第3話 寝たい
「今日十四日でしょ……姉ちゃん、十六日から合宿だよね」
窓の外では、ジリジリと焼け焦げるような蝉時雨が響いている。
クーラーの効いた蒼汰の部屋で、彼がカレンダーを見上げながら呟いた。
「へ? 私、引退したのに合宿なんて行かないよ?……っていうか、この状況で合宿なんて行ってたら、私、完全に詰んでたわ」
蒼汰の姉である蒼翠が、抱きかかえたクッションに顔を埋めるようにして首を横に振る。
その隣で、膝を抱えていた月乃が、縋るような視線を蒼汰に向けた。
「ねぇ……いつまで一緒に寝れるの?……あんなの見るのは耐えられないけど、一人で寝るのなんて、もっと耐えられないよ」
震える月乃の声に、蒼汰は唇を噛む。
「俺は……十七日はレギュラー発表だから行かないと……」
「私は九月一日までは何も予定ないわ……大学も推薦コースだし。ねえ、ソウクン……これがなくなるまでは一緒に寝ようね」
蒼翠が弟にすり寄る。
普段なら鬱陶しがる蒼汰も、今ばかりは邪険にできなかった。
「私は?ママと一緒に寝たら……ママにうつるわけよね?それは仕方がないとして、うちのママ、夜遅いし、朝早いし……次の日休みだと二十二時過ぎてても飲みに行くし……せめて、夏休み中だけは私も混ぜてぇ……」
半ば泣き声になっている月乃。
「いろいろ問題があると思うけど……親が良いって言うならいいよ。うちの両親は十六日に帰るってさ」
「じゃあ、しばらく泊まる……ねえ、ソータ。ちょっと私の部屋まで一緒に来てよ」
「え? 女の部屋に入れるわけないだろ」
「バカ!あんな体験して、一人で着替え取りに行けるわけないでしょ!」
「え。待って、私をひとりにしないでよ……私も行く」
結局、蒼翠も立ち上がり、三人で近所である月乃の部屋まで行くことになった。
蒼汰は、心臓の鼓動が早鐘を打つのを感じながら、実に十年ぶりに幼馴染の部屋へと足を踏み入れた。
扉を開けた瞬間、ふわりと甘いフローラル系の香りが鼻をくすぐる……幼馴染とは言え、女の匂いだ。
それだけで蒼汰の心拍数は跳ね上がった。
(ばか……意識するな……あの月乃だぞ……)
必死に自分に言い聞かせるが、視線をどこへ向けていいかわからない。
目の端に、ベッドの上に乱雑に置かれた着替えの下着の端が一瞬だけ視界に入り、思春期の顔は瞬時に赤くなった。
「ちょっとソータ! 外見てて!」
慌てて下着を隠す月乃も顔を真っ赤にしている。
恐怖に支配されていた日常に、ほんの少しだけ思春期の羞恥が入り込んだ瞬間だった。
ランチには、女子二人が手早く冷やしうどんを作ってくれた。
吹きこぼしてコンロの火が消えるのは、蒼汰の予想通りだ。
氷で締められたうどんを啜りながら、作戦会議が始まる。
「多分、あの木の破片が何か分かれば良いんだろうけど……どうすればわかる?」
蒼汰の問いかけに、月乃がニヤリと笑う。
「これよ」
スマホを取り出し、あの忌まわしい木片をパシャリと撮る。
「ガストンAIね!」
助かったとばかりに、蒼翠がポニーテールを揺らした。
画像解析アプリに画像を放り込む。
『形状:不規則、破損している(半分に割れた形)
材質:木材、表面に劣化した塗膜(漆)
状態:ひどく汚れている(泥、土)
「古い根付」または「木彫りの民芸品」。手のひらに収まるサイズ感と、古い木材・漆の質感から、江戸〜昭和初期の「根付」でござる。
古いお椀や漆塗りのお盆などが割れた破片かも知れないで候』
「……何も解決になってないよ、ツッキー……」
