大きな背中に向けた。
「……木片は、持って来ましたか?」
ローレンツの静かな問いに、蒼汰はポケットの中の小さな布包みに手を伸ばし――ふと、その動作を止めた。
「はい……持ってます。でも、これ……見たら先生のところにも、あの女が……」
言い淀む蒼汰を前に、ローレンツは事もなげに首を振った。
「心配はいりません。昨日のガストンメッセージで写真を見ましたが……その日の晩に、私の部屋にも出ましたからね。――モンペを履いた女性の下半身ですね。皮膚の引き締まり具合や肉付きからすると、比較的若い女性でしょう。しかし、子供というほど幼くはない」
「え……?」
蒼汰は絶句した。蒼翠と月乃も目を丸くして、呼吸すら忘れたように固まる。
「じゃあ……先生も昨日の夜、寝られなくなったんですか!? 本当にすみません……俺のせいで……!」
「私が頼んだから……!」
「ううん、私が助けを求めたからで……!」
口々に自分を責め始めた三人を、ローレンツは大きな手で静かに制した。
「私は普通に寝ましたよ。出はしましたが、気にせずそのまま横になりました。しばらく部屋の隅で血を流しながら漂っていましたが、私に危害を加える気配はなかったので、放っておいたら一時間ほどで消えましたからね。その後は朝まで熟睡です」
三人は開いた口が塞がらなかった。
自分たちを恐怖のどん底に陥れた怪異を前にして、「気にせず寝た」と言い放つ大人の――いや、このドイツ人の教員の規格外すぎる肝の据わりように、呆然とするしかない。
「さて。まずはエビヤマがそれを見つけた場所……『虫ロード』へ行きましょう」
呆気にとられる三人を置いて、ローレンツの足取りは軽やかだった。
(なぁ、先生元軍人って噂……本当かもな……強すぎだぜ)
蒼汰が月乃に耳打ちすると、蒼翠もピッタリと耳を蒼汰と月乃の間に差し込む。
クスクスと笑いながらローレンツが「それは本当ですよ。……ドイツ連邦軍人でした。これはあまり知られたくありません……秘密にしてください。口止めに今度パフェ奢りますから」
「そんな!いいです全然……」と蒼汰が叫ぶと、月乃が「本当ですよ!先生は恩人なのに……言うわけありません!」と続ける。
蒼翠も「絶対に言いません……こんな……霊の話まで真面目に聞いてくれる良い先生なのに……」と呟いた。
「ハハハ、助かります。さて、エビヤマ。そろそろですよね?教えてください」
「はい。もう少し……あと40メートルくらいです」
学校から湖岸の水郷公園へと続く、田んぼの真っ只中を切り裂く一本道。
日陰など一切ない。
むせ返るような稲の青くさい匂いと、水路の泥の匂いが鼻をつく。
夕方になれば無数の虫柱が立つこの道も、真昼の今は頭上で微かな羽音を立てて小虫が舞う程度だった。
「ここで……部活のランニング中に拾ったんです。土に半分埋もれてて……」
蒼汰が道端の土を指差す。
ローレンツは顎に手を当て、周囲の景色――果てしなく広がる田園と、その向こうに陽光を反射してきらめく霞ヶ浦の水面、そして背後にある学校の校舎の位置関係をじっくりと見回した。
「なるほど……大体の地理的関係が繋がりました。学校へ戻りましょう。あなたたちに見せたいものがあります」
ローレンツが三人を案内したのは、普段は厳重に鍵がかけられており、一般の生徒たちが立ち入ることもない校舎の奥深く――「歴史資料室」だった。
ギシギシと鳴る古くて重い鉄扉を開けると、古い紙の匂いがどっと溢れ出た。
薄暗い室内に差し込む一筋の日差しの中に、膨大な埃の粒子がゆっくりと舞っている。
霞陵学園高等学校は、地元では比較的新しい校舎に見えるが、この土地自体には決して消し去ることのできない深い歴史の澱が溜まっていたのだ。
「先生……つまりこの学校の土地って……」
