第17話 雷鳥
放課後の熱気がまだ微かに残る、夜の海老山家。
蒼汰の自室には、重く、息が詰まるような沈黙が降りていた。
机の上にぽつんと置かれた『漆が塗られた木片』。
部屋の蛍光灯の白い光を吸い込むように、それは鈍く妖しい艶を放っている。
おそらくはただの古い木片ではない。
八十年前の惨劇、半身を失ったモンペ姿の少女、そして旧体育館の泥の中で蠢いていた少年兵たち……現在進行形で自分たちを脅かしているすべての怪異の中心にある、いわば「呪物」とも呼べる代物だ。
「……本当に、掛けるの?」
沈黙を破ったのは、ベッドの端に腰掛けていた姉の蒼翠だった。
普段の元気は影を潜め、その声には明らかな戸惑いと警戒が滲んでいる。
傍らに座る月乃も、膝の上で両手をきつく握りしめていた。
血の気の引いた青白い横顔。
彼女の揺れる視線もまた、机の上の不気味な木片と、その横に置かれたローレンツ先生の雑なメモの間を行き来している。
「ああ。掛けるよ」
蒼汰は短く答え、スマートフォンを手に取った。
スマホを握る手のひらに、じっとりと嫌な汗をかいているのがわかる。
「あの喫茶店で月乃に絡んできたお爺さんよ?何だか認知症みたいだし……何されるか分かったもんじゃないわ。ローレンツ先生は『彼が鍵だ』って言ってたけど……もし、これが霊を怒らす事だったらどうするの?小説やアニメみたいに、カギとなる人物が必ずしもいい方向に導くわけじゃないわ」
蒼翠の懸念はもっともだった。
あの時の老人の異様な剣幕、狂気すら孕んだ血走った眼差し。
思い出すだけで背筋が粟立つ。
しかし、蒼汰は静かに首を横に振った。
「このまま何もしなかったら、あの少女の霊は永遠に彷徨い続ける。それに……」
蒼汰は、不安そうに自分を見つめる月乃へと視線を向けた。
脳裏をよぎるのは、昼間の歴史の授業で田中先生が語った言葉だ。
八十年前、自分たちと同じ年格好で、故郷や大切な人を想いながら大空へと消えていった少年たちの切実な生き様。
あの時、蒼汰の胸の奥で不意に芽生えた、あまりにも重い衝動――『月乃のためなら、俺だって迷わず死ねるかもしれない』という覚悟。
誰かを深く想うことの圧倒的な重さを知った今だからこそ、もう恐怖から目を背けるわけにはいかなかった。
月乃を守るためなら命すら惜しくないと決意したのだ。
ならば、この怪異から逃げ出す選択肢など、最初からどこにもない。
月乃を怪異から救う――――それが蒼汰の今、一番やらねばならない事だった。
蒼汰は月乃を見る。
月乃は震える唇をきつく噛み締め、それでも蒼汰の目を真っ直ぐに見返して、力強く頷いた。
恐怖よりも「放っておけない」という彼女の生来の優しさと意志が、蒼汰の背中を押し続けている。
「あの爺さんが何者であれ、この『漆が塗られた木片』の正体を知っているのは間違いない。やるしかないんだ」
蒼汰は深く息を吸い込み、メモに書かれた固定電話十桁の番号をタップした。
スピーカーから流れる、無機質な電子コール音。
トゥルルルル……トゥルルルル……。
その音が三回、四回と響くたびに、部屋の空気の密度がどんどん増していく錯覚に陥る。
月乃が息を呑む音が、ひどく大きく耳に届いた。
五回目のコール音が途切れ、カチャリ、と微かなノイズが鳴った。
『……はい』
電話の向こうから聞こえてきたのは、予想に反して、ひどく掠れた弱々しい声だった。
「あ、夜分遅くにすみません。俺……いえ、僕は、霞陵学園の海老山蒼汰と言います。ローレンツ先生からこの番号を伺って……」
『ああ……あなたが』
ローレンツ先生から教えられた連絡先に電話をかけると、相手の老人は「片桐恒一」と名乗った。
先日のカフェでの怒声が嘘のように、電話口の老人の声は穏やかで、そしてどこか命の灯火が消えかかっているかのように脆く聞こえた。
蒼汰は拍子抜けし、同時に奇妙な胸騒ぎを覚えた。
『先日は……本当に、申し訳ないことをした。どうか、お嬢さんにも謝っておいてくれないか』
丁寧な謝罪の言葉。
そこに嘘やご機嫌取りの響きはない。
ただ、深い悔恨だけが滲んでいた。
『突然で申し訳ないが……土曜日に、会うことはできないだろうか。そして……あの木片を持ってきてくれないか』
懇願するような、すがるような響きだった。
蒼汰は迷わず「はい、構いません」と快諾した。
ただ、土曜の午後はバスケの重要な練習が入っている。
「午後から部活があるので、午前中にお願いしてもいいですか」
『午前中だな。ああ、構わない。……ありがとう。本当に、ありがとう……』
電話は、静かに切れた。
通話終了の画面を見つめたまま、蒼汰はほう、と肺の底に溜まっていた熱い息を吐き出した。