蒼翠が呆れたように息を吐く。
「おまえ……お前のガストンAI、なんでそんな口調なんだよ」
「ちょっ……口調はいいでしょ!私のカスタマイズなの!」
月乃がむきになって反論した時、洗面所から洗濯機がピーピーと終了を知らせる電子音を鳴らした。
月乃の服……特に乙女が見られたくないものは、すべて蒼翠の部屋に干されることになっている。
「なあ……理由を言って、親に助けてもらうのは?」
「うちの母親……知ってるでしょ? 豪快女海賊よ?『気にするな』で終わりよ……」
「うちは、そもそも帰ってこないわ……」
「頼れる友達は?」
「笑う奴がほとんど……。言ってないけどな。仮に真面目に話聞く奴がいたとして、解決できないだろ?俺たち高校生だぜ」
「もし、大人でも助けになるって言っても……行き着く先がインチキ霊媒師だったらどうしよう……」
三人の間に、再び重苦しい沈黙が降りる。
「なあ……うちの担任は?」
蒼汰がポツリとこぼした。
「ローレンツ先生……気難しいけど、日本の文化の研究が楽しすぎて帰化したくらいだから、相談してみようか?」と月乃。
「ドイツ人だけど、日本刀の解説とかやばいもんな……何拵えとか、日本人のこっちが言ってることわかんねぇの……。でも、どう嘘ついて話すんだ?」
「本当のことを……言うしかないよ。だって、不思議な木片が興味深いって言ったら、先生なんて言うと思う?」と蒼翠。
蒼汰が口調を変える。
「『それは興味深い現象です。夏休み明けにお持ちくださいませ』……っていうな……」
「あはは……蒼汰、似すぎ。こんな状況なのに笑っちゃうよ」
「じゃあ、先生にメッセージ打つぞ」
【蒼汰:先生、休み中にすいません。トラブルです。助けて欲しいんです。親は祖母が病で倒れたので頼れません。】
【ローレンツ:どうしました? エビヤマ。補導ですか?事故や病気ですか?】
【蒼汰:嘘じゃないんですけど。霊です。毎晩出るんです。イタズラじゃないんです。】
【ローレンツ:通話できますか?】
【蒼汰:はい】
程なくして、着信音が鳴った。
電話口からは、どこかのプールの喧騒と水しぶきの音が聞こえる。
『エビヤマ。詳しく聞いても?』
ローレンツの低い声は、いつものように抑揚がなかった。
「先生、すいません……俺……部活で虫ロードを走っているときに、木の破片を見たんです。……触りもしました。その日から、モンペをはいた女の下半身だけの……血が滴った……血が垂れてるんです。先生……親もいなくて……毎晩出るんです。もう三日連続で……。木の破片は俺の部屋に置いてあります」
一気に捲し立てる蒼汰に、電話の向こうのローレンツは少し沈黙した。
『なるほど、写真を送ってください。一度切りますよ』
蒼汰はすぐに木片の写真を撮り、送信した。
数分後、再び電話が鳴る。
『なるほど……これは……ただの職人の手によるものではなさそうです。エビヤマ、明日、9時ちょうどに学校に来れますか?』
「はい、今日でも大丈夫なんですが……」
『今日は、家族と水郷プールに来ているのですよ。明日、必ず話をしましょう』
ツツツ、と電話が切れた。
「先生の娘ちゃん……三歳だよね? ブロンドの可愛いこ……。そりゃプール行くよね」と月乃がため息をつく。
「流石に今日は無理だな。どうする? 今は十四時……何か調べられることあるか?」
「うーん、この根付だよね。調べようか」
月乃はAIにさらに質問を投げ続けた。
『飛騨の一刀彫』
『農民美術の木彫り鳥』
『古いカモのデコイ』