蒼汰が、壁に飾られたセピア色の古い写真や、ひび割れた軍事地図を見回しながら呟く。
「ええ。現在の校地はきれいに整備されていますが、学校の敷地全域が、かつて『土浦海軍航空隊』、および予科練関連施設が存在した区域にあたります。君が木片を拾ったあの『虫ロード』周辺も、当時は基地の敷地やその外縁部でした」
校庭の片隅にひっそりと佇む小さな慰霊碑。
焼夷弾の直撃によって潰れた防空壕の跡。
生徒たちが普段、何気なく部活の汗を流しているグラウンドの土の下には、無数の戦争の記憶が眠っていたのだ。
「先生……ここは、特攻の基地だったの?」
蒼翠が恐る恐る尋ねる。
「特攻隊の教育も行われていましたが、あのモンペ姿の女性は、おそらく基地の兵士や隊員ではないでしょう。そして、その木片です」
ローレンツが蒼汰の手元にある布包みを指差す。
「それは霊にとって大切な形見……あるいは、その強い未練が宿った何らかの遺品。女性ですからね。この軍事施設周辺で、一般の若い女性が命を落とした日というのは、歴史上そう多くはありません。調べましょう」
四人は手分けして、資料室の埃っぽい古い記録や、土浦の戦災誌をめくり始めた。
沈黙の中、カサカサと乾いたページをめくる音だけが響く。
そして二時間後、分厚い郷土史の束をめくっていた蒼翠が、小さく息をのむ声を上げた。
「……これ……これかもしれません。1945年、六月十日」
ローレンツが蒼翠の差し出した資料を受け取り、低く落ち着いた声で読み上げた。
『昭和二十年六月十日、土浦海軍航空隊は米軍のB-29爆撃機による大規模な空襲を受けた。当日は日曜日であり、予科練習生との面会のため、多くの家族が隊内の面会所を訪れていた。午前八時頃、空襲警報が発令。B-29の編隊が飛来し、基地施設および周辺地域に熾烈な爆撃が加えられた。この空襲において、予科練習生・教官ら二百八十一人、民間人を含め計三百七十四人が犠牲となった。面会に訪れていた多くの家族も巻き込まれ、凄惨を極めた――』
「この犠牲者の中に……あの女性が?」
月乃が青ざめた顔で囁く。
「この木片を持っていたのも、その犠牲者の一人だったのかもしれないな」
蒼汰の言葉に、ローレンツは静かに頷いた。
「この木片は……おそらく誰かが手作業で削って作ったものですよ。だからいくらAIで画像解析をしても、既製品のデータベースには引っかからない。面会に来ていた家族か……あるいは特攻隊員の大切な……若い女性が、出撃していく大切な誰かのために手作りしたお守り……あるいは、その逆だったのかもしれません」
「……SNSに写真を載せて、これを知ってる人がいないか探してみますか?」
蒼翠がすがるように提案するが、ローレンツはゆっくりと首を横に振った。
「八十年前の手作りの欠片です。情報が集まる可能性は限りなく低いでしょう。ですが……手がかりは掴めました。私も独自に、当時の遺族会や地域の郷土史家へ当たってみます」
ローレンツは資料をバタンと閉じると、三人の顔をじっと見つめた。
「今日はもう帰りなさい。あなたたち、限界でしょう。立ちながら意識が飛んでいますよ」
言われてみれば、三人の意識はすでに朦朧としていた。
極限の恐怖と、それに伴う極度の不眠。
脳が悲鳴を上げ、意識が己の意思に反して遮断と覚醒を繰り返す。
「……はい。ありがとうございます、先生」
帰宅した三人は、這うようにして家の中へ入った。
太陽がまだ高く昇っている昼間なら、あの怪異は現れない。
シャワーを順番で素早く済ませると、三人は蒼汰の部屋のベッドに倒れ込んだ。
夜に入るお風呂など、想像するだけで発狂しそうだった。
服を脱いだ無防備な裸の状態で、あの血みどろの下半身と密室で鉢合わせるなど、絶対に耐えられない。
……泥のように眠った。
窓の外で鳴り響く蝉の声すら子守唄に聞こえる。