張り詰めていた空気が僅かに緩む。
だが、それは安堵ではなく、これから待ち受ける「老人との再会」という新たな緊張の始まりだった。
「……どうだったの?」
蒼翠が身を乗り出して尋ねてくる。
月乃も不安げな瞳で蒼汰を見つめていた。
「片桐恒一、って名乗った。土曜の午前に会うことになったよ。あの『漆が塗られた木片』を持ってきてほしいって」
蒼汰の言葉に、二人は顔を見合わせた。
「声、全然違った……。あのカフェで怒鳴り込んできた時とは別人のように……なんていうか、すごく弱々しくて、丁寧だった。月乃に謝っておいてくれってさ」
「私に……」
月乃は驚いたように目を丸くし、それから少しだけ表情を和らげた。
「怒ってないってことは、やっぱりあの時、何か理由があって取り乱してただけなのかな」
「わからない。でも、電話口のあの声……まるで、ずっと何かを待ち続けていて、ようやくそれに手が届きそうになって、震えているみたいな……そんな声だった」
蒼汰の脳裏に、土浦海軍航空隊の悲劇……空に散った少年たち、そしてあのモンペ姿の少女の姿が交錯する。
「ローレンツ先生の言った通りだ。あの爺さんは、間違いなく何かを知っている」
蒼汰は机の上の『漆が塗られた木片』をそっと手に取った。
指先に伝わる、硬く冷たい漆の感触。
しかしその奥には、八十年という途方もない時間を経てもなお消えない、誰かの強烈な「執念」のようなものが宿っている気がした。
「土曜の午前中……」
蒼翠が腕を組み、窓の外の暗闇を睨みつけるように呟く。
「いよいよ、核心に触れるってわけね。ツッキー、一緒に行くよね?」
「うん。……怖いけど、でも、知らなきゃいけない気がする。彼女が、どうしてあんなに現れるのか……下半身だけなのか……。あおちゃんも行くんでしょ?」
月乃の瞳には、恐怖を乗り越えた確かな光が宿っていた。
「もちろんよ」
蒼翠の声はかすかに震えていた。
蒼汰は木片を大切に布で包み直し、引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
「決まりだな。土曜日、俺たちで確かめに行こう。この木片に……一体何が隠されているのかを」
九月の夜の生ぬるい風が、わずかに開いた窓の隙間から入り込み、部屋のカーテンを静かに揺らした。
遠くで鳴く虫の音が、やけに鮮明に耳に響いていた。
土曜日の午前十時。
待ち合わせの場所は、奇しくも先日老人が月乃にぶつかった土浦駅近くのモダンなカフェだった。
エアコンの冷気が心地よく流れる店内。
レトロなジャズの調べが、焙煎された珈琲豆の香りと混ざり合い、落ち着いた空間を作り出している。
奥の広いボックス席には、蒼汰、月乃、姉の蒼翠が並んで座っていた。
やがて、カランとドアベルが鳴り、片桐老人が一人で店に入ってきた。
先日会った時よりも、背中が一回り小さく見えた。
ゆっくりとした足取りで席に近づくと、老人は深く、深く頭を下げた。
「先日は……お嬢さんにいわれのない怒りをぶつけてしまい、本当に申し訳なかった。許してほしい」
枯れ枝のように痩せ細った手をテーブルにつき、深々と頭を下げる老人に、月乃は戸惑いながら「い、いいえ、気にしないでください」と慌てて首を振った。
「それで……その、木片を見せてはもらえないだろうか。いや、貸してほしい。頼む。お願いします……」
老人の震える声には、すがるような響きがあった。
蒼汰は頷き、ズボンのポケットから大切に布で包んでいた『漆が塗られた木片』を取り出し、テーブルの上に置いた。
老人は息を呑み、震える両手でそれを取り上げた。
そして、自分の胸ポケットから、大切に使い込まれた絹のハンカチを取り出し、その中からもう一つの『漆が塗られた木片』を取り出したのだ。
老人は二つの木片を近づけ、ひどく震える指先でそっと合わせる。
――カチリ。
小さな、だが確かな音が鳴った。
不規則で複雑に見えた断面が、パズルのピースのように完璧に噛み合い、一つの造形を生み出した。
「鳥……?」
月乃が小さく呟いた。
二つの木片が合わさったそれは、紛れもなく一羽の『鳥』の形をしていた。
長い年月を経てもなお、漆の深い艶が柔らかな黒光りを放っている。
「ああ……ああぁっ……!」
突然、老人が顔をくしゃくしゃに歪ませ、嗚咽を漏らした。
両手で合わさった雷鳥を包み込み、額をテーブルに擦り付けるようにして、人目も憚らずに大声で泣き始めたのだ。
ヒック、ヒックと肩を震わせ、子供のように声を出して泣きじゃくる。
周囲の客たちが何事かとジロジロと視線を向けてくる。
蒼汰は一瞬たじろいだ。
(こんなに大人が……いい年したおじいさんが、こんな風に泣くものなのか?)