『アンティーク漆器の破片』
『木曽漆器』
『金継ぎ修理前の器』
『表面のコーティングは「漆」である可能性が高いでござる。手作業で厚く塗られており、年代物の漆工芸品の欠片と推測されるで候』
『羽の形状から雷鳥を模した民芸品と推測されるでござる』
「このどこに、あの女の子の……下半身の謎が隠れてるの?今夜も出ちゃうよね?」
蒼翠が絶望的な言葉を口にする。
「じゃあ、これでどう?」
月乃は別の質問を打ち込んだ。
『霊が寄ってこれないようにして寝るにはどうすればいい?』
『「霊(幽霊)が寄ってこないように寝る方法」についてでござるな?科学的に霊の存在は証明されていませんが、恐怖心や不安感が強いと、睡眠の質が下がり「金縛り(睡眠麻痺)」や幻覚を引き起こしやすくなるでござる……(中略)……盛り塩をする:部屋の四隅や窓辺、ドアの近くに少量の粗塩を小皿に盛って置くことで、古くから結界の効果があると言われているでござる。鏡を隠す……ドアの延長線上に頭を向けない……』
「ははは……。ソータ、これ意味あると思う?」と月乃が乾いた声で笑う。
「盛り塩……盛り塩だけはしてみよう」
蒼汰の提案に、誰も反対はしなかった。
三人の顔には濃い疲労と諦めが浮かんでいた。
夕飯は唐揚げだった。
「昨日の油を再利用したから」という言い訳とともにテーブルに並べられたが、思春期の女の子にとって、意中の男子から自分の作った料理を褒められるというのは、とびきり嬉しいことなのだ。
「月乃!今日もうまいよ!うんうん……にんにく?生姜?すごい香りが鼻から広がる……プロより月乃の唐揚げの方がうまいよ」
蒼汰は、女の子を自然に褒められるような器用な男ではない。
純粋に、心の底から唐揚げを褒めているのだ。
しかし、月乃にはそれが愛の告白にすら聞こえていた。
「でしょう?両方入れてるんだよ。手が臭くなるけど……ソータのために頑張ったんだから」
月乃の頬が夕焼けのように赤く染まる。
「うん、美味しいよ」
「なんだか……カップルね。あなたたち。もう結婚しちゃいなさいよ」
蒼翠が頬杖をつきながらニヤニヤと笑う。
「姉ちゃん、やめてくれよ、そんなこと俺は……純粋に唐揚げがうまいから……」
「お姉ちゃんのポテサラにはそんな言葉出ないよね」
「あ、普通に美味しい」
「何そのそっけなさ!」
食卓には一時、温かい笑い声が響いた。
だが、そんな時間は夜の帳が下りるにつれて、無慈悲に過ぎ去っていく。
出るとわかっているのに、寝られるわけがなかった。
ダブルベッドとはいえ、容量を完全にオーバーしているのにも関わらず、蒼汰を真ん中に挟むように、月乃と蒼翠が両方からしがみついていた。
部屋の四隅に置かれた小皿の上の盛り塩は、あまりにも頼りなく見える。
深夜二時。
誰も眠りに落ちてはいなかった。
「ねえ……トイレ行きたい……」と月乃が震える声で呟いた。
「私も……」と蒼翠。
「どうする? 俺がトイレに一緒に入るわけにいかないぞ?」
蒼汰が困惑しながら言うと、結局女子二人でトイレに入り、蒼汰は廊下で見張るということになった。
先に月乃が入る。
トイレの扉は閉めず、扉の前には蒼翠が立つ。
完璧な布陣のはずであった。
乙女が恥ずかしがるトイレの様々な音が廊下に響くが、今の蒼汰たちにとって、そんなことを気にしている余裕など微塵もなかった。
チカ、チカチカ……。
突如、トイレと廊下の照明が明滅を始めた。
空気が急激に冷え込み、息が白くなる。
バタン!!!