太陽の光が部屋を明るく照らしている間だけが、彼らに許された唯一の安息だった。
しかし――夕方、目を覚ました三人を待っていたのは、容赦なく訪れる「夜」への絶望だった。
すっかりと睡眠を貪り、体力は回復したはずなのに、窓の外が朱色から群青色へと染まっていくにつれて、胸の動悸が激しくなっていく。
部屋の蛍光灯を消すことなど到底できない。
真っ白な明かりを煌々とつけたまま、三人は一つのベッドの上で身を寄せ合った。
そして――やはり、出た。
深夜。チカ、チカチカと照明が明滅を始め、部屋の空気が急速に凍りつく。
――ポタリ……ポタリ……。
鉄とカビの混じったような生臭い血の匂いが充満し、天井の隅から、ゆらりとあのモンペ姿の下半身が浮かび上がってくる。
足首から先はない。
切り口から赤黒いドロドロとした血液を床に滴らせながら、ゆっくりと……しかし確実に空間を漂う異形の存在。
「ひっ……!」
恐怖のあまり、悲鳴すら喉の奥で引き攣って出ない。
二時間だったのか、三時間だったのか――時空が歪んだかのような金縛りの中、意識が途切れ途切れになりながら、気がつくとその影は陽炎のように消え去っていた。
三人は気絶するように朝まで眠った。
もはや、年頃の男女としての羞恥心やプライドなど、完全に消え失せていた。
夜間のトイレは絶対に不可能だ。
少しでも一人になれば、あの狭く逃げ場のない密室で、再びあれと対峙することになる。
だから彼らは、「成人用おむつ」を履いて夜を明かすという、思春期の尊厳を完全に投げ捨てる苦渋の決断を下していたのだ。
履くだけではない……隣に意中の同級生が、あるいは可愛い弟がいる状態で――実際に排泄するのだ。
しかし、なりふりなど構っていられなかった。
排泄の恥辱よりも、生きて朝を迎えること……ただそれだけが今の彼らのすべてだった。
「……ねぇ……ソータ。こんなこと……クラスで知られたら、私死ぬしかない……」
月乃が泣きそうな顔で呟くと、蒼汰が「おあいこだろ……俺だってそうさ……」と呟く。
朝になり、太陽の光が部屋に満ちてから、一人ずつシャワーを浴びて、べっとりとかいた冷や汗を洗い流してオムツを外す。
それが、彼らの血を吐くような凄惨な日常となっていた。
八月十六日。
今日で長かったお盆も終わり、夜にはそれぞれの両親たちが帰ってくるはずだった。
月乃の母親に蒼汰の家へ引き続き泊まる許可を取った際も、「海老山家なら全く問題ないわよ。宿題だけはやっておいてよ」と二つ返事だった。
蒼汰と月乃が四歳の頃から育まれてきた両親同士の家族ぐるみの付き合いは、完全な信用と安心感へと昇華している。
『どうせ将来、二人は結婚するんでしょう?』
昔、親たちが酒の席で冗談めかして笑い合っていた言葉が、ふと蒼汰の脳裏をよぎる。
これまでは「バカ言えよ」と顔を赤くして笑い飛ばしていたはずのその言葉が、今や全く違った重みを持って、胸の奥を激しく揺さぶっていた。
(俺……月乃の事が好きだったのか……今、護りたいって思うもんな……)
自ら望んで浮かび上がった思考ではなかったが、その想いが蒼汰の顔を熱くさせた。
生死の境目を共に彷徨い、情けない姿も、おむつを履いて震える究極の恥部も、すべてを晒し合って生き延びてきた。
夕方……ベッドの上で、疲労困憊のまま蒼汰の腕にすがりついている月乃。
その柔らかくも熱を帯びた体温を感じながら、蒼汰も、そして月乃自身も確信していた。
自分たちの関係は、もう二度と「ただの幼馴染」には戻れないほど、深く、強く、どうしようもないほどに結びついてしまっているのだと。
心の奥底で、彼らはその事実を強く意識し始めていた。
蒼汰が仕舞い忘れた木片だけが、夜のリビングテーブルの上で彼の両親の帰宅を待ち侘びていた。