認知症か何かなのだろうか。
そんな不敬な考えすら頭をよぎるほど、老人の涙は痛切で……生々しかった。
しかし、その嗚咽の奥底にある、老人のあまりにも重く深い感情の奔流に当てられ、蒼汰たちは口を挟むことすらできず、ただ圧倒されるしかなかった。
しばらくして、ハンカチで何度も顔を拭い、ようやく落ち着きを取り戻した老人は、微かに震える声で語り始めた。
「恥ずかしいところを見せた……。実はワシは、末期の癌を患っておってな。医者から宣告された余命の日数はとうに過ぎている。いつ死んでもおかしくない、お迎え待ちの身だ」
老人の静かな告白に、蒼翠がハッと息を呑んだ。
「この木片の持ち主の、本当の名前は……淀川千代という」
――――千代。
その響きに、蒼汰の脳裏にあのモンペ姿の少女の姿がフラッシュバックした。
泥に塗れ、血を滴らせ、暗闇の中で悲痛な気配を漂わせていた彼女の名前。
「ワシと千代は、長野の山奥で育った幼馴染だった。ワシが甲種予科練として、この土浦海軍航空隊に入隊する前のことだ。二人で、故郷の山にいる雷鳥をモチーフにして、この木彫りを作ったんだ」
老人の指先が、漆塗りの雷鳥を優しく撫でる。
「千代の父親は、長野でも腕の良い漆職人でな。二人が作った拙い木彫りを、親父さんが丹念に漆で仕上げてくれた。だからこそ、単なる子供の工作ではなく、八十年という長い年月に耐える品になったんだ」
それは、一羽の雷鳥を真っ二つに分けたような構造だった。
恒一の片割れと、千代の片割れ……二つを合わせることで、初めて一羽の鳥になる。
「『比翼の鳥』……という言葉を知っているか?我々にとって、これはただの飾りじゃない。『二人で一つ』の象徴だった。予科練への入隊が決まった時、ワシと千代は許婚になった」
「手すらまともに握ったことはなかった。だが、間違いなくお互いを深く大切に想い合っていた」
「現代の若者が使うような、軽々しい『愛している』という言葉は、当時の二人にはなかったかもしれない」
「だが、そこにあったのは、命を懸けても惜しくないほどに純粋で、切実な愛情だった……ああ、わしは千代のためならこそ、死ねると思っておった」
「そして、夫婦になったらこの二つを合わせよう――そう約束したんだ」
老人は目を細め、遥か昔の記憶を見つめるように虚空を見上げた。
「入隊の直前、ワシはこの雷鳥の片割れを持っていこうとした。だが……厳しい軍隊生活で、失くしてしまうことが恐ろしかった。だから、ワシは自分の片割れを千代に預けたんだ。千代は渋々預かってくれたよ」
『なくさないでね』
『ああ。夫婦になったら返してくれ』
「いつか夫婦になった時、二つを一つにする。その約束だけを胸に、ワシは土浦へと旅立った」
「一九四五年、六月十日……」
老人の声が、地を這うように沈んだ。
「手紙のやり取りで、その日、千代が長野から一日がかりで面会に来てくれることになっていた。祝言のことについて話すはずだったんだ。……だが、その日に米軍のB29による土浦への大空襲が行われた」
蒼汰の心臓が、ドクンと冷たく跳ねた……それは歴史の授業で聞いた、凄惨な郷土史……地獄そのものが語られると理解してしまったのだ。