ものすごい勢いで、開いていたはずのトイレの扉が閉まった。
「助けて!! ソータ! ソータ!」
中から月乃の悲鳴が上がる。
ドアノブは中からぴくりとも動かない。
「月乃! 月乃!」
蒼汰は弾かれたようにドアに飛びつき、ギリギリと力任せにドアノブを回そうとするが、まるで溶接されたように動かない。
蒼汰がスマホで110番通報しようとするが、画面は真っ黒なままだ。
ガンガンと扉を叩く。
壊しても構わないとばかりに肩からぶつかるが、まるで薄くて完璧な皮膜にでも覆われているようで、全く音が響かない。
――その頃、トイレの中では。
月乃は便座に座ったまま、完全な金縛りに遭っていた。
用はすでに済んでいるのに、指一本、瞬き一つできない。
――ポタリ……ポタリ……。
生臭い……血の匂いが充満する。
そして、それは現れた。
月乃の目の前、10センチの位置に現れたのは、モンペを履いた女の「下半身」だった。
足首から下はない。
切断面から、ドクン、ドクンと赤黒い血液が床に垂れ落ちている。
気絶できればどれほど楽か……しかし、極限の恐怖は彼女の意識を異常なまでに鮮明に保たせていた。
どれだけの時間金縛りに遭っていたかは分からない。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
月乃の鼓膜を破るような絶叫が響いた瞬間、蒼汰が力を入れ続けていたドアノブが、嘘のようにカチャリと回った。
「月乃!!!」
蒼汰が飛び込む。
月乃のパジャマのズボンと下着が足首に絡まったままだったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
蒼汰は月乃を抱きしめ、強引に廊下へと引き摺り出した。
蒼翠が震える手で月乃のズボンを履かせる。
腰が抜けて立てない月乃は蒼汰の首にすがりついたまま、わんわんと子供のように泣き叫んだ。
蒼汰は彼女を抱きかかえ、ベッドに姫抱きで下ろす。
それでも月乃は蒼汰から離れようとしなかった。
蒼翠が、青ざめた顔で呟く。
「……夜にトイレに入れない……」
それは、究極の絶望であった。
現在は午前四時。
「私……トイレ限界なんだけど……どうすればいいの?」
蒼翠の目には涙が浮かんでいる。
「姉ちゃん……夏だし、日の出がもうすぐだ。……もう少し我慢できないか?」
「頑張る……でも、もう無理かも……」
十分後、ついに蒼翠が泣き始めた。
「だめ……漏らしたく無いから、ソウクンきて……!」
泣きじゃくる姉と一緒に、蒼汰はトイレに入った。
蒼汰の腰には、コアラのように月乃がしっかりと張り付いている。
チカ、チカチカ……。
再び照明が滅灯し始めた。
月乃と蒼翠はもはや精神の限界を迎え、声を上げて泣いている。
蒼翠の用はまだ終わっていない。
蒼汰は、二人の背中に両手を伸ばした。
これが霊に対してどこまで効果があるかわからない。
だが、男として、とにかく二人を守ろうと必死だった。
――ポタリ……。
トイレの天井から、一滴の血液が垂れ落ちた。
しかし、それはそこまでだった。
ふっ、と悍ましい冷気が消え去る。
トイレの小窓から、眩しい朝の光が差し込んできたのだ。
朝……三人の目の下には、限界まで深く刻まれたクマがあった。
「もう……夜はトイレも行けないね……」
幽鬼のような声で蒼翠が言う。
「無理だよ……漏らすしか無いかも……」
月乃も絶望に打ちひしがれている。
「冗談じゃ無いんだけど……成人用おむつで寝るしか無いかもな」
蒼汰の真剣な提案に、二人の乙女は何も言い返せず、ただ力なく同意するしかなかった。
トイレの中でまたあれに出会ったら……次こそは、この世界ではないどこかへ引きずり込まれるのではないか。
彼女たちの本能が、そう叫び続けていた。




